第2話

神殿の奥の居住に使っている小部屋に通し、私の寝台に座らせ、治療を施す。

医薬品だけは沢山あったけれど、私の身体がケガレてしまうからあまり使わないようにと言われていた。

でも、アレスは神殿の人間ではないし、きっと問題はないだろう。

どうせ次の春には一つも残らないのだから使ったことも分からない。

そこまで考えて、自分が初めて神殿の人達に隠し事をしようとしている事に気づいて、胸がどくりと脈打った。

本庁の人達が言ったとおりだ。

一つのケガレは、次のケガレを呼び込む。

すう、と冷えていく胸に手を当てて、少しだけ目を瞑る。

それでも、今は神様の愛する人間の命を助ける事が優先だ。


くすぐったがるアレスをなだめながら治療をしたら、幸いなことに腱は傷つけていない事が分かった。

暫く安静にしていればすぐに歩けるようになるだろう。

その旨を伝えると、アレスは困惑したようにそれは滞在の許可かと尋ねた。

その通りだと答えると、渋るように何か聞き取れない言葉を呟いていたけれど、終には滞在する事を決めたようだった。

もしもこの神殿から出て下山すると言うのであれば、何が何でも反対するつもりだった。

無理をしないでいてくれるのは良かった。


そうして治療を終えた後、仕込んでいた食事を机の上に二人分配膳し、アレスの着席を手伝う。

今日の昼食はいつもより大分遅くなってしまったが、どうにかまだお昼と言える時間だったから安心した。

普通の人間は三食は食べないらしいのだけれど、これも神事の一つで欠かす事の出来ない仕事。

アレスに付き合ってもらうのは申し訳ないのだけれどと伝えると、ご飯にありつけられるのは有難い、と言われた。

ここまで山に登っている間に食料もつきていたのだろう。

望む量も大層多くて本当に驚いたのだが、最終的には夕飯用にと考えて煮込んだスープも出す事になった。

人間の男性とはこんなに食べるものなのだろうか。


お腹が満たされて食後の白湯を飲んでいると、どちらからともなく会話が深まっていった。

山の事、街の事、動物の事、人々の生活の事。

こんなに人と話すのは初めてのことで、何を話したら良いのかなんて分からない。

けれど、とても楽しかった。

だからだろうか。うっかり口が滑ってしまったのは。


「俺、色んなとこに出入りしてるけど、こんな山の上に神殿があるなんて聞いたことなかったな。ここ隠し神殿とか?」

「聖域です。本庁の方々でも一部の方しか知らないそうで、地図には載っていません」


アレスは一瞬だけ固まって、白湯を一気に飲み干して。


「………へえ。俺、知っても大丈夫かそれ?」

「あ」


慌てて他言無用をお願いするけれど、項垂れてしまったアレスからは返事の一つもない。

それはそうかもしれない。

教会は凄く大きな組織で、一般の民には非公開にしている事柄も多い。

それなのに本庁の中でも一部の人間しか知らないとされる場所の話なんて聞いてしまったら、怖いものがあるだろう。

驚かせるつもりはなかったのだと謝罪を続けると、アレスは顔をあげて苦笑いを浮かべながら問題ない、と言った。


「特別な場所だから人が少ないんだな」

「はい。ここは私が一人で管理しています」

「一人!?」


急に立ち上がろうとして足を机にぶつけたのか、悶絶する。

ああ、私も昔何度か同じことをしてしまったけれど、あれは痛い。

もう何年もああいう傷は負っていないが、昔はよく傷に傷を重ねて泣いていた。

傷口が開いていないか問おうと口を開くと、痛みに瞳を薄らと濡らしながらずい、とアレスの顔が迫ってきた。


「こんな山の上の神殿に一人きりで過ごすとか!………あー。食料、とかどうなってんだ」


食料。

沢山食べてしまったから、明日からの食料を心配しているのだろうか。

標高も高い上に、今は冬だ。

交易ルートが無いから外部からの食料の供給は無く、畑からの収穫も出来ない。

山に登って食料が尽きたという経験をしたばかりでは、食料事情も大きな不安の種なのだろう。


「季節の変わり目ごとに神殿の方がいらっしゃいますので、その際に穀物の種子を頂きます」


怪我人がこの神殿を訪れると知っていた神様の計らいだったのだろう。

今年は豊作だった事もあって、食べきれない程の根菜が取れていた。

だから、春までの間二人分の食事くらいはどうにか賄える。

最悪、私の食事の量を減らせばいいだけの話だ。


「それで後は自給自足ってか」


ちらりと炊事場に目をやって、随分とまあ禁欲的な生活だ、と肩を竦めて身を引いた。

禁欲的、なのだろうか。

人は市場にて食物を購入するというけれど、それが欲を象徴するのかと言われれば否だ。

だって労働をして報酬を得て日々の糧を買っているのだから、それは自給自足と同じ事ではないのだろうか。

労働の対価が、日々の糧だ。

私のこれは少し特殊な縛りもあるかもしれないが、人とそんなに違うとも思えない。


「これも禊ぎの一環です」

「俺の知ってる街の巫女達はもっと世俗の垢に塗れてっけどな。あいつら肉食も肉食。いっそ怖いくらいだ」


腕をさすって怖がる素振りを見せる様子に、ほんの少しだけ首を傾げた。

肉を口にする事は禁じられている訳ではないけれど、歓迎される事でもない。

本庁の方々がそれを指導し忘れている訳はないと思うが、アレスがここまで怖がるのだからきっとそういう巫女は居るのだろう。

街の巫女達が肉食、と評される程肉を好んでいるのであれば、それは大分問題があるように思われるけれど。


「そうなんですか?不要な殺生は禁じられていますから、神様に叱られないか心配です」


そういう意味だけじゃない、と笑って白湯のおかわりを願われる。

差し出された椀に湯を注ぎながら、ふとアレスの方を見上げると、彼は部屋をぐるりと見回していた。

春の土色の目を細め、ゆっくりと。


椀を差し出してから、何かおかしなところでもあっただろうかとそっと目を転じる。

木製の寝台に、本棚、それから掃除用具に炊事場。

何も変わったところなど無い、普段と変わらず物が少ない部屋がそこにあるだけだった。

何だったのだろうか。


視線を戻すと優しい土色の瞳と目が合って、そこに人が居る事が嬉しくなって自然と頬が緩む。

ここに客人を招いたのは初めての事だし、これから暫くの間はこうしてアレスと色々な話が出来る。

話を聞いてくれるし、質問にも答えてくれる。

一緒に笑ってくれるし、一緒にご飯を食べてくれる。

緩みきった私の顔に呆れたのか、アレスは白湯をぐいっと一気に飲み、少しだけ頭を掻いて溜息を吐いた。


「あー、仕方ねえな。休業だ。足が治るまでな」


彼の仕事が何なのか知らないし、聞くべきことでもないと思っているけれど、足に怪我をしているのに続ける気だったのだろうか。

今無理をすれば一生足に後遺症を残す可能性だってあるし、下手に動いて風邪でも引いて体調を崩したら死んでしまうかもしれない。

もしもそうなったら、私は何と言って神様とアレスに詫びればよいのだろうか。

血の気がさあ、と引いていくのを感じて、アレスの手を両手で握り締める。

あたたかくて、大きい。

確かにここに居て、生きている事にほんの少しだけ安心する。

手を強く握り締め、傷に障るから足を使う仕事であるならば是非ともそうして欲しい、と伝えると彼は苦笑いをして了承してくれた。



彼の傷が大体塞がるまで一月も要らない事だろう。

けれど、そんなにも長い間誰かと過ごすなんて今まで私はした事がない。

今までにない大きな変化にどきどきして、毎日毎日待ち望んでいた《その時》に対しての期待も萎んでいた。

だって、アレスは怪我人だから。

だって、この怪我じゃ下山出来ないから。

だって、だって。

私は、そうやって言い訳を重ねて自分が少しずつ少しずつケガレて行くのに気づきながら、それを見ないフリをしている。


神様への謝罪の言葉を、口の中で小さく唱える。

けれどきっと許されないだろう。

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