神様の花嫁
かんなぎ
第1話
年の殆どを雪に閉ざされた神殿。
誰も訪れない孤高の聖域。
天に届けと聳え立つ山々にぽつりと存在するこの白の箱庭に連れて来られた日の事は、もう朧げにしか覚えていない。
それでも以前に暮らしていた場所は何の変化もない場所で、季節すら感じ取る事は無かったように思う。
深く広い空と、冷たく清浄な空気と、触れると儚く溶ける雪。
それらに凄く驚いた事だけはよく覚えているから。
短い春と長い長い冬を交互に繰り返すこの聖域は、人の世界から遠く、神様のお住まいに最も近い場所。
空から降る白い雪は、神様の哀しみ。
山々に射す雪解けの日差しは、神様の愛情。
山頂から流れた神様の涙は山を下り、川に流れ、土を潤し、生命を育み、世界を支える。
ここは人間の世界の始まりの場所で、神様の世界との境目。
ここは神様の世界に最も近い聖域。
だからここに暮らす私は、神様に最も近い存在。
私は人の形を取ってはいるけれど、いずれ神様の世界へと召し上げられる。
だから私は本質的には人ではないのだと誰かが言った。
まだ人の器に収まっているから食物を摂取しなければならないし、不浄もある。
これらは人のケガレで罪なのだと誰かが言った。
器のケガレがあんまり酷いと魂までケガレてしまう。
そうすると神様はお怒りになるのだと誰かが言った。
だから私は《その時》が来るまで、出来るだけケガレないように、けれども人の形に収まっていられるように暮さなければならない。
だからこそ人の世界から縁遠く、神の世界の境目のこの神殿で暮らすのが使命なのだと、誰かに言われた。
けれども《その時》がいつ来るのかは、誰も言ってはくれなかった。
*
私の一日は、大岩に上る事から始まる。
自分の身体の三倍はあろうかという岩を必死によじ登り、朝日が照らす山を見渡し祈る事が仕事だ。
小さな頃は岩に上れなくて、何度も何度も岩から転げ落ちて怪我をして泣いていた。
けれども大きくなっていく内にすいすいと岩に上れるようになって、今ではほんのちょっとの時間で頂上に立つ事が出来る。
岩に上って遥か彼方の山を見渡し、祈りを捧げる。
たったこれだけの事だけれど、私の一日で一番大切なお勤め。
そして一番好きなお勤めだった。
岩肌に包まれる谷を見渡し、低木が繁る山裾に目を凝らす。
遥か遠くを揚々と飛ぶ鳥が、いつもと同じように響く声で空を彩るように高く鳴く。
その彼方に目当てのものが無いかを探すけれど、今日もそれは見つからない。
毎日の変わらない風景が、今日も何も変わらないのだと私に教えた。
それならそれで、いつも通りやるべき事は沢山あるのだけれど。
ほんの少しだけ落胆した気持ちを抱えながら、巨石の上からずりずりと下りると、いつもと違う色合いが石の陰に見えた。
赤色。
薄らと土を覆う白い雪に似合わないその色に、もう花が咲いているのかと思ったけれど、暖かくなってきたとは言え花の咲く季節にはもう少し日がある。
では獣が傷ついているのだろうかとも思ったけれど、それもあり得ない。
聖域に近づく獣は鳥以外居ないし、こんな鮮やかな色を私は知らない。
一体これは何だろう。
その言葉が胸に浮かんで、心臓が大きく跳ねた。
変化を心のどこかで期待していたはずなのに、いざその日常とかけ離れた物が目の前に現れると、心は波打って動揺する。
赤色、赤色。
どくどくと打ち付ける胸に手を添えて、ゆっくりと岩陰を覗き込む。
そこには、赤い布を首に巻きつけた人間が蹲っていた。
人間。
人間だ。
驚きのあまり、目を何度も擦る。
もしかしたら見間違えているのかもしれない。
本当は赤い鳥なのかもしれない。
けれど、擦っても擦ってもそこに居るのはぐったりとした人間。
これは生きているのだろうか。
「あ、」
声をかけようと口を開いて、何と声をかけたら良いのか分からずに音だけが口から漏れた。
誰かに向けて喋るなんて久しぶり過ぎて、何を言ったらいいのか分からない。
どうしよう、と困って口を引き結ぶと、蹲っていた赤い色の人がゆっくりと目を開けた。
春の土色の瞳が、私の目に焦点を当てる。
「……神様か?本当にいたのか」
嘘だろ、あいつらに居ないって言っちまった、とぶつぶつ呟く人間はぐったりとしたまま。
訛りがあって聞き取れない単語もあったけれど、どうにか言葉は通じる事が分かった。
きっと、近隣の居住地から迷い込んできてしまった人間なんだろう。
そこまで分かったのは良いけれど、何故この人間はこんなにもぐったりと蹲っているのだろうか、と覗き込んだ。
足から血が流れてる。
傷を診ようと手を伸ばそうとしたら、人間に手を振り払われてしまった。
振り払われた事に驚いて手を引っ込めると、同じように驚いた顔をした人間が目を瞬かせた。
この人間は私を神様だと勘違いしているのか。
だから触られてびっくりしてしまったのだろう。
どうにか言葉で伝えなければならないと、文章を頭で組み立てられていない内に口を開く。
「私は神様ではありません。なので、このまま貴方を死なせます。傷を診せて、ください」
久しぶりに動かした口は、声の大きさの調整も難しい。
思いのほか大きくなってしまった声に、自分でも驚いたし、人間もびくりと震えた。
声どころか言葉もおかしかった気がして、顔に血が上って熱くなる。
恥ずかしい。
でも、今しかないと茫然としている人間の足を無理やり覗き込むと、それほど深い傷口ではないのが分かった。
私を神様と見間違うくらいだから寒さで多少混乱しているのだろうけれど、止血して保温すれば大丈夫だろう。
持っていた防寒用の首巻を裂いて足にくるくると巻きつけて行く間、人間は大人しくそれを見ているだけだった。
何故、彼はこんなところで傷ついていたのだろうか。
ここは人里離れた山の中腹にある神殿の土地だ。
交易の道はこの山にはないと聞くし、山登りだとしても食料を調達する場所もない。
神殿に参拝する為、と言ってもこの神殿は特殊だから一般の人間は立ち入れない。
そんな場所で傷ついて誰にも会えなかったなら、人間の身体では死んでしまう。
私が見つけれたのは良かった事だけれど、もっと早くに見つけてあげられれば傷つくこともなかったのかもしれない。
ならば。
「これは私の不徳の致すところ。すみません」
「は?何言ってんだお前」
背を曲げて謝罪すると、それまで大人しくしていた人間が声をあげた。
今度はきちんと言葉の意味が通ったと思うのだけれど、と目線をあげる。
ぐったりとした目もこちらを向く。
雪解け水が染みこんだ、春の土。そんな、生命力に満ちた瞳。
ああ、本当にこの人間が死ななくて良かった。
「私はシンカです」
「それがお前の名前か?」
唐突な奴だな、と人間は眉を顰めながらも手をひらひらとさせた。
自己紹介をしたつもりではなかったし、それは私の名前ではない。
慌てて訂正しようと口を開いたけれど、上手く言葉が纏まらない。
説明したところで納得してもらえるかどうか。
名前ではないけれど、私はそう呼ばれているのだから呼び名と認識してもらっても良いのかもしれない。
そう考えて、口を閉じた。
「俺はアレスな。姓は賭博で銀貨四枚のかたに消えた」
アレス、と口の中で音を転がす。
人の名前を口にしたのは、記憶の中では一度もない。
神様の名前は頭の中に全て入っているけれど、その名前の中に人間の名を入れた事はこれが初めて。
少しだけ嬉しくなって、そしてどこか心にちくりと罪悪感が積もるのを感じた。
これは、人の名を神様の名と同じように扱うのは、ケガレなのだろうか。
そんな考えを顔には出さないように、人間、アレスの言葉を頭で噛み砕く。
賭博というのは聞いたことがある。
金銭を捧げて神様に自分の運を願う遊戯。
「賭博のかたに」はきっと「借金のかたに」、と同じ用法なのだろう。
アレスは神様に願う為に自分の姓を捧げたのか。
銀貨というものは、上から二番目に価値のある銀製の貨幣。確か花の紋章が描かれれているはずだ。
銀貨四枚という価値が高いのか低いのかは分からない。
けれど。
「姓は賭博で売れるものなのですか?」
「あー…姓を変える必要のある奴らが買う。普通は売れない」
成る程。姓は結婚以外でも変えられるらしい。
結婚の際は婚家に合わせて花嫁の姓が変わるけれど、それは金銭が絡まない。
賭博では金銭が絡むけれど、結婚の際と同じく神様の元での売買なのだから、等しく新しい姓に祝福があるだろう。
銀貨四枚が高いのか安いのかは分からないが、市場に流通しているものだとすれば常識的な値段なのかもしれない。
「教えてありがとうございました」
「言葉変だけど、あんたどこの出身」
まだ上手く喋れていないのか、と恥ずかしい思いが積もる。
けれどもきちんと謝罪をしなければならない。
これは私の犯してしまった罪だ。ケガレだ。
意図をきちんと伝えなければ、謀ったも同然だ。
「私はここの管理を、しています。だからもっと早くに貴方に気づく事が出来たはずです。だから、その傷は私のせいで付きました。すいません。それとえっと……ここはあんまり人が来ない。だから、最近喋ってなくて」
問われた事に対する答えをどう返せばいいのか、と考えていたらまた言葉がおかしくなった。
ゆっくりと喋っていても、考えが口の動きに追いつかない。
伝えたいことが伝えたいとおりに伝えられなくてもどかしい。
「なんだそれ。俺の傷の責任はあんたにあるって言いたいの?」
「はい、そうです」
けれども、そんな拙い言葉もアレスはきちんと拾ってくれていた。
「ここに侵……迷い込んだのは俺。岩から滑って落ちたのも俺。大食いして食料切らしてたのも俺。あんたが一体どこに関わってるんだよ」
「えっと」
ここは私の管理する神殿だ。
そこで起きた事の責任はすべて私にある。
そう伝えようしたら、じろりと睨むように私の全身を見遣り、何かに思い当たったようにアレスが声をあげた。
「あんた、巫女か」
道理でそういう考え方な訳だ、と納得したように頷いた。
巫女の考え方と民の考え方は違うのだろうか。
同じ人間なのだから、そこまで考えが違うものではないと思うのだけど、どうなのだろう。
でも、そもそも。私は。
「違います。けど、えっと……聖職者ですね」
「女で聖職って巫女だろ、それは」
「巫女ではないんですが、神様に祈りを捧げる事が仕事です」
「ふうん」
それじゃ何言っても平行線になるだけだ、と話を切り上げようと口にした。
やっぱり神殿の人間の考え方は、民のそれと合致していないのだろうか。
そんな考えに沈みそうな思考を無視するように、よっと、とアレスが掛け声をあげて立ち上がろうとして、身体が傾く。
慌てて支えると、ありがと、と彼は笑った。
けれどその顔はやはり血の気が引いている。
こんなところで話し込んでいるのは良くなかった。
早く身体を温めて、治療しなければいけない。
「奥の方に神殿があります。そちらで休んでください」
アレスを支えながら一歩一歩踏みしめるように雪の上に足跡を付ける。
思いのほか重い身体にふらつきながら、どうにか転げないように足元を見ながらゆっくりと歩を進める。
誰かとこんなに話す事になるなんて、まるで夢のようだ。
永く一人で居たから、夢の様に流暢に話す事が出来なくて凄く恥ずかしいけれど。
だけど、この雪に私以外の足跡が付く事になるなんて、夢にも見ていなかった。
二人分の足跡は、描いた夢よりもずっと私の胸を温かく溶かした。
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