第6話 驟雨に恋文


 海浜部に属する街だということもあって、三咲町は雨が多い。夏になればその勢いはより激しくなり、月間三〇〇ミリリットルを超える降水量の観測点も少なくない。

 ここ、篠月交差点は、そんな三咲町の中でもより降水量の多い地帯だ。

 暦の上では特異日と呼ばれる天候が偏って観測される日が存在するが、ここはエリア丸ごとがその特異日を毎日続けていると言っても過言ではない。

 少し雨が止んだからといって、この場所を通るときに油断してはならない。

 三咲町に住む人間なら誰もがよく知る事実だ。

 そう、よく知っているはずなのに。


「なあ、悠里。どうして言ってくれなかったんだ?」

「忘れてた……」

「なんでだよ……いや俺もか……」

「ちょっと濡れちゃった……ね」


 灰色のコンクリートの屋根。

 たった五十メートル先の駐車場に戻るためだけであるはずなのに。

 俺たちは立ち往生していた。


「本当にこれだけでいいのかな?」


 小さな紙袋を抱える悠里は、複雑そうに呟いた。

 それもそうだ。

 子供二人で暮らすには大きすぎる一軒家。

 埃のない居間。

 来客用のスリッパまでがしっかりと揃えられたあの静かすぎる空間。

 確かに、持って行くにも、持っていくモノはなかったように見える。

 古い木製の勉強机の上にあったのは夏休みの宿題と、文房具だけ。

 ベッドの上に年頃の子供らしい装飾もなければ、人形の一つだってない。

 悠里は廃屋と言い、俺はお化け屋敷だと思った。

 綺麗な家。

 そう比喩えるのは間違っている。

 あの家は綺麗な家なんてものじゃない。

 あれは……『時が止まった模型』だ。

 足音が反射するモノがない。

 吐いた息を遮る粒子がない。

 そんな家の中。

 一つだけ大事そうに、鍵の付いたはこがあった。

 それだけが明らかに、御園礼香の。

 十六歳の少女の持ち物だった。


「どう思う、悠里」

「どうもこうも。なんだかおかしいことが起こりまくりな気がするよ。だってさ」


 悠里の目が、割れたガラスの破片みたいにピンク色の火花を散らした。


「弟くんが居たらしい跡なんて。何一つなかったじゃない」


 ……御園家。

 置かれていた靴は二十三センチ。

 そして数は三つ。一つ残らず。

 形はレディースのみ。

 ここまでなら。

 弟が靴を一つしか持っておらず、その結果出先で事故にあったと考えれば理解はできる。

 ベッドが一つしかなかった。

 ここまでなら。

 これはどちらかがリビングのソファで眠れば解決する。

 ……机に対して、椅子が、一つしかなかった。

 もう一つは、リビングの端っこに、綺麗に片付けてあった。

 ここまでなら。

 弟が家を出るときに片付け直し忘れていっただけだって考えられる。

 ……歯ブラシが一つしかなかったことも、服がなかったことも、ランドセルがなかったことも。

 ここまでなら。

 ここまで、なら。

 ここ、まで、なら。

 ……。

 そこで俺の頭は、考えるのをやめた。


「……なんだってんだ……。気が滅入りそうだ」

「本当だね……何が起こってるんだろ。変なことばっかり」


 淡く思い浮かぶ、白い雪。

 夏に降り注いだ、真っ白い欠片。

 あれからだ。

 あれから、何もかもがおかしい気がする。

 崖崩れに、悠里の体調。

 踏切での事故に、御園礼香の『弟』。

 何が起こっているのかを説明できない。それでもわかる。

 言い知れない“何か”がある。

 敷原の言っていた言葉は、ゆっくりと真実味を帯びてきていた。


「それにしても、この箱の中身、なんなんだろうね~」


 少し濡れた紙袋の中にある鍵のかかった箱を指して、悠里は言った。


「さあな。俺はそういう風にモノを仕舞っておきたいと思ったことがないから分からない。悠里の予想は?」


 唇に人差し指を沿わせて考え込む悠里。


「わっかんないや……。小学生の頃にしーちゃんから貰ったラブレターくらいしか鍵付きの箱に仕舞ったことがない気がする……。あ、今も持ってるよ。後で見せたげよっか?」


 急激に体温が下がる。


「悠里、今、お前“ラブレター”って言ったのか……!?」


 そんな昔のものなんで持ってるんだコイツ……。それに確か、末尾にちゃんと『読み終わったら捨ててください』って書いておいたはずだ。ひょっとして捨ててなかったのか……?

 違いない、コイツは説明書を読まないタイプの人間だった。


「なーによ。それより聞いて聞いて、あの頃のしーちゃんってね。あたしのこと『悠里お姉ちゃん』なんて呼んでたんだよ。あの手紙を読み直してるとこの頃のしーちゃんは可愛かったなあ~って。書き始めに『大好きなゆうりお姉ちゃんへ』なんて書いちゃって……くはははっ……なんて健気なんだ……」


 なんて悪趣味なヤツだ!

 っていうか俺は本当に悠里を『おねえちゃん』なんて呼んでたのか……。

 そっちに素直に驚いている自分がいた。


「それはあの頃は子供だったからだ……。今はそんなことないの、悠里だって知ってるだろ……それにだ。あの頃渡したのは『悠里のことを大事に思っているから、これからもずっと一緒にいてください』って内容だったはずだ。だからアレは断じて告白ではない、日頃の感謝を伝えた不器用な書面だ。それに『最後まで読んだら捨ててください』って書いておいただろ。なんでまだ持ってるんだよ」


 そうだ。幼い頃の恋文なんて、ぼんやりとした訳の分からないアルゴリズムで組み立てられた半ば衝動に近いものだ。

 いや、だからこそ楚々であり衷情とも言えるのかもしれないが……。


「確かにそう書いてあったかも知れないね。でも、捨てていないっていうことはさ。つまり……そういうことなんじゃない?」


 悠里が一歩引く。

 す、と背筋を伸ばす。

 毛先から銀色の水滴が振り落とされて、足下の水溜に波紋を作る。

 ……まさか。


「お前人から渡された恋文を“最後まで読んでいない”のか……!」

「違うねッ、読み切ろうと思っても毎回飽きちゃうだけさッ」


 片目を閉じて、頬に手を当てて奇妙なポーズを取った悠里はそう言った。

 尾羽打ち枯らしたような心模様に追い打ちをかけるように言葉の切っ先が胸を貫く。


「ぐふっ……」


 堂々と宣言。

 全く惜しげもなく、言いやがった。

 小学生の頃の俺が必死に書いた手紙を、内容で一蹴しやがった。

 いや必死に書いたからいいというモノでもないというのは俺も分かっているのだが、ここまで扱き下ろされると不満の一つだって言いたくなる。

 しかし子供の俺に対して直接言わなかったのは、いくら悠里でも惨いということを理解して、俺には伏せておいてくれたのだろう。

 いや、それはそれでどうなんだ……。いや、私情で人の感性にはケチなんて付けられないか……。


「いや待て、最後まで読んでいないのに、内容を批判するというのは方法としてもよくないだろ。ひょっとしたら、最後にどんでん返しがあったりするかも知れないじゃないか」


 そう、実はこの手紙は誰かから脅されて書いたモノで、特定の文字を抜いて読むとメッセージが浮かび上がってくる、みたいな。

 いやまあ、小学生の俺がそこまで高度なことができるとは思えないし、外連味のない垢抜けない映えないの三拍子揃った人生を送ってきた他でもない俺だ。流石にそんなことはないだろうが。


「それはないよ」


 案外、悠里は言い切った。


「だってさ。あたしは“最後まで読もうとはした”んだから」

「……!」


 どういうことだろう、話が見えなくなってきた。

悠里は俺からの恋文――としておこう――を読み切っていない。

しかし最後まで読もうとは試みた。


「それは、飽きずに読もうと努力して、実際に文章は最後まで目を通した、って意味でいいのか?」


 しかしそうなれば、『最後まで読んだら捨ててください』という条件に引っかかることになるのだから、手紙は捨てられていないとおかしいことになる。


「うん、目は通したよ。けど、最後まで『読む』ことはできなかった」

「『読む』ことが、できなかった……?」


 最後まで『読む』ことができない手紙。

 読もうとしても、読めない手紙。


「字が、汚すぎたとか?」

「ううん、違うの。一部がね、黒塗りになってたんだよ。内容的には多分思い出話……?とかちょっと前に起こったことを話してるような文脈だったと思うんだけどね、そこの部分だけ後から塗りつぶされたみたいに真っ黒になってたんだ」


 なんとかして見えないか、あぶり出したり黒煙で筆跡も探ってみたんだけどね、と悠里は付け加える。


「黒塗り……?」


 果たして人に恋文を渡す時に、文章の書き損じを黒塗りで塗りつぶして送る人間がいるだろうか。

 いや、いたとしてもそれは俺ではない。

 では、俺はどうしてそんなことをしたんだ……?

 書き損じた手紙と間違えた手紙がすり替わったか、それとも気が付いていないところで紙を汚した?

 前者であれば、そもそも俺なら書き直すだろうし、そうだったとして字を上から塗りつぶすことはなかったはずだ。

 後者であれば、封筒にも何かしらの汚れがあるはずだ。


「悠里、封筒に汚れとかは?」

「いや、なかったよ。その部分だけしっかり塗りつぶされてたんだ」


 つまり、両方違う。


「そーだ、ここにしーちゃんがいるんだし、聞けばいいんじゃん」


 悠里は思いついて手を打った。

 冴えた判断だ。


「……」

「何書いたの? それともあたしにも言えないくらい恥ずかしいこと? 『昨日は悠里おねえちゃんの使った後のタオル抱きしめながら寝ました』みたいな?」


 お前の中での俺のイメージはどうなってんだよ。

 まあそりゃ小学生よりさらにもっと幼い頃だったら安心するって理由でそれくらいはしたかも知れないけれど、小学生といえば恥じらいを知る頃だ、流石にそれはないだろう……。


「そりゃあもう、あたしみたいなレアケースとずっと一緒にいて、お風呂も、ご飯も、寝るのも一緒とくればメロメロになっちゃうのは仕方ないかもしれませんけど、それはちょっと一介の乙女として引くわよ」

「……レアケースってお前、幼なじみくらい、誰にもとは言わなくとも三人に一人くらいはいるもんだろ。いや、そうじゃなくって」


 ……悠里にラブレターを書いた日。

 夏の、暑い日。

 そんな、気がする。


「何、書いたっけなあ……」

「雨が止むまでどうせ暇なんだし、頑張って思い出して教えてよ。あたしも、最後まで知りたいし」


 確かに、雨は止む気配がない。

 まだらに光る雲と、そこから吹き下ろしてくる風。


「考えてあげる」



 考えてあげる、ね。そう呟いて俺はそっと目を瞑った。

 ――――。

 過去か……。

 気分は深い海に潜っていくような気持ちだ。

 暗い闇の中に、意識と体験を落としていく。どこかに通じている気はしない。

 それもそうか、ここは俺の中だ。

 暗い記憶の深海が、ゆっくりと形を変えていく。

 立体絵本のように様々な色と形が広がって、俺の足下には木の感触があった。

 ゆっくりと、目を開けた。

 気が付けば、俺は俺の部屋にいた。

 勉強机に背が届いていない。小さな、俺だ。

 遠くて赤い空。

 俺は小さな勉強机で鉛筆を握った。

 大好きな人に気持ちを伝えたかったのだと思う。

 貯めたお小遣いで便せんを買った。

 父さんの本棚の一番上にある辞書を台に乗って取った。

 重たくて、落ちそうになったんだっけ。

 できるだけ、正確に、思う気持ちを、伝えたかったのだと思う。

 夏の暑い日……。

 黄昏の部屋で、電灯すら点けなかった。

 黒鉛の香りがした。

 手の側面が、真っ黒になっていた。

 ……。

 ……星……。

 脳が、何かを捉えた。

 指先の筆圧。

 粗悪な鉛筆の解けるままに、書いていた。


『昨日、星を――』


 ――!

 幼い俺が、俺を見た。

 俺が、遠ざかっていく。

 消える。跡形もなく。


「……っ」


 雨の音が大きくなる。

 悠里にラブレターを送った日の前日、俺は、何をしようと、していたのだっけ――


「星……。ラブレターに、星?」

「星?」

「ああ、星、多分、昨日星を見に行ったんだと思う。そのことを書いてたんだと思う。けど、その先はダメだな」


 う~~んと悠里は考え込んで、ため息を吐いた。


「なあんだ、そんなことだったんだ。もっとシリアスなことかと思った。じゃあ恥ずかしいポエムでも書いてたのかな~。“君の瞳は幾億の星よりも美しい”みたいなヤツ」

「……案外俺だぜ。あの頃なら本当にありそうだからやめてくれ」


 昨日星を見に行っていた、か。

 夏休みで、おじさんに連れて行って貰っていたのかも知れないな。


「納得したか?」

「ほんの少しね。お腹が減ってるときにガムを噛んだくらい」


 納得はしたが、満足はしてない、か。

 確かに、十年越しの謎が、こんな形で解決する訳なのだから、それは納得できないだろう。

 ……当の本人である俺だって、満足できていないのだから。


「で、さっきから“ラブレター”とか“恋文”とか言ってるのはどうなの」


 しまった、口が滑ってしまっていた。

 けれどもう、取り繕う意味もないだろう。


「……認めるよ、返答貰ったかすら憶えてないけどさ」

「なにも返答してないよ。十年越しに返答、聞きたい?」


 ……それもそれでどうなんだよ。


「いや、いらない。なかったことにしておいてくれ」

「なあんだ。つまんないの。ラブレター出したんだから、たった十年くらい恋心続けてよね」

「ラブレター貰っといて十年返答しなかった人間が何言ってるんだよ。それに恋心は二年が限界って説もあるぜ。流石に十年ってのは厳しいんじゃないか?」


 いつも通りの流した回答のはずが、一呼吸置いても忽せな返答が返ってこない。


「できるよ」

「え」


 急に声色が変わって、面食らった。


「できるって言ったんだよ」


 悠里は一歩踏み出した。

 ぐっと距離が縮まって、つま先立ちになる。


「……?」

「もう、ちょっと屈んでよ」


 少し前屈みに腰を落とす。

 悠里と目線が近くなって、目と目が合う。

 悠里の瞳は、正面から見ればより赤く見える。

 血液の色、けれどとてもそうは思えないくらいに。


「なんだよ悠里」

「この不良の白髪頭を懲らしめてやろうと思って」


 そっと悠里が懐に手を差し入れた。


「よっ」


 瞬間、視界が白い陰で覆われた。


「うわっ」


 驚くよりも先に、柔軟剤の甘い香りと手肌の柔らかい感触が後頭部にやってくる。


「驚いたでしょ。お姉ちゃんだからさ、実はタオル持ってたんだぜ、なんて」


 ふふふん、と気分よさげに囁く悠里は、俺の頭を拭いてくる。


「どういう風の吹き回しだよ」

「ちょっと怒ってるの。だって、忘れてたんでしょ。あたしに告白したこと」


 ほんの少しねちっこい声で、責めるように告げる悠里。


「いやだって、それはさ……」


 言いたいことを丸め込むように、右手が頬に触れる。


「言い訳しないの、ほら、お耳と顔も拭くよ。動かないでね」


 静かに視界が開けて、柔らかいタオルの繊維が頭から耳に移動する。

 従容に微笑んだ悠里の頬には、雨の滴が滴っていた。


「悠里」

「動かないでってば」


 細い指先で、耳の溝を優しくなぞられる。

 瞬間、小さな電流が背筋に流れて、体が跳ねる。


「ふっ……」

「あはは、こしょばかった?……昔は、よくこうやってあげてたんだよ。なんて言っても、全然覚えてないか。ぼんやり屋さんのしーちゃんだもんね」

「もう子供じゃないんだからやめろって……こんなところ、誰かに見られてたらどうすんだよ」

「雨降ってるんだから誰も今は外に居ないの。それにお姉ちゃんが弟の頭拭いてあげるのがおかしい?」


 ごしごし~、なんて呟きながら、あらかたの水分が、タオルに閉じ込められていく。


「はい、完成」

「悠里、タオル貸して」

「まだどっか残ってた?」

「いいや」


 タオルを手に取って、悠里に被せる。

 頭のてっぺんから柔らかく拭き取って、ゆっくりと移動させていく。


「優しいんだ」

「また倒れられたら困るだろ」

「えへへ」


 赤ん坊のように無垢に笑む悠里。

 年齢なんて関係なく、こうやっていつでも全力で嬉しがることのできる悠里。

 ……。


「どうしたのそんな顔して」


 きょとん、とこちらを見上げる悠里。

 冷たい表情でもしていただろうか。


「いや、なんでもない。ほら、雨、止んだからさ」

「ほんとだ」


 適当に言った言葉は、本当だった。



「じゃあ、行こっか」

「ああ」

 御薗礼香に頼まれていた諸々を届けた後、いったん俺の家でシャワーを浴び、俺たちはようやく、遅めの昼飯に向かった。

 幸い時間的にも最も混み合う昼時を図らずも回避できたおかげもあって、すんなりと店内に入ることができた。

 どうやらオープンしたばかりらしいフレンチで、トリコロールカラーを基調にしたしゃれた内装に、店内栽培をしているらしいバジルの香りが漂っている。


「しーちゃん、やっぱりずいぶんお疲れですね~」


 店内の椅子に座った瞬間、疲労からかテーブルに体が吸い込まれていく。

 冷たいテーブルの感覚が、火照った頬に気持ちよい。下手したらこのまま眠ってしまいそうだ。

 はあ、学生の時は、よく机でこうして突っ伏して寝てたんだっけ……。


「当たり前だろ、ここまでノンストップで、しかも一回は全力疾走したんだからな。あんなの、何年に一回かわかんないんだぞ」

「何年に一回かの貴重な映像って訳ね、まああたしはよく見たことあるからなんともだけどね、それより」


 あんな無茶しちゃ、ぜったいだめなんだからね。

 悠里は優しくそう呟いて、俺の頭を撫でた。


「俺は正しいと思ったからやったんだよ。……わかったから」

「ところでしーのすけ、何食べる?」

「しーのすけって誰だよ」


 いやでも、そうだった、昼飯を摂りに来たんだった。

 俺としては、胃腸に優しければ何でもいい気持ちだ、睡眠欲の方が大いに勝っている自覚がある。


「決めないんだったら、あたしから先に決めて頼んじゃうよ? でもしーちゃんが頼んでよね」

「はいはい、で、何食べるんだ?」

「まずは“新鮮トマトと一二種類のチーズのマルゲリータ”と“地産地消の海鮮マリナーラ”と……あーでも……“情熱的なプッタネスカ”、これもすごく名前がすごくこう、惹かれちゃうかも。で、本日のスープはミネストローネなのね。む……でもトマトとトマトとトマトで被っちゃう……どうしようかな……」


 真剣にメニューのぞき込む悠里。


「ゆっくり決めてくれ。その間寝てる」


 椅子にもたれかかって、軽く目を瞑る。


「そんなしーちゃん、一緒にメニュー見てよう」

「なんでだよ……」


 袖元を引っ張られて、頭を持ち上げる。


「だってだって、メニューを見て一緒に決めた方がおいしいんだもん」


 珍しくやや頬を赤らめて、悠里はこちらを上目にのぞき込んでくる。

 ……仕方ねーな。


「俺はそうだな……ボンゴレ、今日はこれが気分だな、あとはカプレーゼと、炭酸水。デザートはティラミスってところかな。おっオプションでブカティーニに変更できるんだ、これはいいな」

「しーちゃん早すぎるよぉ、ちょっと待って待って。今悩んでるところだったから。でもしーちゃんも頼んでるしあたしもボンゴレ食べたくなっちゃった……ところでブカティーニって何」

「穴あきの太麺パスタ。スープがよく絡んでうまいんだよ。で、悩んでるなら俺のボンゴレ、半分やるよ。それか半分ずつにするか?」

「えっいいのしーちゃん?! やったー! 大好き!」

「このくらいお安いご用ですよ。決まったか?」

「うん、じゃあねさっきのマルゲリータとプッタネスカとミネストローネと、ポルチーニのリゾット、あと飲み物はドクペで……いや、ないからコーラで。デザートはまだでいいかな~。後は生ハムのブルスケッタ。それくらいかな~」

「よく食うな本当に、どこに入ってんだよその分」

「男の子が好きなとこについてるのさ、悠里ちゃん美人だしね」

「都合のいい体だな」


 軽く手をあげてウェイターに注文する。

 悠里は鼻歌でも歌い出しそうなくらい嬉しそうにメニューをずっと眺めていた。


「それでは、メニューの方お預かりいたしますね」

「ああいや、このままで大丈夫です」

「かしこまりました」


 悠里はメニューを何度も読み返す。

 絵本でも読んでるみたいに何回も何回も。

 いつからこう言うようになったのかはもう覚えていないのだけれど、気がついたらメニューを置いておいて貰うのが癖になっていた。


「いっつも思ってたんだけどさ」

「ん、なに?」


 ピンク色の瞳の内側だけがこちらを見た。


「メニュー表、なにがそんなに面白いんだ? 間違い探しがあるわけじゃないだろ」


 う~ん、と悠里は頬に手を当てると、視線を窓の外に外した。


「そう言われると難しいんだけどね、わくわくするんだ。あたしの知ってるお料理なのに、どこのレストランもね、違う写し方をしてるから。後はね、見てるとおなかがすいて来るから、おいしく食べられちゃう気がするんだよね」

「へえ」

「けどね」

「?」

「こういうのって、期間限定メニューとか新メニューは別紙になったりするじゃない」

「ああ、それがどうかしたのか?」

「だから一番おっきいメニューはお店ができたばっかりの時にできたメニューって考えられるわけなんだけど。時々メニューに載ってた写真とね、ちょっと違うお料理が出てくるんだよね。にしし。それを見つけるとちょっと意地悪な気持ちになって楽しいかも」

「……最後のだけ性格が悪いな」

「間違い探し、だよ」

「ああ、そう」


 にしし、と笑う悠里を後目に、料理が運ばれてくる。


「どうも~」

「どうも」


 自然と目が合う。


「じゃあ、いただきます、だな」

「うん。いただきます」


 あれだけあった料理は見る見るうちに減っていき、俺が食べ終わるころにはもう終盤に差し掛かっていた。

 食後に少しゆっくりしたいタイプの俺からすればもう少しゆっくり食べてくれても構わなかったのだが、悠里はそんなことはお構いなしと言わんばかりの速度であっという間に平らげていた。

 駅前で昼食を摂った後の会計、悠里と俺は割り勘にすることにしたのだが(割に合っていないのは間違いない)、そのときに悠里は財布がないと言い出した。

 とりあえずそれで俺が払っておくことにしたのだが、家に帰っても、病院にもない。


「古い財布だろ、諦めろよ」

「……どうしよう」

「……? いくら入ってたんだ?」

「1cmの厚み」

「は?」


 その後は、言うまでもない。

 俺は悠里を助手席に突っ込んで、廃教会の丘へ向かった。


 青い草の香りと、水の音。

 雨上がりの空は所々ちぎれ雲がくびれていて、どこまでもずうっと見渡すことができる。

 見知った山道でも、昼間に差し掛かってみれば、別の次元の別の空間だ。ひび割れたコンクリートが雨水の道しるべとなって、どこともなく水が落ちていく。

 久那次湖への分岐を超えて、その先へ。

 古い城壁跡の苔むした岩の連なる、足場の悪い廃教会へ。


「おい悠里、そろそろ崩れた大岩まで着いちまうぞ、起きてくれ」


 昼食の後のせいで、眠くなったのだろう、リクライニングを全開まで倒してアイマスクにナイトキャップまで装備して、悠里は全力で眠っていた。


「むぐ……」

「そもそもはおまえが財布落としたって言い出したんだろ」


 それにしても隣で泣き叫ばれるのは勘弁したいが、この落ち着きようは反則だろう。


「ぐ……あれ、もう着いちゃった? 出てから三分くらいしか経ってないよ」

「寝てたからだろ、こっちは運転でもうへとへとだよ」

「ごめんごめん。でも起きてたらドキドキして長く感じちゃうから、こんな時は眠っちゃえって思ったんだ」


 全く、馬鹿なんだか、きっぱりしてるんだか。

 呆れてため息を吐きながら、温くなったカフェオレを飲み下す。

 飲み慣れたメーカー品の、安っぽいミルクの味と糖。

 暫く眠っていないせいか、全く味がしない。

 とはいえ半分は眠気覚ましに買ったようなものだ、忽せに飲み下すのに、味なんて気にしていられない。


「しーちゃんは眠くないの? もうずっと起きてるけど」

「……どう思う?」

「失神三秒前」

「正解。運転代わってくれよ、このままだと本当に事故起こす気がしてきた」

「もうすぐそこでしょ、ほら、もうコンクリもなくなって来たんだし」


 確かにいつの間にか、道路の縁にあったガードレールはなくなっている。

 ……ん?


「なあ、悠里。なんかおかしくないか?」

「ん、そう、しーちゃん? なんも感じないけど。ポジでもずれてんじゃない?」

「ずれてない。やっぱりなにかがおかしい」

「じゃあ蒸れてる? あたしはめっちゃ蒸れてる。卵孵っちゃうレベル」

「そっちは蒸れるとこないだろ、何言ってんだ」

「胸の下とか谷間とか、太ももってすごく蒸れるんだよ? 知らないか。大きいのはいいんだけど、熱いし蒸れるし邪魔なんだよね、触ってみる?」

「普段から裸でうろついてるだろ、今更触りたいとは思わねーよ」

「見ると触るじゃ大違いだって思うけどなあ。そういえば、ねえしーちゃん、そういえば崩れた岩はどこ? 舗装道の上になかったっけ?」


 ハッとして、車を駐める。


「それだ悠里。なんでないんだ?」


 お互いに顔を見合わせる。あんなサイズの岩が?


「雨で流されていった?」

「たった一日で復旧したのか?」

「でも雨で流されたならあの岩が下に転がってるのが見えないとおかしいはず」

「でも復旧したなら何かしら建機が入った跡があるはず」

「でも、ない」

「でも、なかったよね」


 めいめいに思いついたことを言い合って、疑問をぶつけ合った後、お互いの顔面が蒼白く変わっていくのを見つめて、気味の悪さを理解しあった後。


「ねえ、ねえ。しーちゃん。昨日悠里ちゃんたちは何を見たの? 崖崩れの幽霊? 岩が転がってた幻影? それとも道でも間違えて変なところから下りたりしたのかな……?」


 落ち着け、と言いたいところだが、確かに奇妙すぎる。

 落ち着ける要素がないものを、付け焼き刃でどうしようというのも妙な話だ。

 そうして、言い返せないままついに。


 俺の車に会ってしまった。


「なんだ、これ」


 昨日と同じ場所で、チャコールグレーの軽が停まっている。心なしか不機嫌そうに見える光景を、ただ凝っと見ていた。

 理解が追いつかない。


「なに、これ」

「本当に、なんだって言うんだ……?」


 理解ができないことが続いていく。

 何から何まで。

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