第5話 紊乱


 暗い山道、深い森。

 鬱蒼と伸びた夜の木々が、手を伸ばすように夜空から点々と舞い降りる星の光を遮っている。

 左手に沿って、岩石の脆く積み上がったような崖があった。

 ひっそりと差し込む淡い夜空の光が、闇に飲まれる少年を映している。

 少年は、呆然と辺りを見回す。

 暗い森、ざわめく木々、何もない。

 風が吹いた。

 木々が揺れて、上から何かの音が聞こえる。

 少年は見上げる。

 崖が、崩れていく。

 ガラガラと、まるで絵本のように転がる土砂。

 少年はこのままでは危ないと察して、走り出す。

 その瞬間。

 タイヤの音が聞こえた。

 目を灼くような光。

 少年は目を瞑った。

 恐怖ではなく、急激な光の増減で、虹彩の絞りが追いつかなかったからだ。

 それでも少年は刹那に察する。

 ――ああ、自分はいま死ぬのだ、と。





「ぐっ……うう……」


 かたかたきぃ、と古い糸車が軋むような音を立てて、フレームの曲がって横転した自転車のタイヤが回っている。

 飛び込んだ直後から、少しの間気を失っていたらしい。

 妙なフラッシュバックが、未だに脳内でリフレインしている。

 仄暗い意識は、思考を鈍化させていた。

 踏切は開こうとしているところから推察するに、電車は通り過ぎたのだろう。

 血痕や、それに附随することが何もなかったということは、つまりここで誰かが轢かれたということは少なくともなかったということだ。


「はあ」


 ほっと、胸をなで下ろす。

 ともあれ、自分はどのように少女の前に飛び込んだのであっただろう、その辺りはやはり曖昧だ。

 軋む体を、ゆっくりと起こす。


「よっ」


 頭を起こす。どうやら、道路の植え込みに飛び込んでいたらしい。

 隣には、あの少女がいた。

 無茶なスピードで飛び込んで、あまつさえ遮断機をも無視しようとした少女。

 今は植え込みの草にその体を横たえて、小さく息を荒げている。

 ……何かのっぴきならない事情があったりしたのだろうか?

 悠里と似た色の銀色の髪。

 重たい前髪から覗く瞳は、ピンク色だ。


「……なあ、大丈夫、か?」


 少し痛む足の指先を動かして慣らしてから、歩き始める。

 少女は左足の足首が腫れ上がりかけている、飛び込んだときに怪我したのだろう。


「大丈夫――じゃないな。歩けるか?」

「は、は……ぁっ」


 息を荒げて、右手を地面に突く少女。

 地面に垂れた、長くて甘い銀色をした細い髪が朦朧と揺れる。

 けれどその手は震えていて、舌足らずな嗚咽混じりの息が口から漏れた。

 まるで首輪でも付けられているような不自然さを以て、少女は必死に手足に力を込める。


「ふっ……うう……」


 シャワーでも被ったようにぐっしょりと濡れているのに、頬も拭わずどこかの虚ろを見ている少女の瞳は、狂気に突き動かされているそれだった。


「待て、無理するな」


 無理に力んで立ち上がろうとした少女は、やはりその体勢を崩す。


「ひぐぅっ」

「おいってば」


 足首の痛みに腰が砕け、崩れていく肩を支える。

 ともかく、この少女にどのような予定があろうと、一人で立てないような怪我である以上放っておくわけにもいかない。

 どのような過程があろうと、彼女をこうしたのは俺の責任もある。

 少女を抱えて、道の脇に避ける。

 淡い絹の色の髪、まるで生気の感じられない瞳、細い指。

 何かに似ている。その何かはちぎれ雲のように朧だが、同時に朧の像があることが、余計にその存在を知っていることを本能的に告げさせる。


「足、大丈夫か?」


 少女をそっとビルの陰に下ろして、付いた葉っぱや泥を払う。

 けれど少女の頬には、なおも新しい水滴があった。

 つぶらな瞳から流れる涙が溢れて零れて滴っている。

 少女は、雨に打たれながら泣いていた。

 おいおい頼むぜ、なんて言葉が心の中で反響する。


「ぁっ……うっ、あぅ……」


 言葉が出てこない。


「俺は医者だ。落ち着いてくれ、大丈夫だ。ものすごく大きな傷はない」


 俺は、俺に向かって言った。

 少女の目線まで腰を落として膝立ちになり、目と目を合わせる。


「大丈夫か? 痛かったな。今から病院に行こう」


 できるだけ優しい声で話しかける。


「はあっ……うう……」


 言葉にならない感情表出が、何かを訴えかけてくる。震える肩は、何かを訴えている。

 ポケットからハンカチを取り出して頬に滴る水滴を拭う。


「ああ、そうだな。まずはここを離れて、それでちゃんと傷の手当てをしよう。その方がちゃんとお話できるからな」


 しゃくり上げて息を忘れていた少女の呼吸が、ゆっくりと規則的に戻っていく。

 少し間を置いてようやく落ち着いたのか、縋り付くように言葉を吐き出した。


「あ、あのっ……おとうっ、とが、このっ踏切の事故で、おとうとの、がっこうからっ、でんわが……あってえっ……それで、おうち、保護者のひっ、とがいないから、ライ、は病院、の私がいかないとっ……」


 支離滅裂な文章と、壊れた呼吸のリズム。

 なるほど、病院に用があったらしい。

 それなら病院に連れて行ったついでに聞いてみればいいだろう。

 細かい事情は推測に頼ることになるが、要約すると弟が事故に巻き込まれたということらしい。

 ……待てよ、この踏切で事故だって?この踏切にはそれらしい跡なんて――

 その時だった。


「しーちゃん!!!」


 後ろから悠里が走ってきた。

 そのシルエットは。

 金と銀の間の複雑な髪色、細い線、薄い瞳孔の色。

 視点が体を離れて一瞬空中に移動する。


「――似てる」


 ぼんやりとしていた像に、急激にピントが合う。

 思い出した。

 この少女に俺が見た面影は、幼い悠里のそれだったのだ。

 ……むしろどうして、今まで気が付かなかったのだろう。


「はあ、はあ、しーちゃん、ほんと無茶ばっかりして……!!!」


 悠里は肩を上下させて、怒ったように胸を小突いてくる。

 確かに無茶はしたが。

 しかし、少なくとも。

 それはお前の台詞ではないだろう。

 ……いや、道路のど真ん中に車を置いてきてしまったのだった。コイツもコイツなりに大変だったのかもしれない。


「大丈夫? 怪我は? あと女の子は?」


 質問は一つずつにしてくれと言いたいが、少女の様子を見る限り、そんな余裕もなさそうだ。


「俺は大丈夫で、怪我は擦り傷だけ。 けど、女の子は足首を怪我してる。救急車を呼んですぐ病院に連れてってやるんだけど、親御さんが来られないそうだから、俺らが行くぞ」

「……えっと、分かったよ! 病院だね」


 微妙な間。

 多分理解はしてないのだが、まあ問題はないだろう。


「悠里、女の子の荷物、持ってやってくれ。俺はこの子を抱えるから。車を出そう。流石にあんな場所に置いてたら邪魔すぎる」


 踏切を渡って、道路を超える。

 運良く近くの喫茶店の店主が車を動かしてくれたようで、車は路肩に停まっていた。

 店主に一つ会釈をして、少女を車に乗せる。

 病院に電話をかける。


「すいません、さっきのしづるです。実は踏切で事故があって、女の子が怪我しちゃってるんです。救急で行けます?」

『ああ、しづるさんですか。救急は、ちょっと難しいかもです。今非番の先生もヘルプで来て頂いてるような状態で。ところで容態の方は? 酷いです?』

「いえ、じゃあこっちで連れて行きます。多分捻挫か、触った感じ太いのは折れてないと思うんですけど、悪くて骨折だと思いますので。すいません、お忙しい中なのに」

『いえいえ、そんなことは。話の方は通しておきます。すいません、お願いしますね。三番窓口の木下様っていうことでお願いします』

「わかりました、失礼します」


 病院の予約を取り付けて、車を出す。

 後部座席に移った悠里は、少女の面倒で忙しそうだ。


「すぐ診てもらえるって、良かった」

「ごめん、なさい。ごめんなさい……」


 力なく横たわる少女の瞳はどこか淀んで、灰色の天井を見据えていた。

 ……誰に話しているわけではない。きっと、そう言わずにいられないのだろう。


「気にするな。むしろ、君が大事故にならなくってよかったんだ」


 それでも、俺は答えた。

 理由は分からない。


「そうだよ。気にしないのが一番だよ」


 ……お前はもうちょっと気にしてくれ。

 ウインカーを出してアクセルを踏む。

 昼食は遅めになりそうだ。



「悠里、どう思う?」

「どう、って?」


 待合室の長い廊下。

 灰色の空は淡く黒ずんだように見える滴をポツポツと落としながら、その勢いを増している。


「あの子、さっきの駅前の踏切のところで、『弟が事故にあった』って言ってたんだ」

「駅前の踏切で? それは……なんだかおかしいねしーちゃん。だったとすれば……」


 悠里は人差し指で地面を指して、それをアメーバ状に動かす。

 リノリウムのペタペタとした質感の廊下が、黄土色に反射している。

 けれど一部だけ、削れて黒ずんでいるところがあった。


「そうだよな、そこまでの事故があって何にも痕がないってのは、変なことだよな」

「うん。あの近くに他の踏切なんてあったっけ?」

「いや、ないよ。他は地下に潜るか立体交差になるかどっちか。だから、あそこで事故があったとしか考えられない」

「……ねえ、しーちゃん」

「わかってるよ、悠里。あの子は、かなり錯乱してた。弟――ライって言ってたっけな、が急に踏切の事故、つまり電車の事故にあったから、自転車で病院に向かってたらしい」

「ここ以外の病院の目星は?」

「いや、三咲町で救急を受け付けてるのは二つだけだよ。ここか、それとも南の犀濱病院か。でも、それならあの子がここに向かって自転車を走らせてた理由が分からなくなる。それに、位置関係的にもこっちじゃ逆だ。どっちかっていうなら、ここは北寄りだろう」

「確かめてみよっか。その方が、早いよ」

「ああ、そうだな」


 処置室の先生に一言声をかけて、病院の地下に降りる。

 救急棟に入って、通りすがった医師を呼び止めた。


「すみません、ちょっと伺いたいんですけど」

「ああ、はい。なんでしょう」


 新米医師だ、俺と同じくらいに見える。


「今日、新駅舎駅前の踏切辺りで起きた電車との追突事故の患者って来てます?」

「……」


 彼は考え込む様子を見せたが、すぐに顔を上げた。


「いや、オペ室が必要になるような大きな外傷の患者は来てないですね。どうされました?」


 ……ないのか。ということは、やっぱりどこかがおかしい。


「いや、それだけです。ありがとうございます」

「……そうですか? 失礼します」


 釈然としない会釈をして小走りで通り過ぎていく医師の背中を見送った。

 処置室の前に戻る。


「やっぱり、おかしいね」

「ああ。何かがおかしい。でもあの子は、嘘を言っている様子もなかった」

「じゃあ、誰かと間違ったとか?」

「どういう意味だ?」

「病院側が誰かと間違えてあの子に連絡したとか、そうでなかったら学校側が間違った生徒に連絡したとか。だってさ、ライって名前、珍しいけど被らないことはないでしょ?」

「確かに、その線はあるかもな。でも、そうだったとしても、もう一つ間違える必要があるだろ。病院の名前を聞き間違えて、それで事故が起こった踏切の場所を伝え間違う。そんな偶然ってあるか?」


 む、と考え込む悠里。

 五秒ほど間があった後、あ、と閃いたようだった。


「全部あたしみたいな人だったらあり得るよ」


 ……アホか、こいつ。


「いや、ないだろう。お前みたいな人間ばっかりで社会が回ってたら、この世の終わりだな」

「そっかぁ」


 やや悄然とする悠里、本気でそんな風に思ってたのか?


「すいません、木下様の保護者様、いらっしゃいますか?」


 木下――俺たちの名義だ。


「悠里、行くぞ」

「へっ? あっ、そうだね」


 処置室に入る。


「すいませんお待たせしました」

「いえいえ、こちらこそ急に受けて頂いてありがとうございます。急に外来が増えたって聞いて、悪いなと」

「全然。増えてるのは内科ばっかりでね、こっちも忙しくはあるがそんなに変わらない。寧ろ、こっち側としては大して何もないのにどこかかしこが痛いって、泣きついてくるような厄介な年寄り患者の相手をする時間が減らせて幸運ってモノですよ。はっはっはっ」


 でっぷりと太った整形の先生は、毒を吐き散らしながら腹を軽く叩いて笑った。


「で、本題だ本題。御園さんの怪我ですね」


 御園 礼香と書かれた診断書。

 あの子のフルネームは御園礼香というのか。

 そして弟は、御園ライということになる。


「随分痛そうだったので、とりあえずベッドの方に寝かせてあります。で、怪我の方が捻挫ですね、骨折はない。聞いたら、結構いい勢いで突っ込んだそうで確かに腫れの具合は随分酷い。あれじゃあ暫くは車椅子じゃないと動けないでしょうな。ですがまあ、機能に関しては問題なさそうです。痛み止めくらいは処方できますが、それ以外はまあ要らないでしょう。とは言っても、少し問題がありましてね。ですが後は、そちらでお話して貰った方がいいかも知れません。奥の部屋で今は横になってるとこです。そちらにどうぞ」


 ほとんど一息で言い終わって、奥の部屋に手を向ける。

 先生が扉を開けて、その先へ通される。


「それでは。終わったらまた声をかけて下さい」

「すみません、本当に助かりました」

「いえ、こういう件は好きなんですよ。なんだか、ドラマがあってねえ」


 先生のめがねが怪しく光る。

 ……本当に変な人だ。

 個人的に整形の先生ってなんか変な人が多いイメージなのだが、実際はどうなのだろうか……。

 無機質な白い部屋。

 奥には天蓋付きベッドがある。

 そこに少女は寝かされている。


「怪我の方は――」

「礼香ちゃん、怪我は大丈夫?」


 声をかけようとしたところに、悠里が割り込んだ。


「大丈夫、です……」


 弱々しい声で語る少女は、とても言葉通りの状態には見えない。


「自分の怪我の具合はどんなものか教えて貰ったか?」


 とにかく、少女の現状を知るのが先決だろう。


「骨は折れてないけど、暫くは車椅子になるかもって言われました……」


 それだけ知っていれば、まあ十分か。


「うん、そうみたいで、無理は禁物だ。ところで、親御さんは――いないんだったな。……悪い。他の親戚とかは近くにいるか?」


 恐らく、先生が言っていた問題というのはこのことだろう。

 この子には今、家に帰されても誰も面倒を見る人間がいないんだ。


「……」


 少女は、力なく首を横に振った。

 瞳には、堪えようとした涙が浮かんでいる。


「困ったもんだな……」


 孤立無援。

 少女の状況を言葉で表すなら、まさにそうだ。

 誰も助けない、誰も状態を知ろうともしない。

 知っているのは、赤の他人の俺たちだけだ。


「そうだな……連絡先だけでもいい、頼れそうな人は知らないか?」


 少女の瞳が、揺れて目線が下がって、白いシーツを見ていた。


「居ないんです。私、弟と、ずっと、今まで二人だけだった、ので」


 白銀の髪に覆われて目元は見えなかったが、少女の声は震えていた。


「ひう……」


 すすり泣くような嗚咽が、胸の奥にチクチクと響く。

 悠里に似ているせいだろうか、普段よりも、妙に心が痛い。


「今日はあたしのお家にくる?」


 声をかけあぐねていると、悠里が横から割り込んだ。


「一人っきりだと辛いね。弟君も心配だし……。代わりに、お兄さんとお姉さんが弟君のことは調べておいてあげるから、今日はちゃんと休もう。きっと、大丈夫だからさ」


 頬に伝う涙を拭きながら、悠里は言った。


「いい子だから泣かないで。大丈夫だよ。うんうん」


 子供をあやすように、悠里は少女の頭を撫でる。

 ――。


「うっ、あうぅ……うう」


 感情の堰が壊れた少女は、一気に泣き出した。

 よしよしとあやす悠里は、まるで母親みたいだ。

 ……よく似ているだけはある。

 しかしながら、その計画には無理がある。

 そっと、悠里に耳打ちする。


「悠里。悪いけどお前の家は無理だろ。あんな足の踏み場のない寝床のない汚いの三拍子揃った家で生活ができるのは、家主のお前だけだ」


 ……それに、お前はまだ病人と大差ないじゃないか。そう言いかけて、口元で止めた。


「しーちゃん。今は少し静かにしてて」

「……」


 窘めるように言われて、俺はきまりが悪くなった。

 ……所在がない。

 逃れるように、窓の前に向かう。

 無造作に乱反射して濁る磨りガラスの外を眺める。

 今日は本当に、なんという日なのだろうか……。

 ……雨は、少し弱まったみたいだ。光が見える。

 悠里に慰められて泣き止んだ少女は、ポツポツと言葉を零し始めた。


「弟は、少し前に喧嘩しちゃって家出してて。私、今日、なんだか朝から不思議な感覚がしてて。それで、ライが事故に遭ったって聞いて、それで、居ても立ってもいられなくなって、飛び出して来たんです。でも、なんだか変な感じがして。この感覚をどこか知ってたような気がして、けど、行かなきゃって思って、それで……」

「それで、必死に病院に?」

「はい……いっぱい雨が降ってて、それで、でも、行かなきゃ行かなきゃって。急に、轢かれたライの姿が頭の中に浮かんで、それで、訳がわかんなくなって」


 大きな物事の前兆を予見した人が思い込むことは、ないことではない。

 自分自身では認識していない無意識下の記憶が存在し、それが目の前の状況や、気温湿度、そして 体調様々な要因が重なって、一定条件下においてその記憶が無意識下で再生されることがあるのだ。

 それを認知した脳が、“予感”という形でその情報をアウトプットし、“思い違い”の予感を発生させるのである。

 そしてそういった限定状況はストレス状況下で起きやすい。

 彼女の場合も、それに近いことが起こった可能性が高いのではないだろうか。


「そっか、辛いね。でも、お姉さん達が代わりに調べて教えてあげるから。今は何も考えないで休んで。怪我が治って出てきたら、今度はお姉ちゃんがボロボロになってたなんて、弟くんもびっくりしちゃうと思うからさ」

「でも、でも……」

「大丈夫だって、ほら、深呼吸して」


 少女を抱きすくめたまま、悠里はよしよしと声をかける。


「……」


 悠里は、不思議な人間だ。

 ぼんやりしているようで、周りに良く気を配って、足りていないものを補っていく。

 暫くして、少女が落ち着いてから、悠里はこちらへ向き直った。


「礼香ちゃん、ちょっと待っててね。……しーちゃん、いい?」

「はいよ」


 悠里に連れられて、待合室側の扉から出る。


「どうしよしーちゃん。しーちゃんのお家、いける?」

「難しい。父さんも母さんも多分家に居ないからな……お互いに単身赴任して家を丸ごと空けてる。俺と二人っきりってのは、ちょっと世間的に無理があるだろう」

「……まさか手なんて出さないでしょ?」

「そういう問題じゃないんだ悠里。……というか俺の信頼なくないか?」

「そんなことないよ、確認。まあいいや、じゃあどうしようか……このままじゃ足が治るまでにお腹が減って死んじゃうよ」

「お腹が減って……まあ、そうか」


 そうだ、俺の一番危惧していた問題はそこだ。

 このまま誰も少女の面倒を見ないというのであれば、少女は自分で自分の面倒を見るしかない。

 けれど、満足に立ち上がることもできない状態でそれを強いるというのは、あまりに酷すぎる。

 唯一の肉親が事故に遭っているという心労だって、その上に積み重なってくる。

 今この子は、たった一人、孤独なのだ。

 ……さて、どうしたもんか。


「悠里、おばさんはどうだ?」

「ママは忙しいから難しいよ。お家に帰ってくるのも遅いし、それに部屋もあたし以上に汚いし。わかるでしょ?」


 この娘あって、あの母あり、か。いや、逆だ。

 おばさん自体が『好きなことを好きなだけする』という人生哲学の元、一度走り出したら歯車の最後一本が砕け散るまで暴走し続ける重機関のように生きている人間だ。ただ突き進むだけで周りのことなんてお構いなし、止まったところなんて想像をすることの方が難しい。結局、後片付けに掃除や洗濯なんてのは、二の次三の次。部屋の惨状もまあ、想像に難くない。


「それなら仕方ないな。けど、実際問題どうしようか。このままじゃどうしようもない」

「ん~。確かに困っちゃったね……なんかいい方法ないかなあ……。具体的には、どこまで持っていければいいかな」


 どこまで、そうだな。何事も最低限のラインを決めるのが定石だ。


「まずは、食事がある程度自由にできることだ。その為には、面倒を見てくれる人がいた方がいい。あとはないとは思うが、急に傷が悪くなったときになんとか対応してあげられられないとな」


 お互いに示し合わせて、頷き合う。


「その為には大人が付きっきりってことになるから、やっぱり休みのあたしかしーちゃんが適役って感じだね。次は……居てて心が安まるところが大事だよね。清潔で静かで、できれば病院に近いところがいいかなぁ」

「清潔ってなると、やっぱり悠里の家もおばさんちもダメだな。で、最後が弟君のことを知ってること、か」


 となると。


「やっぱりしーちゃんかあたしじゃないとダメみたいだね」

「ああ、そして俺が引き取るのはちょっと問題があって、悠里の家は散らかってて無理」


 重苦しい空気を纏って、俺と悠里の目線は地面に落ちた。

 沈黙が場に立ちこめる。

 どうするべきだろう。

 実を言えば、どうすべきかの答えはもう出ていた。けれど単純に、俺の口ではあまり言いたくないことだったから、言わなかった。


「病院から出なくていいんなら、病院でいいんじゃないかなあ?」

「……そうだな」



 時計がてっぺんを指した頃、御園礼香は入院する準備を終えた。

 とはいえ、やったことといえば、ベッドを移されて簡単な説明を受けただけだ。

 入院にしてくれるよう説得を試みた際、一瞬は苦い顔をした先生だったが、にたりと笑いながら情に流されてくれた。


「礼香ちゃん、大丈夫?」

「私は……はい。大丈夫です」


 結局、俺たちの取れる行動は一つだった。

 満足に面倒を見ることができないのに、無責任に引き取るわけにもいかない。

 ここなら食事の心配もなく、もし怪我が悪化してもすぐに対応できる。

 ……もっとも良い選択を選んだと考えている。

 といっても。

 実際のところ、俺たちにとって都合のいいことを選んだだけだ。

 気を利かせて個室を用意してくれた先生には、感謝しかない。


「礼香ちゃん、だったな。悪いな。これぐらいしかしてやれない。家から持ってきて欲しいものとかってあるか? 鍵と家の場所を教えてくれたら、取りに行くぞ。枕とか、あとは着替えとか」


 勿論、モノなんか取らないから安心してね。と悠里が付け加える。

 随分落ち着いた様子になった少女だが、心中を察するにはあまりある。

 こんなに非常事態なのにここでじっとしていろだなんて言うのは、酷なものだろう。

 ただでさえ、子供はじっとしていられない生き物だというのに。


「……あのっ! それより」


 少女が前のめりにベッドから乗り出してくる。

 長い前髪が揺れて、その隙間から淡いピンク色の瞳孔がこちらを捉えた。

 ――ピンク色?

 今までは見過ごしていたが、この子のピンク色の瞳は余りにも自然だ。まさか……。


「な、なんだ」


 勢いに面食らって少し下がった俺を追いかけるように、その瞳は俺を釘付けにしている。

 どうしたって、逃がさないような意思を瞳の奥に感じる。


「……ありがとう、って言えてなくって。私、わたしのことでいっぱいいっぱいになっててて、全然ちゃんとお礼を言えてなくって、それで。だから。ありがとうございます」


 四つん這いで器用にぐいぐいと迫ってくる少女、下がる俺。

 ベッドの端まで手が迫って、落ちそうだ。

 結果俺が下がれなくなって、少女の手が俺の腹部を登る。

 ……こそばゆい以上に、なんだこの光景。

 少女が腹ばいになって下から俺をのぞき込んでいるような状態だ。


「あ、ああ。いや、そんなことはないよ。俺が突き飛ばしたせいもあるんだ。だから、俺も悪いなって思っててさ。で、なんで礼香ちゃんはそんなに俺に登ってくるんだ……?」


 少女はなおも俺の顔をじっと眺め続ける。

 透き通った薄い肌色、陶磁の指。淡いピンク色の瞳孔。

 ……やっぱりそうだ。

 この子も、悠里と同じアルビノなのだ。

 アルビノ。日本名でいうなら先天性白皮症。

 メラニンを自身で生成できない生物学上の異常。

 紫外線に弱く、また目立つ故に自然界でアルビノはそのまま障害となるケースが多い。

 それは群れから追い出されるからという説や、そもそもアルビノ自体が虚弱体質で生まれやすいからという説もあり、またそれら全てが要因であるという説もある。

 そしてあまり知られていないが、アルビノの瞳は血液の赤色を色素を通さずそのまま出力するため、このように美しく淡いピンク色となるのだ。


「ひょっとして君、アルビノなのか……?」


 念のため、確認を取る。


「あぅ」


 アルビノという言葉に反応して、少女は左手で前髪を押さえる。

 その拍子に体勢が崩れる。


「わわっ」

「おいおい」


 体を支えてやって、ベッドの上に戻す。

 この反応を見ると、やはりアルビノだ。

 アルビノは特有の状況において、視力が極端に下がる。

 特にこういった蛍光灯の昼白色の光の下ではその傾向は顕著で、色素がある程度の光をカットしてくれる一般的な色素保有者に比べると、その差が出る。

 恐らく、さっき異様に近付いてきたのは、単純に見えなかったからなのだろう。視点的にも、俺の後ろは蛍光灯だ。


「あの……これは……そういうのじゃなくて……」


 少女は前髪を抑えて、怯えた仔兎のようにこちらを伺っている。

 ……アルビノで、随分苦しい思いをしてきたのかも知れない。


「気にしなくてもいい。こっちのおねえさんもアルビノだ。そして俺は、このおねえさんの幼なじみだ。俺たちの前では、別段それは気にしてくれなくってもいい」


 そう、悠里だって、同じような思いはしているのだ。


「そ~だよ。一緒の髪の色してるんだし。というかあたしよりちょっと薄い? 光の加減かな……? えっあたしよりキラキラしてるずるい」

「どこで張り合ってんだよ」

「純真さ」

「歴史的大敗だよ」


「ふ、ふふっ……」


 今まで暗い表情しかしていなかった少女が、初めて笑った。


「しーちゃん、笑われてるよ?」


 意地悪な笑みで、悠里は俺を覗く。


「悠里、多分お前だと思うぞ……」

「そんなわけないじゃん」

「ふふふ……どっちもです」


 割と言うこと言う子だなこの子。


「だってさ、流石姉弟だよね、あたし達」


 気をよくした悠里は手の甲を勝手に俺とかち合わせて見せる。


「誰が姉弟だ。悠里のことは幼なじみだと思いこそすれ、姉だと思ったことは……多分ないぞ」


 多分。言い切れるほど昔のことを覚えていない。でもきっとないはずだ。そう、そのはず。


「どうだかね、悠里ちゃんはしーちゃんのことを何でも知ってますから」

「俺の口座の暗証番号」

「君の大好きな悠里おねえちゃんの誕生日」

「両方外れ……いやそうじゃなくて」


 悠里と話すと、いつも話が横道に逸れていく。


「外し気味な方がモテるんだぜ弟ォ。そんな真面目腐ってるからモテないんだよあたし以外からァ」

「うるせえな……そうじゃなくて……」


 というかそれだったらお前が相当悪趣味な人間ってことになるじゃないか。


「えっと、私はかっこいいと思います、よ……」


 控えめに目を逸らしながら、おずおずと少女は言った。


「フォローに、なってない……というかなんで俺がこんな叩かれ方しなきゃいけないんだ」


 そうじゃなくて。

 頭をぶんぶんと振って、気を取り直す。


「あぁもう……。必要な荷物、何かあるか? 持ってきてほしいもの、何でも言ってくれ。持ってくるからさ」

「そういえばそんな話だったね」

「そうでした」


 場を弛緩させるために俺が叩かれたのは納得いかないが、お陰で少女の表情には強ばりがなくなっていた。一応悠里が狙ってやったとするなら、それは成功していることになるが、そんな算段をコイツが持っているとは思えなかった。

 まあつまり、俺は悠里の気分気ままにおもちゃにされたということになるわけだが……。


「えっと、一つだけ持ってきてほしいものがあるんです――」


少女は上を唇に指先を当てて、それを答えた。

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