第4話 異変の足音

 深夜三時。

 眠り姫とでも言ってもいいほど、一度眠れば二度と目覚めない悠里から、日も昇らない明け方――そう、天体観測の数時間後のことだ――に電話が来たときには驚いた。


『ねえ、しーちゃん。なんか、胸が、きゅってなって、苦しいの……』


 泣きそうな声で告白する悠里の声を聞いた時、肝が冷えた。

 さっきも言ったが一度寝付いたら目覚めない悠里だ――俺はコイツが寝ぼけていて、もしや悪い夢でも見たのか、それとも寝付けなくって、夢と現の狭間で妄言でも放ったのか、それとも悪戯かと思案したものだが、結論として出たのは一つだった。

 昨夜、廃教会の丘であったあのめまい。

 あれは決して低血圧とか貧血とか、そういった簡単なものではなくて何かしらのサインだった可能性があるということだ。

 俺の専門自体は臨床心理学だが、これでも大学病院に勤めている人間だ。なにかしらのサインが出てから、加速度的に容態が悪くなっていくような事態には何度だって遭遇した。そしてそんな急な容態の変化は、変化が刻一刻と傷病者の体にフィードバックを与える。分かりやすくいえば、異常が異常を呼び、それが原因でまた新たな異常が発生するという悪循環。つまり、変化がそのまま生命の安否に関わるのだ。そうなってから後悔したって、遅すぎる。そうなってしまったら、例え命が繋がったとしても後遺症が残る確率は爆発的に上昇するからだ。そもそも銘旦夕に迫るなんて状況、兆候があった時点で回避するに限る。

 ――死んでいなくて良かった――

 そんな言葉を、俺は人を救う立場ながら信じていない。

 苦しんで生きる人を見つめることは、苦痛だ。

 悲しみに奮い立とうとして心を壊してしまった人を見るのも、また苦痛だ。

 日常が壊れたら、その人が直さなければ、治らない。

 医者は痛みを和らげることはできる。

 けれど、その人が壊れた日常の欠片に触れて血が出ることを、止めることはできない。

 その事実からは、決して。

 例え何があろうと。起こってしまったことは、無かったことにはできないのだから。

 だから、俺は許さないのだ。

 また何もできなかった。なんてのはごめんだ。特に、自分の出発点がコイツを通して思ったことであるという事実が、ある以上は。

 そう思えば、後は早かった。

 外は雨が降っていた。

 しとしとと降る雨と、肌にべたつく湿気が呼吸を阻む。

 実家の鍵を閉めて、親の車のアクセルをんだ。

 何かあれば病院に連れて行ける為の配慮だが、今思えば、これは正解だったと言えるだろう。

 悠里のアパートの誰も止めていない駐車場に車を止めて、ガンガンと響く階段を登る。

 ポストの裏に貼り付けてある鍵を外して、インターフォンも鳴らさずに部屋に入り込む。

 入り込んだ部屋は、明るかった。

 いや、明るいといっても、その様は異様だった。

 天井灯、トイレの灯り、リビング、懐中電灯、あらゆる灯りが煌々と照っている。

 部屋の中だけが真昼のように明滅して、深夜とはとても思えない。


「悠里」


 呼びかける。

 何も聞こえない。

 靴のかかとを踏みつける。


「悠里」


 どこにいるんだ。


「悠里」


 画材で足の踏み場のないリビング。

 伏せられたキャンバスの列。

 埃の吹いた窓枠。


「おい」


 寝室を開ける。


「しーちゃん」


 そこには、余りにも明るい部屋の中、弱々しい息で床の上に体を横たえる悠里の姿があった。

 服をはだけさせて、火照った顔で、弱々しく笑っている。

 笑っていた。俺が来たことが心底嬉しいように、笑っていた。


「ね、なんか、胸が、ね。ヘンな感じで……苦しいの……」

「もう少しだけ辛抱しろよ」


 体温計を脇に突っ込んで、悠里の手首の内側に人差し指を当てる。

 残った片手で、救急車を呼ぶ。


「すいません。救急車の方をお願いします。後、帝都大から回ってきてる先生がいらっしゃったら、繋いで頂きたくって」


 脈拍は早い。が心拍数自体は一定だ。


「加藤先生、すいません、救急お願いできます? 昨日の夜中から少し様子がおかしかったんです。若干の発熱と多量の発汗、体温はそこまで上下してないので熱中症ではないと思います」


 わかった、すぐ行く。と低い声が聞こえて、電話が切れる。

 それを確認して、ベッドの上に乗っていた画材を地面にぶちまけて悠里を横たわらせる。


「悠里、辛くないか?」

「少しだけ、大丈夫。ねえ、しーちゃん」


 目元を潤ませながら、悠里の白い手が伸びる。

 目は、焦点が外れがちだ。

 ……くそ。自分を恨む。

 何も、してやれないじゃないか。

 医者先生に、なった癖に。


「なんだ悠里。大丈夫。すぐ苦しいのはマシになるからな」


 悠里の白い手を取って、できるだけ朗らかに話す。

 安心、させてやりたい。


「しーちゃん、顔色が、まっしろ、だよ」


 ――違うぞ悠里、しっかりしてくれ!

 でかかった言葉を飲み込んで、悠里の頬を撫でる。


「ああ、そうだな。最近、いろいろあってさ……」


 言葉が、出てこない。

 どうしてだ。普段はこんなんじゃないのに。

 もっと、うまく、やれてるはずなのに。


「大丈夫。そんなに、辛い顔しなくても。悠里は、ここにいるよ」

「ああ、そうだな。いる、大丈夫だ」


 そっと手を返す。

 安心したように目を瞑る悠里。


「俺は……」


 見透かしたように、静かな声で囁く悠里の前で、俺は何もできなかった。

 救急車の音が響く。

 部屋にやってくる隊員達。

 俺はただ、その動きを見ているだけだった。


 朝方、悠里の容態を聞いた俺は、病院の屋上にやってきていた。

 外は蒸し暑い。恐らく雨が降ろうとしているのだろう。


「今日は……雨か」


 大きなため息が出る。

 処置室から出てきた先生は、案外落ち着いていた。


『しづるくん、もうあの子は大丈夫だよ』


 大きく息を付く、冷や汗が一気に引いていった。


『よかった……』


 けれど、今思い返せばアレは落ち着いていたというよりも、静かに困惑していたと行った方が正しいのかも知れない。


『いや、安心しないでくれしづるくん。問題はなかった。しかし搬送したときの彼女には、瞳孔の散大、発熱、軽い脱水……あげつらえば、もっと。確かに“何か”があったんだ……。ただ、時間経過によって、それらの反応が和らいでいった。僕がやったことと言えば、薄いロピオンを点滴したくらいのものだよ』


 ……つまり、原因が治ったわけではないということか。


『でも、ありがとうございます。急にそういう症状が出るって、何か思い当たることは……?』

『僕が聞きたいくらいだ。やっぱり熱中症かと疑ったがね。でも熱中症ならあんな風に急には引くまいよ』

『そうですか……』


 悠里は今は眠っているらしく、起きたら精密検査を勧めてみるとのことだった。

 俺としても、その方が助かる。このままでは心配で仕方がない。

 後で矢継さんとおじさんに伝えておかなくては。


『はは……随分疲れてる顔だ、無理もない。しづるくんも休んできなさい。屋上に自販機を置いてる』


 そんな風に勧められて、俺はそれに従った。眠っている暇もなかったから、随分疲労が蓄積しているのは自覚していた。


「今日は……雨か」


 灰色のコンクリートの水平線。くすんだ太陽が青白い雲を染め上げていく。

 三咲町の夜明けは、例え曇っていようとも好い。潮風の香りと、三方を囲んだ山の風景に浄化された風が強く吹き抜けていくのだ。

 以前来たときは婆さんが入院していた時、もう七年近く前になるのか。けれどここから見る風景はどうだ――変わらない――。

自動販売機で、冷たいココアを買って、爪をかけた時だった。

携帯電話が鳴る。


「……」


 手をかけて、待機画面を軽く撫でる。

 その画面には、見慣れない番号が浮かんでいた。

 耳に当てる。


「もしもし、桜庭です」

「こんな時間に悪いな桜庭」


 この声は――敷原、つむり。

 敷原つむりは俺の大学の同期だ。

 学科が違ったので同じ授業を取ることこそなかったが、彼とはそこそこ仲が良かった。

 彼は総合人間科学学科、いわゆる人科の学生で、厭世的な切れた瞳が特徴的な変わったヤツだった。

 最後に会ったのは大学の卒業式の時だったか。


「ああ……こんな時間にかけてくるんだ、何かしらの用があるんだろ?」

「話が早くて助かる。桜庭、今帝都に居るか?」


 ……。

 帝都? ああ、そうか。敷原は今も帝都大にいるんだったな……。


「いや、昨日から休暇を貰ってるんだ。今は三咲町にいる」

「……」


 敷原は少し黙って考え込むようにした後、話し始めた。


「桜庭、今帝都大病院に連絡って取れるか?」


 ……。


「なんかあるのか? 身内が怪我でも?」

「いや、そうじゃない。帝都で事故が頻発してる。俺が見てるだけでも四件以上目の前で起こってる。だから、ひょっとして同じようなことが何件も起こってるんじゃないかって思ってな。それで病院に連絡を取れる人間に連絡を取った」


 帝都で事故の頻発?


「桜庭、お前になら話してもいいと思うから話すが、昨日……いや、今日の未明。雪が降ったのは覚えてるよな」

「ああ、その時、丁度天体観測をしてたからな」

「それから、どうも何かがおかしい気がする。今、手当たり次第連絡が取れそうなところに取ってみてるが、やっぱり妙だ」


 妙……? 確かにこんな熱帯夜に雪が降るなんてのは真っ当じゃない話だ。

 しかし、だからといって、それが直ちに何かがおかしいと結論付ける理由にもならないだろう。


「“雪が降った”と話すところと、“雪なんて降っていない”と話しているところがある」

「それはどういうことだ? 単純にその人がその時刻に外に出ていなかっただけであるとか、地域によって差があったという話ではなく?」

「ああ、ほぼ確実といえると思う。大体同じポイントに居を構えている複数人に確認を取っているからな」


 ……同じポイントで、複数人の人間が、違う証言をしている?


「敷原、悪いけど言ってる意味がわからない。それが、これとどう関係しているんだ?」

「俺もわからないが、奇妙なことは確かだ。だから今、それを探っている。しかし三咲町でも降っていたんだな。……何か変わったことはあったか?」


 変わったこと、と言われても思い付くものはない。

 強いて言えば、悠里が倒れたことか。


「……いや、今のところはわからない。それより、帝都大病院に連絡を取りたいんだったよな……。後でこっちでかけてみて、連絡してみる。けど、ひょっとすると自分の足で向かった方が早いかもだ」

「……そうか。わかった。因みに桜庭、もう一つ確認したい」


 敷原の声色が少し低くなった。


「数日前の通話履歴を遡って欲しい」

「……なんだ?」

「いいから、頼む」


 通話履歴?

 画面を指でなぞって、履歴に辿りつく。

 そういえば、敷原はなぜわざわざ携帯電話の番号で、俺に対して連絡したのだろう。

 今のご時世だ、そんなことをしなくても――

 瞬間、画面を弄る指に電流が走り、背中に冷や汗が伝った。


「なんだ、これ」

「ああ、桜庭、そうなんだ」


 俺は緊張した声しか出ていなかったと思う。

 しかし、敷原はどこか安堵したような声をしていた。


「三日前に、敷原からの着信履歴がある……!?」


 いや、そんなはずがない。

 電話がかかっていたなら気が付くはずだ。

 三日前、思い出しても忙しかった訳じゃない。

 それにこの時間、普段ならもう起床して仕事に向かっているはずの時間だ。

 では、これはたまたま見落としただけか?

 着信は一度だけ、その可能性はあるはずだ。


「やっぱりそうか……。実は俺もそうなんだ」

「えっ」


 敷原は震える唇を開いた。


「記憶がない。桜庭に連絡を取った記憶が」

「どういう、ことだよ敷原」

「……推論が一つあるが、まだ信用できない。また連絡する。休暇中に失礼した」

「あっ、おい! その推論って――」


電話は一方的に切られた。


「なんだよアイツ……」


 いや、敷原つむりとは確かにこんなヤツだったな……。 しばらく屋上で時間を潰していると、検査が終わった悠里から電話で呼び出された。

 戻ってみると、そこにはいつも通りの悠里の姿があった。


「結果は?」

「全然問題ないってさ。でも、もっと日を浴びなさいって言われちゃった」


 絡まったくせっ毛を指で解いて、悠里は言った。


「それはそうだ。でも、本当に大丈夫か? もうヘンな感じはしないか?」


 悠里の白とも金色とも言えない複雑な色をした頭が、胸の辺りに突っかかってくる。


「おいしいご飯がないと、もう動けません。全然元気じゃありません。悠里ちゃんはもうおしまいです」


 つんと済ました顔でそう宣った悠里は、三秒も耐えきれないで頬を緩ませた。


「なんてね、もう大丈夫。ありがと、しーちゃん」


 普段なら”いつも通りだろ”とでも言うものだが、こうも肝が冷えるような状況に短時間で二度も立ち会えば、大丈夫なんて言葉は、疑うに措く能わない。

 だと言っても。

 ここでそうでないと言ったって俺に何ができるだろうか。

 さっきだって、なんともできなかったじゃないか。

 心は、暗澹としている。

 ……ダメだな、疲れているのかも知れない。


「――しーちゃん、ごはん食べに行こうってば。しーちゃん?」


 ぼんやりとした視界に、悠里が飛び込んでくる。

 俺の袖を引っ張って、非難の目を向けている。


「――あ、ああ」


 つい、気をぼーっとしてしまっていた。

 ほとんど眠っていないからだろうか、それとも、敷原のあの言葉が気になるからだろうか。


「あたしのせいでそんな幽霊みたいな風になっちゃったんだし、奢るね。何が食べたい? ちなみにあたしはペスカトーレとラザニアとピザと天蕎麦が食べたい。とにかく濃いヤツ。後は北の湖のレストランも行ってみたいな」


 因むなら因める程度の情報量にしておけよと突っ込みたいところだが、そんなことをしたところでコイツの勢いはどうにもならない。

 本当にさっきまでぶっ倒れて運ばれていたのかと突っ込みたくなるものだが、逆にここまで食欲があるなら、むしろ良いというものなのだろうか。


「……。北の湖に行くのは遠いだろう。ここから一時間以上かかるから、俺もそれまでは待てない。それに、昼すぎにはおじさんのところに行くんだろ? じゃあ近場で済ました方が効率的だと思うよ」

「じゃあ駅前だね」

「どっちの?」

「新駅舎」

「わかった。じゃあ行こうか」


 くすんだ灰色の病院の壁。

 築何年になるのかわからない三咲病院のエントランスには、かなりの人混みの姿があった。

 年配から子供まで、みんな一様にどこか釈然としない顔が並んでいる。


「しーちゃん」

「なんだ悠里」

「さっきね、検査して貰ってた時に立ち聞きしてたんだけどさ。熱とかはないんだけど、なんだか体がだるくって病院に来た人が多いんだって」

「へえ」


 数時間前、車を取りに悠里の家に戻ったのだが、その時も確かに何件かの救急車の音を聞いた。

 ……妙に多いな。どうしてだろう、たまたまだろうか。


「どうしたの? 好みの女の子でもいた?」

「いや、ぜんぜん……」


 朝から降り止まない雨は、昼前になって勢いを増していた。

 矢継さんに連絡して持ってきてもらった車に乗り込んで、病院から出る。

 矢継さんはというと、よほど忙しかったのか、車を置くと早々にどこかへ帰ってしまった。

 ……悪いことをしたかな。

 音符のように滴っていたワイパーの水滴が、滝のようにフロントガラスを滴っていく。

 生ぬるい湿気は真綿のように、肺の中で綿飴みたいに絡まって気持ちが悪い。

 カーエアコンは車内の温度は変えられても、湿度は変わらない。

 息苦しい車内は出口のない水槽だ。長く居たら溺れてしまいそうになる。

 気が滅入る。これだから夏の雨は嫌いなのだ。

 特に、夕立でもないこんなずっと降り続きそうな雨は余計に。

 ぼんやりと車外を眺める悠里は、曇ったガラスに落書きをしては消していた。

 ワイパーの音だけが反響する中で、溺れそうな顔をした悠里は息継ぎのように口を開いた。


「雨……昨日の夕焼けはあんなにキラキラだったのにね。全然晴れじゃないよ」

「その話は迷信だそうだ、思い込みらしいよ」

「……う~ん。でもなんとなく明日の天気が分かったら、そっちの方が幸せじゃん。悠里ちゃんは真実にかけます」

「もうわかってるものに何をかけるんだよ。それに、そんなの天気予報を見たら分かる話じゃないか?」


 悠里は水滴の付いた指先を口元に当てて、じっと見つめて首を傾げた。


「う~ん。でもなんか違うんだよね。何かに頼って分かるのと、勝手にわかっちゃうのって。なんとなく分かるのってさ、なんか嬉しいんだよね。特別感?」

「失敗したら?」

「そんなの考えないよ。『あ~、今回はダメだったかあ』って思うだけ。それか忘れちゃう」


 それは、俺にはわからない気持ちだった。

 なんとなくで調べれば分かることを知った気になっている、というのはどうも納得ができないのだ。だって、予測が失敗すれば何か寒々しい気持ちになってしまうのは目に見えている。回避できるリスクを取る、それが嬉しいという感情。目的とそのための行動があべこべになっている、まるでボタンを掛け違えたようなそんなことを。

 ……真面目すぎるのだろうか。いや、違う。もっと違う、もっと怠惰な何かだ。


「忘れちゃって、また同じことを?」

「何言ってるのしーちゃん。おんなじ日なんて一回もないよ。同じような日はいっぱいあるけどさ」

「でも少ししか違わないなら、大体は同じじゃないか」

「星空と一緒だよ。毎日、ちょっとずつ変わっていくの。それをしっかりと見ているか見ていないかだよ。しーちゃんは、気が付いてないだけ。鈍いんだから」


 ……とんだスケールの話だ。コイツはいつもどの立場から世界を見ているのか分からない。こいつは、本当に謎だ。どんな精神世界観を形成しているのか、幼なじみの俺すらも分からない。目の前の小さなことに子供みたいにはしゃいだり、そうかと思ったらこんな大きな世界のことを話してみたり。地に足が付いていないのか、それとも羽根でも付いているのか。全く、何十年一緒に居ても読めないヤツだ。


「生来鈍くってな。お陰で人のどんな壮絶な人生を聞いても何も感じない程度には厚顔無恥な鉄面皮だよ」


 その作用で、精神科医なんてものが務まっているのかも知れないが。


「そうかな? しーちゃんは全然冷たくないと思うよ。だって混雑してる駅のホームであたしみたいなか弱そうなの狙って体当たりカマしてこないしさ」

「それは冷たい温かい以前に人間として問題があるだろ……」

「大事なとこだよ~。人間として問題がないってのが大事なとこでしょ? それ以外なんて実は割とどうでもよかったり……」


 わざとらしく声を窄めて、意味深な顔をする悠里は無駄に迫真だった。そういう事例で鬱憤が溜まっているのだろうか。


「んなこたないだろ……」


 さっきまでの壮大な話から、今度はどうでもいい無作法者の話に右往左往。

 まあ、こんなものなのだ、いつも通り、俺たちは。

 車は、三咲駅前の踏切にさしかかっていた。

 盆地になっている三咲町の中で、この踏切はもっとも標高が低い。

 自然、踏切はV字に傾斜しており、ブレーキランプが並ぶ。

 西三咲から東三咲へと二分する踏切は、カンカンと音を鳴らして遮断機がおり始めた。

 ブレーキを踏んで、停車する。


「っ!?」


 隣で悠里が飛び起きた。

 窓を弄んでいた悠里は、手のひらで一気にフロントガラスを拭いた。


「どうした? 悠里」

「しーちゃん、アレ見てアレ!!!」


 悠里は対岸の登り坂の上を指さす。

 そこには、雨の中を猛スピードで自転車に乗って駆け下りる少女の姿があった。

 この雨の中で傘も差さず、下り坂でも必死に速度を稼ごうとペダルを漕いでいる。

 しかし目の前の遮断機はもう降りかけており、とても間に合いそうにない。


「おい……! あんなのは無茶だ、轢かれに行ってるようなもんだ」

「ひっ」


 隣の悠里が息を呑む。

 ――降りきった遮断機、それにぶつかる少女。

 淡い銀色をした髪が線路を走る鉄塊に弾き飛ばされる。

 直撃した左肩が弾け、赤いしぶきがまき散らされる。

 巻き込まれた細い脚は、まるで絞ったボロ雑巾のように挽き潰されて、その中身の鮮やかな紅を咲かせる――

 妙に、リアルだ。

 少女の飛び散った血の斑点とか、散った髪の房が焦げるような匂いとか、悲鳴の代わりの急ブレーキの金属音とか。


「は」


 体が、勝手にサイドブレーキを引いた。

 ドアをこじ開けて、足が駆けた。

 大きく鳴り響く鉄の鳴き声。

 規則正しくカウントする遮断機の音。

 すり抜けて、走る。


「バカ!!! なにしてるのっしーちゃん!!! ダメ!!! やめ――」


 悠里の叫び声を背中に聞きながら、俺は閉まった踏切に、

 突っ込んだ。

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