もうコーヒーは苦くない

 どうしてあの時、檀さんを引き留めなかったのか、ずっと後悔している。


 未開封のコーヒー豆なら持ちきれないほど大量に手に入れたじゃないか。


 僕が生花店なんて見つけなければ。


 店の中に、コーヒーの木なんて見つけなければ。


 がんがんと扉を叩く音が耳にうるさい。


「啓介君。これが、本物のコーヒーだよ」


 部屋の奥から檀さんがふらふらと現れる。


「今はどう考えてもそんなことを言っている場合じゃないでしょ」


 血塗れになって震える手には二つのマグカップを持っており、その片方を僕に寄越した。


 僕は仕方なくコーヒーを啜る。


 知らない誰かのアパートで飲んだインスタントコーヒーとは違って、匂いがした。


 あれほど激しく走り回ったにも関わらず冷え切っている体に、この湯気を立てるカップ一杯のコーヒーが染み渡るのが分かる。


「美味しいかい」


「…。いえ、特に」


 普段、コーヒーを飲まない僕がここまでこのコーヒーに心動かされているのは、たった今、コーヒーよりずっと苦い経験をしているからだろうか。


 涙のせいか、目が霞む。


「檀さん。もう、いいんです」


「ああ。分かってるよ」


「早く、行ってください。僕はもう」


「…最後に、本物のコーヒーを味わってくれてよかったよ。それじゃあ」


「檀さん」


 換気口から出ていこうとする檀さんに最後の言葉をかけようと呼び止める。


「ちゃんと、生き延びてくださいよ」


「任せてくれ。絶対に、コーヒー農園を作って見せる」


 僕はつい、ふっ、と笑ってしまった。


 彼なら、きっと。

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コーヒーの味が分かる時 水谷威矢 @iwontwater3251

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