コーヒーの味が分かる時
水谷威矢
まだコーヒーが苦い
「啓介君、コーヒー豆が切れた」
檀さんはこんな状況だというのにコーヒー豆のことを気にかけているなど、呑気なものだ。
「今はどう考えてもそんなことを言っている場合じゃないでしょ」
僕がそう言うと檀さんは「はあ」とため息か、それとも生返事かをして引っ込んでいった。
窓の外では、もう深夜だというのにそこら中にうろうろと大小の人だかりができている。
何かお祭りやフェスだとかの催し物をやっているわけではない。
彼らは生きていない。
奥の部屋で檀さんががたごとと何やら音を立てている。
「檀さん、ちょっと静かにしてください」
寄ってきますよ、と僕が言い終わらないうちに檀さんはマグカップを二つ持って出てきて、その片方を僕に寄越した。
「豆、なかったんじゃないんですか」
「これ、インスタントね。まずいんだよね。私、これ嫌いだなー」
檀さんは不味いと言ったコーヒーを特に顔色を変えることもなく啜っている。
僕は普段、コーヒーを飲む方ではないので特にこだわりもないし、味の違いも分からない。
ただ、数か月ぶりにコーヒーを飲んで思ったのは、やはり僕にコーヒーは必要ではないということだった。
「美味しいかい」
「いえ、特に」
檀さんと出会ってから3ヵ月くらいしか経っていないが、僕が干支一回りも上の檀さんに対してこんな味気ない返事ができるのも、コーヒーよりも苦い経験を共にしてきたからかもしれない。
「コーヒーを飲んだらもう寝なよ。どうせここまでは入ってこないさ」
「僕は檀さんと違ってあいつらが怖いんです。こんなガラス一枚で区切られたところで安心して眠れなんかしませんよ」
檀さんは残された数少ない人類にとっての希望だ。
彼らに嚙まれても彼らと同じにはならない。
彼らと同じになる心配がないからか、檀さんは恐ろしく強い。
素手で彼らに殴りかかっていく姿は常軌を逸しているが、頼もしい。
しかし、残念なことに檀さんにはそれほど生存願望がない。
檀さんはコーヒーが飲めればそれでいいのだ。
檀さんが僕と行動を共にしてくれているのは、僕がコーヒー豆を探すのを手伝うと言ったから。
だが、この地域の部隊で生き残ったただ一人の自衛官として、僕は檀さんをどうにかして本部に連れ帰らなければならない。
「まあ、あいつらが寄ってくるようだったら私がどうにかするからさ」
「…、そこまで言うなら。でも、何かあったらすぐ起こしてくださいよ」
カフェインなど意味がないのか、大して時間も経たぬうちに僕は眠ってしまっていた。
生きて目が覚めたということは僕が眠っているうちには特に何も起きなかったということだろう。
「ずっと起きてたんですか」
「ああ。この不味いコーヒーのおかげでね」
そういう檀さんの目元には隈ができていた。
知らない誰かのアパートを出発してからしばらく歩くと、大型のショッピングモールがあった。
僕は反対したが、檀さんはコーヒー豆を探しに行くと言って聞かなかった。
「啓介君、いつになったら分かるんだい。あんなインスタントコーヒーを飲んだくらいでコーヒーを分かった気にならないで欲しいんだが」
「…。コーヒー豆だけですよ。豆を見つけたらすぐに出ましょう。約束してくれますか」
「ああ、分かったよ。私に任せてくれ」
何を任せてほしいのか一向に分からないまま檀さんはずんずんと暗いショッピングモールの中へ入っていった。
僕も遅れないようにその後ろをついていった。
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