第22話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-8-

世凰シーファンを送り出してから、六日後の夕刻。

 メイミンは自分の居間で、一心にい物をしていた。

 彼女は、世凰シーファンのために、チュンサンの上下をっているのだった。純白の絹地に鳳凰ほうおうかし模様もようの入った、それは見事なものだ。

 華の国にあっては、白は本来「」の色である。

 けれどもその一方で、生死を超越した『気高けだかさ』の象徴でもあった。

 まさしく世凰シーファンにふさわしい、とメイミンは思う。

 そしてまた、当然のように、彼には白が一番よく似合った。

 一針ひとはり一針ひとはりに心をめて、尽きせぬ思慕の情をめて、丁寧ていねい丁寧ていねいに・・・。

 華の情は、一日のほとんどすべての時間をついやして、それに打ち込んだ。

 彼女の黒髪には、あの日以来、世凰シーファンの愛のあかしでもある翡翠ひすいかんざしが、片時もはずされることなく飾られている。

 六日前の夜半やはんの闇にまぎれ、くすんだ藍地あいじ木綿もめんの上下に細身を包んで、彼は旅立って行った。

 その間際まぎわまで、絹物や白衣以外はおよそ着たことのない彼は妙にはしゃいでいて、衣装に手を通すなり声をはずませた。

「へーえ、結構、肌ざわりがいいんだなあ・・ねえ。この格好、きょに落ちてスゴスゴと故郷へ帰ってゆく苦学生に見えませんか?」

 などと世凰シーファンは冗談を飛ばしていたが、いざ別れる段になると打って変わって、至極しごく真面目まじめな顔つきになった。

「では、どうか息災そくさいで、メイミン殿」

 そう言って、彼女の手を握りしめた。

「いつかきっと、あなたを迎えに戻って来ます。待っていて下さい。けれど万一、世凰シーファンが死んだという知らせをお聞きになった時は、そのかんざしは河にでも流し、私のことは忘れて、別の幸せを探して下さいね」

 そう言ったあとで、そく、間髪入れずに思い直し、いたずらっぽく言った。

「でも、私は必ず生きて帰る積もりでいるんです、本当はね。だってあなたを、他の誰にも取られたくはないもの!」

 チロっと可愛い舌を出し、溜息ためいきが出るくらいに愛くるしく、笑って見せたものだ。

「それから」

 世凰シーファンは、帯の背に白扇と共に手挟たばさんでいた一振ひとふりの短剣を、さやごと抜き取ってメイミンに手渡した。

かんざしと同じく、姉が残してくれたものです。これも、あなたにお預けして参りましょう」

「これはもしや、お姉さまが御自害遊ばした時の!?」

「その通りです」

 世凰シーファンは静かにうなずいた。

「この剣には、姉のたましいが宿っております。私が戻って来るまで、きっとあなたを守ってくれるでしょう。けれど願わくば、あなたがこれをお使いになることのありませんように!」

 彼らはひっそりと抱き合ったのち、別れを告げた。

えて、とは申しません。行ってまいります!」

「どうか、御無事で!!・・・」

 その一言ひとことしか、彼女は言うことが出来なかった。

 それ以上何か言えば、たちまち激情が押し寄せて来て彼にすがりつかせ、行かないでくれ、と泣き叫ばせたに違いない。

〈あの方は必ず、生きて私の許へ戻って来て下さる。そして、このチュンサンを着て下さるわ!〉

 祈りか願望か、あるいは確信か・・・そのすべてが、恐らくないぜになっているのであろうつぶやきを、何度も何度も、呪文じゅもんのように胸の中で繰り返すメイミンであった。

 いつしか彼女は、空想にひたっている。

 彼女のかたわらには世凰シーファンがいて、にこにこしながら、彼女の手許てもとを見詰めているのだ。

「いつ頃、出来できがるのかな?」

 彼は、小首をかしげて問いかける。

「もうすぐですわ、

 本当に声に出してそう言ってしまい、メイミンは一人で赤面した。実に他愛もなくもほほえましい、恋する女にはありがちな、つかの夢の時間である。

 その夢を突然、瑞娘ルイニャンのけたたましい叫び声が破った。

「お嬢様っ!!お嬢様っ!!大変でございます。お嬢様っ!!」

〈!?〉

 とても唯事ただごととは思えぬ彼女の叫びに、メイミンはドキリとして手を止め、体中の神経を張りつめた。

 実のところ、それまでも相当表の方は騒がしかったのだが、外界がいかいの出来事を一切遮断しゃだんして自分だけの世界に没入していた彼女は、全く気づかなかったのである。

 バタバタと廊下を走る足音が今の前までやって来たかと思うと、ドン!!と扉が乱暴に開かれて、髪を乱し、ほおを紅潮させ、さらに呼吸をはずませた瑞娘ルイニャンが飛び込んで来た。

「何があったの、瑞娘ルイニャン!?」 

 メイミンは針を持ったまま、凝然ぎょうぜんと凍りついて彼女を見つめた。

 その彼女の側に物も言わずに駆け寄った瑞娘ルイニャンは、いきなり彼女の手を引っ張って、強引に椅子から立ち上がらせようとした。

「あ、あぶない瑞娘ルイニャン、針があるのよ!一体何があったのか、お言いったら!」

「何を呑気のんきなこと、言ってらっしゃいますの!?早く、早くお逃げにならなくっちゃ!」

 そう言いながら、彼女はなおもぐいぐいとメイミンの手を引っ張り続けて、とうとう彼女を立ち上がらせてしまい、そうしておいて、今度はメイミン箪笥たんすを引きけ、衣装や装飾品などを手当たり次第に引っ張り出し始めた。

瑞娘ルイニャン!?」

 メイミンは何が何だか解らず、いかけのチュンサンを両手で抱きしめた姿勢で呆気あっけにとられた。

シュエンの奴らが、踏み込んで来ましたの。早く仕度したくをなさって!まあ、まだそんなところに突っ立ってらっしゃって!!さ、これを包みにして下さいましな!」

 まくし立てつつ、引っ張り出した品々を、手早く幾つもの包みにこしらえてしまっている瑞娘ルイニャンは、まさに手八丁口八丁の娘であった。

「そんなこと、おやめ!」

 メイミンはだんだん腹が立って来た。

「私たちは、何もやましい事などしていないわ。そうでしょう!?なぜ、シュエン軍なんかに踏み込まれなくてはならないのかしらね!?それに、幸い世凰シーファンさまも、もうここにはいらっしゃらないし・・・」

「何言ってらっしゃるんです、お嬢様!!」

 能天気なことを言うなとばかりに瑞娘ルイニャンメイミンに喰ってかかった。

シュエンの連中が!あのシュエンの連中が、そんなことぐらいで大人しく引き下がるとでも思ってらっしゃいますの?奴らは、はなからこの山荘をつぶすつもりでめに来たに違いありませんわ!もう、お屋敷の人たち、何人も殺されてしまいました。現に、今だって!!・・・

 瑞娘ルイニャンのいきり立った口調くちょうの最後の方は、涙声になっていた。

わかったわ、瑞娘ルイニャン!」

 言うなりメイミンは、今度は逆に、自分が彼女の手を引っ張った。

「そんなこと、もういいから、お前はすぐにここからお逃げ!!お前には、何のかかわりも無いのだから」

「お嬢様!?」

 瑞娘ルイニャンは、目を丸くしてメイミンを見詰めている。

「逃げて、故郷くにへお帰り。お前までが巻きえになることはないわ!今日きょうまで本当によく尽くしてくれたお前に、今となっては、もう何もしてはあげられないけれど、せめてその包みの中から、目ぼしいものを好きなだけ持っておゆき。なんとか無事に生家さとへ戻って、安穏おだやかに暮らして頂戴ちょうだい。ね、瑞娘ルイニャン!」

 だが、瑞娘ルイニャン一言ひとことも返事をせずに、なおもメイミンを見詰めているだけであった。

 そんな彼女を、メイミンき立てた。

「さ、早くおゆき、瑞娘ルイニャン!一刻も早く!!」

 そのかんにも、阿鼻叫喚あびきょうかん喧騒けんそうは、次第にこの部屋へと近づいて来た。

「お嬢様」

 瑞娘ルイニャンはすっと立ち上がり、明らかに何かを決心したらしい。

 きっぱりとした声音こわねで言った。

「あたし、お言葉に甘えてそうさせて頂きますわ。でも、たった一つだけ、お願いがございますの。お嬢様にお仕えした思い出に、今お召しになっているその上衣を、どうぞ瑞娘ルイニャンいただかせてくださいまし!」

瑞娘ルイニャン!?お前、何をしようとしているの!?」

 彼女の様子に何か不吉なものを感じて、メイミンは問い返した。

 すると瑞娘ルイニャンは、キラキラと輝く栗鼠りすのような瞳で、にっこり笑いながらこう言った。

「何もしやしませんわ、お嬢様。あたし、あなたのおっしゃる通りにするだけです」

 ドタドタとひびく土足の音、剣や槍のれ合う金属音、そして魂消たまげる悲鳴―それらが、一段と近づいた。

「御免なさいまし、お嬢様!」

 言うが早いか、瑞娘ルイニャンはパッとメイミンに飛びかかり、あっという間に、彼女の羽織っていた柔らかい絹の上衣うわぎをひったくった。

 その拍子に、袖の一部がけて悲しい音を立て、抱いていた世凰シーファンチュンサンも、メイミンの手を離れてゆかの上にすべり落ちた。

「抜け穴を通ってお行きなさいまし。一刻も早く!いいですわね!?」

 凝然ぎょうぜんと立ち尽くす女主人に向かって早口に念を押すと、瑞娘ルイニャンはその上衣を、ふわりと頭からかぶった。

「さようなら、素敵すてきメイミンさま!!きっと、世凰シーファンさまとお幸せになってくださいましね!きっとですよ!!」

 言い残すや彼女は、勢いよく廊下へ飛び出した。

瑞娘ルイニャン、待って!待って頂戴ちょうだい!!」

 必死に追いすがメイミンの声にも振り返ろうとはせず、瑞娘ルイニャンは、阿鼻叫喚あびきょうかんまっ只中ただなかへ目ざして駆け去って行った。

「おっ!パイメイミンが逃げるぞ!追え、追え、引っ捕らえろっ!!」

 たちまちその方角で、野太のぶとい男たちの声が荒々しく交錯こうさくし、入り乱れる土足の音が、方向を転じて、あわただしく遠ざかってゆく。

瑞娘ルイニャン~っ!!」

 メイミンは、今にもくずおれそうな体を壁にすがってやっと支えつつ、健気けなげな侍女の名を絶叫したが、その声は騒乱の中にむなしくき消され、誰一人として聞きとがめる者もいなかった―。

 パイ家の山荘は、やがて見る影もなく踏み荒らされ、放たれた火が、おりからの強風にあおられて周辺の木立こだちに燃え移り、山火事となって、ハイフォン山はその後、丸三日三晩にわたって燃え続けた。

 四日目の朝になって、火はようやく治まったが、瀟洒しょうしゃたたずまいを誇った山荘は、無残に焼けただれたただの廃墟はいきょし、美しく緑豊かであった山の大部分も、焼けげた木々の残骸の集積しゅうせきとなって、みにくいその姿を朝日の中にさらしている。

 のみならず、山荘の女主人・パイメイミンが、シュエンの手勢に追い詰められ、山荘の裏手に大きくあぎとを開く断崖だんがいから身をおどらせて自らの命を絶った、という事実を、人々はその朝、初めて知ったのであった。

 パイ家は即日『領地財産共に没収の上、当主・民雄ミンシオンは遠い辺境へんきょうの地・ユンナン流罪るざい』と、決まった。

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