第21話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-7-

このところずっとヤンティエユイは、不本意な、あわただしい毎日を送ることを余儀よぎなくされていた。

 一時期は小康状態を保っていた北方のフェイツェイによる不穏ふおんな動きが、再び、活発になって来たからである。

 彼らの存在は、シュエン朝にとって、言わずもがなの頭痛の種だった。

 フェイはもともと『ツェイ』などとの蔑称べっしょうで呼ばれるべき野蛮民族のたぐいにはあらず、北方に土着どちゃくした、かつての中央貴族の末裔まつえいたちである。

 その頭領に、由緒ゆいしょ正しきめいめいぞくウー一族をいただき、固い団結のもとにつどう彼らは、男女共に武芸にひいで、義に厚く、粗野そやながらも人間味あふれる性情せいじょう勇猛ゆうもう果敢かかんな戦闘能力とを兼ね備えた、野生の貴人集団であった。

 彼らはいつの頃からか、歴代王朝の圧政極まるたび敢然かんぜんと立ちあがるようになり、義侠の血たぎらせ、その名の示す通り、それぞれの家名を染め抜いた目の覚めるような色の戦旗をひるがえし、今日に至るまで、連綿れんめんたる武力闘争を繰り返して来た。

 そして、彼らの標的は『シュエン』―。

 フェイは、決して一時いちどきに押し寄せて来ることはしない。

 ちくりちくりと、針を刺すように執拗しつような攻撃を繰り返し、確実にシュエンの背後をおびやかすのだ。

 しかも、大した被害が無いからと油断でもしようものなら『針』はいつの間にか『剣』に変わり、思いもよらぬほどの打撃をこうむる破目になってしまう。

 その為、一挙に押し寄せては来ない解っているにもかかわらず、ひょっとしたらだい攻勢こうせいをかけてくるのではないか!?という不安を、常にかかえていなければならない。

 そういう変幻自在、きわめて厄介やっかい代物しろものではあった。

 おまけに、中央権力の遠く及ばぬ最果ての地に根拠を置く彼らの、正確な数をも把握するのは困難、と来た日にはまったってのお手上げ状態と言わざるを得ない。

かる面倒な敵にてて加えて、シュエン足許あしもとには体制への不満分子が充満し、折あらば反シュエンの兵をげるべく、虎視こし耽々たんたん機会チャンスうかがっているのである。

 無論、そちらの方も決して手をこまねいている訳ではなく、厳重に取り締まって入るのだが、民衆の口たるや意外に堅く、主謀者の消息、及び組織の実体など、詳細をつかみ切るには程遠い現状だった。

 それやこれやで、やたらひっきりなしに重臣たちが招集され、宮廷内外は、騒然とした雰囲気をていしている。

 重臣としての立場に加え、軍人としても要職にあるイェン将軍は多忙をきわめ、ほとん公邸やしきにも戻れぬ日々を送っていた。

 そんな事情で、イェン将軍直属の部下であるヤンティエユイも当然、のんびりと世凰シーファン探しなどはしていられないであったが、見かけによらず小心しょうしんな上に、異常なくらいに執念深いこの男は、かかる事態にあってさえ、絶えず数名の手先を使い、ねちねちとしつこく、彼に関する情報集めを続けていたのだった。

 もっとヤンの場合、同じ粘着質であっても、イェン将軍のそれと違って至極しごく単純な憎しみから発した、至ってなものではあるのだが・・・。

 ともかく、その甲斐かいあってか、ついに彼はその手先の一人から『ツァンリン郡に隠然いんぜんたる勢力を誇る豪族・パイミンシオンハイフォン山にある山荘に、数か月前から、貴公子然とした美貌の若者がひそかに逗留とうりゅうしている』という、飛び立つような、確固たる情報を入手したのだった。

〈奴だ!奴に違いない!!〉

 世凰シーファンへの憎悪にり固まり、極度に鋭敏になった彼の勘が、その情報の確実さを自身に告げていた。

 これまでのように曖昧あいまい模糊もことした、雲かかすみでもつかむに似た噂話とは違い、今回は、明らかな裏打ちまでがある。

 以前、彼らが散々にいたぶった娘が、実はパイ家の娘だったということが、あとになって解った。

 そしては、なま意気いきにも、颯爽さっそうと彼女を救ったのである。

 聞けば、パイミンシオンという男は非常に義に厚いとの評判、娘の恩人であるせがれが頼って来れば、必ずこれを助け、庇護ひごするに違いない。

〈これで決まりじゃ!今度こそは、あの憎たらしい小僧めを、さんざっぱら命いさせた上でこの世から葬ってくれるわ!!〉

 大いに息巻いきまいていさみ立ったヤンティエユイではあったが、煮え湯を飲まされ、大恥を掻かされたあの時の出来事を急に思い出し、途端に腸が煮えくり返ったのだった。

 とにもかくにもヤンは、さっそく事の仔細しさいイェン将軍に報告するため、使いの者を彼の公邸やしきへと走らせた。

 その時、丁度折り良く、イェンは久しぶりに公邸やしきへ戻って来ていたが、ヤンからつかわされた使者の口上を聞くなり、少々うんざりした。

〈またまた性懲しょうこりのない!蜥蜴とかげ尻尾しっぽを拾っては、鬼の首でも取った気で有頂天になりおって。うぬなどが、羽虫はむしの如くぶんぶんとうるさく騒ぎ立てずとも、奴は時期じきが来れば必ず、自分の方から、このイェンもとへ舞い戻って来るわ!それが、奴の宿命じゃによってな。奴がうぬの到着を、じっと待っているとでも思うのか?身の程知らずめ。とんだ見当違いも良いところ!!〉

 だがしかし、とイェンはまたしても一方で考えた。

〈この際、義侠気取りのパイの老いぼれを叩いておくのも、まんざら無駄なことではあるまい〉

 腹の中に、いつもながらの黒い思惑おもわくを充満させ、イェンは、ヤンの望み通りハイフォン山襲撃を許可してやった上、激励げきれいまでして送り出してやったのである。


あさもやの流れる木立こだちの中に、彼らはいた。

 まだ、昇り切らぬ太陽の光を受けてキラキラと輝き、ゆっくりと揺蕩たゆたう白い静寂しじまを時折破って、小鳥たちのさざめきが聞こえて来る。

 二人はずっと、無言だった。

 無言のまま、歩き続けていた。

 真綿まわたで胸をめ付けるような息苦しい不安が、メイミンまとい付いて離れない。

メイミン殿」

 先に沈黙を破ったのは、世凰シーファンの方だった。

「・・・」

 メイミンは、黙って彼を見つめる。

 不安が、さらに自分をめ付けて来るのを、彼女は感じていた。

「今夜遅くに、私はここを発って、フーペイ郡へ行こうと思います。あなたにはさんざんお世話になっておきながら、突然このようなことを申し上げねばならず、とても心苦しく思っているのですが・・・」

〈ああ、やはり、そう・・・〉

 メイミンの不安は、まさに的中した。

 こうなることは、はじめから覚悟していた筈である。

―この方は、いつかは私の側から離れて行ってしまうのだ。本来が、私などのもととどまってくれるようなお方ではないのだ、と―。

ここ数日来の彼の様子から、何となく、別離わかれの日が近いことを女の勘とでも言うべきもので感じ取っていたメイミンではあった。

 だが、こんなにも早く、こんなにもあわただしく、このひとは私から去って行ってしまうのだろうか!?

〈今夜だなんて・・・ひどい!〉

 彼女は胸が一杯になり、思わず知らずのうらごとを、心の中で彼にぶつけてしまったし、また、泣き出しそうにもなってしまう。

 泣いてはいけない!

でも、でも駄目だめ!!・・・泣くまいとすればするほど涙は意地悪くき上がり、ほおを伝っては流れ落ちてゆく。

 その様子を、何とも言えぬやさしい眼差まなざしで見守っていた世凰シーファンが再び彼女に呼びかけた。

メイミン殿・・私はもうじき二十二になりますが、実はこの年になるまで、一人も女の方を知らないのです」

「・・・」

 メイミンは、返事に窮した。

 答えられる訳がない。

 つい今しがた別離わかれの告知をしたかと思えば、その直後に、今度はいきなり『』したりなどする世凰シーファン短絡たんらくぶりにすっかり当惑し、メイミンは涙に濡れたほおのままで、いそがしく赤面せきめんしなければならなかった。

〈どういう積りなのかしら、このひとは!?〉

 彼女の戸惑とまどいも知らぬに、彼は続ける。

「私にとっては、ただ姉こそが、理想の女性でした。ですから、他の女性に目を

向けたこともなく、ましてや妻をめとる積りなど、毛頭ありはしませんでした。こんな私を、姉はとても心配してくれて―ことあるごとに、こう言ってくれたのです『いつかきっと、あなたが好きになれる女性ひとが現われるから、大丈夫だ』と。

その時はまるで信じられませんでしたが・・・やはり、姉の言ったことは正しか

ったようです」

 彼は思い出したように照れた微笑を見せたが、それはほんの一瞬で、たちどころに真顔まがおに戻った。

「あなたに是非ぜひ、受け取って頂きたいものがあるのです」

 そう言ってふところから、白絹の小さな包みを取り出した。

彼のてのひらの上で開かれた包みの中からは信じられない品物が現われ、メイミンは思わず、息をんでどうもくしたのである。

 翡翠ひすいかんざし―であった。

 世凰シーファンの最愛の姉・香蘭シャンランの形見たる、あの見事な翡翠ひすいぎょくの・・・。

「これを?私に!?・・」

 しばらくは声も出せずにいたメイミンは、蚊の鳴くような声で、やっとそれだけつぶやくのが精一杯だった。

 世凰シーファンは、にっこり笑ってうなづいた。

「いつか、お話し致しましたね。亡き姉が、私の妻となる女性ひとにこれを差し上げてほしい、といつも言っていた事を。だから私は、今こそ姉の遺志に従おうと思います。現在の私の身の上を考え、却ってあなたを不幸にするのではないかとずいぶん迷いました。もとより、決して無理いなどは致しません。ただいたずらにあなたのお心を乱してしまっただけなら、幾重いくえにもおび申し上げますし、勿論もちろん、お断り下さって結構です。でも、もしも・・・もしもあなたが、何もかも御承知の上でこれを受け取って下さるならば、私はどんなに・・・」

「嬉しゅうございます、世凰シーファンさま!!」

 彼の言葉も終わり切らぬうちに、思わずそう叫んでしまったメイミンではあったが、思いもけぬその喜びへの不安がすかさず頭をもたげて、彼女を逡巡しゅんじゅんさせるのだった。

「でもわたくしに―わたくしなどに、そのような御品を頂く資格があるのでしょうか?わたくしは決して美しい女ではないし、気ばかり強くてどうしようもないし、それに、あなたより二つも年上だし・・・それに・・それに・・・」

「もうおよしなさい、メイミン殿」

 世凰シーファンはやさしい声音こわねで彼女のごとを中断させた。

「およしなさい、御自分をそんな風におっしゃるのは!・・私が本当のことを言

ってあげましょうか。いいですか、メイミン殿!?あなたは私にとって誰よりも美しい女性かただし、勝気な女性が、私は好きです。それに、あなたはやたら年齢のことを気になさっているようだけれど、あなたさえ年下の男がおいやでなければ、私としては、一向に気にはなりません。こういうのって、変かな!?」

「うれしい!!」

心にみ通るような笑顔を見せる世凰シーファンの胸にメイミンは叫ぶなり、身を投げた。

「歩いて下さいますか?私と。たとえ、道無き道であっても・・・」

 彼女を抱きしめ、世凰シーファンはその背中に問いかける。

「はい、・・喜んで!」

 嗚咽おえつふるえる黒髪が、しかしきっぱりと上下にれ、世凰シーファンは、綺麗にい上げられた彼女のまげに、そっとかんざししてやった。

〈よく似合う!〉

彼女を見下ろす世凰シーファンの瞳と、彼を見上げるメイミンのそれが、尽きせぬ思慕をたたえてじっと見詰め合い、どちらからともなく近づいた彼女のほおを、世凰シーファンのしなやかな長い指が大事そうに包み込んで、ごく自然に唇が重なり合った。

お互いが、生まれて初めて体験する、異性への愛の確認である―このままずっと、こうしていられたらいいのに!!―二人は、同時にそう感じていた。

やがて唇は離れ、再び彼らは見詰め合う。

すでにこの時、メイミンの心には、女としての重大な決心があったのだった。

そして、彼女は恥じらいながらも、それを口にするのをはばからなかった。

世凰シーファンさま、どうかお願いでございます!おちになるその前に、せめてひとときなりともわたくしを・・このメイミンを、あなたさまのお胸に抱いてやって下さいませ!!」

 切ない想いは炎となって、その双眸そうぼうに宿り、ひたむきに彼の愛を求めて燃えさかっている。

〈抱きたい!あなたの何もかもを、奪ってしまいたい!!〉

 だが、世凰シーファンは懸命に、突き上げて来る衝動しょうどうに耐えた。

「ありがとう、メイミン殿」

 彼は静かに、自分自身に言い聞かせるように答えた。

「私も、できることなら今すぐにでもそうしたい。しかし、今はこのままお別れしましょう。真心まごころだけ、あなたのもとへ置いてゆきます。いつかまた、再び、めぐり会えたなら、その時こそ、あなたのすべてを私のものに。そしてこの世凰シーファンのすべても、メイミン殿、あなたに!」

「ああ、世凰シーファンさま、世凰シーファンさまっ!」

 二人はまたもやと抱き合い、万感の思いほとばしるまま、より激しく狂おしく、唇を重ね合うのだった。

 いつしか太陽は昇り切り、あさもやは消え去っていた。

 別離わかれの日の空はあくまでも青く澄み渡り、おりしも、どこからともなく飛来した一番ひとつがいの名も知らぬ鳥が、互いへの想い確かめ合うかの如くに高く、そして低くき合いながら木々のこずえかすめて上昇し、見る見るうちに天の高みへと、吸い込まれるように消えて行った。


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