第20話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-6-

五日間をかけて領地の見回りに出ていた民雄ミンシオンが帰館するのを待ち兼ねたように、パイ家に古くから仕える老召し使いのホーが、来客を告げにやって来た。

「どなたかね?」

 五日の日程を丸々一杯に使って、広大な領地の実態をつぶさに検分し、監督官かんとくかんたちにあれこれと細かい指図を与えたりなどして精力的に動き回って来た民雄ミンシオンは、少なからぬ疲労感を覚えていたのだ。

 六十三才という年令のせいも、あるのかも知れない。

 今日きょうは一日、ゆっくりと休養しようと思っていた矢先だったので、彼はいささか、うんざりしてしまった。

 また、近所に住むおしゃべり男のクォカンウェンでもやって来たのだろう。クォは、悪気は無いのだが、はなはだオッチョコチョイで軽薄な男だった。

 その上、男のくせに無類むるいのおしゃべりと来ているので、民雄ミンシオンにとっては、彼の相手をするくらいわずらわしいものは無かったのだが、その彼の気持ちも知らぬげに、クォの方は妙に民雄ミンシオンいて、しげしげとパイ家にかよって来ては、まさに口角こうかくあわを飛ばしてしゃべりまくり、大いに民雄ミンシオンを悩ませるのであった。

 今日のように疲れている日に、よりによってクォなどに取りつかれては、たまったものではない。

 だから、もしも来客がクォならば、即座に面会を断る積りだった。

クォ氏なら、丁重ていちょうにお断り申し上げてくれないか。『今日は気分がすぐれませんから』と言って」

「いえいえ、旦那様」

 民雄ミンシオンの言葉を聞くとホーかなつぼまなこを精一杯丸くして、とんでもない、とばかりに手を横に振った。

クォではございませぬ。お若い女の方でございます。それはそれはもう、お美しい方ではございますが、ただしむらくは・・・」

 ホーは、いかにも残念そうに一旦いったん言葉を切って、切なそうに声をひそめた。

「実にしいことに、ではございますが、どうやらお風邪でもしておいでのようで、お声が今一つ、低うございますです、はい」

「はて?」

 若くて美しくて、おまけに風邪を引いて声の低い女、と言われても、民雄ミンシオンには何一つとして、心当たりは無い。

「その方の名は、何とおっしゃるのだね?」

「はい、旦那様。その方が申されますのには『フェンチー』とお伝え下さればお解りになるだろうと・・・」

 「フェンチー!?」

 声に出してその名をつぶやいた途端とたん〈あっ!!〉民雄ミンシオンは、のどまで出かかった叫びをようやこらえ、首を伸ばして飲みくだした。

世凰シーファン殿!何という大胆な真似まねをなさるのだ!?〉

フェンチー』というのは、世凰シーファンの亡き母・秀麗シウリーの呼姓である。チー家からとついで来た彼女は、フェンツェンテーの妻となってからの姓を『フェンチー』と名乗った。

 妻が、その旧姓を夫の姓の下に重ねて自らの呼称こしょうとするのが華の国に古くから伝わる習慣だったのだ。

 以前、母のことについても世凰シーファンから聞かされていた民雄ミンシオンは、心臓がでんぐり返るほどに驚いてしまった。

 ハイフォン山の山荘から、彼は抜け出して来たのに違いない。

 人目を忍ぶために女装をしたのだろうが、反対に、人目を引いてしまったのではないだろうか?

(実際、そのよもしばらくの間、近所では、パイ家の当主と、屋敷に入ったきり、二度と出ては来なかった謎の美女との、ゾクゾクするような艶笑えんしょうたんで持きりであったという)

 何のために、そんな危険をおかす必要があるのだ!?

 一時いときほどではないにせよ、シュエン軍はいまだにあきらめもせず、最近では、この近辺きんぺんの至る所にまで、探索の手を伸ばしているというのに・・・。

 やはり、しっかりしているようでも、まだ若いのだ。

 若いだけに、時として前後の見境もない行動にはしってしまうこともあるのだろうが、それにしても、取りかえしのつかぬことにでもなったら、いったいどうする積りだ!?

 ここはひとつ、手厳てきびしくいさめてやらねば!

「よいか!客人きゃくじんのことは、決して、誰にも口外こうがいしてはならぬぞ!!」

 ことさらかたホーに口止めすると、民雄ミンシオンは、重々しい足取りで客間へと向かった。

 本当は今にも走り出しそうになるのを、懸命けんめいこらえていたのである。

 一人書斎に残されたホーは―彼は口止めなどするまでもなく、非常に口の堅い男だったが―ぶつくさとひとちた。

「旦那様と来たら、照れてござるわい。あのようにしつこう、口止めされずともよいものを。それにつけても、あれでなかなかすみに置けぬお方じゃて・・果たしていつの間に、傾国けいこくの美女などと知り合われたものやら・・・・・」


 客間に一歩踏み込んだパイ民雄ミンシオンは、思わず目をみはったきり、その場に立ち尽くした。

 楚々そそとした絶世の美女を、そこに見出みいだしたからである。

 なまじ衣裳が地味な分だけ、かえって美貌が際立きわだってしまっているのだ。

 しばらくは声も出ずに突っ立っている民雄ミンシオンに向かって、はにっこりと、こぼれるようにあでやかな笑みをたたえて一礼した。

「お疲れのところへ突然おうかがい致しまして、まことに申し訳ございませぬ」

 しかし、その低い声音こわねは、まぎれもなく世凰シーファンのものであった。

「一体全体、どういうお積りじゃ、世凰シーファン殿!!!?」

 民雄ミンシオンは、やっとのことで問いかけた。

無謀むぼうだとおっしゃるのでしょう?それは私にもよく解っております」

 世凰シーファンはなおもにこにこしていたが、急に表情を改めて、こう切り出した。

しつけではございますが、民雄ミンシオン殿。本日は、お別れのご挨拶あいさつかたがた、たってのお願いのあって参上致しました」

「別れ、と申されるか!?」

 民雄ミンシオンは、又々驚いた。

 全くもう、この若者ときたら、何度この年寄りを驚かせれば気が済むというのだ!?

「はい。民雄ミンシオン殿及びメイミン殿を始め、皆様方の御厚意に甘え続けて、今日きょうの日まで、口では申せぬ程の御恩をお受け致しました。それもお返し出来ぬままに、はなはだ勝手を申すようではございますが、近日中においとま致したいと存じております」

「ば、馬鹿な事を申されるな。早まってはならぬ!」

 民雄ミンシオンは、日頃の冷静さもかなぐり捨て、すっかり狼狽ろうばいていであった。

 なぜこうなるのか、自分でもよく解らない。

 彼は、あたかも実の息子から別離を宣告されたかの如き錯覚さっかくに、おちいってってしまっていた。

「今出て行かれてどうなさる!?シュエン朝の手は、さらに広範囲にわたって伸び始めているのでぞ!そのまっ只中ただなかにお手前を放り出すことなど、だんじて出来ぬ!!」

 どうにかして、この無鉄砲な若者を思いとどまらせようと躍起やっきになる余り、民雄ミンシオンは我知らず、声をあらげていた。

 だが・・・。

「有難うございます。民雄ミンシオン殿。そこまで私の身を案じて頂きまして・・・けれど私には、是非ぜひともげなければならぬ事があるのです。それを打ち捨てておいては、この身の生きる意味など無い、と存じます!」

 世凰シーファンにこう言われては、彼としても沈黙せざるを得なかった。

 世凰シーファンの切れ長二重ふたえの瞳が決然と輝きを増してゆくのを、民雄ミンシオンは複雑な気持ちで見守るのみである。

 是非ぜひともげねばならぬ事―言わずと知れた仇討あだうちである。

 そのために生きているとまで、若者は言い切った。

 その決意を、この上なく尊いとは思いながらも反面、一抹いちまつの寂しさを老人は禁じ得ない。

〈さてもや、メイミンにはあきらめさせねばならぬのか・・・〉

 しかしながら、もうこの若者をいくら止めたところで無駄むだだということも、民雄ミンシオンにはよく解っていた。

「さんざん御恩をこうむりました上に、さらにこのようなお願いを致すのは、まことに心苦しいのですが・・・」

 彼に向ってここまで言うと、世凰シーファンは少しばかり口籠くちごり、どういう訳か、赤くなったりした。

〈剣でもくれというのか?ならば、我が家に伝わる名刀をさずけてやろう〉

 民雄ミンシオンがそう思った時、意を決したらしい世凰シーファンが、一息ひといきに言った。

民雄ミンシオン殿!御息女ごそくじょメイミン殿を、何卒なにとぞ、この世凰シーファンに頂きとうございます!!」

 四度!実に四度、民雄ミンシオンはこの若者に驚かされてしまった。

 だがその驚きは、すぐに言いようのない喜びに変わった。

 夢ではないか、とさえこの年老いた父親は思ったのである。

メイミンを、と申されるか?」

 彼は努めて平静を装い、おもむろに問い返す。

 まさか、いい年をした男が、両手を挙げて飛び回る訳にもいかないではないか?

「その通りです。改めて申し上げるまでもなく、私はおたずね者の身。本来ならばとても、斯様かように身の程知らずの、無理なお願いの出来る立場にはありませぬ。けれども、えて私はお願い申し上げます!もしも私が、首尾よく事をげ、その上で生きて帰れたならば、ぜひともメイミン殿を妻に迎えたい。ご承知下さいますか、民雄ミンシオン殿!?」

 世凰シーファンは、やや鋭さを含んだえとしたまな差しで、じっと民雄ミンシオンの顔色をうかがっている。

〈もしも承知せぬのなら、今すぐ、引っさらってでも連れてゆくぞ!!〉

 美しいそのは、確かにそう言っていた。

 彼の視線をまぶしく、だが頼もしいものに受け止めて、民雄ミンシオンは感動に打ちふるえた。

〈我がメイミンよ!そなたの想い、今こそむくわれようとしている。さぞや、この日を待ち望んだことであろうな・・・〉

わしには、決める権利は無い」

 彼はおだやかにった。

「それはメイミン自身が決めること。お手前の口から、直接、娘の気持ちを確かめてみられるがよい。娘が承知すれば・・・このわしに、異存のあろうはずはないさ」

かたじけのう存じます。民雄ミンシオン殿!!」

 世凰シーファンの顔が、パッと輝くようなみを見せ、見事に整った歯並はなみが、はっとする白さで口許くちもとからこぼれる。

〈ああ、この顔だ!〉

 民雄ミンシオンは、またも感動してしまうのだ。

 誰が、どう逆立さかだちしてみたところで到底真似まね出来ぬ、俗塵ぞくじん離れのした無垢むくの笑顔!

〈でかした、メイミン!そなたは天下一の幸せ者ぞ!〉

 父・民雄ミンシオンは、娘のに、心中おどり上がらんばかりの喝采かっさいを送ったのだった。

 ほどなく女装を解き、身支度みじたくを整えた世凰シーファンは、民雄ミンシオンと共に貴族の礼節に従って別離わかれさかずきわし、惜別せきべつうたんだ。

 蛇足だそくながら、絶世の美女だと信じて疑わなかった客人きゃくじんが、実は若い貴公子だったと知った老召し使いのホーが、そのかなつぼまなこを先刻よりもさらに白黒させたのは、至極しごく当然のことであった。

 その夜半やはん世凰シーファンは闇にまぎれてパイ家の屋敷を抜け出し、メイミンの待ちびるハイフォン山の山荘へと戻って行った。

何卒なにとぞ御命おんいのちながらえて下され、世凰シーファン殿!我がメイミンのためにも・・・」

 夜のとばりの彼方へ溶け込んでゆくほっそりと華奢きゃしゃな後姿を見送りながら、民雄ミンシオンは、そっとつぶやいた。

 やがて、足音さえもすっかり途絶とだえてしまったのちも、なおもしばらくの間、彼はその場を動こうとはしなかった。

 さいわい今夜は、月も無い―。

 

 メイミンは、世凰シーファンの帰りを、ひどく気をみながら待ち続けていた。

「あなたの御父上にお会いして参ります。心配なさらずに、待っていて下さい」

 ただ、それだけを言い残して、彼は出かけて行った。

 彼が何の為に父のところへ行ったのか、という事よりも、その道中の方が、メイミンにとっては心配だった。

 もしや、シュエン軍に見つかりはせぬか?

 誰かに襲われたりはしていないだろうか?

 と、ついつい悪い想像ばかりが頭に浮かんで来てしまうのを何度も払いのけ突きのけ、彼女はひたすら、愛するひとの無事な姿を待ち焦がれた。

 いつしか夜がしらじらと明けて来ても、メイミンは一向に屋敷の中へは入ろうとせず、じっと山荘の門の外に立ち尽くしたままで、彼方かなたを見詰め続けていた。

「お嬢様。どうぞ中へお入りになって、お休み下さいまし!そのままでは、お体にさわりますわ」

 瑞娘ルイニャンが心配して、何度もそうすすめたが、彼女はまるで聞き入れなかった。

 利口りこう瑞娘ルイニャンは、別にメイミンから聞かされた訳でもないのに世凰シーファンの行く先をさとっているようだった。

「御心配なさらなくたって、大丈夫ですわ。なにしろ、お強いお方ですもの。それにチューリンまでは、さほど遠くもございませんし・・・必ず、ご無事でお帰りになること請け合いです!」

 瑞娘は女主人を元気づけようとするのだったが、く言う瑞娘ルイニャン自身も、実は心配でたまらないらしく、メイミンの立っているあたりをそこいら中、あっちへ行ったりこっちへ来たりしてうろうろと歩き廻った。

「本当にもう、何て方でしょう!?お嬢さまをこんなにも心配おさせになるなんて、一体どういうお積もり!?」

 しまいには、怒り出す始末であった。

 と、その時である。

 不安にくもりがちだったメイミンの瞳に突然、さっと明るい光がした。

「お、お嬢様!お帰りになりましたわ、あの方が!ほらっ、ほらっ!!」

 彼女とほぼ同時にそれと気づいた瑞娘ルイニャンが、興奮のあまり、その場でピョンピョン飛び上がりながら、上ずった声を上げた。

 夜明けの淡い光の中を足早に、そしてまっすぐに、こちらへ向かって彼は歩いてくる。

「よかった!御無事だった・・・」

 愛しいその姿がかなりの速さでぐんぐん近づいて来るのを確実に捉えはしたものの、メイミンの瞳は、つぎつぎにあふれ出すない涙のために視界をさまたげられ、濡れそぼった睫毛まつげの下で戸惑うばかりである。

 そして、ついに、世凰シーファンが山荘の門まで辿たどり着くのを待ち切れず走り出した彼女は、物も言わず、まるで体ごとぶつけるように彼の胸に飛び込んで行った。

メイミン殿!?」

 思いがけない激しさで思いをぶつけて来た彼女に少々面喰めんくらいはしたが、たちまち彼の胸に、メイミンに対するたまらぬほどのいとおしさがき上げて来た。

〈好きだ!私は、あなたが好きだ!!〉

 世凰シーファンは力の限り彼女を抱きしめ、その黒髪にほおを押し付けた。

 かたく抱き合ったまま、二人は彫像ちょうぞうのように動かない。

 気をかせた積もりなのだろう。瑞娘ルイニャンの姿はいつの間にか、その場から消え失せてしまっていた。


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