第19話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-5-


その時、不覚にも世凰シーファンはその侵入に気づかず、寝台の上で浅い眠りに微睡まどろんでいた。

 ふいに身辺に忍び寄って来る気配けはいを感じて思わず飛び起きた時には、すでに相手は寝台の脇近くに、ひっそりとたたずんでいた。

 殺気さっきは全く感じられなかったが、もしもこれが刺客しかくであったなら、彼の命はとうに無かったであろう。

〈何たるだ、世凰シーファン!!〉

 おのれの拳士としての確実なおとろえに愕然がくぜんとした世凰シーファンは、同時に突き放した自嘲じちょうをも、我が身にびせかけるのだった。

 侵入者は、音も立てずにさらに近づくと、とこの上に半身はんしんを起こした世凰シーファンの前にひざまずき、一礼して覆面ふくめんを取った。

 まだ若い、野性味あふれる美女である。

「お久し振りでございます、フェン様!」

 ことさら感情を押し殺し、冷たくえ渡る美貌には全く見覚みおぼえはなかったが、すずやかなその声音こわねに、確かに聞き覚えがあった。

「あなたはもしや、リェン小父上おじうえの屋敷でお会いした方では!?・・・」

おぼえていて下さいましたか!うれしゅう存じます」

 押さえた声音こわねに女心がちらりとのぞいて、わずかに彼女の表情がやわらいだ。

 言うまでもなく、ウーチュイリンである。

斯様かような御無礼の振舞ふるまいを、お許し下さいませ。正面からでは、とてもお目通りかなうまいと存じましたゆえ」

 相変わらずの歯切れの良さで、彼女は非礼をびた。

「やはり、あなたでしたか!あの折りの厚情、私は決して忘れてはおりません。今改めて、あなたに御礼申し上げねばならない」

 世凰シーファンは、素早く寝台から降り立ち、彼女に向かって丁重に頭を下げた。

 ろくに礼も言わずじまいだったあの夜のことが、心の片隅に、ずっと引っかかっていたのである。

「そのようなことなさいますな、フェン様!」

 チュイリンは、即座に彼を押しとどめた。

「それならば、わたくしの方が余程よほどに、あなた様へお礼申し上げねばなりませぬ」

 だが、その詳細はえて語ろうとはしなかった。

「申し遅れました。わたくしフェイの頭領・ウーチェンクンの娘にて、チョウ改めウー阿孫アスンの妻・チュイリンと申します」

 彼女は改めて名乗りを上げ、それにともな驚愕きょうがくの事実をも、彼に伝えた。

 世凰シーファンは息をんだ。

「あなたが阿孫アスンの!?では、では阿孫アスンは・・・生きているのですね!?」

 彼は我知らず、自分もチュイリンのすぐ側にしゃがみ込み、その肩に手まで置きながら、き込んでたずねた。

 まるで無意識のうちの行動であったとは言え、人妻の身でありながら命けて恋がれる男の顔を間近に見、吐息といきれ、さらに、その体温をも感じ取ってしまったチュイリンの胸中たるや、果たしていかばかりのものであったろう!?

〈抱かれたい!!このひとに・・・ただ一度だけでよいから!〉

 突如として身の内にき立った女の激情に、さしもの彼女としたことがあやうく押し流されそうになり、ほんの一瞬、目を伏せた。

 しかし、すぐにひょうのように光る双眸ひとみを上げた彼女は、きっぱりと答えたのである。

「はい!御安心下さいませ。我が夫・阿孫アスンは、確かに存命しております」

 そしてチュイリンは、フェン家焼き打ちの際、世凰シーファンあとを追うはずが、予想だにせぬ成り行きで阿孫アスンを救うに至ったこと、彼の大方おおかたの回復を待って、共に千江チェンチァン郡に立ち戻り、阿孫アスンを見込んだ父のたってのすすめで、一月前に彼と夫婦めおとちぎりを結んだことなどを、手短に話して聞かせた。

「そうだったのですか・・・」

 世凰シーファンは深く感じ入り、大きく嘆息たんそくした。

 まさにくすしき因縁いんねん、と言わねばなるまい。このチュイリンという女がどんな事情で、緋賊フェイツェイとはいえ、仮にも豪族の娘の身から妓女ぎじょにまで落ちたのかは知らぬが、その彼女が、世凰シーファン仇敵きゅうてきかかわる情報をもたらしただけでなく彼の命も救い、さらに阿孫アスンをも救って、その妻となったとは!

 人の世のえにしというものは、かくも不可思議で、また、あや深きものなのであろうか?

 世凰シーファンの心情を知ってか知らずか、チュイリンは再びえとした表情に戻り、ふところから一通の分厚い書状を取り出して、彼に手渡した。

「本日まかり越しましたのは、ひとえに、夫・阿孫アスンよりのこの書状をお届け致すためにございます。御返事はいりませぬゆえ、何卒なにとぞ御一読頂きますように」

 そして彼女はすっくと立ち上がった。

「無事役目を果たしました上は、長居ながいは無用。これにて御免こうむりまする。御身おんみくれぐれもおいとい下さいませ。いづれまた、必ずお目にかかります」

 チュイリンはあくまでも事務的にそう言い残して立ち去ろうとした。

チュイリン殿、と申されましたね。あなたには、まことに何とお礼を申し上げてよいか解らぬ。この上ながら阿孫アスンのこと、どうかよろしくお頼み致します」

 心からの謝意と願いをめて、世凰シーファンは再び、低くこうべを垂れたのだった。

「どうぞお顔をお上げになって、世凰シーファン様!・・・」

 チュイリンの声はなぜか、先程までとは打って変わった女らしいものになっている。

「このチュイリンはあの、命よりも大切なものを、あなた様にお救い頂きました。あなただけは・・・あなた様だけは、いつの日も気高けだかく誇り高く、そのお顔を上げていて下さいませ!」

 訴えるように彼を見つめたがしっとりと濡れて、このところ、ひどく敏感になっている世凰シーファンの心の琴線きんせんに、何かがかすかにれた。

チュイリン殿!?」

 彼はチュイリンから、その『何か』を読み取ろうとしたが―その作業は、彼女の次の言葉で、永久に中断されることとなったのである。

「あの方を・・大切になさって下さいませ。先ほど厨房ちゅうぼうにて、一心に、あなた様のための薬湯やくとうせんじておいででした。まこと、あなた様にふさわしき御方と、お見受け致しましてございます」

メイミンのことを言っているのだ!〉

 そう思った途端とたん世凰シーファンたちまちにして身も世もなく狼狽ろうばいし、チュイリンの心をさぐるどころか、むしろ彼自身の胸の内を、彼女に露呈ろていする破目はめになってしまった。

 ほおが、首筋が、自分でもあきれるくらいの速さで紅潮してゆくのが良く解る。

 その様子を見守るチュイリンの、女の感情が複雑に交錯こうさくする表情さえも、彼の目にはまるで入らなかった。

 ウーチュイリンが、一陣いちじんの風となって窓から去って行ったあとに、ほど無く、薬湯やくとうささげ持ってしつに入って来たメイミンは、寝台の側で真っ赤になって立ち尽くしている世凰シーファンを見つけ、一体どうしたのだろう?と、首をかしげたことだった。


 メイミンの父・パイ民雄ミンシオンは、一介いっかいの地方豪族ではあったが、なかなかに剛直ごうちょく気性きしょうの持ち主で、そのうえに義侠の気風きふうをもあわせ持ったひとかどの人物であった。

 それゆえ、一人娘のメイミンがおたずね者としてシュエン軍に追われるフェン世凰シーファンという若者をハイフォン山の山荘にかくまっている、という報告を家臣の一人から受けた時も、多少驚きはしたものの、かえってその家臣に向かってかたく口止めしたくらいである。

「そのまま、そっとしておくがよい。決して、騒ぎ立ててはならぬぞ。他言たごんも無用じゃ!」

 以前、娘があやういところをその若者によって救われ、どうやら事無きを得た経緯いきさつを、彼はついぞ忘れることなく、深い恩義に感じていたからだ。

 そのような正義感あふれる若者が何故なぜ謀反人むほんにん』などと呼ばれて追われるに至ったのか、彼には少なからず、納得出来かねるものがあった。

 そこで民雄ミンシオンは、多くの人材を動かして手広く情報をき集め、そのあたりの事情を詳細にわたって調べ上げてみた。

 その結果、フェン世凰シーファンは全くの潔白であり、奸物かんぶつ共のためにぎぬを着せられているに過ぎぬ、と判明して、彼は大いに憤慨ふんがいしたのである。

 さらに彼は、細やかな情報活動の副産物として、若者のたぐれな逸材いつざい振りをも、あわせて知ることとなった。

 こうなると断然、民雄ミンシオンとしては、この不遇ふぐうの貴公子を放っておくことが出来なくなった。

 彼は何度か山荘を訪れ、回復途上にある世凰シーファンを見舞いかたがた、彼と語り合った。

 そしてますます、深みにはまった。

 その絶世の美貌もさることながら、彼の持つ内面の素晴らしさが、民雄ミンシオンを圧倒したのである。

 かる状況にあってさえ少しもそこなわれぬまぶしいほどの貴質を、侠気きょうきたたえて躍動やくどうする熱い血の激しさを、あたりにして思い知るにつけ、彼はこの若者の存在すべてに、もうぞっこん、れ込んでしまったのだった。

 そればかりか、民雄ミンシオンは、娘・メイミンの恋まで知った。

 彼が掌中しょうちゅうたまの如く愛してやまぬ一人娘は、こともあろうに、世にもまれなるすぐれた若者を『』の相手に選んだのである。

 今年ではや二十四になろうかという彼女にとって、余りにも遅すぎる初恋のおとずれではあったが・・・。

〈それも、よかろう〉

 民雄ミンシオンは思った。

 メイミンはこれまで、ずっと『男嫌い』で通っていた。

パイ家のひい様は、変わり者よ。殿御とのごれると、総毛そうけつそうな!』などと人に噂もされ、彼女自身もまた『私は一生、お嫁などにはまいりません。いつまでも、お父様のお側に置いて頂きとうございます』そう公言してはばからぬ、そんな娘であった。

 そのメイミンが今、ひょっとしたら命をもけて、一人の青年に恋がれている。

 民雄ミンシオンはそこに、じんでは計り知れぬ、稀有けうめぐり合わせを感ぜずにはいられないのだ。

―もしや、宿縁とでも呼べるものではあるまいか?―

 フェン世凰シーファンという若者にめぐうために、メイミンは我知らず、一人として男を寄せつけようとせぬ『男嫌いの、風変わりな娘』を通し続けて来たのではなかったか?

 彼女の夫となるべく運命が定めた、この世でたった一人の男―それが、もしも本当に彼であるのなら、娘にとって、また父親にとっても、どんなに喜ばしいことだろう!!

 年齢的には、確かにメイミンよりも二才下、それだけを取ってみれば、双方どちらかのい目であると言えなくもない。

 だがしかし、娘の将来をたくすには充分すぎるほど充分な逸材いつざいではあった。

 実に手前てまえ勝手がってで、はたまた思い込みもいちじるしいこの期待に、民雄ミンシオンは、我ながら苦笑してしまったのだが、やはり心のどこかに、捨てきれぬ望みとして持ち続けている。

 娘を思う、ごく当然の親心だった。

 けれども彼は、世凰シーファンに対して一度もその話題を持ち出したことはなかったし、これからも決して、そうしようとは思わない。

 もしも万一、そういうえにしを持って生まれついたものならば、周囲であれこれと騒ぎ立てるまでもなく、自然の成り行きで結ばれもしようし、又、そうでないなら、メイミンには何とも不憫ふびんだが『ゆきずりのかたこい』で終わるであろう・・・。

 ことに、今の世凰シーファン大望たいもうを抱く身、このようなことで彼の心を乱してはならぬ。

 民雄ミンシオンは、娘のたに何もしてやれぬ歯痒はがゆさ、もどかしさに大いに苛立いらだちながらも、黙って彼らを見守ろうと決心したのだった。

 

 パイ家の山荘に身を寄せてから三月みつき余り、やがて、夏もその終わりを迎えようとする頃には、世凰シーファンの傷は、もう完全にえていた。

 先日、チュイリンがもたらした阿孫アスンの書状には、いまわしいあの日から今日こんにちに至るまでの、彼自身の運命の変遷へんせんとその心情しんじょうとが、ことこまかにつづられていた。

 フェン家と世凰シーファンへの不忠ふちゅうび、いつの日か、世凰シーファンが見事、本懐ほんかいげんことをせつに願い、その折には必ずや、命をしてもさんじんとの決意が誠心誠意吐露とろされた文面は、世凰シーファンの胸の奥までじんとみ通り、深い溜息ためいきすられさせた。

 忠義心あつスンは、傷ついた身で、いつの日も彼の安否あんぴ気遣きづかい続け、妻・チュイリンの助けを借りてようやくその消息をつかみ得るや、ただちに書状を届けさせたのであろう。

 阿孫アスンのいるチェンチアンは、遠い北の果てだった。

阿孫アスンよ。もう私のことなどは忘れて、そなたはそこで、チュイリン殿と静かな余生よせいを送るがよい・・・」

 はるかなる阿孫アスンに向かって、世凰シーファンは、心からそう語りかけずにはいられなかった。

 彼は心中しんちゅう近々ちかぢかパイ家を去ることを決意していた。

 だが、旅立つその前に、ぜひともしておかねばならぬことがある。

 今日きょうの日まで、彼が悶悶もんもんと悩み苦しみ、それでもなお断ち切れぬ思いを確認して、改めて心に誓ったひとへの愛を、伝えねばならない。

〈あなたが好きです。メイミン殿。多分、あなたも私を・・・そう信じても、いいですよね!?〉

 翡翠ひすいかんざし由来ゆらいについて先日語って聞かせた時、彼女の表情はおろか、全身をまでたした深い安堵感あんどかんを、みるみる瞳にき上がった涙の美しさを、彼は忘れない。

 そして何よりも―世凰シーファンは、あの日自分が演じてしまった不様ぶざまきわまる狂態を、薄々うすうす記憶していた。

 思い出すのもおぞましい悪夢にさいなまれ、心身共に、ありとあらゆる恥部ちぶさらけ出してしまったであろう我が身を、メイミンは温かいその胸で、丸ごと受け止めてくれたに違いないのだ。

〈あれは確かに、彼女だった!〉

 けれど彼女は、一言ひとことも、何も語ろうとはしないし、侍女たちに聞き出そうとしても、メイミンに堅く口止めされているらしくて、何もらしてはくれない。

 そうまでして、自分の名誉を守ってくれるメイミン

 しかも、決して気持ちを押し付けようとはせず、ただ黙って側にいる・・・。

『一緒に生きたい。生きて欲しい!』

 もしも、そう告げたなら、彼女は何と答えるのだろう?

〈私には、あなたしかいない!だからせめて、この想いを伝えてきたいのです。そして、かなうものならば、メイミン、いつの日か、あなたを我が妻に!!・・・〉

 しかし、るぎないその想いの一方で、いざ自分の身の行末ゆくすえを思う時、世凰シーファンの心はれるのだ。

 よしんば首尾しゅびよく本懐ほんかいげたとしたところで、そのあとは!?・・・生涯追われる身となるであろう我が運命に、この先、安息あんそくの日々がめぐって来るとはとても思えない。

 そのように過酷かこくな渦の中にメイミンを巻き込むことが、果たして、彼女にとっての幸せと言えるのだろうか?

 けれども、彼の激しい恋心は、当然自らに課すべき分別ふんべつすら飛び越え、猛然とけ出してしまった。

 若さは純粋、つエネルギッシュだ。

 さらにその上、少なからず自分勝手でもある。

 それが恋愛こいならば、なおのこと。

 必ずしも相手にとっての幸せにはつながらないと頭では解っていても、所詮しょせんほとばしる情熱の前に理性など無力、さえぎるものは、すべて敵!

 困難が大きければ大きいだけ、かえってふるい立ち、満身まんしん創痍そういとなろうとも、ひたすら愛する者を求めて突き進まずにはいられないのだ。

 世凰シーファンとて、同じであった。

 心を決めた彼は、亡き姉に向かってこう語りかけた。

ねえさま!今こそ、世凰シーファンは旅立ちます。あなたと父上の御無念をこの手で晴らし、見事、本懐ほんかいげるために!

そして、あなたが生前せいぜん、そう望んで下さったように、一人の男として―姉さま、あなたからも!・・・」

〈ひとまずは、胡北フーペイ郡に身を隠そう〉

 彼はそう思っていた。

 二日後、世凰シーファンは、メイミンにだけ行き先を告げると、チューリンパイ民雄ミンシオンに会うため、人知れず山荘をあとにした。


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