第17話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-3-

世凰シーファンは、何処いずことも知れぬ空間の、湿しめった寝台の上に仰臥ぎょうがしていた。

 身辺しんぺんには、何の音も気配も、まるで感じられない。

 自分が、なぜここにいるのかさえも、彼にはわからなかった。

 彼は―一糸いっしまとわぬ全裸であった。

 えも言われぬ象牙ぞうげいろ光沢こうたくを放つ瑞瑞みずみずしい裸身らしんしげもなくさらして、その場に横たわっていた。

 いや、横たえられていた、と言うべきか・・・。

 編髪をかれた彼の黒髪は、漆黒しっこくの流れとなってとこをうねり、そして寝台のははしばしで、つややかに散りまどう。

 目に見えぬ何物かによって金縛りとなった体は、ピクリとも動かすことが出来ず、ほんのわずかでもじろぎしようものならたちまち、全身が、針で刺されるように痛んだ。

〈ここは、何処どこなのだ!?私は、何をしているのだろう?・・・

 瞳を閉じたままで、彼は漠然ばくぜんと、誰にともなく問いかける。

 やがて彼の周囲に、どこからか、妙になまあたたかい風が吹き始めた。

 血の匂いを含んだ、不快な風だ。

 それと同時に、たまらぬ息苦しさが、体の上にのしかかって来た。

 しかも、その直後から執拗しつようなめらかな皮膚ひふい始めた、虫酸むしずの走るようなおぞましい感触に戦慄せんりつし、世凰シーファンは思わず、目を開いた。

〈うっ!!〉

 すんなりと伸びた長い下肢かしからみつき、チロチロと赤く燃える舌先で裸身をまわす大蛇の姿を目前に見、彼は全身を硬直させたのである。

 大蛇の方もまた、いちはやくそれを感じ取り、みだらな作業を中断して鎌首をもたげるや、青い炎を宿す双眸そうぼうで、真上まうえから彼をのぞき込んで来た。

〈貴様は、イェン大剛ダーガン!?〉

 たちまち、すさまじい憎悪ぞうおおうと共に世凰シーファンを襲い、彼は目がくらんだ。

 ニヤリと笑った大蛇―イェン大剛ダーガンは、またたく間に本来の姿に戻り、寝台のかたわらにたたずんで、じっと世凰シーファン見下みおろしている。

 だが、決して、ただのではない。

 彼は視線で、この美しい若者をはずかしめているのだ。

 明らかに『視姦しかん』と呼ぶべき行為であった。

 がた屈辱くつじょくからのがれる手段すべも無く、みしめた唇に血をにじませ、憤怒ふんぬの瞳を燃え立たせて紅潮する世凰シーファンあごつかんで強引に仰向あおむかせ、血臭けっしゅうただよう身をり寄せて、めつすがめつながめやった。

可愛かわいやのう・・ほんにまあ、可愛かわゆい奴よのう!さあて、どうしてくれようか?」

 陰湿いんしつ声音こわねひとちたかと思うと、イェンはやにわに顔を近づけ、唇を奪うと見せて、懸命けんめいに顔をそむけた世凰シーファンかたほおを、と舐めた。

けがらわしいっ!!〉

彼の肌一面が痛ましく粟立あわだつのを見てイェンは、舌なめずりしながらほくそ笑む。

「ふふ、どこまでもい奴め!鳥肌さえ立てて、あらがいおってからに」

〈この上、一指いっしたりとも私にれるな!立ち去れっ!!〉

 声は一言ひとことも発せられぬが、世凰シーファンの叫びは間違いなく、イェンに伝わっているようだ。

「さてもさても、あいも変わらず、つれないことよ。おぬしが、ついぞ味おうたこともない快楽けらくをば、このイェンさずけてやろうというに。だが、それでこそ歯応はごたえありじゃ。おぬしがいまのまま、果たしてどこまで持ちこたえられるか・・・これは見ものよの!」

 くくっと淫靡いんびに含み笑ったイェン大剛ダーガンは、いきなりもう一方の腕を下方に差し伸ばして、つんと浮き立つ繊細せんさいな腰骨を薄くおおって張りめぐらされたすべらかな表皮にことさらむごく爪を立て、弾力みなぎらせて息づく若い筋肉を、引きしぼるように、むんずと鷲摑わしづかんだ。

〈あうっ!〉

 思いもよらぬ理不尽りふじん加虐かぎゃくに、白皙はくせきの美貌が眉根まゆねを寄せてり、ピクリと、心ならずも大きく波打った体が、その細腰を、さらに弓なりにしなわせる。

「ほ、さすがじゃ!思うた以上の、よい感応かえりをしおるわ」

 ニンマリとそうつぶやいて、彼は湿気を帯びた軟体動物そのものの触手しょくしゅうごめかせ、世凰シーファンの全身を思う存分にいたぶり、さいなみつつ、じわりじわりとで上げてゆく。

 その指先のれる所悉ことごとくに、ひとかたならぬ疼痛とうつうが走り、ピピピッ!と音を立てて、皮膚ひふが裂けた。

 を置かず、大小無数の傷口から飛沫しぶきとなって吹き出した鮮血が、象牙ぞうげいろの輝きをり込め、見る間に、目にもいたわしい真紅しんく裸形らぎょうと化す。

「何と美しや!!まさにおぬしは、絶品ぜっぴんじゃ!」

 イェン嘻嘻ききとして、感嘆の声を上げた。

〈お、おのれ!!・・・おのれ、イェン!!〉

 苦悶くもん屈辱くつじょくとに我を忘れて身悶みもだえながら、世凰シーファンイェンとうした。

〈化物め!!よりによって、貴様などに凌辱りょうじょくされるくらいなら・・・殺せ!いっそ、ひと思いに殺してくれ!!〉

 むし哀願あいがんとも受け取れるその言葉を、彼は声無き声で絶叫ぜっきょうした。


「け、けがらわしいっ!!わ、わた・・しに・・・ふれる・・な!!」

 切れ切れに、しかし、メイミンが思わず手を引っ込めてしまったほどにただならぬ語気ごきの強さで口走ったかと思うと、今度は『お、おのれ!!・・おのれ、イェン!!』などと叫んで、顔をらせたりもする。

「殺せ!殺してくれっ!!」

 苦悶くもんの表情で散々さんざん身悶みもだえした末に傷口にれ、その痛みにうめき声を上げて、またもや、のたうち回るのだ。

世凰シーファンさま!世凰シーファンさま!お気を確かに!!どうぞ、お気を確かに!!」

 彼の余りの狂態きょうたいりに愕然がくぜんとし、顔面蒼白そうはくになりながらも、なお、身をってその傷口をかばおうと奮闘ふんとうし続けるメイミンの髪は、もはや見る影もなくほつれ、着衣ちゃくい胸許むなもとまでも乱れがちに成り果てて、実に惨憺さんたんたる有様であった。

 けれども、見かねた瑞娘ルイニャンが手を貸そうとけ寄ったのを

「いいの!」

メイミンは即座に拒絶したのである。

「いいのよ瑞娘ルイニャン、私だけでいいの。それよりお前は、すぐにツァオ先生にお知らせして頂戴ちょうだい!それから、この部屋には決して誰も近づかないよう、言って!!」

 世凰シーファンの、このあられもない狂態きょうたいりを、決して人目にれさせないために、そうすることによって彼の名誉めいよを守り抜いてやるために、メイミンは我が身一つで、荒れ狂う彼を受け止めようとしているのだ。

〈お嬢様!あなたはそれほどまでに、この方を!・・・〉

「かしこまりました、お嬢様!」 

またもや甘酸あまずっぱく、しかも、先程さきほどよりも一層いっそう痛みの増した我が胸を、自分自身で訳も解らず叱咤しったして、一声残した瑞娘ルイニャンは、即座にしつを飛び出して行った。


「殺してくれとな?おお、よいとも!われるまでもないわ。だがしかし、何も急ぐことはあるまい?ゆるりゆるりと、共に楽しみながら・・・のう、フェン美人殿!?」

 その言葉が終わり切らぬうちに、イェン大剛ダーガンまとったきらびやかなかんは見る見るうちに裂け、粉々こなごなになってあたりに飛び散った。

 筋骨きんこつたくましい堂々たる体躯たいくが、一瞬、世凰シーファンの視界一杯に生々なまなましく浮かび上がったかと思うと『フェン世凰シーファン最早もはやその身、あまねく我がものぞ!!』割れがねのような哄笑こうしょうを渦巻かせ、再び巨大な蛇身と化したイェン大剛ダーガンは、歓喜の雄叫おたけびと共に、猛然と世凰シーファンに襲いかかった。

〈怖い!!〉

 彼の全身を、生まれて初めての異様な恐怖心が、一気に駆け抜けた。


「い、厭だ!!厭だっ!!こわ・・い!こわい、ねえさま!ねえさまあっ!!」

 熱に浮かされて火のように熱い息を吐き、彼はひたすら姉に助けを求めて、両手を激しく、宙にさまよわせる。

『姉は・・・死にました』夢の中でそう言い、ふっと瞳をかげらせて微笑した彼の面差おもざしがあざやかによみがえり、メイミンは胸をかれた。

〈あれは、本当のことだったのに違いない!〉

 不憫ふびんだった。

 真底しんそこ不憫ふびんでならなかった。

 あの颯爽さっそうとした、さながら一幅いっぷくの名画から抜け出たかと思わせる拳士けんしりからは想像だに出来ぬ、恐らくは本人でさえも自覚したことなど無いであろうほどもろさを、洗いざらいさらけ出し、一心に亡きひとに救いを求めてやまぬ世凰シーファンのいたわしさが、今こそメイミンに、すべての羞恥しゅうちをかなぐり捨てさせた。

世凰シーファンさまっ!!」

 宙を泳ぐ彼の手を両のてのひらに受け止めるや、我が胸に強く押しつけ、彼女はそのまま体ごと、ひしと世凰シーファンいだいたのだった。

『あなたは、私の姉にとてもよく似ていらっしゃる!』夢ではあっても、世凰シーファンはそう言ってくれた。

 ならば今、私はこのひとの姉になろう!それが多少なりとも、彼にとっての救いとなり得るならば、たとえこの身は姉のわりにすぎずとも、構わないではないか!?

世凰シーファンねえさまは、ここにいるわ。こうやって、しっかりとあなたを守っているわ!だから、もう大丈夫。こわくはないのよ、世凰シーファン!!」

 彼の体の熱さに負けないくらい身を火照ほてらせて、メイミン世凰シーファンを抱きしめ、その耳許みみもとに幾度となく、やさしくささやき続けた。


 突然、上空からサアっとそそいだ光の帯から、すっと白い腕が伸び、イェン毒牙どくがの前に無抵抗にさらされる世凰シーファン裸身らしんを抱き上げたかと思うと、あっという間に、きらめく結界けっかい彼方かなたへと運び去った。

「おのれえっ!邪魔じゃまだてするかっ!!」

 今にもきばを立てんとしていた目の前の獲物えものを、まさかの闖入者ちんにゅうしゃ掠奪りゃくだつされたイェンは逆上し、巨大な蛇身を猛々たけだけ(たけだけ)しくくねらせて、大地をるがす咆哮ほうこうとどろかせたが、救い主のあたたかい胸に抱かれて光の中を上昇してゆく世凰シーファンの耳からは、それは急速に遠のいて行った。

あたたかい・・・何とあたたかい胸だろう!?誰だ…私を救ってくれた、このひとは?なぜかとても・・・なつかしい気がする・・つ・〉

 たおやかなぬくもりにすべてをゆだね、彼は、聞きおぼえのあるやさしい声音こわねにふと気づき、を閉じたままで耳を澄ませた。

「・・・世凰シーファンねえさまは、ここにいるわ・・こうやって、しっかりとあなたを守っているわ・・・だから、もうこわくはないのよ・・」

ねえさま!?まさか・・・〉

 反射的に目を見開き、救い主の顔をあおぎ見た世凰シーファンの口をいて、その、の叫びがほとばしった。

ねえさまっ!!」

 傷ついた彼を、間一髪かんいっぱつのところで邪悪の魔手から救い上げ、堅く抱きしめながら、共にきらめく風となって飛翔ひしょうするそのひとこそは、今は亡き姉、忘れ得ぬ香蘭シャンランだったのである。

ねえさまっ!!」

 そう叫んで、みずかすがりついて来た世凰シーファンの、さすがに強い男の力に圧倒されつつ、しかもその上、ゆかに立って前屈まえかがみみにゆがめた体で寝台に横たわる相手と抱き合うという、何とも不自然な姿勢から来る息苦しさにさいなまれつつ、それでも彼の背にまわした腕を、メイミンゆるめようとはしなかった。

世凰シーファンさま・・・お可哀相かわいそう世凰シーファンさま!メイミンは・・メイミンは・・・」

 彼女の独白どくはくは、唐突とうとつにそこで止まった。

「泣いている!」

 泣いているのだ、世凰シーファンが。

 目覚めざめぬまま、彼女の胸に顔をうずめて・・・。

〈ああ、何て!・・何ていとおしいひと!!〉

 一瞬、眩暈めまいを感じるほどに魂を打たれ、せきを切って涙があふれた。

 ―結ばれなくてもいい!愛してもらえなくても構わない!このひとのために生き、そして死ねるなら、ただそれだけで、私は幸せ!!波瀾はらん宿しゅくせいほんろうされる美貌の貴公子への尽きせぬ至純の愛を、メイミンは今この時、はっきりと自覚したのだった。

「医者は不要のようじゃな・・・」

 ポツリとつぶやいて微笑したツァオ博士は、瑞娘ルイニャンめくばせして、半開きになっていた扉を音もなくそっとざし、彼らは連れ立って足音を忍ばせ、廊下を去って行った。

 それからしばらくして、博士を送り出した瑞娘ルイニャンが、はなすすり上げ上げ、ひっそりと回廊かいろうを曲がってゆくのを、丁度中庭に居合わせた朋輩ほうばいの侍女の一人が目にめ、実に不思議そうな顔つきで、声もかけずに見送ったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る