第16話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-2-


さて、山荘に到着するなりツァオ博士は、ただちに世凰シーファンの横たわる一室にしょうじ入れられ、さっそく診療が開始された。

「うむ・・・」

 彼の傷の状態を丹念たんねんに調べ上げたのち、博士は低く嘆息たんそくらして眉をひそめ、腕組みをこうともせずに、じっと考え込むふうであったが、やがて、やっとのことで重い口を開いた。

「これは、ただならぬ深傷ふかでじゃ!表の傷もさることながら、問題は体内の傷。それも、昨日や今日受傷したものではなく、少なくとも、四、五日はておろう。何しろ、日がち過ぎておる。この状態で、よくぞこれまで持ちこたえたものよ!」

 メイミンは、彼の言葉の一言一句を、身の細る思いに息を詰め、不安の極地きょくちで聞いていた。

 何か言おうにも、まるで声が出ない。

 博士は続けた。

「もしもこれが常人じょうじんであれば、とうに命は無かろうほどの傷。なれどこの御仁ごじんは、余程よほどきたえ上げられた体力、並びに精神力をお持ちのようじゃ。しかも、その上、受傷の直後に何らかの薬を服用し、それが内外共にうまく作用して、化膿かのうを最小限に喰い止めたと見える。それにしても・・・難しいのう!・・・」

 彼の沈痛ちんつうな表情に加えて、さじを投げる直前とも受け取れる、差し迫ったその言葉は、メイミン目眩めまいすら感じさせ、彼女をして、思わずツァオ博士に取りすがらせてしまった。

ツァオ先生、どうぞ!どうぞこの方を、お助け下さいませ‼お願いでございます‼」

 彼女の必死の懇願こんがんに対しても、ツァオ博士は、決して気休めなどは口にしなかった。それほどまでに、世凰シーファンの容態は深刻だったのである。

「はっきりと申し上げた方がよかろう。助かる見込みは、十中二、三分・・いや、それ以下かも知れぬ。万一の場合も大いにあり得ることを、お心に留めておいて下され」

ツァオ先生!」

 メイミンは、あらん限りの想いをその瞳にめてツァオ博士を見詰め、はらはらと真摯しんしな涙をあふれさせた。

「この方に、もしものことがありますれば、わたくし、生きてはおりませぬ!どうか、この方のお命を‼・・・」

「⁉」

 ただならぬ彼女のひたむきさに驚いて〈メイミン殿、この御仁ごじんは、そなたの?・・・〉そう問いかけようとしたツァオ博士だったが、彼はそれを口にすることなく、ただしげしげと、彼女の顔を見やっただけであった。

「解り申した、メイミン殿」

 少なからず感じるものがあったらしく、ツァオ博士は表情をやややわらげ、おだやかな口調くちょうに戻ってこう言った。

「このツァオシュエリャン、医師として、この身に出来得る限りの、最善を尽くしてみましょうぞ!」

 そしてすぐに、こうも言った。

「しかしながら、何せ、出血が多すぎる。よいか、この病人を、決して動かしてはなりませぬぞ!ここ四、五日が、大きな峠となろう。非常に困難ではあるが、それさえ乗り切れば、何とか望みが出るやも知れぬ。ともかくは、やってみるまでじゃ《わし》はこちらに泊まり込むゆえ、どなたかを我が屋敷へやって、さいにそのむね、伝えては下さらぬか」

「は、はい!ありがとうございます!!]


 メイミンの声は、不安と、そして一条の光を得た喜びとに、ともすればふるえがちであった。


 それからの数日間にわたる日々は、彼らにとって、まさに『死』との闘いの毎日であった。

 一進一退を頻繁ひんぱんに繰り返す世凰シーファンの病状は目がはなせず、又、息も抜けず、極度の緊張の中で死神と対峙たいじする病室内には、一種の悲壮感ひそうかんすらただよっていた。

 しかしながら、ツァオ博士の、いわば医師生命をけたとも言える献身けんしん的、つ適切な治療ちりょうと、メイミンの、文字通り不眠ふみん不休ふきゅう看護かんご、そして何よりも、彼自身の強靭きょうじんな生命力とによって、世凰シーファンは幾たびかの死線を乗り越え、ごくわずかずつながら、容態は快方へと向かい始めたのである。

 だが、当然のことながら、完全に昏睡こんすい状態から脱するまでには至っていない。

 さらに十日後になって、その日の診療を終えたツァオ博士が、メイミンに向かって言った。

「恐らく、最も危険な状態は、すでに脱したであろう。あとは、この御仁ごじんの体力が回復するにつれて、傷もえて来る。わし一旦いったん、屋敷に戻るゆえ、もしも何か変わったことがあったなら、すぐに知らせなされ。可能な限り、二、三日置きには来て見る積りではいるがの」

 そのあとで、彼は急にしみじみとした口調になった。

「それにしてもそなた、何と、ようくされたのう。いや、若いということは、よいものじゃ。まっこと、よいものじゃて・・・」

 感に耐えぬ様子でそう言い残し、十数日ぶりに、自分の屋敷へと戻って行った。

 半月近くもの間、メイミンと同じく、ほとんど一睡いっすいもせず、心血しんけつそそいで世凰シーファンの治療に専念し続けたツァオ博士の心労しんろうたるや、若いメイミンの比ではあるまい。

 年齢的に見ても、当然、その極地に達している筈であった。

 にもかかわらず、彼は、医師として一人の若者の命を救い得たことに無上むじょうの喜びを感じつつ、心持ち覚束おぼつかぬ足取りで、上機嫌じょうきげんに去ってゆく。

 その後ろ姿に向かって、メイミンは、ありったけの感謝の念をめ、深深ふかぶかこうべれるのだった。


 ツァオ博士を見送ったメイミンは、別室で横になるようすすめるルイニャンたちを振り切り、再び、まっすぐに世凰シーファンの病室に取って返した。

 ただ一人、彼の枕辺まくらべに座る彼女は、連日連夜の献身けんしん疲労ひろう困憊こんぱいし、目の下にはうっすらと、黒いくままで出来ていた。

 けれども、今、彼女の心身をたすのは、疲労感などではなく、限りない至福感しふくかんであった。

〈私はとうとう、この方をお助けすることができたのだ!〉

 その喜びが、ふいに彼女を涙ぐませ、よりやさしい視線を世凰シーファンの寝顔にそそがせる。

 濃い眉の下の美しい彼のは、まだかたく閉ざされたまま、くっきりと長い睫毛まつげを見せているばかりだったが、そのほおあたりには、ほんのりと赤味がし始めている。

 ひいでたひたいに、と乱れかかった黒髪、見事に通った高い鼻梁びりょう、そして、やや肉厚にくあつの、形の良いくちびる・・・。

 彼の美貌を形成する逸品いっぴんの一つ一つが、すべて、少しずつ生気せいきを取り戻し、息づき始めていた。

〈何て、お美しい男性かたなのだろう‼〉

 メイミンつくづく感嘆し、同時に又、熱い溜息ためいきも落とす。

何故なぜ、あなたのような方が、人間としてこの世に生まれておいでになったの、世凰シーファンさま!?〉

 何とも不思議な気がした。

 けれど、寝台の側の脇机に並べられた、高雅こうが翡翠ひすいかんざし一振ひとふりの短剣とを見るたびに、メイミンはたまらなく、切ない気持ちになってしまう。

 中でも、とりわけ翡翠ひすいかんざしが、彼女の乙女心をき乱すのだった。

 世凰シーファンが、瀕死ひんしの重傷を負いながら肌身はだみはなさず、内懐うちぶところの奥深くに守り抜いて来た品々に、果たしてどんな由来ゆらいがあるのか知るよしも無く、メイミンはひたすら心まどわせる。

〈どなたのかんざしかしら?この方が、これほどまでに大切になさるからには、よほど愛する方のものに違いないけれど・・・〉

 悲しい・・たまらなく悲しい・・・。

 だが、どうしようもないことだった。

 そうと解ってはいても、やはり悲しい―恋する女心というのは、なぜ、こんなにもいじらしいのだろう?

〈きっと、この方にふさわしい、美しい女性ひとに違いない・・私などが、いくらおしたいしたところで、どうなるものでもないのに・・・〉

 涙がこぼれそうになったメイミンは、そこで急に我に返り、思わず自分をしかりつけた。

〈何を考えているの、馬鹿なメイミン!!今は、そんな時じゃないでしょう!?あなたという人は、本当に、何て恥知はじしらずな女なのかしら!?〉

 気を取り直し、再び世凰シーファンの顔に視線を転じた彼女は、彼の額にうっすらと汗がにじんでいるのに気づいて、ころもそででそっとぬぐってやり、乱れかかった前髪を、指先で整えてやった。

 こうして、誰に見咎みとがめられることもなく彼の黒髪にれられるのも、今のうちだけなのだ。

 メイミンはまたも、切なさに嘆息たんそくした。

 その時である。

 何の前触まえぶれもなくしつの扉が開き、わずかなその隙間すきまからルイニャンの顔が、これまたほんの少しだけのぞいた。

「お嬢様。もし、お嬢様!・・・」

 ルイニャンひそやかに呼びかけた。

「なんですルイニャン、お行儀ぎょうぎの悪い!ちゃんと外から、声をおかけ‼」

 メイミンは、先程さきほどからの自分の行動はおろか、心のすみずみまでも、残らずルイニャンに見通されてしまったかのような錯覚さっかくおちいり、ひどく狼狽ろうばいして、我知らず、彼女をしかりつけてしまった。

 恥ずかしさにほお火照ほてり、赤く染まっているのが、自分でもよく解る。

「はい、申し訳ございません、お嬢様。でもちょっとだけ、こちらにおいでになって下さいまし」

 何も知らないルイニャンは、メイミン突然とつぜん見幕けんまくに多少、驚きはしたものの、なおも声をひそめて、彼女を呼ぶのをやめない。

 メイミンは仕方なく椅子いすから立ち上がり、世凰シーファンを残して廊下へ出た。

「なんなの?早くお言い!」

 彼女は相変わらず、機嫌が悪い。

「はい。申し上げますわ。お嬢様」

 なんだってお嬢様は、こうも御機嫌ななめなのだろう?それに、とても赤い顔をなすって・・・。ひょっとしたら、看病疲れで、お熱でもおありになるのじゃないかしら!?・・・などと、心配したりいぶかったりしながらも、ルイニャンは、小さな声で話し始めたのだった。

「実はね、お嬢様。他でもないあの方のことなんですけど・・・」

「あの方がどうかして!?」

 ルイニャンの言葉をはねつけるように、メイミンは切り口上こうじょうで聞き返した。

「まあ!そんなにこわい顔をなさらないで下さいましな!」

 ルイニャンは、目を丸くして当惑する。

「いえね、どうやらあの方、シュエン朝のおたずね者らしいんですの。ほら、またおにらみになる!・・ほんとにもう、何なんですの⁉あ、いえいえ、ごめんなさいまし・・それでね、あの方、謀反人むほんにんということになっていて、街中、人相書きで一杯・・これ、何夫ホーフーが言ったんですのよ。あたしが言いふらした訳じゃございませんわ!だから、いちいちにらみつけないで下さいまし!」

「えーっと、何処どこまででしたっけ?あ、そうそう。何でも、先日、シュエンの軍勢がフェン家のおやかたに踏み込んで、沢山の人を殺した挙句あげく、おやかたに放火までしたんですって!本当に非道い奴らですことね‼この間の火事は、それだったんですわ。で、その時にシュエンの何とかという将軍とたたかって、重傷を負ったまま逃亡なさったあの方を、今、シュエン軍が総出で、探索たんさくの真っ最中・・・」

ルイニャン、いいからもうおやめ!」

 メイミンは、一気にまくし立てていつまでも止まりそうにないルイニャンを、きびしい口調くちょうで押しとどめた。

「でも、お嬢様!」

「いいから!もうおやめと言っているのです!!」

 メイミンはとうとう、語調でふせせるようにして、ルイニャンに口をつぐませてしまった。

 せられて、だまり込むしかなかったルイニャンは、まったくもってあきれ返った。

 今までにただの一度として、彼女は、女主人のこんなにも激しい語気を聞いたおぼえが無かったからである。

〈お嬢様。あなたはやっぱり、この方を・・・そうなんですの!?〉

 ルイニャンの胸のどこかが、その時なぜか、ほんの少し甘酸あまずっぱく痛んだ。それが何ゆえの痛みであったのか、彼女自身にも解らないのだが・・・。

「うぅ・・」

 苦しげなうめき声に、二人は同時にギョッとして、室内に目を転じた。

 どうやら世凰シーファンが、悪夢にうなされ始めたようだ。

 メイミンは、咄嗟とっさに身をひるがえすや室内に走り込み、彼の枕辺まくらべに駆け寄るなり、その顔をのぞき込んだ。

 世凰シーファンは、しきりにくちびるを動かして、何かを言おうとしている。

 ひたいには、幾つもの玉となって脂汗あぶらあせが吹き出し、少なからぬ発熱のために、まぶたからほおにかけて、ぼうっと薄紅色うすべにいろ上気じょうきしていた。

世凰シーファンさま、しっかり!しっかりなさって‼」

 メイミンは気が気でなく、その名を呼びかけては、せわしく手を動かして、無く流れ落ちる汗をぬぐい続けるのだった。

ツァオ博士を呼びにやりましょうか?もし、お嬢様!」

 ルイニャンの声さえも、彼女の耳には入らない。

そのうちに、世凰シーファンの容態が、次第しだい尋常じんじょうならざる様相ようそうていし始めた―。

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