第15話《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-1-

 パイ家の山荘は、ツァイリン郡・ハイフォン山の中腹あたりに、その瀟洒しょうしゃたたずまいを横たえていた。

 一族の中でも、特に一人娘のメイミンは、どういうものか、幼い頃からこの山荘を好み、チューリンにあるパイ家のやかたよりもここで過ごす時間の方が長く、ほとんど一年中を暮らしていた。

 ある日の午後。

 メイミンは、山荘の窓からまっすぐ西の方角に、巨大な火柱が立ち、天をがして燃え落ちるのを見た。

「ねえ、あれは何事かしら?」

 何かただならぬものを感じて、彼女はかたわらに控えている自分付きの侍女・ルイニャンに問いかけた。

「さあ、くわしい事は解かりませんけれど・・お屋敷の者たちの話では、どうやらカントン辺りの大きなおやかたが燃えているのだとか・・火事でも起こしたんじゃございませんの?」

 利発りはつルイニャンは、栗鼠りすのようなをくりくり動かしてはハキハキと答えたが、実のところ彼女も、くわしい事は何一つ知らないのである。

「そう、お気の毒にね・・・」

 そう言ったきり、メイミンはもう二度と、その話題にれようとはしなかった。

 その夜―。

 いつもより早目にとこいた彼女は、実に不可思議な夢を見た。

 そこには、忘れ得ぬ男性ひとがいた。

 言うまでも無く、二月ふたつき足らず前、あまりにもあざやかに彼女の前に現れ、その胸に生まれて初めてのを置き去りにしたきり、風のように去って行った白衣の貴公子・フェン世凰シーファンである。

 あの時、彼が自らのそでぐちを引き裂いて彼女の右手を包んでくれた白絹のはしは、メイミン自身の手で丁寧ていねいに洗われ、今も大切にほうせきばこ片隅かたすみに秘められていたし、彼のその手当のおかげで、傷は全く跡を残さず、きれいにえてしまっていた。

「その節は、まことにありがとうございました。是非とも、今一度お目にかかってお礼申し上げねば、と気になっておりましたので、こうしてお会いできましたことが、何よりうれしゅうございます」

「あれくらいのこと、気になさるものではありません。それより、こんなことを申し上げて、失礼だったらお許し下さい」

 メイミンが声を弾ませて礼を述べると、彼は光り輝く美貌をやさしくほころばせ、優雅ゆうがに白扇を使いながら、先にびておいて、メイミンを見つめ、こう言った。

「どこがどう、と言うのではないのですが、あなたは、私の姉にとてもよく似ていらっしゃる!あなたとお話していると、まるで、姉がそこにいてくれるような気さえ致します」

「まあ!私が、あなたのお姉さまに⁉それで、お姉さまは今、どちらにおいでですの?」

 彼女の言葉ににわかに瞳をかげらせた世凰シーファンさびしそうに、ふっと微笑した。

「姉は・・・死にました。私の身を思いやる余りに自害してしまいました。そして、私ももうじき、姉のもとへ参ります・・・」

 謎めいた一言ひとことを残し切らぬうち、彼はかき消すように姿を消した。

 メイミンぎょうぜんと息をみ、次にはせわしなげにあちこちを見回して、彼を探し求めた。

 すると、満々まんまんと水をたたえて流れる大河をはさんだ向こう岸に立つ、世凰シーファンが見える。

 けれど、その顔は、どういう訳かひどくあおざめ、さらに驚いたことには、彼の白衣は血だらけだった。

世凰シーファンさま!」

 思わず河の中に足をみ入れようとしたメイミンの眼前、突如として大河は巨大な火柱となり、天高く立ち昇った。

 二人の間をへだてた紅蓮ぐれんの炎は、轟音ごうおんと共に低く地上へ棚引たなびいて、みるみるうちに向こう岸へとってゆき、そこに達するや、再び、一気に燃え上がって、世凰シーファンの体を押し包んだ。

メイミンっ‼」

 だんまつの彼の絶叫ぜっきょうを、夢とも思えぬ生々なまなましさで聞いて、メイミン目覚めざめた。

「どうなさいましたの、お嬢様⁉」

 彼女の顔を心配そうにのぞき込むルイニャンのまなざしが、すぐ目の前にあった。

「なんだか、ひどくうなされておいでなんですもの!『河が』だとか『火が』だとか・・・」

 そう言いながらルイニャンは、そっとメイミンひたいに手を当てた。

さいわい、お熱は無いようですわね。でも、まあ、こんなに汗をおかきになって!お寝間着までびっしょりじゃございませんか⁉早くお着換きがえなさいまし、風邪かぜでもおしになっちゃ、大変ですもの‼」

 早口にまくし立てる一方で、ルイニャンは、まだ呆然ぼうぜんとしてとこの上に座ったままのメイミンに、甲斐甲斐かいがいしく着換きがえをさせてやったのだった。


 その夢からめた直後に、メイミン苦悩くのうは始まった。

〈なぜ、今日きょうに限って、あの方の夢を見たりなどしたのかしら⁉いつもは、いくら見たいと思っても、一度も見ることができないのに・・・〉

 彼女は、しきりに胸騒ぎを感じた。

〈もしかしたら、あの方の身に何かあったのかもしれない。昼間見たばしらは、確かに広東カントンの方角だったし、フェン家のお屋敷も、広東カントンにある・・・〉

 以来、彼女はとこにつくたびに、何とも得体えたいの知れぬ悪夢にさいなまれるようになり、そのため夜も眠れず、食事さえも、ろくにのどを通らなくなってしまった。

 早速さっそく、山荘の乳母うばからその報告を受けたメイミンの父・パイミンシオンは、娘の突然の異変振りに大いに気をみはしても、原因をつかみかね、どうしたものかと苦慮くりょするばかりである。

 そうこうするうちに、数日がった・・・。

 そのも、メイミンは眠れぬままに、さんざん寝台の上で寝返りを打った末、夜明け近くになってついに起き上がり、ルイニャンを起こさぬよう気をくばりながら、足音を忍ばせて居間を出た。

 メイミンを心配する余り、ルイニャンは、何日間も彼女の寝台の側でしんばんをした挙句あげく、今は前後ぜんご不覚ふかくに、居眠りの真最中まっさいちゅうだったのだ。

 屋外おくがいへ出たメイミンは、淡い群青ぐんじょういろに変化してゆくあかつきの空を見上げ、消え残る星々の微妙なまたたきを数えて、ほうっと大きな溜息ためいきをついた。

 明け方の冷気が、ひんやりと彼女のほおで、薄絹の上衣を通して夜着やぎの中まで忍び込んで来るが、うっすらと汗ばんだ肌には、いっそ心地ここちよい。

〈思い切って、誰かを広東カントンへやって調べさせようかしら?とてもこのまま、じっとしてはいられないもの・・・〉

 そんなことを思いあぐねて、イメミンは薄明かりの中をあちこちと逍遥しょうようするのだったが、ふと気づいた時には、いつの間にか山荘の外にまで出て来てしまっていた。

 誰にも見咎みとがめられなかったところを見ると、さては門番の何夫ホーフーも、ルイニャンと同じく、居眠りを決め込んでいるらしい。

無用心ぶようじんだこと!」

 半分あきれ気味につぶやきはしたものの、メイミンは思わず笑ってしまた。

 が、その直後、彼女の瞳は異様な光景をとらえ、大きく見開かれたきり、動かなくなった。

 彼女が立っている場所から、やや前方にくだったあたりで途切とぎれる奥深いぞう木林きばやしはしに数本立ち並ぶシャン椿チェンの、みきの一本に体を預け、息もえに立っている人間がいた。

〈誰なの?こんな時刻に、こんなところで、何をしているのかしら⁉〉

いぶかあやしみ、メイミンは、知らず知らずのうちに体をかたくしていた。

 そのくせ、すぐにその場を立ち去ることが、なぜか出来ずにいるのだ。

 そして、次第しだいに明るさを増してゆく早朝の光の中で、その人間の輪郭りんかく徐々じょじょに明確になるにつれ、彼女の胸は、明らかに波立ち始めた。

 それは、まだ、うら若い男だったが、体力のすべてを消耗しょうもうし尽くし、見る影もなくやつれ果てていた。

 もともと純白であったろう着衣は無残にも引き裂かれ、おびただしい血痕けっこんで赤黒く変色している。 

 もはや、顔を上げることもかなわぬのか、黒髪が好き放題に乱れかかったその面差おもざしは、まぎれもなく―

 ―でも、でも何故なぜ⁉・・・。

 メイミンは、息が止まりそうになった。

フェンさまっ‼ フェン世凰シーファンさまっ‼」

 絶叫ぜっきょうと言うべき声で、何度もその名を呼び、彼女はすその乱れも眼中には無く、夢中で彼のかたわらに駆け寄った。

 彼女のその声が、今にも気を失いかけていた世凰シーファンの意識を、一瞬、呼びました。

 彼は、相手を確認しようと痛々しく憔悴しょうすいした瞳を上げた。

「あ・・・あなた・・・は?・・・」

 しかし、ただ、それだけの言葉がくちびるかられたのみで、顔も見極みきわめることが出来ず、くずれるようにその場に昏倒こんとうして行った。

 その体をあやうく抱き止め、渾身こんしんの力で必死に支えながら、メイミンは、忘れ得ぬひととのあまりにも衝撃的な再会に動転し、なか錯乱さくらん状態となって、かつてこの娘には無かったほどに取り乱した。

ルイニャンっ‼ルイニャンったら‼いいえ、誰でもいいから早く、誰か、早く‼」

 あらん限りに絶叫する時ならぬメイミンの声に、それが何と山荘の外から聞こえて来ることに、それこそびっくり仰天ぎょうてんして、すわっとばかりにたちま)ち七、八名の者たちが、り刀でせ参じて来た。

 ところが、である。

 彼らはまたまた、仰天ぎょうてんしなければならなかった。

 何せそこには、彼らの女主人が、夜着やぎの上に薄絹うすぎぬ一枚羽織はおったきりのあられもない姿ですそを乱し、片方は裸足はだしになり、さらにさらに、あろうことか血塗ちまみれの若い男を抱きかかえて、顔を引きらせているのだから!・・・。

 一同は皆、打ちそろって、口あんぐりとあきれ返るばかりであった。

「何をしているのです⁉」

 メイミンは、そんな彼らを、もどかし叱咤しったした。

「早く早く、この方を、屋敷なかへ運んで差し上げて頂戴ちょうだい何夫ホーフー、お前は一刻も早く、ツァオ博士を‼」

 パイ家の山荘は、時ならぬ大騒ぎとなった。

 ともかくも、世凰シーファンを一室に運び込んで応急手当をほどこし、湯をかし、着換えを用意し―等々などなど、召し使いたちは総出で、山荘の内外をいそがしく動き回った。

 丁度、朝食のぜんにつこうとしていたパイ家代々の主治医・ツァオシュエリャンが、好物のあさがゆを断念して、急遽きゅうきょ、助手と共に山荘に到着したのは、それからしばらくのちのことであった。


 そのかんメイミン片時かたとき世凰シーファン枕辺まくらべを離れず、ボロ切れ同然になった着衣ちゃくいがせ、侍女が控えているにもかかわらず、一切いっさい彼女たちの手を借りようとはせずに、耳の付け根まで羞恥しゅうちあか火照ほてらせながらも、自らの手で彼の体をき清めてやり、清潔な夜着やぎに着えさせてやった。

 あれやこれや、こまごまと、甲斐甲斐かいがいしく怪我人けがにんの世話を焼く女主人の姿を、ただ呆然ぼうぜんと手をこまねいて見守っているしか能の無かった侍女たちは、しつを出入りするたびに、ひそかにささやき合った。

「ねえねえ!ずっと男嫌いで通して来られた、あのお嬢様がよ、御自分から殿方のお着えをさせてお上げになるなんて、あんた信じられる?」

「それもさ、直接、お手であの方の肌にれたりなんぞなさって、すみからすみまで、それこそめたみたいに・・・キャッ、あたしったらっ!でも、ほんとなのよ。ほんとにそのくらいきれいに、いて差し上げなさったの!あたし、目をうたがっちゃった‼」

「でもさぁ、ほんっとに、なんていい男なんだろ⁉あんな美しい殿御とのごになら、あたしだってくしてあげたくなるわよ。こう、やさしくでたりなんかしちゃってさ!」

「やーね、あんた!お嬢様と張り合おうっての⁉」

「シッ、ルイニャンが来たわよ‼」

 なんとも口さがなくさえずり合いながら、それでも彼女たちは一様いちように首をかしげ、異口同音いくどうおんに『信じられないわ、あたし!』を、繰り返した。

 しかし、一番戸惑とまどっていたのは、他ならぬメイミン自身であった。

 無論、異性の体を直接たりにすることなど、生まれて初めてだったし、ましてや、我が手でそれにれるなど、考えてみた事もない。

 当然、ひとかたならぬ羞恥しゅうちしんはあったものの、実に不思議にも、嫌悪感けんおかん微塵みじんもなかった。

 なぜこんな気持ちになれるのかは、自分でもわからない。

 〈この人を助けたい‼〉

 ただ、その一途いちずな想いだけが、狂おしいまでに、内側から彼女を突き動かし、処女のはじらいさえも乗り越えさせたのである。

 彼女はまだ、はっきりと気づいてはいないにせよ、それはまぎれもなく『愛』であった。


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