第14話《二》凶刃魔拳(じゅうりん)-2-


話は前後するが。

 シュエン軍が踏み込んだ直後のフェン家に駆けつけて来た一人の女がいた。

 忍び装束しょうぞくと身を固め、さながらひょうを思わせるしなやかな肢体したいと、野性味あふれる鳶色とびいろの瞳とをあわせ持ったその美しい女は〈無念!遅かったか‼〉白壁のへいの屋根で口惜くやしさに唇をみ、ひらり、とあざやかな身のこなしで屋敷やしきうちに飛び降りた。

 彼女は、人を探していた。

 恋がれるその男性ひと是非ぜひとも我が手で救い出したかった。

 シュエンの軍勢が突入する前に彼を脱出させる積もりが、ある手違いが生じたために、間に合わなかったのだ。

 女の名は、ウーチュイリン

緋賊フェイツェィ』と呼ばれる北方の土豪どごう集団の頭領とうりょうウーチェンクンの一人娘でありながら、彼女はほんの半月前まで、浮き草暮らしに明け暮れる、しがない妓女ぎじょに身をとしていた。

 けれども、半月前の夜にしくも出合った一人の若者が、彼女を泥沼どろぬまの中から救い上げた。

 とは言っても、彼が、何か特別なことを彼女にしてくれた訳ではない。

 ただ―『生きざま』を見せてくれた。

 逆境のさなかにあってなお、いささかも誇りを、気高さを失うことなく、昂然こうぜんと顔を上げて行手ゆくて見据みすえる至純の魂がこの世に存在するのだ、という真実を身をって彼女に教えてくれたのだ。

 チュイリンは、自分をじた。

 父の後妻のちぞえとの折り合いが悪いという理由だけで、家も故郷も捨て、十七の時から六年もの間流浪るろうした挙句あげく自暴自棄じぼうじきとなり、ついには妓女ぎじょにまでみずからをおとしめた我が身を、心底、じた。

 即刻そっこく苦界くがいから足を洗った彼女は、本来の侠女きょうじょの姿に立ち戻り、熱い義侠ぎきょうの血をよみがえらせたのだった。

 同時に、フェン世凰シーファンという名の、その若者を、彼女は激しく愛するようになった。

『火の女』チュイリンにとって、愛することはすなわち、命をけることに他ならない。

 以来、彼女は、ひそかに世凰シーファン身辺しんぺんに気を配るようになった。

 そして、今日きょう

 にわかに不穏ふおんな動きを見せ始めたシュエン軍の司令官・ヤンティエユイやかた潜入せんにゅうし、あわただしくも即日の出動が決定されたのを突き止めるや、彼女は世凰シーファンに急を知らせるべく、すみやかに立ち去ろうとしたが、突如とつじょ立ちはだかった黒装束の一団と、心ならずもやいばまじえることとなった。

 主に北方に伝わる峻烈しゅんれつの剣流『胡蝶こちょうらんけん』の達人として、女といえども天才的な剣技の持ち主であったチュイリンは、追いつ追われつの激闘の末に、十名中四名の敵を斬殺ざんさつし、彼らを振り切って、ようやフェン家の屋敷に辿たどり着いたのだった。

 だがしかし、今一歩遅かった。

 この上は、一刻も早く世凰シーファンを見つけ出し、その逃亡を助けるよりほかに道は無い。

 かつて『緋賊フェイツェイ一』と折り紙をつけられただれれにふさわしく、誰の目にもれることなく血闘のちまたを駆け抜けながら、彼女はただひたすら、愛するひとの無事な姿を探し求めた。

 その眼前に、血にまみれて累累るいるいと横たわる多くのしかばね・・・。

 それらの顔を一人一人確認するたびに、ほっと胸をで下ろし、短く手を合わせては歩いていたチュイリンは、一組の男女の遺骸むくろの前で、思わず足を止めた。

 若者の体をかばうように折り重なって、女は息絶えていた。

 全く何の容赦ようしゃもなく、力任せに斬りつけられたと思われる深い刀傷は、背中一面を無残にいて骨まで達し、今もって鮮血を流し続けている。

 にもかかわらず、そばかすだらけのその顔は不思議に安らかで、苦悶くもんかげも見えず、うっすらと微笑ほほえみさえ浮かべていた。

 大方おおかた、彼女の下に横たわる若者は、夫か恋人なのであろう。

 愛する者と生死せいしを共にするという、女としての究極きゅうきょくの喜びを、彼女の微笑は雄弁に伝えていた。

〈幸せなひと!〉

 チュイリンはそっと瞑目めいもくし、足早にその場を去った。

 やがてののち、ついにチュイリンは、はるか裏庭の一角で、白壁を背に絶体絶命の窮地きゅうちに立つ世凰シーファンの姿を、その瞳にとらえたのである。

 だが、ここから駆け付けたのでは―。

〈間に合わぬ‼〉

彼女は、かたわらに打ち捨てられていた一本の手槍てやり咄嗟とっさに拾い上げるなり、今まさに間合いを詰めようとする敵にめがけて、渾身こんしんの力をめて投げつけた。

 が、敵もさるもの、槍は目標を失って、むなしく地面に突き立ったのみであった。

 それでも一瞬もたらされたつかの空白をさすがに見逃さず、世凰シーファン間一髪かんいっぱつ窮地きゅうちを脱し、傷つきながらも、やかたの外へと姿を消した。

 それを見届けるがはやいか、チュイリンもまた身をおどらせ、彼のあとを追うべく、へいを乗り越えたのだった。


 彼女がやかたの外へ降り立った時には、はや世凰シーファンの姿は視界に無かったが、点々と地面にしたたる鮮血が彼の行方ゆくえを示していた。

〈東へ向かわれたか⁉〉

 ここから東といえば、紫雲ズーユン山の方角である。

 それにしても、少なからず傷ついた体で、くまで迅速じんそくに身をしょするとは!・・・チュイリンは内心、舌を巻いた。

 裏門からその時、どやどやといて出た烏合うごうやからをやり過ごし、残された血痕けっこん辿たどって、長いへいのようやく途切とぎれる曲がり角まで来た彼女は、その死角しかくに横たわる若い男に行き当たった。

 死んでいるのだと思い、合掌がっしょうして通り過ぎようとしたチュイリンが、ふと気づいてかがみ込み、その首筋に手を当てた瞬間―彼女の運命は決したのである。

〈まだ、生きている!〉

 相当な深傷ふかでではあったが、すぐに手当をすれば助かるかもしれない。大きく前方へ差し伸ばされた彼の手は、必死に誰かのあとを追い求めようとして果たせなかった無念さを語って、余りある。

 そう思いをめぐらせた時、チュイリンは突然、予想だにせぬ激しさで胸をかれた。

〈もしかすると、この若者もまた、世凰シーファンさまのあとを追おうとしたのでは⁉〉

 見知らぬ若者の心情が、なぜか手に取るようなあざやかさで感じられて、彼女は、そんな自分自身に戸惑とまどった。

〈私は一刻も早く、あの方を追わねばならぬ!しかし、みすみす、この男を見殺しにも・・・〉

 く短い時間のうちに、チュイリンは何度も激しく躊躇ちゅうちょしたが、彼女のなかにふつふつとたぎ義侠ぎきょうの血が、そして目の前の傷ついた若者とあい呼応こおうした『何か』が、彼をこのままに見捨てて世凰シーファンを追ってゆくことを、ついに許さなかった。

「お許し下さいませ、フェン様‼」

 チュイリンは、血の涙を流して彼にび、後髪うしろがみ引かれるつらさに身も心もさいなまれながら若者を抱き起して、信じられぬ力でその体をかつぎ上げるや、何処いずこへともなく、忽然こつぜんと姿を消したのだった。


 その数刻後。

 世凰シーファンの姿は、フェン家のやかたを西の彼方かなたに見下ろす紫雲ズーユン山の中腹にあった。

 やかたは、燃えていた。

 シュエン軍がはなったのであろう紅蓮ぐれんの炎に包まれて、すさまじい火柱ひばしらと化し、天をがし続けている。

 誇り高きフェン一族の、まさに象徴であった壮大な城は、やがて焼け落ち、無残な瓦礫がれきとなってち果ててゆくことだろう・・・。

 気も遠ざかりそうな傷の痛み、多量の出血のために、幾度となく襲い来る眩暈めまい・・・それらに歯を食い縛って耐え、世凰シーファンは、二度と再び帰ることなき我が家に、永遠とわの別れを告げるのだった。

 断腸の思いが、彼の胸をき乱してやまぬ。

 それは、帰るべき場所を失った悲しみにもまさる、多くの朋友ともたちを犠牲にしてしまったことへの深い悔恨かいこんの情であった。

〈許してくれ。みんな‼・・・〉

 こうべれて目を閉じた途端とたん、彼は激しく咳込せきこみ、あやうく、傍らの松のみきすがって体を支えた。

 せきは止まることなく続き、口許くちもとを押さえた左手の指すべての隙間すきまからは、あとからあとから、ない鮮血があふれ出して来る。

 その血量けつりょうの余りの多さが、見るも無残に血を流し続ける右側の傷よりむしろ、体内に受けた損傷が容易ならざる状態にあることを、端的たんてきに、彼に告げていた。

 このままでは、九死に一生を得て脱出して来たことが、まるで意味の無いものになってしまう。

 世凰シーファンは、万一の時の為にとツージュエ禅師よりさずけられ、常に身につけていた、禅師手製にる翔琳寺秘伝の丸薬がんやくおびの間から取り出すと、すぐさま口中に投げ込み、そのまま一気に飲みくだした。

 たちまち、のどの奥で、血塊けっかい丸薬がんやくとの猛烈もうれつ相克そうこくしょうじ、彼は先程さきほどよりももっと激しく、その場にうつぶせになりながらせきみ続け、さらにおびただしい吐血とけつに苦しんだ。

 しばらくの間そうやって血を吐き続けたのちに、やっと体を起こした彼は、よろめきもつれる足でどうにか立ちあがり、無い身をかすかに残った気力に委(ゆだ)ねて、山中深く、当ても知らずに分け入って行った。

 それからのほぼ四日間というもの、世凰シーファン間断かんだん無くと言っていいほど頻繁ひんぱんに血を吐き、その上高熱に浮かされもして、何処いずことも定かでないあちこちの山中を、幽鬼ゆうきとなって彷徨さまよい歩いたのである。

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