第12話《一》 静暇嵐襲(あらしのまえ)-2-


―そして彼女は、リェン老人が見込んだその気質にたがわぬ、どこまでも真摯しんし、且つよどみない口調で、あのヤンティエユイの屋敷の植え込みのかげで酔いをましていた折に偶然耳にした、ヤンツイワンシウとのやりとりを、一言もらすことなく、つぶさに語ってくれたのである。

〈思った通りヤンシュエン朝のやからが絡んでいたのか!その上・・おのれ、ツイワンシウめ‼〉

 世凰シーファンの胸に、新たな怒りが、烈火れっかの如く燃え上がった。

〈断じて許さぬ‼〉

 彼は思わず椅子から立ち上がり、両のこぶしを握りしめながら、強く唇をんだ。

 これではっきりと、憎むべき仇敵きゅうてきの姿が浮かび上がり、彼の目指めざす方向が定められた。

 ヤンはもとより、イェン将軍をも含めたシュエン王家の影を内心では疑いながらも、確証を持たぬために、じりじりと熱い焦燥しょうそうに身をがすしかなかった世凰シーファンにとって、それは、やみ突如とつじょ投げ込まれた光にも匹敵ひってきする、全く思いもかけぬ朗報ろうほうであったと言えよう。

かたじけない‼よく知らせてくれた。そなたに何か、礼をしたいのだが・・」

 しかし、女はまたもや、首を横に振った。

滅相めっそうもございませぬ!そのようなお気遣づかいは、無用むようになされませ。ただただ、この身に余るリェン様のおなさけに対し、せめて御恩返しの真似事まねごとなりともさせて頂きたい一心から、お耳をけがしたまでのことにございます・・万一お役に立てましたならば、さいわい。ならば、わたくしはこれにて・・・」

 いさぎよく立ち去りかけた女は、ふいに立ち止まり、しみじみとした口調で世凰シーファンに言った。

フェン様・・・今宵こよいあなたさまにお目にかかれましたことは、まさしく・・・この身の幸せでございました!」

 ついに最後まで、顔をはっきりとは見せず、また名乗りもせず、女は幻のように闇に溶けた。

〈何者であろう?とても、ただ者とは思えぬが・・・〉

 いぶかりながら世凰シーファンは彼女の消え去ったほのやみを見詰めていた。

「お済みになりましたかな・・」

 丁度ちょうどそこへ再び、リェンシェンチェンが戻って来た。

「あのおなごの申すこと、世凰シーファン様にはお信じ頂けましょうや?」

 いかに自分が保証したところで、果たして彼がどう受け取ったか、シェンチェンには少なからず気がかりであったらしい。

 だが、彼女の真摯しんしな話し振りを聞いた世凰シーファンは、その言葉に嘘の無いことを確信していた。

「はい。私は、あの者は信ずるにる人物だと思っております」

 彼の瞳が、しょくだいわずかな光を吸収して黒曜石こくようせきのようにきらめくのをある種の感動をってながめやりながら、シェンチェンは、ほっと胸をでおろしたのだった。

「ようござった!それをうかごうて、この身も安堵あんど致しましたわい。お役に立てて、何よりじゃ」

 彼は、心底しんそこ満足そうであった。

 その彼に向って世凰シーファンは、心の内にあるそっちょくな疑問を投げかけた。

リェン小父上おじうえ先日来せんじつらい度重たびかさなる御厚意に、世凰シーファン、お礼の言葉もございませぬ。しかしながら、小父上おじうえは何ゆえに、御身おんみかえりみられず、かほどまでに過分かぶんなるお力えを私にたまわるのでしょうか?」

 彼の問いには答えず、リェン老人は、しげしげと世凰シーファン面差おもざしを見詰めていたが

「よう、似ておられる!・・・まことお手前は、亡き母君・シウリー殿に生き写しじゃ・・・」 感にえぬ様子でそう言ったあと、ふと、照れたような微笑を見せた。

 世凰シーファン脳裏のうりにその時、いつの頃かも定かでない遠い日の記憶が、唐突に蘇(よみがえ)った。

 あれは、幾つの時だったろう?

 まだ、ほんの幼い世凰シーファンに『お母様に会いとうなられたら、鏡を御覧なされ・・そなたはお母上にうりふたつゆえ、そなたの顔が、そのまま、お母上のお顔じゃ』やさしい声でそう言ってくれた誰かは、顔はおぼえてはいないが、もしや-もしやリェンシェンチェン、その人ではなかったのか?

 その昔、この大人おとなしい老人の胸の内には、どのような熱い想いが秘められていたのであろう⁉・・・リェン家をして夜道を急ぎながら、世凰シーファンは、顔さえ知らぬままに死別した母が、なぜか無性むしょうなつかしく、また、恋しく思えてならなかった。


 さて、ここ最近の世凰シーファンの噂を聞くにつけ、心中しんちゅうおだやかでなくなったのは、例のツイワンシウである。

〈あのせがれめ、今頃は間違いなく腑抜ふぬけけとなって、立ち上がる気力もせておろうて。どれ、そろそろほうり出して、野たれ死にでもさせてやるとするか!・・〉

などと、一人えつっていた矢先だけに、その『せがれ』をしたって、またたくうちに、何と三十名以上の若い武芸者たちが集まって来て起居ききょを共にし、意気いきけんこうに毎日を送っているという話は寝耳に水。

 さらに『さすがはフェン家の若君!やはり、人の上に立つ器量を持って生まれついていなさる。若い身空みそらで、かほどの逆境にありながら、あの神々こうごうしいばかりの雄雄おおしさ、凛凛りりしさはどうじゃ⁉』『手許てもと不如意ふにょいにもかかわらず、ぞくに殺された使用人の家族すべてに、相当額のつぐないをなされたというぞ。なかなか出来ぬことよのう』『こちとら下々しもじも風情ふぜいなどとは、所詮しょせん、人間のからして違うわさ!』

 日を追うごとに彼の評判はうなぎ登りに上がる一方『それにしても、ツイワンシウのやり口は非道ひどうきわまる!フェン家の土地・財産だけではあきらず、何とくず入れ一つに至るまで、根こそぎ奪い取ったらしい』『道理で!あのいじましい顔つきの由縁ゆえんも、それで納得できるというものよ!』『あやつは、犬畜生いぬちくしょうにもおと外道げどうじゃ‼』などなど、あからさまにツイ誹謗ひぼう・中傷する噂までも、大っぴらに流れ出す始末。

 ひどい不安に悩まされ始めたツイは〈このままにはしておけぬ!〉とあせりまくり、大あわてでヤンの屋敷に駆け込みざま、泣きついた。

「何とかしてくだされ‼」

「どうやら、おぬしの見込み違いだったようだな」

 泣きつかれたヤンティエユイは、それ見たことかと言わんばかりに、青い顔を情無くしかめて訴えかけるツイに吐き捨てた。

「おぬしは、まるで人を見る目が無い。さっさと始末してしまわぬゆえ、このような面倒めんどうが起きるのだ!」

「し、しかしヤン様。まさか、あのような小倅こせがれが!・・・」

「それが、人を見る目が無い、ということよ‼」

 しどろもどろに、見苦しく言い訳しようとするツイヤン邪慳じゃけんさえぎった。

「ついこの間も申し聞かせたばかりであろうが⁉あの青二才の中にひそむ恐ろしさをイェン将軍は、とっくの昔に見抜いておられたとな!たった一度、顔を合わせただけでだぞ‼」

 ヤンの口調は、ツイに対して、明らかにになっていた。

〈この能無のうなしめを、早々そうそうに始末せねばなるまいて・・おのれの欲の皮ばかりを突っ張らせおって何の役にも立たぬばかりか、かえって足を引っ張られることにもなりかねぬわい〉

 だが、その心中しんちゅうとは裏腹うらはらに、ヤンはいかにもツイを元気づけるかのように語調を変えた。

「まあまあ、ツイ殿。さほどに心配なさるには及ばぬ。考えても御覧あれ、我らには、かの偉大なるイェン将軍を始め、おそれ多くもシュエン王家という、るぎない味方がついていて下さるのじゃ。たかが田舎いなか豪族ごうぞくせがれ風情ふぜいに、そういつまでも、羽根を伸ばさせてはおかぬわ!」

 そこまで言うと、急にヤンティエユイは、いわくありにニヤリと髭面ひげづらゆがめた。

わざわいの芽たるものは、極力早々そうそうみ取るが、これ上策じょうさく・・・とな!」

 誰に聞かせるともなく言い捨てた彼は、ツイの存在など、もう全く眼中には無い様子でさっさと席を立ち、あとも見ずに部屋を出て行ってしまった。 

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