巻ノ二 鳳凰雌伏(ほうおうしふく) 

第11話 《一》静暇嵐襲(あらしのまえ)-1


世凰シーファンフェン家に戻って来てから、はや一月ひとつき余りが過ぎ去ろうとしていた。

 あの屈辱くつじょくの日以来、彼は文字通りの四面しめん楚歌そかの中にいて、ろくに外出もせず、屋敷にこもりがちの毎日を送っていたが、決して、気力を失ってぼんやりとしていた訳ではない。

 最愛の父と姉を一度に失った衝撃は計り知れず、加えて、ツイワンシウ煽動せんどうされ牛耳ぎゅうじられて、こぞってこれになびいた親族たちは、小僧っ子同然の若い総帥そうすいなどには、まるで見向きもしない。

 徹底的に打ちのめされた彼の魂は深く傷つき、その傷の深さたるや、到底とうていいややすすべとて見当たらぬほどであった。

 並の人間ならば恐らく、二度と再び立ち上がることは出来まい失意しついのどん底にあって、さすがの彼も、しばらくの間、相当参っていたのは事実だ。

 だがしかし、この世凰シーファンという若者は、そのまま腑抜ふぬけになってしまうほど弱い人間ではなかった。

 考えようによっては、そうなった方が、いっそ本人にとっては楽であろうと思えるのだが、持って生まれた誇り高き意志の力と、幼少の頃より、かの翔琳寺においきたえ上げられた強靭きょうじんな精神力とが、ただ鬱々うつうつ敗残者はいざんしゃの如き日々にうずもれるのを、決して彼に許さなかったのである。

最早もはや、一人で構わぬ!私の家だ。私自身の力で守ってゆくのは当たり前だ‼〉

 決然と、彼はちかった。

 背反はいはんいちじるしい親族の中で、唯一ゆいいつ孤高ここうの貴公子に心を寄せ、多少なりともその力となるべくひそかに手を差し伸べてくれたのは、誰あろう、又しても誠意の人、リエンシェンチェンであった。

 七日ごとに行われる喪中もちゅう法会ほうえ一つ取ってみても、初七日しょなのかこそ、主だった者はほぼ全員が顔をそろえはしたものの、早くも二七日ふたなのか三七日みなのかあたりから金でやとった代人だいにんを立て、形ばかりの見舞を届けさせておいて後は知らん顔、などという言語道断の仕打ちを平気です連中とは明らかに行動を分かち、シェンチェンはきちんきちんと、七日ごとにフェン家を訪れては世凰シーファンねぎらい、彼と共に仏前に額ずいて、亡き人々の冥福めいふくを、心から祈ってやまなかった。

 しかしながら、そんなリエン老人が次第しだいに一族の中で孤立こりつしてゆくのを見るに忍びず、つい先日、四七日よなのか目の法会ほうえを終えた直後に、世凰シーファンは、自分の方から彼に申し出た。

リエン小父上おじうえ。まことに不躾ぶしつけながら、御自身での御来駕ごらいがは今回限り・・次回からは、ぜひとも代人だいにんをお立て下さい。この上の御厚情をたまわりましては、かえって小父上おじうえのお立場があやうくなります」

 彼はしてリエンシェンチェンに非礼をび、彼自身による法会ほうえへの列席を、かたく辞退したのだった。

 当主となった世凰シーファンへの試練はまだまだそれだけではない。

 フェン家所有の宏大な領地に関する重要書類が、あんじょうツイワンシウのために持ち出されていたのだ。

 しかも、それらはすべてに渡り、どさくさまぎれにいつの間にか書きえられて、ツイ家の所有地として登記とうき済みとなってしまっていた。

 財産乗っ取りは明白めいはく!とツイ糾明きゅうめいしようにも、巧妙に仕組まれた陰謀いんぼうにはかくたる証拠は何も無く、万事ばんじきゅうす! 

 フェン家は、丸裸の状態におちいったかと思われた。

 しかし、わずかに数か所ながら、最もみのり豊かな土地が、世凰シーファンの為に残されていたのである。

 父・ツェンテーが、万一の時を考え、阿孫アスンに託していた一通の書付けによって、フェン家はなんとか、破産の危機をまぬがれることができたのだった。

 さすがの悪党・ツイも、そこまでは見抜けず、歯ぎしりしてくやしがったと言う。

 その財産を、世凰シーファンしげもなくき、あの犠牲となった多くの家臣や、下働きの者をも含めた召使いたち一人一人の残された遺族すべてに、誠心誠意の謝罪とつぐないを行った。

 たまたまフェン家に仕えていたばかりに災禍さいかに巻き込まれ、命を落とした者たちに対する、当主として当然と言えば当然の、せめてもの心くしであった。

 遺族たちの誰もが、思いがけない若主人の厚意に感激し、涙ながらに彼のこころざしを押しいただいて、うらごとを言う者など、ただの一人もいなかった。

 その行為が、はからずも、世間における世凰シーファンの評判を高める結果となったのは言うまでもない。

 もともとフェン家には、華美かびを嫌うツェンテーの方針によって、他家たけほどに過剰かじょうな数の召使いを置いていなかった。

 従ってそのほとんどを失った今、フェン家に残っているのは、チョウ阿孫アスンと、彼に同行していて難をまぬがれた五人の家臣、それに、あの下働きの女・チンニャンだけである。

 仮にも「豪族ごうぞく」と名の付く家柄いえがらとしては余りに少人数で、何とも貧弱な限りではあったが、彼らは心を一つに合わせ、不遇ふぐうに甘んじるうら若き当主を盛り立てようと粉骨砕身ふんこつさいしん忠誠ちゅうせいの限りを尽くしたし、当主は当主で、彼らに心からの信頼を寄せ、主従しゅじゅうというよりは、むしろ「朋友とも」として接したのだった。

 暮らし向きは、決して以前ほど豊かでなかったにせよ、フェン家は依然として名門中の名門と呼ぶにふさわしく、昂然こうぜんと胸を張って、そのがい体面たいめんとをたもち続けていた。

 ところで――。

 ツェンテーの死によって、結局そのままになってしまっていた例の縁組えんぐみについては、ごく最近になって、先方から何やかやと仰仰ぎょうぎょうしい理由をこじつけ、破談を申し入れてきた。

 が、いかに勿体もったいをつけたところで「貴家きけ家運かうんが、かたむいたゆえに」という本音ほんねは見え見え、本来ならば当然、先方がフェン家に対して明らかな「婚約こう」を行った事になり、莫大ばくだいやくきんを支払わなければならない。

 けれど世凰シーファンは、相手の申し入れを二つ返事で快諾かいだくしたばかりか、そういう金銭的な問題には、一切触れなかった。

 もともとが、彼の与り知らぬところで取りわされた縁組であり、正直言って,とうの昔に忘れ果てていたことだ。

 それに、理由はどうあれ、何かにかこつけて相手から金を巻き上げてやろう、などというさもしい根性は、爪の先ほども持ち合わせてはいない。

 現在、はなはだしく手許てもと不如意ふにょいである、と噂されるフェン家から、目の玉が飛び出る位に法外な金額を吹っかけられるのではないかと、内心ヒヤヒヤしていた先方の当主は、思いもよらぬ上首尾に、大いに胸をでおろしたことだった。

 もっとも、当の娘の身にしてみれば、それはこの上もなくじんで、また、むごい仕打ちであるに違いなかった。

 せいしゅつの天才けんとして天下に勇名ゆうめいせるその一方で、別名「フェン美人びじん」ともしょうされ、当代一の美女と誰もが信じて疑わぬ都の名妓めいぎユイツイイェンでさえもが、何かの折りに偶然ぐうぜんその姿を垣間かいま見て『私が人から天下の美女だと呼んでもらえるのは、彼が男に生まれてくれたおかげだわ・・ああ、よかった!』と、や汗いて嘆息たんそくしたとか・・・。

 あるいはまた、の好き者で鳴らすシュエン王家のある親王しんのうが、よせばいいのに彼にちょっかいを出し、言わずもがなの手痛いを喰らわされた、などというまことしやかなうわさがかたぐさになるほどの美貌を誇った世凰シーファンであった。

まさに音に聞こえた絶世の美男子たるフェン世凰シーファンへのれん大抵たいていのものにあらず、泣くわわめくは、食事さえもこばむわ、挙句あげくの果てには『死んでやる‼』などと、刃物まで持ち出すわで、あきらめさせるのが、何ともはや至難しなんわざだったらしい云々うんぬん・・と、世間の人々は、相手方への反感も手伝っておお粉飾ふんしょくほどこし、面白おもしろおかしく味付けしては、実に口さがなく噂し合った。

 そうこうするうちに七七ひちひち法会ほうえも終わり、あわただしい毎日に一段落がついて頃『翔琳鳳凰』とうたわれた若い当主をしたって、あちこちから、生きのいい武芸者たちがフェン家の門をたたくようになった。

 世凰シーファンが、快く彼らを迎え入れたため、その数は見る見るうちに増えふくらみ、わずかの間に、三十名を軽く超すほどにもなってしまった。

 どれもこれも純粋で意気盛んな若者たち、それに、年頃もほぼ同じときている。

ぞくに言う『食客しょっかく』などと呼ぶには、余りにも健康的で屈託くったくがなく、心許し合える友として付き合うにふさわしい、そんな連中であった。

 中でも傑出けっしゅつした男が一人、いた。

 その名を、ヨンフールンという。

 彼は、リエンホー郡・リーヤンの街で文房ぶんぼうほうふですみすずりかみ)及び、古今ここん東西とうざい書画しょが骨董こっとうを扱う大店おおだなの長男だったが、幼い頃から、拳法を始めとするげい十八ぱんを好み、なまじ天賦てんぶの才を持ち合わせていたが為に、ちょうじたのちも家業そっちのけでこれにのめり込む結果となり、今では勘当かんどう同然に家を離れ、諸国を修業して歩いていた。

 しかし、さすがに筆を持たせれば、こちらの方も大したもので、性格そのままに豪快ごうかいにして真摯しんし、まことに見事なであった。

 世凰シーファンは、とりわけ彼と意気投合し、親友のちぎりを結んだのである。

 彼らは和気わき藹藹あいあい寝食しんしょくを共にし、鍛錬たんれんはげみ、また拳法談議に花を咲かせては、てっして語り合うこともしばしば、青春の香気こうきあふれる、実に充実した毎日を送っていた。

 驚いたことに、かのチンニャンは、若い武芸者の一人・タンなにがしと恋仲になり、喪中ではあったが、世凰シーファンの計らいでささやかながら華燭かしょくてんげ、晴れて夫婦めおととなった。

 そんなある日のこと、リエンシェンチェンからの書状をたずさえた使者が、ひそかにフェン家を訪れて来た。

「まことに勝手な言い分ながら、世凰シーファン殿には、本日、我が屋敷まで御足労ごそくろうねが致し」

 簡素な文面がしたためられ、「『是非とも内々ないないにてお話し申し上げたき、これあり。書状にては、はばかられる事ゆえ・・・』とのお言葉にございました」

 その主人に似つかわしいい実直者の使者は、一言いちごん一句いっく忠実に、あるじからの口上こうじょうを伝え終わると、来た時と同じく、ひそやかに裏門から帰って行った。

〈何事だろう?〉

 いぶかりながらも、世凰シーファンは、わざと夜になるのを待って屋敷を出た。一族内におけるリエン家の体面たいめん考慮こうりょして、人目に立つ昼間の訪問をけたのである。

 人通りの途絶とだえた深夜の大路おおじ小路こうじを抜け、やがてリエン家のやかたに到着した彼は、裏門にまわって、門脇のくぐり戸から邸内に入った。

 裏庭から中庭を横切って辿たどり着いた玄関口には、一人の召使いが、あかりを手に待機しており、先に立って彼を案内してくれた。

 長い廊下をしばらく歩いてほの暗い一室に通されると、そこには、すでに当主・シェンチェンが待ち受けていた。

「よう、お越し下された。呼び出しの書状など差し上げて、まことに申し訳のう存じております」

 彼は椅子から立ち上がると、一方ひとかたならず恐縮した様子で世凰シーファンの手を取り、みずか上手かみての席へと導いた。

「いえ、わたくしの方こそ、散々さんざん御無沙汰ごぶさた致しました上に夜分やぶん遅くなりまして、申し訳ございませぬ」

 世凰シーファンは、それとなく上座かみざを辞退しながら、丁寧ていねいびの言葉を述べた。

「いやいや、お手前のお心づかいのほどは、このいの身にみてかたじけなく思うております」

 リエン老人は、ほとほと感じ入った様子でそう言い、しばし目を伏せた。

「一族の者の目をはばかる余り、お手前の御言葉に甘え続けてお見舞にもうかがわぬこの老いぼれの不甲斐ふがいさを、どうぞお笑い下され。この身に、たとえ一人いちにんたりとも、お手前の如き気骨きこつある男子だんしあらば、このように不様ぶざま真似まねなどせぬものを・・・。我がせがれどもは、どれもこれも打ちそろいて・・・」

 そこまで言うと、さすがに苦笑した。

「いや、これはまた!・・お許しあれ、老いぼれのつまらぬ愚痴ぐちなどお聞かせ申すために、わざわざお越し頂いたのではない。実はの、世凰シーファン殿・・・」

 老人は、にわかに声をひそめた。

「何を隠そう、他ならぬツェンテー殿及び香蘭シャンラン殿の死にまつわるおぞましき事実を、その耳に聞き及んで参った者がおりますゆえ、是非とも、直接お手前にお聞き願いたい、と存じましてな・・・これへ参られよ」

 そういって彼は衝立ついたてかげに向かって声をかけた。

 その声にこたえて、暗い衝立ついたてかげから、一人の女が姿を現した。

 まだ若い女のようには見受けられたが、どこまでも仄暗ほのぐらい部屋の中で、しかも彼女は、意図いと的に逆光の位置に立ったと見え、顔立ちなどはほとん識別しきべつできない。

 が、かろうじて、その衣裳いしょうの有様などから、一般の婦女ふじょではなく、多分妓じょたぐいであろう、と推察できた。

 彼女は、二人に対して丁重ていちょうに一礼し、ひっそりとその場にたたずんでいる。

「この者は,実のところいやしき身分なれど、同じたぐいやからとは比ぶべくもない、心映こころばえ良きおなごにござる。以前、我が身のほどこしたるわずかな事を、いまだに深く恩義と感じ、おりあらば必ずや報いたいと申してくれましたが、このたび、たまたまヤンティエユイと申すシュエン朝貴族の祝宴しゅくえんはべり、驚くべき事実聞き込んで注進に及んでくれ申した・・老いぼれが世凰シーファン殿に心寄せおることを存じておりますでな・・かような訳にて、この者の申すことに一言一句のうそいつわりの無きこと、老骨ろうこつが保証致します」

 言いながらシェンチェンは、とうとう世凰シーファンをその席に座らせてしまった。

「この身はしばらくの間、席をはずしおりますゆえ、ごゆるりと、詳細しょうさいお聞き下され。ここには誰一人近付かぬよう、かたく申し付けてありますでな」

 リエン老人はそう言い残して、足早に姿を消した。

 世凰シーファンは、女と向かい合う形で室内に取り残された。

「そなた、そのままではつらいであろう?こちらへ来て、けるがよい」

 彼がそううながしても、女は首を横に振って辞退した。

「いいえ、若様。お心づかいはかたじけのうございますが、宴席えんせきなればいざ知らず、わたくしが如きいやしい身分の者が、あなた様のようなとうときお方と席を共にするなど、恐れ多いこと。わたくしれておりますゆえ、何ともございませぬ。このままにて、お話申し上げましょう」

 すずやかな声音こわねで歯切れよくそう言うと、彼女は立った姿勢のまま、話し始めた。

わたくしが聞き及びましたのは、こうでございます・・・」

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