第9話《五》奸慮背反(わるだくみ)-2-


 雲の上を歩くような足取りで、廊下伝いに父の書斎の前までやって来た世凰シーファンは、そこで立ち止まり、厚い扉を両手でゆっくりと押し開いた。

〈父上!・・・〉

 知らず知らずのうちに、彼は心の中で父に呼びかける。

 何事にも几帳面きちょうめんだった父らしく、整然と配置された黒檀こくたんの書棚、広い机、そして、ゆったりとした椅子・・・。

 父は黒檀こくたんを好み、屋敷内の調度のほとんどを、それで統一していた。綺麗きれいみがき上げられた机の上に古い書物を広げては、よく思索しさくふけっていた父だったが、幼い世凰シーファンが時折入ってゆくと、いつも椅子いすに座ったままの姿勢で振り返り『こっちたへおいで、世凰シーファン』やさしく彼の名を呼んで手招てまねきしては、よっこらしょと抱き上げてくれた。

 その時の、父の腕の力強さ、胸やひざの温かさ、そして『重くなったなあ、世凰シーファンは!』と、ほおずりしたひげ感触かんしょく・・・。

 それらのすべてが、一挙いっきょ脳裏のうりへと押し寄せて来て、今さらながらその存在の大きさを思い知らされ、彼は愕然がくぜんとしたのだった。

 見回せば、かべ調度ちょうどは言うまでもなく、果ては天井に至るまで、点々と飛び散った血痕けっこん生々なまなましく残り、当夜の惨状さんじょうを伝えて余りある。

 さらにその上、ゆかチンタンみ込んだ血汐のおびただしさはどうだ。

〈父上!あなたは一体、どれだけの血を流されたのでしょうか⁉・・・〉

 居間へ向かって引きられてゆく血の足跡を辿たどりながら、世凰シーファンの胸は、新たな怒りと悲しみに、張り裂けそうに痛んだ。

 そして―居間の入り口に立った彼は、一瞬立ちすくみ、全身を凍りつかせて瞠目どうもくした。

 寝台の前に、余りにも無惨むざんに残された深いだまりの跡・・・。

 父は間違いなくそこに倒れ、体中の血を流しくして絶命したのだ。

 たちまち、はじかれたようにその場に駆け寄った世凰シーファンは、チンタンの上にがっくりとひざをついた。

「ち、父上!・・・」

 低く押し殺した嗚咽おえつと共に、どす黒く変色した上、かわいてごわごわになったその痕跡こんせきに、両のてのひらを押し付けた。

 てのひらを通して、何かが・・・ひそやかに温かい何かが、彼の中へと流れ込んでくる。

 父の想い、であったかもしれない。

「お許し下さい、父上!さぞや、御無念だったことでしょう・・・おのれ勝手かって気儘きままを通す余り、あなたをお守りすることさえできなかったこの世凰シーファンは、世に二人と無き親不孝者でございます‼」

 そこに今でも父が倒れているかの如く世凰シーファンは語りかけ、苦悶くもんきわみに我が身をさいなまれつつ、彼にびるのだった。

 重い悲しみに打ちひしがれて、よもしばらくの間うずくまっていた彼は、やがてふらふらと立ち上がると、居間を出て書斎に戻り、今一度、改めて周囲を見渡した。

 ついこの間まで、部屋の中を重厚に飾っていた貴重な書画しょが骨董こっとうたぐいは、ツイワンシウを始めとする親戚しんせき連中れんちゅうの手によってその大半たいはんが持ち去られ、目ぼしい物は何一つとして、残ってはいない。『かたけ』と称する古い習慣にかこつけた、あからさまな略奪りゃくだつであった。

 恐らく高価な品は、根こそぎと言っていいほど、ツイが一人占めしたのだろう。

 そればかりか、よく調べてみなければはっきりとはしないものの、領地に関する重要書類を収めた文書棚の鍵までもが、開けられた形跡がある。

 だが、今そんなことはどうでもいい・・・。

 世凰シーファンは、よろめきながらきびすを返し、見るからに覚束おぼつかぬ足取りで書斎をあとにして、さらに長い廊下を、ただよいながら離れへと向かった。


 扉を開けた世凰シーファンを、姉が生前せいぜん愛用していたかぐわしい香の匂いが、そっとやわらかく、そしてこの上もなくやさしく、包み込んだ。

けれどなぜ、この部屋の美しい女主人あるじは、彼を出迎えてはくれないのだろう?

『お帰り、世凰シーファン!』

なぜ、いつものようにそう言って、笑いかけてはくれないのだろう⁉」

〈姉さま!世凰シーファンが、戻って参りました。私の名を呼んで下さい!どうか、お顔を見せてください‼〉

「隠れんぼは嫌いです。私はもう、子供ではないのですから・・・」

 むなしいり言だと、自分でも解りすぎるくらいによく解っている独白どくはくを、なおうつろにつぶやきながら、惨劇の名残なごりを色濃くとどめた室内の至る所、くま無く姉の面影おもかげを求め、彼は視線を彷徨さまよわせる。

 その視線の先ざき、あや織りのチンタンを赤黒く染め抜いて咲き乱れる花、花、花・・・。

 それは、血だ。

 愛する香蘭シャンランが、まぎれもなく彼のために流した、美しい血汐ちしおなのだ。

 その花を、こともあろうに土足で踏みにじり、浅ましくもあくなき略奪りゃくだつは、行われたのだった。

 衣装いしょう箪笥だんすすうさおまるごと、から始まって、珠玉匣ほうせきばこ櫛笥くしばこなどは言うに及ばず、けしょうみずいれおしろいばこ・その他、化粧道具・装身具一切いっさい、果ては針線匣はりばこに至るまでもことごとく奪い去られた香蘭シャンランの居間には、わずかに二つの品を除いては、何も残されていなかった。

 一つは、亡き母が輿こしれの際に持参した、祖母譲りの古い鏡台きょうだい。そして今一つは、同じく、古い寝台しんだいである。

 母の形見かたみともなったそれらを、香蘭シャンランは、幼い日からずっと、大事に大事に使って来たのだ。

 両方共に、職人芸のすいきわめた格調高く見事な品であったが、本当の物の価値を見極みきわめる審眼などさらさら持ち合わせていない連中にとっては、ただの古びたであるに過ぎず、まさに無用の長物ちょうぶつ足蹴あしげにでもして、目もくれずに打ち捨てて行ったのだろう。

 とした部屋の中で、それらはさびに、だが誇り高く存在していた。

 リェン老人が、ひそかに香蘭シャンラン形見かたみを忍ばせてくれたという鏡台きょうだいの奥引き出しを開けた世凰シーファンは、ふくいくとこうきしめたしら絹布ぎぬに包まれた、小さな品を見出みいだした。

 手に取ってそっと布を払うと、そこには、かつて姉の黒髪を飾っていた翡翠ひすいかんざしがあった。

 濃緑みどりうるわしい極上ごくじょう翡翠ひすいぎょくに、超一流の職人の手によるこまやかな細工さいくほどこされた稀有けう逸品いっぴんで、今となってはとてもがつくまい、と言われるほどに見事な品であった。

 ツイワンシウが我がもの顔で采配さいはいを振るう葬礼のさなか、このままでは到底、形見かたみのひとかけらさえも世凰シーファンの手には渡るまい、とさとったリェン老人が、香蘭シャンランひつぎの重いふたを閉ざす寸前に、咄嗟とっさの機転で親族一同の目をらせ、素早く、遺体の黒髪から抜き取ったものだった。

 まかり間違えば、親戚中から村八分にい(誰もが、そのかんざしを狙っていたにもかかわらず)、死人の持ち物をかすめ取ろうとした不心得ふこころえものとして、身の置き所すら失ってしまう危険性をもかえりみず、最も貴重な姉の形見かたみ世凰シーファンの手に残してくれた彼の心意気たるや、何ものにもまさる誠意の表れと言えよう。

リェン小父上おじうえかたじけのう存じます。御志おこころざし、決して忘れませぬ!」

 日頃は地味で全く目立たぬ存在であるリェンシェンチェンの思いがけない厚意こういに、少なからず驚きながらも、世凰シーファンは心中深く、彼への感謝の念をき上がらせるのだった。

 亡き母の形見かたみとして香蘭シャンランが受けついだそのかんざしは、彼女にぴったりと似合い、身に備わった気高さを一層際立きわだたせては、世凰シーファン憧憬しょうけいき立ててやまなかった。

 成長してからの彼が帰省きせいするたびに、姉はそのかんざしを髪から抜き取っては彼に見せながら、口癖くちぐせのようにこう言ったものだ。

「これを、あなたのお嫁さんになる方に差し上げようと思っているの・・だから、早く可愛い女性ひとをお見つけなさいな」

「だって・・・ねえさま」

 彼女の言葉を聞くといつも、世凰シーファンは反論した。

「そのかんざしは、かあさまのお形見かたみに、ねえさまがもらわれたものでしょう?第一、私は嫁などを迎える気はありません。だからずっとねえさまがお持ちになっていればいいのです」

 すると香蘭シャンランは、決まってさびしそうに微笑ほほえんだ。

かあさまのお形見かたみだからこそ、あなたの妻となる女性ひとに受けいで頂かなくてはならないのです。私はもう一生、誰の所へもとつがない女なのだから、このまま私があの世へ持って行ってしまうことにでもなれば、それこそかあさまに対して申し訳ないでしょう?大丈夫よ・・いつかきっと、あなたがこのかんざしを差し上げたいと思う方が、現れるに違いないわ」

 そう言って、再びかんざしを髪に戻した。

「そういうものなのかなぁ⁉私には一向にピンときませんけれど・・・」

「そういうものなのよ、世凰シーファン・・・」

 ふっとはかなげに瞳をかげらせ、やさしく彼の前髪にれた姉の白い指先は、今、何処いずこ虚空そらをさ迷い続けるのか・・・。

ねえさまっ‼」

 こらえにこらえ、耐えに耐えて来たものが、一挙いっきょに彼の魂を突き抜け、真紅しんく奔流ほんりゅうとなってほとばしった。

〈もう泣かぬ‼決して二度と・・・だから・・・だから今だけは、思い切り泣かせてくれ‼〉

 世凰シーファンは、かんざしを握りしめたまま、くずれるように冷たい寝台しんだいの上に身を投げた。彼の号泣ごうきゅうを、今この時、一体誰がとがめることなど出来ただろうか⁉――。

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