第8話《五》奸慮背反(わるだくみ)-1-

 世凰シーファンが、夜を日にいで広東カントン郡の屋敷に戻って来たのは、それから五日後のことであった。

 こうだいやかたは、遠目とおめにもしんと静まり返り、沈鬱ちんつうな空気が周囲あたりにまでち満ちている。

 ところがどういう訳か、門の周辺はおろか、何処どこにも葬礼そうれいのための飾り付け一つほどこされておらず、何となく、様子もおかしい。

 阿孫アスンが先に戻って来ているはずなのに、一体どうしたことなのだろう?

 少なからず不審ふしんに思いながら近づいてゆくと、偶然、門内から、一人の男がひょっこり姿を現した。

 何やら調子はずれな鼻唄まじりに、小銭こぜにをチャラつかせて出て来たその男は、世凰シーファンの亡き父・ツェンテーの腹違いの弟で彼にとっては叔父おじに当たるツイワンシウの屋敷につかえる下男げなんティンルオである。

 自分の目の前に立っている若い貴公子を見た途端とたん、そのティンルオの鼻唄は、てのひらもてあそんでいた小銭と共に、跡形あとかたもなく何処どこかへ消し飛んだ。

 これぞ『木偶でくの棒』とばかりにその場に立ちすくんだ彼は、次の瞬間、あわててまわれ右をし、猛然と門内に走り込もうとした。

「まて、なぜ逃げるのだ⁉」

 素早く世凰シーファンに腕をつかまれ、珍妙な格好で急停止した。

「あ、あのっ・・・あの、えーっと、世凰シーファンさま!」

 滅多めったに口にしたこともない若さまの名をやっと思い出したティンルオは、口をモグモグさせてその名を呼びながら、一方では、何とか彼からのがれるべく、必死に手足をバタつかせた。

ティンルオ、葬礼の準備はどうなったのだ⁉阿孫アスンは何をしている⁉」

 いかにティンルオがじたばたしようと一向いっこうにおかまいなく、世凰シーファンは、きびしい口調くちょうで彼を問い詰めた。

「そ、葬礼などっ!葬礼など、とっくの昔に済んじまいましたよっ‼」

 苦しまぎれに思わず口走ってしまってからティンルオは、たちまおびえ切った表情を引きらせて、世凰シーファンの顔色をうかがった。果たしてどんな目にわされるかと、急に怖気おそけったのだ。

「なに⁉」

 世凰シーファンは、耳をうたがった。

 当然、自分の帰りを待って取り行われるべき葬礼が、すでに終わってしまったなどと信じられるだろうか?

「そなた、出まかせを申すと承知せぬぞ‼」

 彼の腕に、知らず知らず力がこもった。

「い、いててっ!いてっ‼でで、出まかせなど、言うわきゃないでしょうがっ‼いっ一昨日、うちの御主人さまが、ツツツイワンシウさまが、一切いっさい合切がっさい取りしきられてですねえっ!・・・」

 世凰シーファンは、あわを吹き散らしてまくし立てるティンルオを無言で突き放すなり、キッと前方を見据えながら邸内へ入って行った。

 今まで散々さんざんに引き寄せられた挙句あげくに、今度は急に突き放されてしまったあわれなティンルオは、体のバランスを保つすべさえ知らず、実に妙ちきりんな格好で、スッテンコロリとその場にひっくり返った。


 突然、勢いよく開かれた扉に驚いて、人々の目が、一斉いっせいに部屋の入口へと向けられた。

 ぽかんと口をけたそれらの顔は皆、フェン家とは何らかの血縁関係にある親戚しんせきたちで、彼らを見渡す格好で一番上手かみての席にふんぞり返っているのは、他ならぬ、ツイワンシウであった。その席は本来、フェン家の当主たる者が座るべき場所である。

 無礼ぶれいきわまる闖入ちんにゅうしゃフェン家の嫡男ちゃくなん世凰シーファンだと分かると、人々は何やら口々にヒソヒソ話を始めた。

 お世辞せじにも好意的とは言いがたい好奇の視線が、あからさまに、世凰シーファンに集中している。

「今頃やっと帰館きかんか、翔琳鳳凰殿?」

 その有様を、いわくありげな薄笑いを浮かべつつ見守っていたツイワンシウは、皮肉たっぷりにそう言って、口許くちもとゆがめて見せた。

 世凰シーファンはそれに答えず、つかつかとツイに近づいた。

「これはどういうことなのです、叔父上おじうえ⁉」

 つとめておだやかに問いかけたもりではあっても、燃え立つ怒りを抑えかね、語調はどうしても強くなってしまう。

 が、もとより老獪ろうかいツイのこと、柳に風と苦も無く受け流した。

「はて、何のことやら?」

「しらばくれるのは、おやめ下さい‼ツイ叔父上おじうえ、あなたの御一存ごいちぞんのみで事を運ばれたというのは、まことなのですか⁉」

 世慣よなれたツイ太刀打たちうちできるべくもない世凰シーファンは、わずかに声をふるわせながら、懸命けんめいに平静をたもとうとしていた。

「おお、何じゃ、何かと思えばその事か」

 ツイは内心、大いにほくそ笑み、あくまでものらりくらりと、気にわぬおいをいたぶり続ける。

「はてさて、さても不可思議ふかしぎなる問いかけをされるものよのう・・そもそもむごき有様にて死んだ人間を、そう何日間も放ったらかしにしておけるとお思いか?それこそに対し、不調法ぶちょうほうきわみでござろうよ。そのくらいのことは、いかにおぬしといえどもおわかりになろう。のう、世凰シーファン殿⁉」

 明らかにツイは、親族たちのまっ只中ただなか世凰シーファン罵倒ばとうすることにより、いちじるしく彼の立場をおとしめる腹積はらづもりでいるのだ。

 それがわかっていながら、やはり世凰シーファンは、まだ若い。

 その純粋な怒りのままに、真正面からツイと対決しようとすればするほど、かえって彼の思うつぼにはまってゆく。

「しかし、叔父上おじうえ!」

 世凰シーファンがさらに一歩、ツイに詰め寄った途端とたんだった。

「良いか、世凰シーファン‼」

 待ってましたとばかりに、ツイワンシウはがらりと豹変ひょうへんし、つい先程さきほどまでのあの振りから一転して、この上もなくきびしい表情となった。

「兄・ツェンテーめい香蘭シャンランの葬儀は、他ならぬこのツイワンシウが、一切いっさいの責任を持って取り仕切り、親族一同共に力を合わせて、フェン家の体面たいめんじぬ立派なものを送り出したのだ」

「十四年もの間、ろくに家にも寄りつかずに勝手気儘きままを通した挙句あげく、今頃になってのこのこと戻って来たお前などに、とやかく言われる筋合すじあいはないわ‼」

 一部の破綻はたんも無く道理をあげつらい、ピシリと決めつけた。

 なるほど、理屈りくつツイの言う通りであった。確かに世凰シーファンは、十四年の間、ほとんどと言っていいほど実家には戻らなかったし、それを持ち出されれば全く一言いちごんもない。

 しかし、理屈りくつはどうあれ、彼はまぎれもなく、当主となるべき正統な血筋を受け継いで生まれてきたフェン家の嫡男ちゃくなんである。

 いくら家に居つかないからと言って、彼の存在を無視することなど、絶対に許されないのだ。

 他ならぬフェン家の当主とその娘の葬儀に、家をぐべき者が喪主もしゅとして出席しないという事を、そして、そのような儀式をとり行うという事自体を、官庁が決して許すはずがないではないか⁉

 許可がりる方が、むしろおかしいのだ。

 世凰シーファンがそれを言おうとするのをあらかじめ承知していたかのように、ツイはニンマリとしてこう言った。

「わしが事情を説明申し上げたところ、シュエンの長官殿は、いたく同情して下された。

『そのような不肖ふしょう嫡男ちゃくなんを持って、フェン家も気の毒じゃ』と、おおせられてな。さっそく、特例とくれいとしてうえかた言上ごんじょうして下さり、このツイワンシウ喪主もしゅつとめるならば・・・という条件で、許しがりたのだ。すべて万端ばんたんとどこおりなく、事は運んだ。すべて万端ばんたん、な!」

 最後の言葉を、わざとり返して世凰シーファンに当て付けたツイは、次にはもう全く彼を無視した格好で、親戚しんせきたちに向かって言った。

諸兄しょけい方。フェン家の今後についての談合だんごうは『また後日ごじつ、改めて』ということに致そうではござらぬか。本日は折角せっかくにお集まり願ったのだが、先程さきほどからの不遜ふそん振舞ふるまいにてもようおわかりのごとく、とんだ礼儀知らずの、物の道理など毛ほどもかいさぬ山猿が闖入ちんにゅうして、盛んに邪魔じゃまて致しおるのでな!」

 言い捨てるなりツイは、挑発ちょうはつするように世凰シーファン睥睨へいげいした。

 世凰シーファンの形の良い唇は、血のにじむほどにきつくみしめられ、握りしめた両のこぶしが、屈辱くつじょくえかねて小刻こきざみにふるえている。

 そして、美しい彼の漆黒しっこくの炎とし、まばたきも忘れて、ツイにらえるのだった。

〈してやったり‼〉

 そのおいに向かって勝ちほこった嘲笑ちょうしょうを投げつけるや、実の叔父おじごうぜんと胸をらせ、悠悠ゆうゆうと歩み去って行った。

 彼に続き、他の親族たちもまた、誰一人世凰シーファン挨拶あいさつをする者もないままに、何事かささやき合いながら帰ってゆく。

 やがて、それらがすべて立ち去ったあとのがらんとした室内に、一人の痩身そうしんの老人が、世凰シーファンと共に取り残されていた。

 世凰シーファンにとっては最も血縁の薄い、リエン家の当主・シェンチェンである。

 彼はゆっくり世凰シーファンに近づくと、そっとその肩に手を置いた。

「よくぞえられた、世凰シーファン殿!」

 そう言って、深い同情をめた眼差まなざしで彼を見詰めた。

「本当に、お気の毒なことをした。だが、ツイワンシウちごうて、我々には何の力も無い・・・どうか、悪う思わんで下され」

 世凰シーファンは、唇をみしめたままで答えなかった。

 今、何か言えば、激情が慟哭どうこくとなって、ほとばしってしまうに違いない。

 それをさっしてかシェンチェンは、もうそれ以上何も言おうとはせずに、だまって溜息ためいきをつくばかりだったが、あたりから全く人気ひとけせて久しいのを見極きわめると、ふいに世凰シーファン耳許みみもとに顔を寄せ、小声で早口にささやいた。

世凰シーファン殿、香蘭シャンラン殿の鏡台の奥にお形見かたみの品がござるゆえ、一刻も早う、おおさめなさるが良い!」

 思わず顔を上げて見詰みつめる切れ長のに、みずからも視線でうなづき返しながら、リエン老人は心から済まなそうにびるのだった。

「許されよ!せめてそれくらいのことしか、この老いぼれにはして差し上げられぬ・・・」

 彼は、涙ぐんでさえいる様子だった。

〈何か言わねば!〉

 世凰シーファンは思ったが、ついに言葉は出ず、彼はただ、老人に頭をげることしか出来なかった。

「いやいや、そのようなことはして下さるな。かえってこの身が、せつのうなりますゆえ・・・それでは、これにておいとま致そうほどに。何卒なにとぞ、お気を落とされぬようにな・・・」

 るように帰って行ったリエンシェンチェンと入れ違いに、じっと廊下ろうかたたずんで待っていたらしいチョウ阿孫アスンが飛び込んで来た。

世凰シーファンさま、申し訳ございませぬ‼」

 ほとん絶叫ぜっきょうに近い叫びと共に、彼はゆかの上にくずおれた。うつぶせになった肩から背中にかけて、その体が激しく波打ち、顔も上げられぬままに声だけがしぼり出される。

「わ、わたくしが戻りました時には、すでに!・・・」

 無論、世凰シーファンはよく解っていた。

阿孫アスン、さあ立つがよい。そなたのせいなどであろうはずはない。すべては、この私のせいなのだ。私が!・・・私が不甲斐ふがいいからだ‼」

 声をふるわせてそう言うなり、彼は阿孫アスンを残して部屋を飛び出した。

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