第7話《四》惜別翔琳(さらば、しょうりんじ)


 僧房には、にわ仕度したくの火が起こされ、全身濡れねずみになった使者・阿孫アソンが、世凰シーファンの到着を待ちかねていた。

 他にも二、三人の僧が控えていたが、やがて世凰シーファンの姿を見ると、一様いちよう会釈えしゃくし、全員退出たいしゅつして行った。

阿孫アスン!」

世凰シーファンさま!」

 二人は、お互いの名を呼んでけ寄った。

 が、阿孫アスン世凰シーファンの一歩手前で立ち止まるなり、がくりとひざを折って、その場にうずくまってしまう。

「お許しください、世凰シーファンさま!この阿孫アスンおめおめと、かような使者に立つ仕儀しぎ相成あいなりましてございます‼」

 彼は、ひとかたならず声をふるわせていた。

阿孫アスン!・・・何があったのだ⁉答えてくれ、もしや!・・・」

 き込んで問いかける世凰シーファン声音こわねもまた、語尾がかすれて声にはならなかった。はっきりと声に出してたずねるのが、恐かったのかもしれない。

 だがしかし、彼は改めて問いかけた。

「もしや、父上とねえさまの身に、何か異変があったのでは⁉」

 世凰シーファンの言葉に意を決した阿孫アスンは、やにわに顔を上げるや、一息ひといきに彼に告げた。

「はい・・お察し通りにございます!まことに申し上げにくき事ながら・・・ツェンテー様並ならびに香蘭シャンランさま、四日前の夜半やはん、おやかたに忍び入った賊共の手にかられ、あえなく身罷みまかられましてございます‼」

 世凰シーファンは、あたり一面が、すべて真白まっしろになったような気がした。

 たった今、自分がその耳で何を聞いたかのさえも解らぬほどに、彼は動転どうてんしていた。

そのくせ、心のどこかが妙にめていて〈とうとう『その日』が来てしまったか!・・・〉などと、納得していたりするのだ。

 耐えがたいほどの残酷な事実を突きつけられて大混乱におちいりながらも、ずっと以前から、すでに予知していたような気すらおぼえるのは、一体何故なぜなのだろう?

 彼の内なるその矛盾むじゅんを、的確に言い表すことの出来る言葉など、この世にただの一語いちごたりとも有りはすまい・・・。

「父上もねえさまも、お二人共に、賊共の手にかられたと申すのか?」

悲鳴ひめいにも似たきしおんを立ててはれ動く精神状態とは裏腹うらはらに、世凰シーファンの口をついて出た言葉は、ひどく冷静であった。

内面の混乱に決して巻き込まれまいとする、無意識のうちの抵抗ででもあったろう。

自分よりも年下でありながら、余程ゆほどに大人びた強靭きょうじんさを以って必死に踏みこらえようとする若主人の姿は何とも悲愴ひそうで、阿孫アスンの胸を千々ちぢき乱す。

ツェンテー様は、明らかに賊の手によって命を落とされましたなれど、香蘭シャンランさまは、御自害ごじがい遊ばされたご様子にございます。しかし、いずれに致しましても曲者くせものせるわざ。この阿孫アスンが、今少し早う戻っておりましたならばと・・やまれてなりませぬ!その上、奴らめの姿をこの目で垣間かいま見ておりながらあとも追わず、みすみす取り逃がしましてございます。全くって、かさがさねの、何たる不忠‼・・・」

阿孫アスンは、濡れそぼったおのひざにぎつぶさんばかりに鷲掴わしづかみ、ついに絶句した。

世凰シーファンは突き上げて来る慟哭どうこくこらえ、涙を一杯にたたえたその瞳で、彼の肩に手を置いた。

阿孫アスン、自分を責めるな!決して、そなたの罪ではない。よく知らせてくれた。そなたが来てくれて、本当によかったと思っている。この嵐の中、さぞや難儀なんぎを致したであろうな・・・」

 世凰シーファンは逆に阿孫アスンを力づけ、ねぎらってもやるのであった。

かたじけのう存じます、世凰シーファンさま!」

 彼のやさしさが胸にみて、阿孫アスンははらはらと落涙らくるいしたが、すぐに気を取り直してこぶしで涙をぬぐい去ると、懐中かいちゅうから一振ひとふりの短剣を取り出して、世凰シーファンに手渡した。

香蘭シャンランさまが、みずからのおんいのち、絶たれましたものにございます。手前がおそばに駆けつけました時、香蘭シャンランさまは、いま御存命ごぞんめいにございました。手前に、あなたさまを頼むとおおせられ、さらに、こうお伝えせよと」

 阿孫アスンは、そのひとの面影おもかげひそかに胸に抱きしめながら、彼女の遺言ゆいごんを伝えるのだった。

「いつまでも変わらず、今のままのあなたさまでいてほしい、と。そして、香蘭シャンランさまの分まで、生きてほしい、と・・・」

「そうか・・・ねえさまはそんなことを」

 世凰シーファンは、手渡された短剣を、両手でぐっとにぎめた。

 彼が愛してやまなかった姉が、護身用ごしんようとして常に身にび、ついには命までも絶ってしまったその短剣は、雨に濡れてかなりの湿気しっけを含み、あたかも彼女の命が宿やどっているかのごとくに、ずっしりと重かった。

 彼はさやを払い、喰い入るように刀身を見つめた。

 すでスンの手によってぬぐい清められているにもかかわらず、世凰シーファンはそこに、姉の血汐ちしおの燃えるようなくれないを、はっきりと見たのである。

ねえさま!・・・きっとあなたは、この世凰シーファンの身を思いやる余りに、御自おんみずからの命を絶っておしまいになったのでしょうね。何故なぜ、その苦しみの一部なりとも、私に分け与えては下さらなかったのです。水臭いではありませんか⁉ねえさまのための苦難ならば、世凰シーファンはものの見事に、耐えてお目にかけましたものを!・・・〉

 そして彼は、父と姉の魂にちかった。

〈お二人の御無念、いつの日にか、必ずやこの身が晴らして見せましょう。待っていて下さい‼〉

 しかし、今はまず何よりも、父と姉の葬儀を無事に送り出すことが、フェン家のただ一人の後継者こうけいしゃとして果たすべき、彼の責任であった。

 その重い責任をになうことで、世凰シーファンは、余りにも深い悲しみにえようとしていたのだ。

阿孫アスン、そなたにはまことに気の毒だが、夜が明け次第しだい、一足先に広東カントンってはくれぬか?そして、葬儀の準備にかかってくれ。私も明朝みょうちょう大管だいかんしゅさまたちにお別れを済ませたのち、すぐにあとを追う」

「いいえ、世凰シーファンさま!」

 阿孫アスンは、きっぱりと否定した。

「手前、夜明けを待つことなく、今よりすぐさま立ち戻り、準備万端整えまして、あなたさまのお帰りをお待ち申す所存しょぞんにございます」

「そうか、済まぬ阿孫アスン!呉れぐれも、気をつけて帰ってくれ」

 世凰シーファンは、阿孫アスンの誠意に心から感謝していた。

「ならばお先に、世凰シーファンさま。道中どうちゅう、御無事で!」

 一礼した阿孫アスンは、ずぶ濡れの身で、いさぎよく去って行った。

 その彼と入れわりに会釈えしゃくわし、先程さきほどの若いそう英恵インフィが入って来た。

 彼は、詳細しょうさいは知らぬまでも大方おおかたのところは察していると見え、打ちしおれてしょんぼりしている。

フェン殿・・・」

 彼は小さな声で、悲しそうに続けた。

翔琳寺しょうりんじを、お出になるのですか?もう二度と、お戻りにはならないのですね⁉」

 他のどの高弟こうていよりも、世凰シーファン一番慕したっていたこの若年じゃくねんの僧は、彼が翔琳寺しょうりんじを去ることが悲しくてならないらしく、子供じみたまでいているようだった。

英恵インフィ殿・・・」

 世凰シーファンは、そんな彼の心情をいとおしく思い、張り裂けそうな胸の痛みをこらえて、かすかに微笑んだ。

 「もしも御縁があれば、いつか再び、お会いできる日もめぐってくるでしょう。私が翔琳寺ここを去っても、あなたはそんなことに心奪われる事なく、ひたすら御自身の修業にはげんで下さい」

 こう言って、そっと英恵インフィの肩を叩いてやった世凰シーファンは、彼を残して僧房を出た。


翌早朝よくそうちょう世凰シーファンは、大恩だいおん深きツージュエ禅師ぜんじの前にひざまづき、事情を打ち明けて、ながいとまうた。

「そうか、そなたもついに、行ってしまわれるか・・・」

 よわい九十才とも、また百才とも言われる翔琳寺しょうりんじ大管主だいかんしゅツージュエ禅師ぜんじは、感慨かんがい深げにそう言い、慈愛じあいこもった眼差まなざしで、じっとまな弟子でしの顔を見詰めた。

「そなたが初めて翔琳寺ここへ来られたのは、確か、七才にたぬ時であったのう。それはそれはうつくしゅうて、まだあどけない、さながら花の精を思わせるような御子おこであったが・・・あれから、はや十四年。きびしい修行にようえて、さても見事に成長されたものよ」

 彼はしばらくの沈黙ちんもくを置き、さらに続けた。

「この拙僧わしの持てるものはすべて、寸分すんぶん余すところなく、そなたに伝えた・・なれど、果たして鳳凰ほうおうけんをそなたにさずけたことがよかったのかどうか、正直言うて、この拙僧わしとしたことが思い迷う時もあるのじゃ・・・言うまでもなく、そなたはいまおうに達してはおらぬ・・出来得るならば、このまま達せずして、平穏へいおん無事の生涯しょうがいを送らせてやりたいが―如何いかんせん、あきらかに鳳凰ほうおうとなるべくせいを受けし身に、それはかなうまい・・・好むと好まざるとにかかわらず、やがて時をぬうちに生死のきわみに立ち、必ずや、おう目覚めざめることとなろう・・・ならばせめて、見事真しん鳳凰ほうおうとなり、天空そら高くんで見せい!のう、世凰シーファン

 深い深い、底知れぬ程に深いその瞳で、禅師ぜんじは、みずからが心血しんけつそそいで育て上げた生涯最後の、そして最高のまな弟子でしの姿を魂の奥に焼き付けんが為に、ただひたすら、凝視ぎょうしし続ける。

「お師匠ししょう様。お言葉確かに、我が胸にきざみましてございます。今日こんにちまでの身に余るおんいつくしみともども、この御恩は世凰シーファン終生しゅうせい忘れは致しませぬ!」

 世凰シーファンは、この仙人のような大管だいかんしゅを、心の底から敬愛してやまなかった。誰よりもきびしく、そして温かく、常に水の流れにも似たすこやかさをたたえた無限の慈愛じあいで、禅師ぜんじはすっぽりと彼を包み込み、十四年間聊いささかも変わることなく、見守り続けてくれたのである。

「振り返ることなく、くがよい。それが、そなたに天が与えたもうた運命みちであろう。なれど決して、散り急ぐではないぞ。たとえ、万難ばんなん身に振りかろうとも、そのせいあざやかにまっとうせよ!」

 おだやかにさとし終わった禅師は、もはやすべてのきずなを絶ち切るべく、ひときわ威厳いげんに満ちた声音こわねで言い放った。

「さらばじゃ、フェン世凰シーファン‼」

「おさらばでございます、おしょう様‼」

 これが、師弟してい今生こんじょうの別れであった。

 世凰シーファンは、瞑想めいそうの座に端座たんざするツージュエ禅師ぜんじに向かって深々と一礼すると、ひっそりと立ち上がり、しつを出て、静かに重いとびらを閉ざした。

 ともすれば押し流されそうになる惜別せきべつじょうを断ち切るために、ぴったりと、寸分のすきも無く禅師ぜんじおのれとの空間をへだてた彼は、師の言葉通り二度と振り返ることなく、その場を去っていった。

 次第に遠ざかりゆくまな弟子でしの気配を、五感すべてにことごとく感じ取りながら、ツージュエ禅師ぜんじは今一度、心中密ひそかに別れを告げるのだった。

〈さらばじゃ!我が手塩てしおけし、翔琳しょうりん最後の鳳凰ほうおうたる者よ‼・・・〉

 ほどなく彼は、深い瞑想めいそうに入った。

 やがて・・・寺内じないすべての人々にいとまを告げた世凰シーファンは、彼の十四年間の青春がきざみつけられた翔琳寺しょうりんじ本山をあとにした。

 ようやく嵐は去り、雨は上がったものの、まだ、かなりの強い風が吹き渡る朝であった。

 一路いちろ広東カントン郡へ―すさまじい速さで雲がはしる。

 それは、このひいでた若者が抱くただならぬ宿しゅくせいさながらに、あらたなる嵐の予感をはらみ、次々と、途切とぎれるさえ知らぬ虚空こくうを横切って行った。

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