第6話《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-4-


その半刻後―

 阿孫アスンは、ツェンテー遺骸なきがらみずからの手で清め、衣服を整えて、居間に安置あんちし終わっていた。

「だんな様・・・」

 彼は、幾分いくぶん柔和にゅうわになった主人の死に顔に向かって語りかけた。

「さぞや、御無念むねんでございましょう・・。なれど、だんな様と香蘭シャンランさまのおうらみは、いつの日にか必ず、世凰シーファンさまがお晴らし下さいます。そのあかつきにはこの阿孫アスン、命にえましても、微力びりょくをおえ申す所存しょぞんにございます!」

 ちかいもあらたに、彼はてきぱきと家臣たちに指図を与えた。

シゥ、そなたミャオと手分けして、このことを御親族の方々にお知らせ申し上げてくれ。よいか、くれぐれも取り乱してはならぬぞ!私はこの足で、すぐさま翔琳寺しょうりんじおもむき、世凰シーファンさまにお伝えせねばならぬ。他の者は、留守を頼んだぞ‼」

 こう言い残して、阿孫アスンは素早く屋外おくがいへ走り、厩舎きゅうしゃから駿馬しゅんめを引き出すなり、ひらりとその背に打ちまたがってピシリとひとむち漆黒しっこくやみの中を、一路いちろ翔琳寺しょうりんじ目ざして矢のように駆け去って行った。


 世凰シーファンはたった一人、仄暗ほのぐらい、薄墨うすずみいろの世界の中に座っていた。

 彼がほおづえをついている古びた卓子テーブルと、その上に置かれた、灯がついているのかいないのかも定かでないしょくだい以外、あたりには何も無い。

 どこかの部屋のようでもあり、全くただの空間のようでもあった。

 彼が腰かけている、ひどく粗末な(と思われる)椅子の感触だけが妙に生々なまなましく、まるで彼が立ち上がるのを許さぬかの如く、ぴったりと体に張りついていた。

 その姿勢のまま彼は、じっとやみ彼方かなたに目をらし続けている。

 果たして何を見ようとしているのか、自分でも解らない。

 ただ、何かが身の周辺まわりに起こりつつあるのだという不思議な確信があった。

 突然―。

 薄明りの中に、一個の人影が浮かび上がった。

「父上!」

 その人影に向かって、世凰シーファンは座ったまま呼びかける。

 だが、彼とはほんの卓子テーブル一つへだてただけで向かい合っているはずの父は返事もせず、なぜかとてつもなく遠くにいるような、ぼんやりとした輪郭りんかくしかない。

「父上⁉どうなさったのです。なぜ、返事をなさいませぬ⁉」

 世凰シーファンが一生懸命に問いかけても、父は黙りこくって答えようとはせず、かなしそうな目で、じっと彼の顔を見つめるだけであった。

「父上!」

 世凰シーファンが思わず身を乗り出そうとした時、さらにもう一つの人影が現れた。まさしく、姉、香蘭シャンラン・・・。

 けれども、やはりその姿は全体にしゃがかかり、ひとくはかなげで、薄明りの中で陽炎かげろうの如くれていた。

 香蘭シャンランは顔に袖を当て、うるんだ瞳をまっすぐ弟へとそそいでいる。

「泣いていらっしゃるのですね、ねえさま。何があったのです⁉何が、ねえさまを泣かせるのです⁉」

 しかし、彼女もまた、何も答えようとはしなかった。

 やがて―父と姉は、すうっと煙のように立ち上がり、彼に背を向けて去って行こうとした。

「お待ちください、父上!姉さま!」

 世凰シーファンは必死で立とうとしたが、どうしたわけか体が動かない。

それどころか、実に不可解にも、彼は依然いぜんとして卓子テーブルの上にほおづえをつき、じっとやみに目をらした姿勢のままで、声も発してはいないのだ。

〈これは!・・・これは一体、何なのだ?どういうことなのだ⁉〉

 気ばかりがあせり、体中から脂汗あぶらあせが吹き出して来る。そのかんにも、父と姉はどんどん遠ざかって行き、その姿が、まさに闇に溶け込もうとした瞬間、世凰シーファンは血を吐く想いで、体ごと絶叫した。

「父上っ‼ねえさまっ‼」

 自分の声で俄然がぜん目覚めざめた彼は、反射的に、がばっととこの上に起き上がった。

〈また、同じ夢だ!・・・〉

 彼は思わず、両手で顔をおおった。

 額にもほおにも、驚くほどの汗が吹き出して、ぐっしょりと濡れた髪が、あちこち不快に張り付いている。

 のみならず、全身くま無く、冷たい汗が流れていた。翔琳寺しょうりんじに戻って来た翌日から、世凰シーファン夜毎よごと、同じ夢にうなされ続けているのだ。

 すでに、今夜で四日目・・・。

 最初のうちは、今度このたび帰省きせいに父と激しいいさかいがあったため、それが心のどこかに影を落としているのだろう、と思っていた。

 けれど、こう毎晩同じ夢を見るというのは、とても唯事ただごととは思われぬ。父と姉の身に、何らかの異変が起こったと考えるべきではないのか?

〈どうあっても、明日あすは帰ってみよう。無駄足むだあしならば良いのだが・・・〉

 世凰シーファンは祈りにも似た気持ちで、そう決心したのだった。

 さく夜来やらい、この地方は、かつてないほどの猛烈な嵐に見舞われていた。

 現に今も、稲妻いなずまの鋭い閃光せんこう間断かんだんなく室内をいろどり、かんぱつ入れず、すさまじい雷鳴らいめいが、大地をるがさんばかりの容赦ようしゃない大音響をとどろかせる。

 風雨はいまだ勢いおとろえず、地上に立つすべてのものに悲鳴を上げさせつつ吹き荒れて、狂おしく、窓を打ち続けていた。

消し忘れてしまったしょくだいの灯が、今も消えることなくらめいているのが、何とも不思議な気さえする。

〈とにかく、着がえねば・・・〉

 そう思った世凰シーファンが寝台を下りた途端とたん、どこからともなく一陣いちじんの風がサッと吹き込み、その灯を吹き消して、あたりは一瞬、闇に沈んだ。

〈‼〉

彼が何かを予感したと同時に再び閃光せんこうひらめき、全身総毛そうけつかと思われるほどの、とてつもない雷鳴がとどろき渡った。

 落雷らくらい!であったろう。直後に、けた天空からなだれを打って大地を穿うが雨音あまおとが、より一層いっそうの激しさを増した。

 その中をこちらへ向かって急速に近づいてくるあわただしい足音を、彼の耳は、はっきりととらえたのである。

 世凰シーファンは素早く扉へけ寄り、足音のぬしたたくよりも先に、それを開いた。部屋の前では、息せき切った若いそう)が、今にもとびらたたこうと手を上げたところであったが、自分がれる直前にいきなり開かれたことに驚いて、ポカンと口を開けたまま立ちくしていた。

「何事です、英恵インフィ殿⁉」

 世凰シーファンに問いかけられて我に返った寺僧・英恵インフィは慌てて答えた。

「あ⁉ああ、フェン殿。たった今、あなたの御実家から急使が到着されましてございます。何やら唯事ただごととは思えぬ御様子にて、大至急、あなたをお呼びしてほしいとの事でございましたので!」

〈やはり、何かがあったのだ‼〉

 世凰シーファンは、胸がまった。

 にわかに波立ち始めた心を押さえつつ、つとめて平静な口調くちょうで、彼はたずねた。

夜分やぶん御足労ごそくろうをおけ致しました。使者は、どこにおりましょう?」

「はい、あちらの僧房そうぼうにお通し致しました。この嵐の中、ずぶ濡れとなって来られましたゆえ、大急ぎで火など起こさせております」

 英恵インフィもまた、尋常じんじょうならざる雰囲気ふんいきに少なからず緊張し、どこかぎこちない声つきでそう答えたのち回廊かいろうへだてた東の僧房をし示した。

「お心遣づかいい、かたじけない!」

 感謝の言葉を残して世凰シーファンは、取る物も取りえず、東の僧房へと急行した。

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