第5話《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-3-

しばらくののち―。

香蘭シャンラン胸元むなもとから短剣を抜き取って自らの衣服でぬぐい清め、落ちていたさやに納めて懐中かいちゅう深く差し入れた阿孫アスンは、もはやぬくもりも遠ざかりゆく彼女の体を抱き上げて、そっと寝台の上に横たえてやった。

 死してなお気高さをたたえたその面差おもざしを、決して忘れまいとするかのように凝視ぎょうししていた彼だったが、やがて従者たちの方を向き直ると、静かに口を開いた。

クァン、やはり、生き残った者はおらぬのか?」

 生存者を求め、手分けしてやかた中をくま無く探索して戻って来た四名の家臣たちは、一様いちよう項垂うなだれて答えた。

「はい、残念ながら・・・」

 そう答えるクァンという男の声も、少なからずふるえていた。

「そうか・・・」

 阿孫アスンは、深い嘆息たんそくらした。

いかに殊更ことさらの戦闘体勢にないとはいえ、仮にも名門と称される豪族の家臣が、こうまであっさりと皆殺しにされるとは尋常じんじょうでない。

 多分、賊共が使用したと思われる麻酔ますいこうの魔力によって体の自由を奪われ、赤児あかごの手でもひねるように、いとも簡単に殺戮さつりくされて行ったのだろうが、しかし何故なにゆえ、無抵抗な召使いや下働きの者に至るまで、一人残らず、根こそぎほふり去る必要があるのだ⁉

か⁉〉

 阿孫アスンの胸に、唐突とも思えるひらめきがよぎった。

 なまじ抜きん出た名門であるがゆえに、もしやこのフェン家は、意図いと的に、何らかの『見せしめ』にされたのではないだろうか⁉

 またたく間に胸をおおい尽くしてゆく恐ろしい疑念に彼が戦慄せんりつした時だった。

チョウ様!」

 最後まで戻っていなかったミャオという名の家臣が、小太こぶとりの女を引きずるようにして部屋に入って来た。

「この者が、厨房ちゅうぼう戸棚とだなの奥深くに隠れておりました。どうやらこの女が、お屋敷中でただ一人の生き残りのようでございます!」

 恐怖のためにまっさおになり、ぶるぶると、間断かんだん無く全身をふるわせ続けるその女は、厨房ちゅうぼう専門に働く下女げじょの身分、到底とうてい奥向きに入れる代物しろものではない。

 だが、今は彼女こそが、唯一ゆいいつ無二むにの貴重な生存者であった。

「そなた確か・・・そう、琴娘チンニャンとか申したな。果たして何があったのか、そなたの見た通りを包み隠さず、話してはくれぬか?」

 阿孫アスンつとめてやさしい口調くちょうで、ふるえの止まらぬ小太りの女、琴娘チンニャンに話しかけた。彼女はそれからよもしばらくの間、そばかすだらけの色黒の顔を引きらせたきりに声も出せず、ただ激しく首を横に振るばかりであったが、そのうち、やっとのことで少しずつ落ち着きを取り戻し、が鳴くような小さな声ながら、ポツリポツリと語り始めた。

「わ、わたくし・・・お夕食の跡片付けをしておりましたら、料理がしらワンさんに、あすの朝使うまきが足りないから、柴庫たきぎくらへ取りにゆくよう言われました・・。あの、そしたら柴庫くらの中で、うっかりころんでしまいまして・・あの、あかりが暗かったものですから、つい・・。それで、やっと散らかったものを片づけて外へ出ようとしたのですが、な、何だか黒い影のようなものが、中庭を横切ってゆくのが見えましたもので・・・もう恐くって・・恐くってわたくし、しばらくの間、じっと柴庫くらの中に隠れておりました。大分だいぶたってから、まきを持ってお台所に戻りましたら・・・そしたら、そしたら・・・」

 そこまで言うと、琴娘チンニャンにわかに口をざし、おびえ切った目で、すがりつくように阿孫アスンを見つめた。

 いわゆる、状態である。

 あまりの恐怖がよみがえったために、一時的に錯乱さくらんしたのかも知れない。

琴娘チンニャン、ここはもう、恐ろしいものは何もいない。安心しろ。さ、続きを話してくれ」

 阿孫アスンおだやかな言葉を聞き、やさしいその眼差まなざしに力づけられた琴娘チンニャンは、子供じみた動作でこっくりとうなづいたのち、再び口を開いた。

「お台所は・・血の海でした。ワンさんも、女中がしらさまもみんな・・・みんな殺されていました。わたくし、どうしていいか解からずにボーッとしていましたら・・・ずっとずっと奥向きの方からも、たくさんの悲鳴が聞こえて来て…恐くて恐くて、思わず戸棚とだなの中に飛び込んで息を殺しているうちに・・・あの・・息苦しくなったのと恐いのとで、いつのにか気を失ってしまったらしくて・・・どれくらいそうしていたのか、全然解りませんけれど・・・気がついた時にはもう、静かになっていたのです・・・。そのまま戸棚とだなから出られずにふるえておりましたら、急にとびらいて、わ、わたくし、もう駄目だめだと思って・・あの、あの‥申し訳ございません。わたくし・・少しばかり、あの・・戸棚とだなの中で、おしっこをらしてしまいまして・・・。そしたら何と、こちらの御家来の方でした。うれしゅうございました、ほんとに・・・」

 彼女は、どうにかこうにかではあったが、それでも何一つ包み隠さず、仔細しさいを語ってくれたのだった。

「御苦労だった、琴娘チンニャン

 彼女の正直さに、何かしら感じるものがあった阿孫アスンは、やさしく彼女をなぎらってやった。

「今一つ。その黒い影の顔は見なかったのか?人数は何人ぐらいだったか、おぼえているか?」

 彼は琴娘チンニャンおびえさせないよう気を配りながら、さらに問いかけてみた。

「顔は・・あの、全員覆面ふくめんをしていたようで、全然分かりませんでした。でも、確かに、十人位はいたような‥気が致しますが・・・」

 取るに足らない下女げじょながら、彼女は存外に目聡まざといところがあるらしくて、思いがけない正確さで、賊の実態を把握はあくしていた。

〈さてもや、先刻の一味めか‼〉

 阿孫アスンの胸が、再び自責の念にうずき始める。

 だが、今はごとなどに沈むべき時ではない。

「そうか、よく解った。恐ろしい思いをさせて済まなんだな。それにしても、そなたが生きのびていてくれて有難い。琴娘チンニャン、頼みがある。これへ参れ」

 そう言って阿孫アスンは、彼女を香蘭シャンランの寝台のかたわらへとともなった。

 寝台の上を一目見るなり、琴娘チンニャンは息をみ、そこに横たわった美しいむくろを凍りついたように見つめるばかりである。

 彼女などは、当然のことながら奥向きへ入ることは許されず、ってこのひいさまのお顔も、滅多めったはいしたことがない。

 くたまの何かの折りに、はるか遠くから垣間かいま見る程度であった。下女の身にとってみれば、まさに『雲の上の天女』とも言うべきそのお方が、今自分の目の前で、胸を血に染めてことれているのだ。

 しばらくは呆然ぼうぜん自失じしつていで立ちすくんでいた琴娘チンニャンであったが、やがてののち、問いかけるような瞳で阿孫アスンを見上げた。

〈あなた様は、わたくしに何をせよとおっしゃるのでございましょう?〉

 彼女は、そう問いかけたかったのだ。

 阿孫アスンは、琴娘チンニャンの肩にそっと手を置き、そして言った。

「そなたに、香蘭シャンランさまのお身支度みじたくを頼みたいのだ。お体を清め、一番美しい御衣裳おいしょうを着せて差し上げてほしい」

「わ、わたくしが⁉あの、わたくしなどが、おひいさまのお身支度みじたくを・・でございますか⁉」

 予想だにせぬ驚きのために、琴娘チンニャンは、それこそこぼれんばかりに目を丸くして聞き返して来た。

「その通りだ、琴娘チンニャン。どうか、よろしく頼む!」

 彼女に向かって、阿孫アスンは深々と頭を下げるのだった。

「かしこまりましてございます、チョウ様!」

 あわてて彼に、文字通りゆかに頭が届きそうな会釈を返してから、琴娘チンニャンは、意外なくらいにきっぱりとした声音こわねで答えた。

 もう、ふるえてなどいない。

 見かけによらず、この琴娘チンニャンという女は、まことに下女げじょ分際ぶんざいにはしいほどの毅然きぜんたるこころえを、その身の内深く秘めていたのである。

 自分にとって最初で最後のこの大役を、誠心誠意つとめ上げよう、と決心した彼女の表情は、顔立ちの悪さにもかかわらずりんえて、輝くものすら感じさせた。

 そして決意通り、真心まごころめて香蘭シャンランの身を清め、着換えをさせ、やがて寸分の手落ちもなく彼女の身支度みじたくを整え終わった琴娘チンニャンは、阿孫アスンにそのむねを告げたのち、ひっそりと一礼して退さがって行った。

 廊下を去ってゆく小太りの後姿は、なかば引きずられながらここへやって来た時とは打って変わって、どこか堂々と、ほこらしげでさえあった

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