第4話《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-2-

 ツェンテーめいにより、彼の代理として遠方の領地におもむいていたチョウ阿孫アスンが、使命を終え、五人の従者と共に屋敷に戻って来たのは、この惨劇さんげきの終わった直後のことであった。

 阿孫アスンは言うまでもなく、世凰シーファンの乳母でもあり、養育者でもあったチョウ夫人の息子である。

 って世凰シーファンとは、いわゆる『兄弟きょうだい』の間柄に当たっていた。今は亡き母と共に、幼少の頃からフェン家に引き取られ、姉弟と一緒にこの屋敷の中で成長して来た彼は、実直で忠義心厚く、それでいてなお義侠ぎきょう気風きふうにも富む好漢こうかんであったので、ツェンテーはこよなくこれを愛し、実の息子同様の扱いをしていた。

とりわけ、阿孫アスンの統率力並びに管理能力は素晴らしく、家臣の取りまとめから領地の運営に至るまで、重要な仕事をもそのほとんどを任され、しばしばツェンテーの代理者としての権限を与えられては、遠方へ出張でばっていた。

 ゆくゆくは、当主となる世凰シーファンの片腕に―とツェンテーは心に決めていたのだが阿孫アスンは、その期待に十二分にこたえ得る若者に成長していた。

 今年で、香蘭シャンランと同じく、二十五才になる。

そして彼は、心中深く、美しい女主人への尽きせぬ思慕しぼの情を秘めていた。


フェン家へ戻る道の途中で、阿孫アスンは、あやしげな黒装束くろしょうぞくの一団が、はるか前方のつじを曲がって闇に消え去るのを垣間かいま見たが〈何者だろう?〉と、内心不審に思いはしたものの、帰りを急ぐ余り、いてあとを追おうとはしなかった。

しかし、このことが後々のちのちまで、彼の胸に深い悔恨かいこんを残すのである。

屋敷の様子がおかしいことに阿孫アスンが気づいたのは、白壁しらかべへいをぐるりとめぐって、表門の近くまで来た時であった。

この時刻には当然閉ざされているはずの門が、わずかながら開いたままになっており、交替こうたい不寝番ふしんばんに当たっているべき門番の姿も見当たらない。

〈まさか、打ちそろって居眠りなどしているわけでもあるまい⁉〉

 いぶかりつつ門を押し開いて、一歩踏み込もうとした阿孫アスンは、たちまち息をんで立ち尽くした。血塗ちまみれになって息絶えた、無残な門番の死体を二つ、そこに見出みいだしたからである。

〈一体、何が起こったというのだ⁉〉

 彼の全身を、冷たい戦慄せんりつが音を立てて駆け抜けた。

 阿孫アスンは、体中に脂汗あぶらあせが吹き出すのを感じながら、従者と共に、夢中で邸内へ駆け込んだ。

 そこにはなんと、さらなる惨状さんじょうが展開されていた。長い廊下の至る所に、長剣のつかに手をかけたまま、あるいは、手槍てやりを握り締めたままに息絶えた家臣たちの死体が横たわり、無抵抗な召使いや、下働きの者たちのむくろまでが、多く混じっていた。

 皆、一様に目をいたうらみの形相ぎょうそうで、中には、自分がなぜ殺されねばならぬのか、と問いかけるような表情のものもあり、突然彼らの上に振りかった災厄さいやく理不尽りふじんさを語って余りある。

 この有様では、恐らく一人の生存者もいないのではないかとなか呆然ぼうぜんとした時、阿孫アスン突如とつじょ、鳥肌の立つような不吉な予感に胸をかれた。

 そして、次の瞬間、彼はものすごい勢いで、死体を飛び越え飛び越え、廊下を走り出していた。

 そのまま、ツェンテーの書斎の前まで駆けつけた阿孫アスンは、大きく息をはずませながらつか躊躇ちゅうちょしたが、すぐにそれをねのけた。

「だんな様!御無礼、お許しください!」

 声をかけるのもそこそこに、勢いよくとびらはなった。

「うっ!!」

 予感はまさに的中し、彼は二、三歩よろめいた。おびただしい血痕けっこん生々なまなましく飛び散ったかべ、机、そして天井にまで・・・。ゆかにはどす黒いだまりがあちこちに残され、さらによろめき引きずるような血の足跡が、書斎から居間へと続く。

 それを辿たどって居間に踏みった阿孫アスンは、目の前に突きつけられた絶望的な事実に瞠目どうもくし、あらがい、無意識のうちに激しく首を横に振り続けていたが、やがて彼ののどからは、しぼり出すような絶叫が発せられた。

「だ、だんな様っ!!」

 錦毯チンタンの上にうつぶせになったツェンテーかたわらに駆け寄ってその体を抱き起しつつも、命を持たぬ亡骸なきがらの余りの重さに、阿孫アスンどうこくした。

「だんな様!だんな様!お痛わしや、何者がこのようなことを‼・・・」

 彼は物言わぬ主人に向かって声をふるわせながら問いかけるのだったが、突然と思い当たった。

〈さては、先ほどの黒装束くろしょうぞくめの仕業しわざであったか!?〉

 そうとなればいまさらながらに、あとを追わなかったことがやまれてならぬ。

 いかに事が終わってしまったあととはいえ、もしも追ってさえいれば、せめてその正体なりと、つかみ得たやも知れぬものを・・・。

「何たる不覚ふかく!!お許しくださいませ、だんな様!」

 阿孫アスンは、心の底からツェンテーびるのだった。

 息せき切って彼の後を追ってきた五人の従者たちは、信じがたいその光景に打ちひしがれ、ただ声も無く立ち尽くすのみである。

「う!?」

 ツェンテー遺骸いがいを抱き起したまま深くくび項垂うなだれていた阿孫アスンが、短くうめくなり、俄然がぜん顔を上げた。

香蘭シャンランさま!まさか、香蘭シャンランさままで!?」

 主人の体を再び錦毯チンタンの上に横たえるのももどかしく、はじかれたように立ち上がった彼は、従者たちを突きのけて、あわただしく居間から書斎を抜け、再び脱兎だっとごとく廊下を走った。

 離れへの距離を、普段の何倍、いや何十倍も長く感じながら、やっとのことで香蘭シャンランの居間へ飛び込んだ阿孫アスンは、またもや眼前に突きつけられたあまりにも無残な現実に、顔をそむけることさえ忘れてこおりついた。

 ゆかの上にくだけ散った螺鈿らでん陶磁とうじの破片、あちこちに舞い落ちて土足で踏みにじられた、幾通もの古い手紙・・・。

 そして、その只中ただなかに、目にもあざやかなあやりの錦毯チンタンをさらにあかく染めて、落花らっか一輪いちりん香蘭シャンランが横たわっていた。

 あお向けに倒れた彼女の胸元には深々と短剣が突き立てられ、傷口からは、いまだに止めどなく鮮血が流れ続けている。

 だが、香蘭シャンランは、まだ、生きていたのだ。

 胸に抱きしめた一通の手紙が、かすかながら彼女の存命ぞんめいを伝えて、小刻こきざみにふるえている。阿孫アスン咄嗟とっさに彼女のかたわらに駆け寄るなり、その体を抱き起こした。

香蘭シャンランさま!もし、香蘭シャンランさま!阿孫アスンにございます。何卒なにとぞ、お気を確かに!!」

二、三度揺さぶられて、香蘭シャンランは、うっすらとを開いた。

「あ、あすん‥阿孫アスンね?よく・・戻って・・・来てくれました・・間に合って・・・・・うれしいわ・・・」

 彼女はほとんど聞き取れないくらいにか細い声で切れ切れに、しかし、その一語一語に命をめて、彼に語りかけるのだった。

「お許し下さいませ、香蘭シャンランさま!わたくしめの戻るのがもう少し早ければ、みすみすあなたさまを、このようなむごい目にお会わせ申さずとも済みましたものを・・・阿孫アスンの罪にございます!」

 阿孫アスンは、突き上げて来る慟哭どうこくに、ともすればれそうになる嗚咽おえつを必死でこらえつつ、おのれを責めさいなむ。

 けれど香蘭シャンランは、弱々しい微笑さえ浮かべて、首を横に振った。

「いいえ・・そなたのせい・・ではな・・・い・・阿孫アスン・・自分を責めては・・・なりま・・せん・・・わたくし・・・自身でやっ・・・たこと・・・それ・・よ・・りも・・・」

 彼女の命の火は、まさに消えようとしていた。その最後の火をき立てるように大きく瞳を見開き、阿孫アスンを見つめながら、香蘭シャンランは精一杯、唇を動かした。

「ど・・うか・・・あの子を・・・・・しー・・ふぁんを・・・たのみ、ます…つ・・たえて・・・・・いつま・・でも・・か・・わらずに・・・ねえさまの・・・ぶん・・まで・・・」

 彼女のから、新たなる涙が、恐らくはこの世で流す最後のものとなるであろう一筋の涙が、すでに血の気もせて蒼白そうはくとなったほおを伝って、流れ落ちてゆく。

「いつまでも変わらずにいてほしい。そして姉さまの分まで、生きてほしい!」

 彼女は、そう言いたかったのに違いない。

 だがしかし、彼女にはもう、残された時間は無かった。

 ほどなく、静かにを閉じた香蘭シャンランは幼い日の世凰シーファンの手紙を、その思い出と共にしっかりと胸に抱きしめて、心中まさしく確信したはずの仇敵きゅうてきの名すらも言い残すことなく、ひそやかに旅立って行った。

香蘭シャンランさまっ!!」

 ついに耐え切れず、阿孫アスンは彼女の亡骸なきがらを力の限りいだいて、激しく慟哭どうこくした。

香蘭シャンランさま!ああ、香蘭シャンランさま!まさかこのような形で、あなたさまを我が腕にいだくことになろうとは!!・・・〉

 彼の秘めた想いもまた、胸の中で、血を吐くような叫びを幾度いくたびとなく繰り返す。

 そして、つい今しがたそこに来合わせた、阿孫アスンの胸中など知るよしもない五人の男たちも、全員その場にひざまづき、身も世もない男泣きに泣きむせんだのであった。

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