第2話《二》宿星邂逅(であい)

 広東カントン郡を抜け、蒼()ツァンリン省・海峰ハイフォン山にほど近い林道りんどうにさしかかった時、世凰シーファンは、風に乗って聞こえて来る異様なざわめきに気づいて、ふと足を止めた。

 耳を澄ませると、それはどうやら道の左手、なだらかな斜面を少しくだった、連翹れんぎょう花木かぼくが群生する場所のあたりから聞こえて来るようだ。

 茂みのかげになって様子は見えないが、何らかの、小さな争いが起こっているらしい。

 世凰シーファンはそっと、そのほうへ近づいて行った。

」と言ってしまえばそれまでだが、好奇心旺盛こうきしんおうせいな彼としては、何事によらず、気になったことは放っておけないのだ。

 ましてや争いごととなれば、必ず難渋なんじゅうしている人間がいる、ということではないか。彼の中で持ち前の正義感が頭をもたげて来たとしても、致し方あるまい。

 そこでは、十数名の男たちが、誰かを取り囲むような格好で立っていた。全員、狩り支度をしているところを見ると、どこかの貴族あたりが、家臣を引き連れて野遊のあそびに来ているらしい。

 この一帯は、野兎や鹿等が多く棲息せいそくしていて、ちょっとした狩猟地のおもむきがあり、退屈しのぎに猟をするには、もってこいの場所であった。

 そのため、結構身分のある連中が、お忍びで遊びに来るのだ。この男たちも差し詰め「御多分ごたぶんれず」といったところか。

 だが彼らの、その殺伐さつばつとした雰囲気ふんいきはどうだ。とても、由緒ゆいしょある身分の者たちとは思えない。大方おおかたシュエン朝に取り言って俄(にわ)か出世した、ででもあろう。

 それに引き換え、彼らに取り囲まれた人々―清冽せいれつ気高けだかさにあふれた若い女と、彼女のおり役らしい品のいい老女、それに、実直を絵に描いたような中年の下男までもが、そこはかとない奥ゆかしさを感じさせて、間違いなく、この土地の古い豪族にゆかりの者たちであると確信させた。

〈これは放ってはおけぬ!〉そう決心すると世凰シーファンは、足音をさせぬよう細心さいしんの注意を払いながらさらに近づいて、彼らのすぐ横手のしげみで様子をうかがうことにした。

 ここならば、やりとりがはっきりと聞こえて来る。

「これほどおび申し上げましても、お許し頂けませぬか?」

 若い女は、あまり大きくないが、よく通るしっかりとした声音こわねで自分の前に立ちはだかっている首領格しゅりょうかくらしき髭面ひげづらの男に向かって問いかけた。

 取り立てて美人という訳ではない。けれども、いかにも勝ち気そうな切れ長の瞳と、やや紅潮した白い細面ほそおもての顔には、おのずと身に備わった高貴さがただよい、不思議な美しさを放って、凛然りんぜんたるおもむきがあった。

 その有様が〈どことなく、ねえさまに似たひとだ・・・〉という漠然ばくぜんとした想いを、世凰シーファンに抱かせたのである。

 彼女の足許には、恐らくはその手から落ちたものであろう、黄色い花弁を今が盛りと咲きほころばせた見事な連翹れんぎょうの枝が、まるで敷き詰めでもしたように、一杯に散らばっていた。

「許せぬ、と申したらどうするね、え?」 

 男は、いかにも好色そうな髭面ひげづらの口をいやらしくゆがめて、ニヤリと笑う。

〈なんだ、あいつか!・・・〉世凰シーファンは確かに、その顔に見覚おぼえがあった。

 まるで値踏ねぶみでもするように、男は、にごった目で女の体を見上げ見下ろし、執拗しつようで無遠慮な視線をわせ続けている。彼の従者たちも、主人同様、下卑げび性根しょうねをそのまま表情にただよわせながら、成り行きを楽しんでいるのだった。

「お許し下さいませ!何卒なにとぞ、お許しを!」

 老女は何とか女主人を守らねばと必死の懇願こんがんり返し、下男は下男で、地面に頭をこすりつけて土下座している。

 その中にあって、若い女だけが昂然こうぜんと胸を張り、少しもひるむことなく、相手と向かい合っていた。

「共の者が、あなた様の狩りのお邪魔を致したのであれば、明らかに、主人であるわたくしの手落ちでございます。いかようにもおび致しますゆえ、この者をお手にけられるのだけは、御容赦ごようしゃ頂きとう存じます!」

 彼女は、下男の命乞いのちごいをしているのだ。

 さては、下男が狩りの邪魔じゃまをしたから手打ちにしてやる、などと、難癖なんくせをつけられでもしたらしい。早い話が、老女と下男を共に連れた若い女に目を付けた『よからぬ男共』が、いやしい魂胆こんたん見え見えに、彼女ら主従しゅじゅうをいたぶっているのである。

「ほう?いかようにもびるとな?」

 とばかりにそう言うなり、髭面ひげづらの男はいきなり剛毛ごうもう密生みっせいした太い腕を伸ばし、女の白いあごを乱暴につかんだ。

びのしようによっては、許さんこともないが・・・」

「何をなさるのです!」

 女は水際立みずぎわだった気高けだかさで力一杯、無礼極ぶれいきわまるその手を振り払った。

その拍子に、勢い余った彼女の右手は、背後からたわわに伸びていた連翹れんぎょうの花枝に激突し、数本の枝が折れて、黄色い花びらが一度にパッと散りかかった。

かなりの衝撃があったはずだが、女は右手をかばおうともせず、怒りに両の瞳を燃え上がらせながら、男をにらえている。

 思いもかけぬ彼女の抵抗にい、男はかえって、異常にその獣心じゅうしんき立てられたらしい。ギラギラと血走った目で、何の造作ぞうさもなく女の手首を捕らえるが早いか、そのまま強引に、彼女の体を引き寄せようとした。

「お、お嬢さまっ!」

 身をって女主人をかばおうと駆け寄った小柄な老女を、男はこの上もなく邪険じゃけん蹴飛けとばした。

「ばあやっ!」

 女が叫んだのと、世凰シーファンが、すっとその場に姿を現したのとが、ほぼ同時であった。まるで予期せぬ彼の出現に、一同は驚愕きょうがくし、髭面ひげづらは、つかんでいた女の手首を思わず離してしまっていた。

 女は、本能的に世凰シーファンの側に走り寄る。

「見苦しいことだな、揚鉄玉ヤンティエユイ殿」

 彼女をそれとなくかばいながら、世凰シーファンは、蛇のような目で自分をにらみつけている髭男ひげおとこに向かって、軽蔑けいべつを含んだ微笑を投げた。(と、連中には見えた)

「う、き、貴様っ!」

 ヤンと呼ばれた男は、ただでさえみにく髭面ひげづらを、さらにゆがめた。

「貴様、確か、広東カントンフェンめの小倅こせがれだな?」

フェン世凰シーファン、と言ってほしいな」

 しかし、世凰シーファンは、動じる様子もない。

「私は、あんたに小倅こせがれ呼ばわりされる筋合すじあいなどないもの」

 そう言いながら、彼は腰にしていた大きな白扇はくせんを抜き取り、鮮やかな手つきでパッと開くと、呑気のんきそうにパタパタとあおぎ始めた。

 その態度が、なんとも人をっていて〈馬鹿にされた!〉ヤン満面まんめんしゅそそぎ、今にもつかみかからんばかりに逆上した。

 もとはやくざ上がりだ、などと噂されるこの男、これでも、今を時めく、シュエン王朝系の新興貴族である。

 どういう経緯いきさつからか、彼はたくみに時代の波に乗り、シュエン朝に取り入って出世などしてしまい、今では『』にまで成り上がって、権力をかさ威張いばり散らしていた。

 野卑やひ粗暴そぼう俗物ぞくぶつにして、思い上がりもはなはだしいヤン鉄玉ティエユイは、去年の秋、どこで見かけたのか、こともあろうに広東カントンの名門中の名門・フェン家の姫君、すなわち世凰シーファンの姉・香蘭シャンランに猛烈に懸想けそうし、妻に寄越よこせと強談ごうたんに及んだ甲斐かいもなく、ものの見事に拒絶されたのだった。

 常日頃つねひごろから、自らのコンプレックスの裏返しでフェン家をこころよく思っていなかった上、プライドまで傷つけられたヤンは、それ以来、あからさまにフェン家を目の仇にし、異常なくらいに憎悪ぞうおするようになった。

 そのっくきフェン家の、生意気な小倅こせがれめられたとあっては、ヤンとしても、おめおめと引き下がる訳にはゆかぬ。

〈「半殺しにしてくれるわ!」噂によるとこの小倅めは『翔琳鳳凰しょうりんほうおう』などと、ふざけた綽名あだなで呼ばれる程のつかい手だというが、たかがスネカジリ息子の手すさび、何ほどのことがあるものか!〉

 そんな鉄玉ティエユイの胸の内も知らぬに、世凰シーファンは相変わらず涼しい顔で白扇を使っている。

「とにかくもう、大人気おとなげない真似まねはおやめになったらどうです?」

「うるさい!小僧めが!」

 ヤンは恐ろしい形相ぎょうそうのまま、どなり散らした。

「私は小僧じゃない、本当に解らない人だな、あんたは」

 またもやさらりと受け流されて、揚の怒りは心頭に達し、それこそ、怒髪天どはつてんいた。

「この思い上がりの小僧めを、足腰立たぬようにしてやれ!」

 ヤン地団駄じだんだ踏みつつ、家臣に命令した。

「おう!」

 と、答えて、いかにも気の荒らそうな筋骨きんこつたくましい大男が、前に進み出てきた。と思うと、いきなり、細身の世凰シーファンひねつぶさんばかりの勢いで飛びかかった。

 ところがー。

「ウグッ」

 その男は奇声を発するや、急に前のめりになった。

「ヒエッ!」

 次にそう叫ぶと両手で頭をかかえ、そのままトトトッと後退したところでなぜか立ち止ると、突如とつじょ白目しろめき、ドタ―ッとばかりに、地響じひびき立ててぶっ倒れてしまった。

「?」

 常人じょうじんの目には、男がさんざん一人ひとり相撲ずもうを取った挙句あげく、勝手にのびてしまったとさえ見えて、何がどうなったのか、その詳細しょうさいを見届けた者はほとんど無く、一同、唖然あぜんとして立ち尽くすのみであった。

 細っこい、ひどく綺麗きれいな青二才が、のは間違いないのだが、果たして奴は、のだろう?

 人々の目は、再び世凰シーファンに集中した。

 その世凰シーファンは、例の白扇をたたんで右手に持ち、端然たんぜんとその場に立っていた。

 どうやら男は、その扇子で、目にも止まらぬ早業はやわざって続けざまに鳩尾みぞおちと脳天とをしたたか打ちえられ、たまらず悶絶もんぜつしてしまったものと見える。

「この野郎!」

 やっと我に返った家臣が二人、お里丸出しに口汚ぎたなののしりながら一度に襲いかかったが、結果は全く同じであった。

 ほんの短時間のうちにあまりにもあっけなく、大の男が三人、大地にのされて不様ぶざまころがっている有様ありさまは、何とも言えずに奇妙で、滑稽こっけいですらあった。

 当の世凰シーファンは、呼吸一つ乱れてはいない。

「く、くそ!」

家臣たちの余りの不甲斐無ふがいなさにますます腹を立てたヤンが、いまにも出て行きそうになった、その時だった。

「まあ、待て、ヤン

 今まで彼らから少し離れた場所で、じっと事の成り行きを見守っていた中年男が、威厳いげんのある声音こわねで押しとどめた。

 年の頃、四十前後というところか。がっしりとした、いかにも武人ぶじんらしい体格で、堂々たる自信にあふれた重厚なつらがまえの、だが反面、その身全体に何とも言えず陰湿いんしつ嗜虐しぎゃく的なかげりをただよわせた男である。

「もう、やめておけ。ここはひとまず、引き上げたがよかろう」

「し、しかしイェン将軍!」

 腹納まらぬヤンが、ムキになって何か言おうとする。

「とにかく、わしの言うことを聞け!」

 と、押さえておいて、イェン将軍と呼ばれた男はその男は、つかつかと世凰シーファンの前に歩み寄った。

 二人の視線がからみ合い、一瞬、目に見えぬ火花が散った。

フェン世凰シーファン、とか申したな」

 イェンは鷹のような鋭い目で世凰シーファン見据みすえ、しばらくののち、ふっとその目を細めた。

「わしは、シュエンの将軍・イェン大剛ダーガン。必ずや近い将来、おぬしとの手合てあわせの機会がめぐって来よう。その日を楽しみに、美しいその顔、ようくおぼえておくぞ!」

 そう言い残すとイェンは「引け!」と一声。

 男たちはたちまちその言葉に従って、負傷した仲間を助け起こし、潮の引く如く去ってゆく。さすが見事な、統率力であった。

 その中にあって、ヤン鉄玉ティエユイだけが、忌々いまいまにしつこく振り向いて、もう一度、世凰シーファンねめけた。

イェン大剛ダーガンか。底知れぬ奴!・・・」

 ヤンのことなど全く無視して、世凰シーファンは、去ってゆくイェン将軍を見送りながらひとごとを言った。彼にとっての最大の宿敵となる男との、最初の邂逅かいこうである。

 だがしかし、彼は、イェンの本当の恐ろしさに、まだ気づいてはいなかったのだ。

 去ってゆきつつイェンが何を考えていたかその胸中を知ったなら、いかに世凰シーファンとて、おぞましさに戦慄せんりつしたことだろう。

〈あの青二才、噂以上の掘り出し物。ヤンなどのおりに来た甲斐かいがあったと言うものよ。あの美しい体を、必ずや、我が伏魔ふくま拳で引き裂いてみせようぞ!おお、そうじゃ。死に化粧げしょうは、やはり『伏魔ふくま念誦ねんじゅ』がよい。血染ちぞめの鳳凰ほうおうか・・・。思うだに鳥肌が立つわ。ふふ、楽しみ、楽しみ!・・・〉

 イェン大剛ダーガンこそ、世に恐れられる殺人拳・妖州ようしゅう伏魔ふくまけん奥儀おうぎきわめた、稀代きだいつかい手であった。

 正式名『庸州ようしゅう伏魔ふくまけん』は庸州ようしゅう我眉山がびざん伏魔堂ふくまどうに伝わる、あくまでも実践本意、相手を倒すことのみを目的とする拳法である。

 そのためには手段を選ばず、非情のわざって急所をことごとく攻撃し、ついには死に至らしめるのだ。

 古来こらいより邪拳じゃけんさいたるものとされ、翔琳寺しょうりんじをはじめとする正当な拳流からは、蛇蠍だかつの如く、み嫌われていた。

 数ある殺人技わざの中でも、とりわけ残虐ざんぎゃくなものと言われるのが『伏魔ふくま念誦ねんじゅ』と名付けられた一手いってである。明らかに相手の心臓をねらって繰り出される峻烈しゅんれつな拳は、しかし決して即死を許さず、計算された正確さで肋骨ろっこつを折る。折れた肋骨ろっこつは、かなりの長い時間をかけて、じわじわと心臓に喰い込み続け、やがてののちにようやくこれを突き破って『死』を迎えることがのだ。

 そこに至るまでの犠牲者ぎせいしゃの苦しみたるや、鮮血にまみれて、まさに七転八倒しちてんばっとう、言語を絶するであろう地獄の辛酸しんさんめ尽くさねばならない。気も狂わんばかりにもだえ苦しむその一部始終を、勝利者は冷ややかに見守りつつ、念仏ねんぶつの一つなどとなえてやるのも、また一興いっきょう―。

 これほど残虐なわざが、この世にまたとあるだろうか。イェンとの出会いは明らかに、世凰シーファンのゆくてに暗澹あんたんたる影を落とすことになったのであるが、神ならぬ身が、おのの運命の先行さきゆきなど知ろうはずもない―。

 ふと何事か思い当たった世凰シーファンが、去ってゆく一団から視線を転じて急に振り向いたのと、女が遠慮えんりょがちに声をかけようしたのが偶然一緒になり、その結果、二人はまともに顔を見合す格好かっこうになった。

 途端とたんに彼女は、ぱあっと頬を染めて口ごもり、視線をらせてうつむいてしまった。むくつけき男共にさんざんからまれながらも一歩も引かなかったあの勝気かちきさが、まるでうそ)のようである。

 けれど世凰シーファンの方は。女の様子などにはまるで無頓着むとんちゃく、にこりともせず、すぐに彼女の右手に視線を移した。

 やはり、傷ついている―。

 白くたおやかな手の甲には、折れた枝先でえぐられた傷がはっきりときざまれ、かなり出血していた。もとより大した傷ではないが、とかくこういったたぐいの傷というものは、安易あんいに放っておくと意外にうみを持ち、思わぬあとを残すことがある。

 世凰シーファンは、ひょいと彼女の右手をつかむなり、なんのためらいもなく、傷口にその形のよい唇を当て、汚血おけつを吸い出し、そして吐き捨てた。

 二、三度それを繰り返したのち、今度は、自分の白絹の袖口そでぐちもなく引き裂き、包帯ほうたい代わりにくるくると巻きつけて、あざやかに手当てを終えてしまったのである。

 余りにも自然で手際のよいその振舞ふるまいが、抵抗心のしょうじるすきなど全く与えず、女は耳の付け根まで深紅まっかに染めながらもされるがままになっていたし、老女と下男も、彼を止めるどころか、うっかりすると感動さえしかねない様子で、一部(《いちぶ》始終しじゅうを見守っているだけであった。

「さあ、これでひとまずは大丈夫」

 世凰シーファンは初めて、女に向かって口を開いた。

「だけど家に戻られたら、必ず、ちゃんとした手当をなさい。念の為に、一度は医者に見せておいた方がよいかもしれません」

 そして、女が小さくうなずいたのを見届けると、にっこりと、ある意味では罪作りと思えるくらいにあでやかな笑顔を見せた。

「あの・・・」

 その時になってやっと、老女が声をかけて来た。

 振りむいた世凰シーファンに向かって、彼女はなぜか、ほっとひと呼吸置いてから丁重ていちょうに頭を下げた。

あやういところをお救い頂きまして、まことにお礼の申し上げようもございませぬ」

 下男は下男で、さきほどから地面に頭がくっつきそうなくらいに体を折り曲げ、何度も何度も、おじぎを繰り返している。口下手くちべたな彼はうまく感謝の気持ちを言い表すことも出来ず、頭ばかりをげ続けているのだろう。

「いえ、さほどのことではありません。では、私はこれで」

 世凰シーファンはそう言って、あっさりと歩き出そうとする。

「お、お待ち下さいまし、若さま!」

 老女はおおあわてに慌てて追いすがった。

「お待ち下さいまし。あの、私共わたくしどもは、この先のハイフォン山の山荘に住まい致しますパイ家の者でございます。あちらの方は、お嬢さまの美明メイミンさまと申されまして、わたくしめとこの男とは、おつかえ申し上げている者にございます!」

 早口で、必死に身分を告げる彼女にしてみれば、危難を救ってくれたこの美しい貴公子を、女主人のためにも、このまま行かせてしまってなるものかと一生懸命なのだろうが、当の世凰シーファンは、どうも年寄りが苦手であった。

 クァンじいといい、この老女といい、くどくど、しつこく言われるのが嫌いなのである。

フェンさま!」

 構わず歩き出そうとした彼をどうにか落ち着きを取り戻したらしい女主人―パイ美明メイミンが呼び止めた。先刻のやり取りで、彼の名を知ったのだろう。

 しかし、彼女はまだほんのりとほおを赤らめていたし、手当を受けた右手は、もう一方の手で、しっかりとその胸に抱きしめたままだった。恐らくは彼女にとって、生まれて初めての、な体験であったに違いない。

「もしも、もしも御迷惑でなければ、ぜひとも、私共の山荘へお立ち寄り願えませんでしょうか?ここから、さほどの距離はございませぬ・・・珠林チューリンります父にも使いを出し、お礼を申し上げさせたいと存じます。それに、せっかくのお召物めしものにまで、傷をおつけしてしまいましたので・・・」

 だんだんと先細さきぼそりになってはゆくものの、彼女の声音こわねにはどこか、いかにも乙女らしい期待感がめられていた。

折角せっかくですが」

 ところが、このあっけらかんとした若者はもない。

「私は、これから修業先に戻らねばなりませんので。それに、衣装のことなど、どうぞ御心配なく」

 けろっとして言うばかりで、何とも取りつく島さえない。

「でも・・・」

 パイ美明メイミンは、ひどく落胆した様子であったが、すぐに気を取り直し、健気けなげに笑って見せた。

〈あ!〉

 思いけなくその片頬かたほほに、深いえくぼがきざまれた・・。

〈可愛いな!・・〉

 世凰シーファンの胸の奥で、ほんの少し、波立つものがあった。けれども、異性に関して全くなこの若者は、それさえも自覚しようとはしないのである。

「ならばフェン様、無理にお止めは致しますまい・・・道中どうちゅうお気をつけて、おいでになりますように。本当にありがとうございました」

 当人さえも気づかぬかすかな感情の波立ちを、ましてや彼女が察知できるはずもなく、パイ美明メイミンは、自分にこの若者を引き止めるだけの魅力の無いことをさびしく感じながら、丁寧ていねいに礼を述べた。

 彼らは会釈えしゃくわし合い、そして別れた。

フェン世凰シーファンさま!・・・」

 見る見る遠ざかってゆく端麗たんれいな後姿に向かって、美明メイミンは、熱にうかされたようなうるんだ瞳で、その名をつぶやいた。

 彼のくちびるれた傷口が、燃えるように熱い。

 それは決して、痛みのせいばかりではなかったのだ。

 何となく一方的なようではありながら、実はその出会いこそが、フェン世凰シーファンパイ美明メイミンとの、まごうかたなき運命の出会いだったのである。

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