鳳凰傳

桃花鳥 彌(とき あまね)

ーアレクサンダー・傳聲(フーシェン)へ捧ぐー

巻ノ一 翔琳鳳凰(しょうりんほうおう)

第1話 鳳雛籃離(たびだち)

遥かいにしえの書に曰く

鳳凰ほうおうは、せいなり」と――――



プロローグ


白雲づる九龍山くりゅうざん その名も高き翔琳寺しょうりんじ


英雄ますらお幾多あまたつどうなか


黒髪いまだあどけなく 玉の額に振りかかる


梅花ばいかごと美丈夫ひとの有り



花の芳顔かんばせ匂い立ち 星いだきたるその瞳


細身なれども血は熱く


ひとたび敵にまみゆれば 鬼をもひしぐ破邪の拳


民衆ひと鳳凰ほうおう称賛たたえたり




□「鳳凰傳」主な登場人物


フェン世凰シーファン

本編の主人公。『翔琳鳳凰』とうたわれる天才拳士にして『フェン美人』とも称される絶世の美男子。広東カントンの名だたる名門の御曹司おんぞうしに生まれながら、その宿星しゅくせいゆえに波瀾はらんの運命を辿たどる。


パイ美明メイミン

ツァンリンの豪族・パイ家の一人娘。美人ではないが、気高けだかく、たおやかな女性。世凰シーファンに危難を救われて以来、命懸けで彼を愛し抜く。


フェン香蘭シャンラン

世凰シーファンが愛してやまぬ、四才年上の姉。彼の理想の女性でもある。誇り高く、勝気な美女だが、こまやかな愛情の持ち主。


フェンツェンテー

世凰シーファンの父。建国の祖・華皇家直系の流れをむ名門の当主にふさわしい、高潔な人物。一人息子の世凰シーファンにはやきもきさせられるが、その実、可愛くてたまらない。


ヨンフールン

フェン家の食客しょっかくの一人であったが、なみすぐれた器量を持つ好漢。世凰シーファンと親友のちぎりを交わし、血縁をえた深いきずなで結ばれ合う。


チョウ阿孫アスン

世凰シーファンの乳母の息子。彼とは乳兄弟に当たる誠実な青年。幼少の頃よりフェン家に引き取られ、兄弟同様に育つ。香蘭シャンランひそかにしたっているが、のちに運命が激変する。


ウーチュイリン

北方の武闘集団「フェイツェィ」の、頭領の娘。義侠の血滾たぎる野性的な美女。苦界くがいに身を落としていたおり世凰シーファンを知り、本来の自分に立ち戻ると同時に、彼を熱愛するようになる。


パイ民雄ミンシオン

メイミンの父。一介いっかいの地方豪族ながら、義に厚く剛胆ごうたんな、ひとかどの人物。世凰シーファンにほれ込んで肩入れしたばかりに、罪人となってしまう。


リエンシェンチェン

フェン家の遠戚・リエン家の当主。腹黒い叔父おじの為に孤立する世凰シーファンに、ただ一人手を差し伸べる、誠意の人。だが、彼もまた、悲惨な運命にかなければならなかった。


瑞娘ルイニャン

メイミンの侍女。栗鼠りすのような瞳を持った、利発な娘。


ツージュエ禅師ぜんじ

九龍山翔琳寺・第二十八代大管主。「拳聖」のほまれ高き、孤高の傑僧。世凰シーファン天賦てんぶを見抜き、秘拳中の秘拳「梅花鳳凰拳」を、自らの手で伝授する。


ツイワンシウ

フェンツェンテーの腹違いの弟だが、実はおなどし生来せいらいの腹黒さでフェン家乗っ取りをたくらみ、悪に加担かたんして、実のおい世凰シーファンを、散散さんざんに苦しめる。


ヤンティエユイ

世凰シーファン宿敵しゅくてきの一人。野卑やひ粗暴そぼう)の俗物ぞくぶつで、妖奸・イェン大剛ダーガンの部下。彼と語らい、フェン家滅亡の黒幕となる。


イェン大剛ダーガン

時の覇者はしゃシュエン王家の重臣。世凰シーファンの最強の宿敵となる恐るべき殺人拳のつかい手で、自他共に認める男色家にして、サディスト。美貌の世凰シーファンに、最後まで異様な執着しゅうちゃくりを示す。



 《一》鳳雛籃離たびだち


「若君、若君、お待ち下されませ。これ、世凰シーファンさま!ええい、お待ち下されと申しておりますに!!」

 老人は、白髪頭しらがあたまを振り立てて、ややヒステリックに声を荒げながら、どうにかしてその若者の歩みを止めようと、先程から躍起になって奮闘していた。

足の速い若者へ、息せききって追いすがり、手を引っ張ったり前へ廻り込んだり、挙句の果てには、まるで米つきバッタのように三拝九拝さんぱいきゅうはいしたり・・・を繰り返す老人の姿は、どこか年老いたたぬき彷彿ほうふつとさせた。

 そんな彼を、無言のまま、手を振り払ったり、右へ左へよけたり、或いは全く無視したりしながら、実に迷惑そうにあしらっていた若者であったが、その余りのしつこさについにたまりかねたと見え・・・。

「いい加減にしたらどうだ、クァンじい!?」

 絶世、と形容しても何らはばかる必要もないほどの美貌からは少々意外な感じもする、低い声音こわねで抗議した。

「何をおおせられます、世凰シーファンさま!」

 老人も負けてはいない。一生懸命、若者の白衣の袖を摑(つか)みながら・・・。

「このような一大事を、いい加減にせよとは何たるお言葉。まったく以って、聞き捨てなりませぬ!あれほどお父上が御心痛遊ばすものを、あなた様はいかなる御所存にて、再び翔琳寺しょうりんじへなどお戻りなされますや!?さあ、このじいめにお聞かせ下され。さあさあ、思われるところ余さず、言うてみなされ!!」

 ものすごい見幕で一気にまくし立てた挙句にいきなりせてしまい、彼はゴホゴホと咳込んだ後、ゼイゼイ荒い息をついた。

 見れば見るほど狸そっくりの愛嬌があるにもかかわらず、その少なからぬ過激な言動といい、若者をハッタにらみつける眼光の鋭さといい、クァン老人、とても一筋ひとすじなわではゆかぬ超頑固ジジイの面目めんもく躍如やくじょである。


どのくらい時を彷徨さまよい、またさかのぼれば良いのか、見当もつかぬ―――。

広大な亜細亜あじあの一角に横たわる華の国は広東カントン郡・慶安チンアンの街はずれ、武術の聖地メッカとして名高い翔琳寺しょうりんじをその山懐やまふところに抱くファナン郡・九龍山のふもとへと達する古い街道の上で、この押し問答は繰り返されていた。

 時折、れ違う人々が、彼らに好奇の視線を向け、中にはわざわざ立ち止り、指差しながら何事かささやき合う者までいる。

「よいか、クァンじい!」

若者は、もう我慢がまんできぬとばかりに、キッとその美貌を引きめた。

「何度同じことを言わせるのだ。父上は、私をだまして呼び戻されたのだぞ、重病だなぞと!だが、急いで帰ってみるとどうだ、ピンピンしてるじゃないか!おまけに、会った事もないどこかの娘と婚約しろ、とまで言われる。私は御免だ!それで確かに、父上と口論になった。だが、もうその話は片付いたのだ。よって再び、翔琳寺しょうりんじへ戻る。それの、どこが悪い!?」

「悪うございますとも!」

 クァン老人は、頭から本当に湯気を立てながら、わめき散らした。

「お父上が、うそをつかれてまであなた様を呼び戻されたお気持ちが、おわかりにならぬとは言わせませぬぞ!こう申しては何でございますが、お父上もあのおとしゆえ、ただ一人の跡継あとつぎであらせられるあなた様をお手許にて教育されたのち、速やかに家督かとくをお譲りになりたいのでございます。それを、あなた様ときたら!・・」

 老人はまたも息が切れ、大きく方を上下させたが、そのくせ「だから、もうその話しは・・」片付いたと言うのだ!と若者が言い放とうとするのを「何で片付いてなどおりましょうや!!」かんぱついれずにさえぎった。

「いったい何年、翔琳寺しょうりんじなどにお留まりになればお気が済むのでございますか!?実に十四年間でございますぞ、じ!!あなた様も最早もはや二十一、もうそろそろ、御自身及びおいえのことを、真剣にお考えになるべき御年おんとしでございましょう!?」

「うるさーい、だまれ!!」


いやはや・・・・・。


若者が、いや、遠く建国の祖・華皇朝尊帝の直系の皇子にして英傑のほまれ高いフェイシオン公の流れをむ、と伝えられる名だたる名門「フェン家」の御曹司おんぞうし世凰シーファンが、ゆえあってファナン省・翔琳寺しょうりんじに預けられたのは、わずか七才にも満たぬ時だった。

というのも、彼が生まれた時、丁度、フェン家に逗留とうりゅうしていたある高名な占い師が、こんな予言をしたからだ。

「この御子おこは、まさしく万人ばんにんに比類無きお方。いわば、生まれついての貴公子であらせられる。恐らくは、おんフェイシオン公の再来でもありましょう。なれどそれゆえに、またとない波乱万丈はらんばんじょう宿しゅくせいをも、あわせてお持ちじゃ。七才までに、一旦いったん家を離れさせなければ、幼くして非業ひごうの最期をげられるべき災厄さいやくから、万に一つものがれるすべとてございますまい。このこと、ゆめゆめお忘れなきよう・・・」

世凰シーファンの母・秀麗シウリーは、この時、夫よりも十二才年下の二十六、三国さんごくに並ぶ者無しとうたわれるほどの絶世の美女であったが、彼を生んで間もなく、その予言を気にかけ、息子の将来に胸を痛めつつ、はかなくく世を去った。

夫・フェンツェンテーは生まれたばかりの世凰シーファンと、その四才上の姉・香蘭シャンランとを残されて、途方とほうれた。

彼はとりあえず、夫と乳呑ちのみ子を同時に亡くし、香蘭シャンランと同い年の息子をかかえてび住まいを余儀なくされていた、素性すじょういやしからぬチョウ夫人を見出みいだして世凰シーファン乳母うばとし、阿孫アスンという名のその息子も、一緒に屋敷に引き取ってやった。

 そして、愛情細こまやかで利発りはつなだけでなく、思いのほか深い教養を身に付けていた彼女に、子供たちの養育をも任せ、ひとまずは胸をおろしたのであったが、例の不吉な予言は、常に彼の頭と心にこびりついて離れず、父・ツェンテーを大いに悩ませ続けた。

 四十路よそじに手が届こうという年になってようやく、しかも愛妻の命と引き換え同然にさずかった、たった一人の男子である世凰シーファンを手離すことなど、とても出来はしない。だが、そうなければ、最愛の息子は、幼いままに非業ひごう)の最期をげるのだと言う・・。彼は心の休まる時が無かった。


その間にも、月日は矢のように流れ、子供たちはそれぞれ、美しく、すこやかに成長して行ったが、特に世凰シーファンは成長するにつれ、亡き母に生き写しとなった。

香蘭シャンランは、弟をそれは可愛がり、世凰シーファンも又、美しい姉を、その勝気かちきさをも含め、この上なくしたった。二人は片時も離れる事なく、いつも一緒だった。

「ねえさま、ねえさま・・」

 幼い世凰シーファンの、まるで花びらのようなくちびるからは、一日中、姉への呼びかけがこぼれ続けた。そんな二人を、いつも少し離れた所から、阿孫アスンがひっそりと見守っているのだった。

 子供たちの愛らしい成長振りに目を細めるツェンテーの心からはいつしか薄れつつあった黒い不安が、猛然と牙を剥(む)いて彼らに襲いかかったのは、世凰シーファンが、あとふた月で七才の誕生日を迎えようとしていたある日のことだった。

 前夜までは何ともなかったのに、翌朝になって突然、彼は原因不明の高熱を発した。

 それからの三日三晩というもの、その熱は少しも下がる気配けはいとて見せず、幼い世凰シーファンを徹底的に苦しめ続けたのである。

 フェン家は文字通りの大騒ぎになった。早速さっそく数多あまたの、名医という名医が招集され、入れ替わり立ち替わり脈をとったが、皆、一様に眉間みけんしわを寄せ、沈痛な表情で首を横に振るばかりであった。

 ツェンテーは、生きた心地ここちもしなかった。

「七才までに家を離れさせなければ、この子は幼くして・非業ひごうの最期をげるであろう・・・」

 占い師の言ったあの言葉が、今、おぞましいばかりの現実感をともない、大音響だいおんきょうとなって、彼の頭の中に繰り返しひびき渡った。

「もしや―もしや、あの予言が的中したのでは?」

 そうだとしたら、彼の最愛の息子は、このまま苦しみ抜いた挙句あげくに死んでゆかねばならないのだろうか?・・・。日頃は沈着・冷静なツェンテーも、この時ばかりは、子を想う哀れな父親でしかなかった。彼は半狂乱になって、ありとあらゆる神仏に祈り続けた。

何卒なにとぞ、息子をお救い下さいませ!どうしても叶わぬとおおせならば、わが命を引き換えに!・・・」

 そのかんにも、世凰シーファンの呼吸は乱れるばかりで、顔には全く、血の気というものがせてしまっていた。

 そんな弟の手を、両手で包むように握り締めながら、香蘭シャンランは何百回、何千回となく、一途いちずな祈りを繰り返していた。

「神様!香蘭シャンランは、娘になっても、お嫁にゆけなくても構いません。だからどうか、私の世凰シーファンを連れてゆかないで下さいまし!!・・・」

十一才の香蘭シャンランは、娘になったら、きっとどこかの素敵な皇子おうじ様のもとへ嫁ぐのだと、いつも夢見ていたのだった。

 だが彼女は結局、皇子おうじ様よりも、弟を選んだのである。

そして、乳母・チョウ夫人と息子・阿孫アスンは、三日の間、ひそかにしょくっていた。


―四日目の朝、ついに奇跡が起こった。あれほど高かった世凰シーファンの熱が、見る見る下がったのだ。医師の一人が脈をとり、もう大丈夫、というように大きく頷(うなず)いて見せた。世凰シーファンの枕元には二、三人の医師たちが残り、ずっと彼に付きっていた。彼らには、万一世凰シーファンが死んだ場合に立会人となり、官庁に提出するための報告書を作成しなければならぬ、という義務があったからである。

 なまじ名門というものは、何かにつけて手数を踏まねばならない。

 まる三昼夜というもの、それこそ一睡いっすいもせずに息子の寝台のかたわらにひざまづき、その恢復かいふくを神仏に祈り続けたツェンテーは、さすがに疲れがどっとあふれ、がっくりとその場に座り込んでしまった。ふと気付くと、熱が下がってすっかり寝息の穏(おだ)やかになった世凰シーファンに寄り添うようにして、香蘭シャンランもまた、すやすやと眠っていた。


その事があってから、ツェンテーは、真剣に息子を手離すことを考え始めていた。

 出来るだけ早い方がよい、と彼は思った。あれ以来、世凰シーファンは、あんな大病をわずらったことなどまるで嘘のように元気になり、毎日跳んだりはねたり、香蘭シャンランのあとにくっついて、はしゃぎまわっていた。

だが、いつまたあのようなことが起こるか、わかったものではない。七才の誕生日までは、あとひと月しかないのだ。手離すとは言っても、何もそのまま、一生帰ってこないと言う訳ではない。ほんの二、三年で良いのだから・・・。そのかん勿論もちろんつらいいであろうが、永久に彼を失うことを思えば、むしろたやすいことではないか。ツェンテーは、あれこれと考えあぐねた末、かねてより知己ちきの間柄にあったある高僧に、相談を持ちかけてみた。

翔琳寺しょうりんじに、お預けなさるがよい」高僧は即座にそう答えた。

「御承知の如く、翔琳寺しょうりんじは武術の総本山にして、さらに精神をも鍛錬たんれんする場所。そこに於いて心身共にきたえられれば、必ずや、御子息ごしそくの為にもなろう。拙僧わしが大管主殿宛に添状そえじょうを書いて進ぜるゆえ、それを持たせて、すぐにでも出立しゅったつさせなされ。こうなれば、ひとときなりとも早い方がよい」

なんとも急な話ではあった。だが、その言葉に従うより他に、道があるとは思われぬ。ツェンテーは息子を翔琳寺しょうりんじに預けよう、と決心した。

 その前に、何はさておき、まずは世凰シーファン自身にそれを納得させねばならない。彼は息子を書斎に呼び、噛んで含めるように訳を言い聞かせ、翔琳寺しょうりんじ行きをうながした。

 ところが意外にも「はい、わかりました。ちちうえ。しーふぁんはしょうりんじへまいります」美しいをキラキラさせながら、あっけらかんとそう答えて、彼は結構、平気なようだった。家を離れるのは嫌だと泣き出しでもしたら、一体どうなだめすかして旅立たせたものかと、ひどく心配していたツェンテーの方が、かえって拍子抜けしてしまったくらいである。

 それでも、さすがに姉と別れる段になると、その世凰シーファンも、少々べそをかいた。

彼にとって、とにかく一番辛かったのは、他ならぬ、姉と一緒にいられなくなることだったのだろう。

 しかし、結局彼は、一滴の涙もこぼすことなく家を出て、街はずれまで見送ってくれた姉に向かってたった一度振り返り、手を振っただけで、もう二度と未練がましい振る舞いをせず、健気けなげにもまっすぐに前を向いて、翔琳寺しょうりんじへと去って行ったのだった。


翔琳寺しょうりんじ大管主・ツージュエ禅師(ぜんじ)は「拳聖」とたたえられる拳法の達人であったが、世凰シーファンを一目見るなり、その稀有けうなる天賦てんぶの才を見抜き、同時に、生まれながらの天真爛漫てんしんらんまん素質そしつをも深く愛して、我が身一代にて、もはや絶つ積りであった秘拳中の秘拳・梅花ばいか鳳凰ほうおうけんを、その豊かな教養と崇高すうこうな精神と共に、自らの手で、彼に伝授したのである。

 梅花鳳凰拳ばいかほうおうけん―別名「破邪はじゃけん」とも呼ばれ、その名の如く、伝説のずいちょう鳳凰ほうおう由来ゆらいすると伝えられる。流れるような連続技わざ駆使くししてあたかも舞うようにたたかう、優美この上ない拳法でありながら、見た目とは裏腹に、内に秘められた「気」のすさまじさは想像を絶する破壊力を持ち、敵はおろか、ややもすれば自らの肉体をも粉砕しかねぬ、とまで言われていた。

 されにその奥義おうぎたるや、死に直面して初めてさとるものとされ、最高技「鳳凰ほうおうしょうてんきゃく」は、超人的な跳躍力ちょうやくりょく神技かみわざとも言える瞬発力しゅんぱつりょくを要求される、まさに「死」をした荒技あらわざであり、おうを得ぬうちは使用を決して許されぬ、いわば「禁じ手」となっていた。

従って、生半可なまはんかな人間ではかえってその身をほろぼすことになるため、これを継承けいしょうできるのは、万人ばんにんに一人とさえ言われる。かほどに苛酷かこくな拳ゆえに「秘拳中の秘拳」と称されて、やがてはほろび去る宿命を余儀よぎなくされていたのである。

「その拳、みだりに常人ひとに伝うべからず。

   万世稀有まれなる逸材ものにぞのみ、

      えて、これを伝うべし―」


世凰シーファンは、禅師のもとで、言語げんごを絶する厳しい修業に耐え抜き「梅花ばいか鳳凰ほうおうけん」の、恐らくは最後の継承者として、見事花開いたのであった。ツージュエ禅師の眼力に、やはり狂いはなかったのだ。もっともその世凰シーファンを以ってしても、いまおうには達していないが・・・。

 ともかくも十四年の歳月さいげつは、彼を不世出ふせいしゅつの拳士に成長させ、翔麟寺しょうりんじ屈指くっしの高弟として、天下にその名を知らしめている。

 一体誰が言い出したものか世の人々は、眉目秀麗びもくしゅうれいの若き達人を、ひとかたならぬ憧憬しょうけいめ、その名をもじって「翔琳しょうりん鳳凰ほうおう」と呼ぶようになっていた。

 しかしながら、この世凰シーファンという若者には実に風変りなところがあり、時折ふいに寺から姿を消してしまうことが、しばしばあった。何の前触まえぶれもなく、である。そのまま数日、長い時には数カ月も行方不明になっていたかと思うと、またいつの間にか戻って来て、何喰わぬ顔で、かし饅頭まんじゅうなどをパクついてたりするのだ。

 そういう、どこか凡人とは違ったつかみ所のなさが、かえって寺内じないの者たちからは好意を寄せられて「鳳凰殿は帰巣きそう遊ばされたか?」「いや、未だ飛翔ひしょう中のようじゃ。今回は、ちと遠方へ飛んでゆかれたと見える」などと言う会話が、ごく当たり前に交わされるようになっていた。

 彼ほどの高弟ともなれば、無論、寺の内外出入り自由であったし、その気になれば、実家に帰る事も許される。にもかかわらず、世凰シーファン翔琳しょうりんでの生活が妙に性しょう)に合うと見え、すっかり居ついてしまった格好になっていた。そのせいかどうか、広東カントン郡の屋敷に顔を見せるのはせいぜい年にニ、三回程度、悪くすると、全く帰って来ない年さえある始末だった。

 それでも数年前までは父のツェンテーも、彼の息子が、帰省するたびに目に見えてたくましく成長してゆくのを喜んだ。

 幼い頃は、さながら美少女そのものであった世凰シーファンの顔立ちも、其の端麗さの中に、次第に凛凛りりしい男らしさが加わり、頼もしくさえ感じられるまでになっている。

 しかしながら、ここ最近のツェンテーは、果たして世凰シーファンは本当にこの鳳家を継ぐ気があるのだろうかと、ひどく気をみ続けるようになった。

 もともと災厄さいやくを除くための方便ほうべんとして、ほんの二、三年の積もりであずけた翔琳寺しょうりんじに、世凰シーファンはすっかり居ついてしまい、実に十四年間というもの、ほとんどすべての日々を、そこで暮らしているのだ。

〈あやつめ!どちらが本当の自分の家なのか、取り違えてでもいるらしい〉このままでは一生、翔琳寺しょうりんじで暮らす、などと言い出しかねず「まあ、そのうち帰って来るであろうさ・・・」などと、悠長ゆうちょうなことを言ってはいられなくなって来た。万が一そんなことにでもなればゆゆしき事態、尊帝以来の名門を以って鳴るこのフェン家はどうなるのであろう?

 姉の香蘭シャンランに、しかるべき家柄の養子を迎えて家督かとくを継がせる、という方法も考えてはみたが、十九才の時、やはり名門のほまれ高いタイ家の嫡男ちゃくなん輿こしれすることになっていたにもかかわらず、その夫となるべき人に急死された彼女は、もう一生夫は持つまいと、かたく決心していた。

 そんな事情で、この方法は、まず無理。どうにもこうにも切羽詰せっぱつまったツェンテーは、とうとう「わしは重病にかかってしまった。すぐに帰って来い」と、嘘の使者を立てて、息子を翔琳寺しょうりんじから呼び戻したのであった。

 その上、彼は、念には念とばかりに、かねてより心に留めていた某家の娘との縁組えんぐみを急ぎまとめさせ、用意万端整えて、世凰シーファンの帰館を待ちかねていた。

 ところが、知らせを受けて急遽きゅうきょけつけた世凰シーファンは、父のこの策略に激怒したのである。無論、父の心情を理解せぬ彼ではない。自分にけている父の期待も、我が身の勝手さも、良く解っている。

 嘘をついてまで自分を呼び戻した親心を気の毒に思う反面、見も知らぬ娘との縁組までが周到しゅうとうに用意されていたことに対して、潔癖けっぺきな彼は極度に反発した。


「いい加減にして下さい、父上!私は翔琳寺しょうりんじに戻ります!」

 そう言い捨てて、その足で屋敷を飛び出そうとした世凰シーファンを止めたのは、他ならぬ姉の香蘭シャンランだった。

世凰シーファン。お父様のお気持ち、理解出来ぬあなたではないでしょう?このような事をなさったのは、よくよくの御心痛から。ここは気をしずめて、あなたの思うところを正直に申し上げた上で、お父様と話し合ってごらんなさいな。きっと道が開けるでしょう。とにかく、このままではいけませんよ」

 姉にさとされると、世凰シーファンとしては、それ以上逆らえない。

「申し訳ありません、ねえさま。世凰シーファンが、大人気おとなげのうございました」

 彼は素直に姉にびて、思いとどまった。このさち薄い美しい姉に対して、彼が物心ついた時からずっといだき続けて来た「姉弟愛」と呼ぶにはあまりにも深い憧憬しょうけいは、成人した今も、いささかも色褪せてはいなかったのだ。

 結局、世凰シーファンは、それからの七日間を実家で過ごし、父と姉と共に十分話し合った上で、三年後には必ず帰って来て家督かとくを継ぐことを、二人に約束した。

 そして、八日目の朝(つまり今朝けさのことだが)再び翔琳寺しょうりんじへ戻るべく、屋敷を出たのだった。

 ところが、どこでどうして耳に入ったものか、代々、フェン家の執事しつじを務める家柄の隠居で、みずからも、父・ツェンテーの少年時代から実直に仕え、今は老いて屋敷を退さがっているクァンハイリンが、今回の騒ぎを聞きつけてやって来た。

 そして、他の家臣たちが止めるのも聞かず、さきほどのようにうるさく説教しながら、何と、慶安チンアンにあるフェン家の屋敷からとうとうここまで、ついて来てしまったのだった。以上が、ことここに至るまでの経緯いきさつである。

世凰シーファンさま!大体あなた様は・・・」

 老人が性懲しょうこりもなくまだ何か言おうとするのを、もう全く無視して、ふと後を振り返った世凰シーファンは「ねえさま!?」と小さくつぶやいた。侍女も従えずに、たった一人で彼らのあとを追ってくる香蘭シャンランの姿を、その目にとらえたのである。

 「へ?」

 彼のつぶやきを聞いたクァン老人は、世凰シーファンの後から伸び上がるようにして、かなつぼまなこをキョトキョトさせていたが、やがて香蘭シャンランの姿をはっきりとみとめ、彼女に向かってあわてて頭を下げた。

 どういう訳か、彼もまた、昔から香蘭シャンランひいさまには弱いのだ。

クァンじい」

 香蘭シャンランは二人に追いつくと、老人に向かって語りかけた。

「お前の忠義きもは、とてもうれしいわ。お父さまも、それは喜んでおいでです。でも、もう世凰シーファンを行かせてやって下さいな。この子が困っているではありませんか」

「し、しかし、ひいさま!・・・」

 クァン老人がモガモガと何か言いかけたが彼女はやさしくさえぎった。

「お父さまは、今度の事、何もかもお許しになっておいでですから。世凰シーファンは、必ず三年後には帰って来ると約束してくれました。それでもう充分。だから、この子を解放してやって下さいな。他の者では、とてもクァンじいが納得してくれまいからと、お父さまが私をお寄越しになったのですよ」

 そういって香蘭シャンランは、袖で口許くちもとを押え、クスリと笑った。

 しかし、すぐに真顔まがおに戻ると、弟に向き合った。

世凰シーファン。このたびあなたの我儘わがままを許して下さったお父さまのお心、決して忘れてはなりません。そして、このクァンじいの忠義の気持ちも・・・。誰もが皆、フェン家の行末ゆくすえを思い、何よりも、あなたのことを思っているのですから」

「わかりました。ありがとう、ねえさま!」

 自分に対する父と姉の深い愛情を痛いほどに感じながら世凰シーファンは彼独特の、輝くような笑顔を見せた。

「父上に、くれぐれも御息災ごそくさいでとお伝えください。勿論もちろんねえさまも。それからクァンじい、心配かけて済まなかった」

 はっきりと自分で納得しさえすれば、こういう時、世凰シーファンという若者は実にいさぎよい。姉のみならずクァン老人にまで素直にペコリと頭を下げた。

 さすがのクァン老人も、香蘭シャンランの出現ともども、これが強烈なる連続パンチであった。

「わ、若君。若君さま!そ、そ、そのように、おつむを下げ遊ばすものではございませぬ!・・・な、なんともはや勿体もったいなき限りにて、面目次第もございませぬ!!」

 つい先ほどまでの、あの喰らいつくような見幕けんまくは、一体何処どこへやら。クァンハイリンは、急にアタフタ、オロオロと、何となく辻褄つじつまの合わぬことまで口走って、すっかり弱気になってしまっている。

 世凰シーファンは、突然妙なおかしさがこみ上げて来て、あやうく吹き出しそうになったのを、やっとのことで我慢がまんした。

「では、世凰シーファン、これでお別れしましょう」

 香蘭シャンランは、静かに別れを告げた。

「元気でね。いつも変わらず、溌剌はつらつとしたあなたでいてちょうだい。そんなあなたが、ねえさまの誇りですもの」

 そう言って彼女は微笑したが、そのほほえみは、心なしか、とてもさびしそうに見えた。世凰シーファンは、一瞬、不吉なものが胸をよぎるような気がしたが、すぐにそれを打ち消した。

 しかし、自分でも気づかぬ意識の下に、何かがわだかまった。

「行って参ります、ねえさま!」

 世凰シーファンは、香蘭シャンランに向かって一礼するなり、さっさと歩き始めた。

道中どうちゅう、気をつけてね」

 彼女の言葉に、くるりと一度振り返り、それはもう愛くるしくほほえんで手を振ると、姉のおかげで、やっと頑固ジイさんから解放された彼は、まるで一刻も早くこの場を去ろうとでもするように、もうあとも見ずに、スタスタと去って行く。

 身長の割に手足が長く、従って実際よりはずっとたけたかく見えもするそのほっそりとした体を包んだしらぎぬ装束しょうぞくすそを、折からの風にひるがえしながら足早に遠ざかってゆく弟の後姿を、香蘭シャンランはその場にじっとたたずんで、見えなくなるまで見送っていた。

〈何だか、十四年前に似ているわ・・・〉

 彼女はふと、そう思った。だが、あの時の少々ぎこちない笑顔に比べて、今の弟のそれは、何と屈託くったくがないことか。年を追う毎にたくましく、そして美しく成長してゆく彼の行末を、なぜか自分は見届けてやれないのではないか、という予感が、唐突とうとつに彼女の脳裏のうりかすめ、またたく間に消えた。

〈今のは,何だったのかしら?・・・〉

 密かに戸惑う香蘭シャンランかたわらでは、クァン老人が、何やらバツの悪そうな顔つきで、盛んにブツブツとひとごとを言いながら突っ立っている。


時、あたかシュエン朝末期。風雲急を告げるきざしかすかかにおののきながらも、地上は未だ、つかの間の平和に酔いれていた。


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