第11話 第一回戦 だまし絵

11 第一回戦 だまし絵

 


 控え室や訓練場にいる剣闘士たちはパーシバルとカナスが通ると手を止めてこちらを目で追った。すでにパーシバルの緊張はすでに限界まで達していた。胴着の中は蒸れ、手は震え、顔はガチガチにこわばっていた。

 試合開始直前になると、闘士長はルールを改めて説明した。この戦いではすべての想像箱を使うことが禁止されている。

 闘士長は袋を差し出し、カナスはサイコロの入った革袋を入れ、パーシバルはムーンストーンのアミュレットを入れた。

「衣服はそれぞれ動きやすいものをお召になられているので、没収はいたしません。しかし、衣服を使って一度でも想像術を使えば、即失格となります」闘士長は横の衛兵に袋を渡すと、手を後ろに組み、胸を張った。そして無骨な話し方で続けた。「闘技場に隠された想像箱の入れられた箱を見つけ、それで想像術を使用してください。それも戦いの一部です」

 長い登り坂の向こうに大きくて分厚い鉄格子が見えた。嵐のような歓声がここまで届き、格子の隙間からは太陽の光が射し込んだ。それはこの〈蛇の抜け殻〉と呼ばれる闘技場地下の汚れた空気を浄化してくれるような気がした。

 いや、待て。どうもあれは歓声ではない。罵声のような耳を指す声だ。

「……ねぇ、何か様子がおかしいよ」パーシバルは尋ねた。

 カナスは唸った。「ドレトンが観客の怒りを買うことなんてまずありえないはずだが……」

 だだっ広い石畳と砂の空間に、闘士長がひとり、そしてふたりばかりの衛兵。そして鉄格子の向こうには十万人のなぜか怒れる民衆たち。パーシバルはいよいよ混乱してしまいそうになった。

 闘士長はふたりの前へ躍り出ると、帝国の会釈をして、獣のような声とは似つかわしくない事務的な言葉を話しはじめた。「しばらくお待ちください。きっとすぐにおさまります」

 鉄格子の外ではマドシル大司教の声が聞こえた。十万人の観衆たちに何かを説明しているようだ。

「……殿下方、私からひと言よろしいでしょうか?」闘士長が言った。

「なんだ?」カナスは言った。

「聞いたところによると、今回のアークジウムはどうやら普通ではないようです。私どもはいったい何のことだかさっぱりですが……そう言われています」

 兄弟は目を見合わせた。

「大丈夫だよ」カナスは言った。「もう心の準備はできてる」

 闘士長はあまりにすんなりと受け入れる二人を見て少し戸惑っていた。

 ちょうど外が静まると、彼は衛兵に闘技場の様子を見に行かせた。

「騒ぎはおさまったようです」

 闘士長の合図で鉄格子は少しずつ地面から離れていった。

「パース、大丈夫だ。お前は箱を探すことにすべてを懸けるんだ。おれは敵を引きつける」カナスは茫然とするパーシバルに言った。

 パーシバルはただうなずいたが、心配そうに言った。「何がどうなるか、わからないんだよ。そのときはどうすればいいの?」

「ジルコンベルグの訓練を思い出せ。最初はだめだったけど、最後は柱を登りきっただろう? 気持ちを強く持つことが大切だ。何が起きても大丈夫。乗り越えられるさ」

 パーシバルは間を開けてから、小さくうなずいた。

「行こう、パース」カナスはあの指のサインをしてみせた。「ドレシャマヒトだ」

 二人は闘技場へと続く坂道を登っていった。もう地下の汗臭さも、手の震えも、激しい鼓動も、カラカラに乾いた口も、何も感じなかった。

 目の前に太陽が降り注いだ。気が遠くなるほど広い闘技場が、観客が、視界のすべてを覆った。その光景を目の当たりにした瞬間、ようやく瞳孔が開いた。自分はいま闘技場に立っている。それも十万人に一斉に観られながら。感覚がだんだん戻ってきた。

 とてつもない歓声が鼓膜を貫かんとし、鈍い振動が足の裏から全身の骨まで伝わった。八つの巨像たちはまるで待ちわびていたかのように武器を掲げていた。

 カナスは笑顔で観衆に手を振った。やはり、兄は慣れていた。民衆たちの喜ばせ方を知っているのだ。パーシバルは雛鳥のようにカナスの背中にただついていった。

 後方には闘いの塔が闘技場が聳え立ち、こちらを見下ろしている。

 パーシバルは振り返り、ララとセシルを探した。皇帝たちの座る豪華な観覧席があったが、ここからでは貴族たちは豆粒ほどの大きさにしか見えなかったし、誰が誰かもわからなかった。

 歓声がさらに勢いを増したかと思うと、向こうの鉄格子がゆっくりと開いてゆくのが見えた。まず飄々とした若い男が観客を沸かせた。アドリアン・グロウは自信に満ち溢れた表情で両手を上げている。

 踊り子風の妖艶な女は可憐に舞いを披露してから、観衆に会釈をした。あれはフリンギラ、異国の地から選ばれた戦士だ。第一戦の対戦相手は彼らだ。

 それぞれが定位置につくと、きっきとは比べものにならないほどの振動が起きた。地面から障害物が次から次へとせり出した。

 ジルコンベルグでアランと訓練した障害物はひと通りある。柱、バリケード、落とし穴、湖、回転棒、そしてて巨大な檻の中には人食いの影が……。

 人食いはともかく、訓練したとおりにやれば大丈夫だ。まずは柱の上のあの箱を狙おう。アドリアンたちよりも先に。

大司教が話しだした。「アドリアン・グロウとジノンのフリンギラ、カナス・オーギエム皇太子、パーシバル・オーギエム皇子の試合がまもなくはじまる」

 パーシバルは後ろを気にした。松明によって金色に輝く蝶の杯は厳重にに守られていた。灰燼文書の言葉が正しければ、あれに力が宿るはずだ。すべての元凶をなんとかせねばならない。

 観客は胸を高鳴らせ、空はいつものように青く、頭上の鳥の群れが闘技場に影を落とす。ラングレン、あの男はいまどこにいるのだろうか。

 試合開始直前になり、緊張は恐怖へと変わっていった。そうだ、今からはじまるのは殺し合いなのだ…。

「くるぞ。パーシバル」カナスは身構えた。

「カナス、僕……やっぱり怖いよ……」パーシバルは思わず本音を出した。

 大司教は杖を掲げると、それを鉄の筒に変化させた。そして空に狙いを定めると、皇帝の手の合図でそれを撃ち放った。赤い光の玉が空高く放たれ、巨大な花火が真昼の青空を赤く染めあげた。

「アークジウム第一回戦、開始!」 

 その瞬間、骨や肉、内臓が震えた。これは恐怖によるものなのか?

 目の前の柱がまるでろうそくのように溶けだしているのを見えた。あらゆる障害物がどろどろに爛れ落ちている。やがては地面さえ、中央から溶けだした。

 幻想の王の力だ。これがそうなのだ。嘘じゃなかった。

「カナス……」パーシバルは後ずさった。

カナスはゆっくりと、穏やかな口調だった。「やっぱり、おとぎ話じゃなかったんだな……」

 観客たちの困惑の声が響き渡った。

 やがて観客席や、闘いの塔も溶けだした。そして花火で赤く染まった空も、すべてが溶け出し、パーシバルたちは暗闇の底へと落ちていった。




──五分前。


 皇帝のムーンストーンの座席の側でその男は跪いた。想像術を使う兵士に鎧の装備は必要なく、白い衣で戦地に赴くが、彼のそれは赤く染まっていた。

 彼自身の血なのか、敵の返り血なのか、もともと白い衣だったのかさえわからなくなるほどだった。将軍は息絶え絶えになりながら訴えた。

「皇帝陛下……。僭越ながら申し上げます。テオグリムの強行軍は予想以上に数が多く、破竹の勢いで進軍しております。敵の士気は高まる一方……。このままではアークジウムの最中に帝都まで押し寄せるでしょう。どうか、前線に軍を──」

「皇帝陛下の決定は絶対なのだ」デズモンドがさえぎった。「これは賢人会議での決定事項のはずだぞ将軍。直前まで引きつけるのだ」

「皇帝陛下は戦略的かつ合理的な判断を下されました」メラリッサは言った。

「中央連合国は大都市イヴェンポートやメイオンフルトを悠々と通過し、まもなくドルパージュの森林へと……。帝都まで引きつけるのはあまりに危険です」コンラッドは声を荒げた。

 ララは聞いていないふりをしていた。しかしここまで追い詰められた将軍を見るのははじめてのことだった。

 きっとこの人は灰燼文書について、何も知らないのだ。

 将軍はきっと、皇帝の頭がおかしくなったと思っているだろう。どうして皇帝はこんなに無謀で愚かな策を講じたのかと。それは皇帝を唖然と見上げる将軍の目が物語っていた。

 それに引き換えデズモンドとメラリッサは悠々とワインを飲み、試合の始まりを楽しんでいた。

 マドシルの赤い花火が空高く舞い上がり、破裂すると、すべてが赤く染まった。もともと赤く染まっていたコンラッドの顔がより赤くなった。空を染め、闘技場を赤く染め、そして何かが歪んだ。

 観覧席は波打ち、闘技場がろうそくのように溶け出したのを見ると、ララは立ち上がった。

 民衆たちの歓喜の声は次第に不安と恐怖の声に変わった。

 ララはふたりの兄を探したが、いつの間にか闘技場にはぽっかりと大きな穴が空いていて、四人は姿を消していた。

 コンラッドはついに尻もちをついて、得体の知れない奇怪な現象にパニックを起こし、髪の毛をかきむしった。そしてそのままどこかへ逃げ出してしまった。

 逃げてもきっと無駄だ。もう間に合わない。

 ララも怖かった。こんな地獄のような光景を目にして、普通でいられるのはおかしい。ララはアンナにそっと身を寄せた。

 見上げると、闘いの塔が渦のように巻き上がり、さらに八つの巨像も、それぞれ膨らんだり、伸びたり、波打ったりしていた。

 そして次の瞬間、すべてが静かになった。

 目の前にあるのは、何か白い──。これは雲だ。雲が手の届きそうな場所にある。


──観覧席は空にあった。


 闘技場の床があった場所からははるか下に帝都を見下ろせた。巨大なサークルが空に浮かんでいるのだ。

 コンラッドは四つん這いになり、嘔吐していた。

 だが恐怖していたのはコンラッドだけではなかった。多くの貴族が目に入る光景を疑い、民衆たちのほとんどが慌てふためいていた。

 そしてそれはララも同じだった。これは現実なのか? それともただの幻覚なのか?

 しかし、ララはたしかに手の甲にひんやりとした風を感じていた。胸の鼓動を感じていた。そして震える手の温かさと、彼の不安そうな瞳をたしかに認識していた。


 これはまぎれもなく、現実だ。人間にはとても真似できない、得体の知れない力だ。


 そして闘技場があった場所、つまり今は何もない場所に何かが光った。きっとそれは民衆や貴族たち、この闘技場にいる全員が同じように認識しているだろう。

 ただひとつの銀色の正方形があらわれた。それは闘技場の中央に浮かび、やがて二つに分裂した。二つから四つ、四つから八つへとそれは増え、不規則に大きくなっていった。

 デズモンドは澄ました瞳でそれを見ていた。ララにとってその目は興奮で満ち溢れているようにも見えた。

「我々の住む世界の想像術は規則や金に縛られ、何ひとつその真価を発揮できていない」デズモンドはつぶやいた。「ただ武器や日用品のような取るに足らないものを生成するだけにとどまっている」

 ララは増殖していく箱がだんだんと別のものになっていくのをただ見ていた。

 デズモンドはひとりごとのようにつぶやいた。「あれこそが想像術だ……。想像を形にする力だ」

 箱と箱は連結し、やがてそれらは階段となり、アーチ状の門となり、通路となり──。

 十秒もしないうちに、宙に浮かぶ巨大な街が出来上がった。美しい街並みには川が流れ、街の端までたどり着く頃には滝となって“空”に落ちていた。

 この奇妙な“街”には上下左右の概念がなかった。すべてがでたらめなのだ。上に続く階段は下りでもあり、右でも左でもあった。

 家や塔、様々な建造物も同じだった。右から生えたり、下向きに生えたり、まるででたらめだ。

 四角の階段は永遠に上りが続き、下りでもあった。そのどちらでもある。

「まるでだまし絵みたい……」ララは言った。

「これはなんとも、奇妙です」デズモンドは顎をさすり、ララに言った。

 美しい木のある通りが縦や斜め、逆さに、自由に並んでいた。そしてまるで生きているように通路や建物が連結したり、離れたりしていた。

 ララは吐きそうになった。平衡感覚を失いそうになった。しかしそれよりも、兄たちはあそこにいるのかが気がかりだった。それにセシルもいない。弟までどこかへ行ってしまった。

 “縦”の大通りに目をやると、誰かがいた。男は周りを見渡すと、嘔吐した。アドリアンからすると観客席は上と下を囲むような円になっていた。

 そしてずっと離れた場所の“逆さ”のアーチ門からフリンギラがフラフラとした足取りで出てくるのが見えた。彼女はしばらくこの奇怪な空間を眺め、状況を理解しようと考えを巡らせていた。

 だがまだどこにも兄たちがいない。ララは必死に探した。“街”の裏側にいるのだろうか?

 まるで迷路のように張り巡らせられた広大で複雑な構造の街から蟻のように小さなアドリアンとフリンギラを見つけられたのは偶然でしかなかった。

 よく見ると“街”はゆっくりと回転している。ゆっくり、ゆっくりと下は上になり、左は右になっている。


〈見えた!〉


 カナスは四つんばいになって、塔の入り口から這いずって出てきていた。平衡感覚を取り戻すまでじっとして、状況を理解しようとしていた。カナスはすぐに状況を理解したようだ。階段を見つけるとすぐにのぼっていった。いや、こちらから見ると右に上っている。カナスは何かを探していた。




✱✱✱


 手のひらに冷たく、硬い感覚があった。目を覚ますと、少しずつ視界のモヤが晴れ、ようやく手に触れているそれはざらついたタイルだとわかった。

 パーシバルは腕にぐっと力を入れて上半身を起こした。いま自分は青々と茂る広葉樹の植えられた小洒落た大通りにいる。美しい街だ。見たこともない奇妙な作りの家々、巨大な塔に、何の施設かもわからないものも多くあった。

 赤と黄色のタイルが敷き詰められた大通りには人の気配はなかった。家や塔、何かの施設と思われる大きな建物からも人の気配は一切しない。

「……カナス……」パーシバルは思い出したようにつぶやいた。

 そして立ち上がり、兄を探した。そしてふと立ち止まった。何かがおかしい。大通りの鉄柵を覗き込むと、通路が上に見えた。おかしい、いま自分は見下ろしているはずなのに。

 上にあるのに、左へと下る階段を見たとたん、パーシバルは息を荒げた。そんなことはありえない。

 そしておそるおそる上を見上げると、同じように上が下になり、下が上に、階段はあらゆる方向に続き、その景色が果てしなく続いていた。そして雲の向こうに観客席が見えた。

 パーシバルはすぐ近くの木にすがりついた。そして嘔吐した。

「……カナス……どこ……」

 するとすぐ左のほうから何かが弾けるような音がした。パーシバルは仔鹿のように悲鳴を上げて、後ずさった。

 フリンギラは斜め上の大通りでこちらを見上げていた。そして手に持った箱を開け、中のペンダントを取り出した。彼女はこちらの位置を確認すると、どこかへと続く階段へと消えていった。


──殺される……!


 パーシバルは立ち上がり、辺りを見回した。フリンギラはこちらを目指してやってくる。彼女は箱を見つけたんだ。まだ試合がはじまって一分もしないうちに。

 この空間は普通じゃない。本当はあの障害物が戦いの場だったのに、何らかの力によって、大きく変わってしまった。ただ、フリンギラが見つけたように、箱は残っているようだ。どれぐらいの箱が残っているのだろう。こんな複雑な構造の場所で箱を見つけるのは、障害物のよりもずっと難しい。

 でもいまは考えてる場合じゃない。できるだけ遠くに逃げよう。パーシバルはおぼつかない足どりで歩きだした。とになく箱を見つけて、カナスに届けないと。

 鎖の音がジャラジャラとどこからか聞こえる。

 パーシバルは大通りを走った。滝が左に向かって“落ちて”いるのをくぐると、声が聞こえた。

「フリンギラ! 見つけたぞ! 皇子はここだ!」

 滝の流れる左ほうから、男がこちらを鉄柵越しに“見下ろして”いた。アドリアンはこちらを指差してフリンギラを誘導した。

 何かがパーシバルの肩をかすめた。フリンギラは今度は弩弓クロスボウを打ってきたのだ。パーシバルは悲鳴をあげ、門へと走った。矢の雨が背後を追ってきていた。

「カナス……! カナス……! 助けて……!」

 息は切れ、心臓は張り裂けるほど早まり、足が勝手に震える。パーシバルはとにかく走った。

 門をくぐると、下へと続く階段が“上”へと続いていた。階段の先にははるか先に塔の先端があった。この階段を行けば、裏返しになっている通路に行くことができる。

 どうすればいい? フリンギラの足音がすぐ後ろから聞こえる。この階段を下りれば、僕はどうなる。上へと真っ逆さまに落ちて塔に激突して死ぬのか?

 この通路からはいくつもの階段があったが、どれも物理法則を無視したものだ。どの階段を選んでも同じことだった。

《パーシバル! その階段をおりろ!》

 どこからか声がこだました。

《いや、のぼれ!》

「カナス……! カナスなの?!」

《ああ……どっちでもいい! 早くしろ! フリンギラがすぐ後ろにいる! 目の前の階段をのぼるんだ!》

「でもこの階段をのぼったら、僕は落ちて死んじゃうよ! この階段は僕から見たら下りなんだ! 崖なんだよ!」

《大丈夫だパーシバル、おれを信じろ!》

「怖いよ!」

《その階段は上に続いてるとお前が信じれば、実際にそうなる!》

「無理だよ! 落ちて死ぬ!」

 だがもう手遅れだった。踊り子のような装束の女は無表情で鎖鎌を回した。

「いったい何がどうなっているのやら……。実に奇妙な世界です」

「まずい……」

「パーシバル皇子、私はあなたに何の恨みもございません。ですがお許しを。これは殺し合いなのですよ」

「フリンギラ、頼む。僕はまだ箱も見つけてない。死にたくないんだ……。どうか見逃してくれないか」

「私は下賤の身。富と名声が手に入れば、一族が救われるのです」

「君らは何も知らないんだ。僕は優勝しなきゃいけない。富とか名声の話じゃないんだよ!」

 フリンギラはじっとこちらを見つめると、呆れたようにため息をついた。「みっともない。実にみっともないですよ。皇帝陛下は実の息子を神に捧げている覚悟をしておられるのに、あなたさまは命乞いですか? それでもオスロンド帝国の皇子ですか?」

「君たちは何もわかってないんだ。この国に何が起こっているのか。僕らが死んだらもう誰もこの国を、世界を──」

フリンギラが鎖鎌を振りおろすと、パーシバルは走った。下への階段をのぼったのだ。フリンギラの鎖鎌は石造りの階段に突き刺さり、彼女は悔しそうに何かを叫んだ。

 奇妙な感覚に脳は麻痺しているのか、頭がぼうっとしてきた。いつのまにかパーシバルは裏側へとたどり着いた。

「……やった……できた……」

 しかし息つく暇もなく、フリンギラも階段をのぼってきた。パーシバルは走った。

《パース!》

「カナス! どこにいるの!」

《一番大きな塔だ!》

 大通りに出ると巨大な塔が見えた。あの横向きの塔だ。どの塔よりも大きい。

《そこまで来い!》

 なぜだ。カナスはあんなに遠くにいるのに、声はすぐ近くから聞こえる。そんなことは物理的に──。

「そうやっていつまでも逃げるのですか! パーシバル皇子! 戦いなさい!」寡黙で妖艶な雰囲気のフリンギラは別人のように怒り狂っていた。

 目を凝らすと、塔の中腹からつき出る渡り廊下にカナスはいた。ただし、アドリアンも一緒のようだった。カナスはアドリアンの槍をかわし続けていた。

 アドリアンも箱を見つけたのだ。何も武器を持ってないのは、パーシバルとカナスだけだった。

 気がつくと、何か重く冷たいものが右足に巻きついていた。そしてタイル張りの床に頬を強打した。

「もう逃げるのはおやめなさい。あなたひとりの命で、多くの命が救われるのです」

「いやだ! 死にたくない!」

 パーシバルは言葉ではない言葉をこぼしながら、必死に鎖をほどこうともがいた。そしてもはや、哀れにも鉄柵にしがみつくしかなかった。

《パーシバル! この場所をよく見ろ!》

 遠くのほうからカナスが叫んだ。

「何を! 何を見ろっていうの!」パーシバルはとにかく辺りを見回した。ただでたらめな街があるだけだ。奇妙な街。赤と黄色の街……。

 見覚えがある。どこかで、見た。同じような場所があった。

 この赤と黄色は……ジルコンベルグ……。アランと訓練に行った街だ。

《植木を見ろ!》カナスはアドリアンの槍を避けながら叫んだ。

 こんどは植木? 大通りに並んでいる木……。パーシバルは言われるがままにそれをよく観察した。

──あれも見たことがある……。

 フリンギラの鎖鎌がゆっくりと回転した。

 そう、見たことがある。あの木は、たしか……。

「ソルアドの丘……」

 パーシバルは思い出した。カナスに母のことを打ち明けた丘だ。あの丘にあるのはイチイの老木だった。大通りに並んでいるのは、ぜんぶ老木だ。どれもあの木とまったく同じものだ。

 パーシバルはさらに周りを見回した。ある建物の紋章は下手くそな動物の絵。あの絵は……自分が描いた絵だ。

 ここは想像の世界なのか?

 カナスはパーシバルが何かを悟るのを見ると、うなずいた。

 パーシバルは上を見上げた。あの建物についている石の紋章に刻まれた絵。「花を編む女……」

 フリンギラは訝しげにパーシバルを見下した。「呆けてしまったのですか?」

 パーシバルは目をつぶった。ここは想像の世界だ。自分たちの想像力が形になっているだけだ。まるで戦いの場全体が想像術で生成されたようになっている。

 カナスは言っていた。自分にしかできないことをやれと。

 いや、待て。自分は想像術ができない。たとえこの場所が想像の世界だったとしても、想像術ができなきゃ意味がない。

「祈るにはもう遅すぎましたよ」

 でも、ああやって想像が形になってるじゃないか。できているじゃないか。

「僕は想像術はできないけど、下手くそな想像ならいくらでもできるんだ」

 するとフリンギラの身体に何かがまとわりついた。花を編む女の紋章から飛び出した蔓が、フリンギラを拘束した。

 パーシバルは足にまとわりついた鎖をほどいて、また駆け出した。

 女は床に打ちつけられると、悲鳴をあげた。しかし、女は鎖鎌の生成を解除すると、踊り子の服をカミソリのような鎧に変えた。すると蔓はいとも簡単に引きちぎられてしまった。

 そしてパーシバルの足にまた何かが巻きつくと、思いきり床に倒れ込んだ。こんどは大きな鉄球のついた鎖だ。

 フリンギラはパーシバルの目の前にやってくると、こんどは肉切り包丁を生成した。「さっきのはどうやったのです? この闘技場の一部を使ったのですか?」

「わからない……」

 女は包丁を振り上げたが、足もとが歪みはじめたのを気づくと、叫び声を上げた。植木も、家も、大通りも、空気でさえ、うねりはじめた。まるで絵の具を混ぜ散らかした抽象画のように……。

「……何をしたのですか!」

 パーシバルですら、呆然とそれらを見ていた。「僕にもわからない……」

 もう周りは街ではなくなっていた。赤と黄などの絵の具の混ざるだけの空間だった。フリンギラは青い絵の具の川に流された。

「助けて……パーシバル皇子!」

 フリンギラは何が起きているのか理解する前に、上へと落ちていった。女ははるか上空に消えていった。

 そのとき、歓声が聞こえた。

 想像術によって武器を生成しなくても勝つことができた。カナスの言ったとおりだった。もしかすると、この世界は巨大な想像箱なのかもしれない。いや、別の何かだ。ここでは想像術が使えなくても、物体を変化させることができる。

 そのとき、遠くの橋に何かが通り過ぎた。黒い影。この距離であの大きさなら、実物はもっと大きい。

──人食い。さっき檻にいた人食いもこの世界に紛れ込んだんだ。 




 ララはふぅっとため息をつき、崩れ落ちるように席についた。

 皇帝は目を細めて試合を見ていた。口に布をあてがい枯れた音の咳をするたびに給仕の者が駆けつけたが、皇帝はうっとおしそうに追い払った。

 フリンギラは死んだのだろうか。でもあの高さから落下すれば、いくら滝壺に落ちたとはいえ……。

 あのパーシバルが自分の力で窮地を切り抜けたなんて、信じられない。ララはなぜか母親のようにうれしくなった。そしてこうも思った。この試合、もしかすると勝てるかもしれない。

 そのとき、ララはぞっとした。たしかにいま、街の噴水広場で、何かが動いた。黒く、大きく、床を這いずる何かが。

「お父さま……」ララは皇帝に訴えかけた。

 だが皇帝は前を見据えたまま何も答えなかった。その代わりに、デズモンドが言った。「どうやら雨の巫女は試練を与えたようです」

 これは雨の巫女ではなく、幻想の王の力だ。だがララはそれについては口にしなかった。

「人食いが……」

 黒くうごめく人食いはとてつもない速さで階段をするするとすり抜けてはまたどこかへ消えてしまった。観客席はどよめいていた。




「弟がうまくやったようだな」アドリアンは槍を振りおろした。

 カナスはただひたすらそれをかわすしかなかった。

 アドリアンは槍を盾に変えて突進した。「しかし想像術が使えない皇子がいったいどうやって……」

 カナスは衝撃で後ずさったが、すぐに体勢を立て直した。

 カナスはアドリアンから距離をとりながら、槍をかわし続けた。

「この塔は我がグロウ家の城の一部。思い出深い場所だ」

 カナスはアドリアンの槍を奪うタイミングをはかっていた。箱が見つからないなら、やつの腕から奪うしかない。

 アドリアンは続けた。「この世界では想像術は無用の長物のようだ」

 カナスはアドリアンの槍を掴みとり、動きを止めた。二人は槍を握ったまま、膠着状態となった。二人は睨み合った。

 そして槍は粒子状に崩壊し、また槍に戻り、それを繰り返した。カナスは想像箱の主導権を奪おうと意識を集中させた。

「おれは知ってるぞ。貴様らが何をしようとしてるのか」

「あんたには関係ない。グロウ」

「噂は本当だったんだ」

「しゃべってる暇があるのかよ!」カナスの持っている部分以外から棘が出ると、アドリアンは叫び、手を離した。

 カナスは心臓が凍りついた。パーシバルの通りのアーチ門から、それはやってきた。芋虫のようにブヨブヨとした身体からは無数の手が生え、一番大きな手には鋭い爪が。その大きな口には人間の腕よりも長く鋭い牙がびっしりと生え、縦についた人間のようなつぶらな瞳がパーシバルをとらえると、瞳孔が開くのがわかった。

「パーシバル、逃げ──」

 カナスが言い終える前に怪物は叫び声をあげた。まるで人間の女の断末魔のような、耳の鼓膜を直接破られそうになる不快な音が、街を包みこんだ。

 だがパーシバルは硬直したまま、動けずにいた。それもそうだろう。いま逃げたところで、あの速さの怪物ならものの数秒で捕まってしまう。

 カナスは川に飛び込み、そのまま滝から飛び降りた。地面に落ちる前に藁の塊を生成し、その弾みのまま駆け出した。

 パーシバルはカナスと怪物に挟まれるようにして長い通りに恐怖のあまり立ちすくんでいた。

 怪物は無数の手を使ってまっすぐにパーシバルのほうに向かい、小さな人間を喰らわんとしていた。

 この距離では間に合わない。カナスはパーシバルに伏せろと叫び、走りながら爆弾付きの弩弓クロスボウを何度も撃ち放った。

 怪物はそれを身体を奇怪にくねらせて矢をよけながら、走った。

 それでもカナスは何度も矢を放った。そして数十本のうちの一発が命中すると、怪物は少しバランスを崩し、残りの矢が次々と命中した。爆発によって怪物は悲鳴をあげた。

「パーシバル! いまのうちにこっちへ!」

 たがパーシバルはただ青ざめたまま震えていた。

「……だめだ……」パーシバルはそう言うと涙を流した。「……動けない……」

 煙の中から怪物がぬっと姿をあらわすと、その皮膚は焦げ、肉がところどころ弾け飛んでいた。

 カナスは弩弓クロスボウを解除すると、その手には香水の瓶が握られていた。アドリアンが見つけた想像箱を奪い取ったのだ。

 カナスはパーシバルの頭上めがけて思い切り投げた。

 ついにパーシバルの目の前に到達した怪物は、歯茎を剥き出しにし、パーシバルに覆いかぶさった。

 カナスの投げた瓶はパーシバルの上で粒子状に崩壊し、身体にまとわりついた。

 黒豹の“獣憑き”の鎧はパーシバルを怪物の牙から守った。鋭い牙の何本かを失い、怪物は怒り狂ったように叫んだ。

 怪物はパーシバルを何度か噛み砕こうとしたが、それがかなわないと理解すると、こんどはカナスに向かって地面を這った。

 カナスは走った。できるだけ怪物とパーシバルを離さなければ。奇妙な階段を下にのぼり、右にくだり、左に飛び降りた。

 パーシバルのように、この世界ごと変化させることができれば……。カナスは意識を集中させた。あの怪物の足もとに大穴でも開けてやる。

 しかし想像術と同じように意識を集中させているが、何も起こらない。

 怪物には平衡感覚など関係ないようだった。黒いそれは身体をくねらせ、縮ませ、ときに一番長い腕を使って柵を飛び越え、天井を這い回り、ときには川を泳ぎ、崖から崖へ飛んでカナスを追った。

 さすがに気分が悪くなってきた。いくら集中してもできない。クロヴィッセの再来がどうしてパーシバルのようにできないんだ。

 カナスは壊れきった平衡感覚によって嘔吐しながら逃げた。やはり想像箱が必要だ。

 塔の中、川の中、大通り、民家の屋上──。

 するとアーチ門の向こうの噴水のてっぺんに箱が見えた。

「よし!」

 中身はなんでもいい。とにかく想像箱があれば、あの怪物を始末できる。

 カナスはアーチ門に走った。すぐ後ろから怪物の怒り狂った吐息が聞こえる。

 想像箱がなければ自分はこんなにも無力なのか。カナスは後悔した。そうだ。これが本当の自分なのだ。想像術がなければこうも無力で、情けないのだ。

 噴水に目を移すと、想像箱はすでになくなっていた。その代わりに、アドリアンは冗談めかした笑いを浮かべ、待っていたぞと言わんばかりに片方の眉をあげた。その手には腕輪が握られていた。

「おれの想像箱を奪った礼をしてやる」

「くそ!」

 カナスが止まると、怪物は速度を落とし、ゆっくりと、細長い手を器用に使って芋虫のような身体を立ち上がらせた。その縦に切れ目の入ったところから大きな目玉がカナスを見下ろしていた。




 ララはついに席を立ち、皇帝の目の前に立った。「お父さま! カナスが! お兄さまが……!」

「邪魔だ、どかぬか」皇帝は金床を引きずったような低く枯れた声で言った。

「いやです! 試合をいますぐやめさせてください!」ララは皇帝のダブレットの袖を握りしめた。「あなたの息子なのですよ! あなたの息子が、殺されそうになっているんです! こんなのは闘技大会じゃない。処刑です! 公開処刑です!」

 だが皇帝はララを払いのけ、手の甲で頬を思い切りはたいた。「黙らぬか! これは神聖な場なのだ!」

 床に転げ落ちたララは涙ぐみながら、立ち上がった。「どうして……」

 ララはついに涙をこぼした。「どうしてお父さまには愛がないのです! どうして我が子を平然と利用できるのですか!」

 ララが観覧席を出ていくと、メラリッサは言った。

「皇帝陛下、連れ戻しましょうか?」

「放っておけ……息子はこれごときでは死なぬ」皇帝はただそう言った。「余の息子はこれごときでは……」




 パーシバルは密着する鎧を身に着けたまま、走った。

 塔に入り、柵の下を覗きこむと、ずっと下のほうにカナスたちはいた。ただし、横向きで。

 人食いの化物と、アドリアンに挟み撃ちにされている。いくらカナスだって、あれでは殺されてしまう。

 きっとあと二回呼吸をするうちに怪物にバラバラに噛み砕かれてしまうか、アドリアンに長槍で身体を貫かれてしまうだろう。

 この二回の呼吸のうちに、帝国の未来も変わってしまうのだ。まだ試合が止められていないということは、皇帝は試合を続行させているということだ。

 観客席にいる十万人の民衆たち、貴族たち、デズモンドや皇帝たち、その全員がカナスならなんとかこの危機を切り抜けると思いこんでいる。だがそれは無理だ。

 カナスの脇腹から血が流れていた。きっとアドリアンとの戦いのときに受けたものだ。

 パーシバルは鎧を脱ごうとした。早くこの鎧をカナスに返さないと。

「くそ……! どうして脱げないんだ!」

 密着した鎧はきっと脱ぎ目がないく、どうやっても脱ぐことができない。きっとこれは想像術で解除しなければならないのだ。

 パーシバルは下に向かって叫んだ。「カナス! 鎧を脱がせてくれ!」

 そのとき、何かがパーシバルにのしかかり、首を締めた。

「パーシバル……皇子……!」フリンギラは真っ赤に染まった両目を見開いて言った。口から血が溢れ出し、パーシバルの顔に降り注いだ。「……死ね……オスロンドの皇子……」

 フリンギラの怪力はどうやっても逆らえるものではなかったが、パーシバルは身体をばたつかせて抵抗した。

「カナス! この鎧の生成を解け!」パーシバルはカナスに何度も訴えかけた。この鎧の生成を解除すれば、想像箱を投げてやれる。

 怪物は口を広げ、カナスを飲みこもうとし、アドリアンは逃げられないように槍を構えていた。

「カナス……!」パーシバルは喉が裂けてしまうほど叫び狂った。

 だがアドリアンは信じられないような顔をしていた。

 怪物の牙がカナスの腹部に突き刺さりそうになった瞬間、怪物はそれを止めた。まるで時間が止まったようにカナスを飲みこまんとする体勢で、動きを止めていた。

「おい、なんだ!」アドリアンは困惑していた。

 巨大な化物は硬直していたが、そのつぶらな瞳はうごめいていた。

 なんだ。なぜ怪物は動きを止めている。なぜだ……。

 カナスはその間に怪物の背に駆け上がり、長い牙を両手で掴み、思い切り引っ張った。

 バキバキと、歯茎が脱臼する音とともに、カナスは白く鋭い牙を掲げ、怪物の後頭部に突き刺した。

 怪物が倒れこむと同時に、アドリアンが叫びながら槍を突き立てた。カナスはすぐにそれを弾き、牙をアドリアンの首に突き刺さした。

 男は首から大量の血を吹き出し、苦しそうに悶えた。やがて膝をつき、槍の生成が解除されると、地面に腕輪が転がった。アドリアンはしばらく痙攣してから、おとなしくなった。

 パーシバルは鎧の重い手でフリンギラの脳天を一度だけ殴りつけた。すると女は最後の力を失ったように、血を吐いて倒れ込んだ。

 カナスは怪物とアドリアンの亡骸の間に立ち、パーシバルを見上げると、指でドレシャマヒトのポーズをしてみせた。

 パーシバルはふぅっと息をつくと、同じようにそのしぐさをした。

 やっとのことでカナスのいる場所へたどりついた。カナスは床に座り、微笑んだ。

「お前がいなかったらおれは死んでた」カナスは試合用の道着で顔にべっとりついたアドリアンの血を拭き取った。「さすがにヤバかった」

 パーシバルは鎧をつけたまま、嬉しそうにはしていなかった。「どうして僕の鎧を解除しなかったんだ! もう少しでカナスは死ぬとこだった!」

 カナスは少し考えてから、微笑んだ。「さぁ、なんでだろうな」

「まったく……死ぬつもりか……!」パーシバルはため息をついた。

 カナスはようやくパーシバルの鎧をサイコロに戻した。

「ねぇ、まだこの街は残ってる。もう試合は終わったはずなのに」パーシバルは不安そうに言った。

 怪物は後頭部から血を流し、目を開けたまま死んでいた。魚のように丸々として生気のない眼。

 だがそのとき、パーシバルにはその大きな瞳の瞳孔が少しだけ開いたように見えた。

「カナス……いま……」

 だが遅かった。怪物の手はカナスを握りしめ、持ちあげていた。

「パーシバル! 逃げろ!」

 立ちすくむ少年の前に巨大な影が広がった。

 パーシバルは後ずさった。

「パーシバル! はやく! 逃げろ!」カナスは力の限り叫んだ。

 パーシバルはカナスの言うとおりにした。震える足の筋肉をすべて使って、駆け出した。

 待て、なんで逃げてるんだ。戦わなきゃだめなのに。助けないと、カナスは死ぬ。こんどこそ、死んでしまう!

 遠くのほうから声が聞こえる。嫌悪感。罵り。観客たちがカナスを見捨てて逃げる自分に罵声を浴びせている。

 でも、逃げなきゃ殺される。

 カナスはアドリアンの腕輪を使って弩弓クロスボウを生成し、応戦していた。しかし、怪物が強く手を握りしめると、カナスはついに武器を落とした。

 パーシバルは手を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。母さん……母さん……ねぇ……助けて。カナスが殺される……。

 パーシバルは走った。

 後ろを振り向くと、すぐ近くにいるはずのカナスの声がもう聞こえないほど小さくなっていた。なぜだ。おかしい。

 そういえば、フリンギラから逃げ回っているときもそうだった。カナスは遠くにいた。遠くの塔にいたはずなのに、声はすぐ近くから聞こえていた。

 ここはだまし絵のように物理法則が歪んでいる世界。想像力が形になった世界。

 さっきフリンギラを落としたように、人の認識がこの世界に影響を与える。

 カナスの声がすぐ近くから聞こえたのは、錯覚によるものだ。

 この世界は上下左右がでたらめに入り組んでるだけじゃない。大きさもでたらめなのだ。パーシバルは通りを見回してから、後ろを振り返った。怪物とカナスからはまだ十歩ほどしか離れていないはずなのに、もう豆粒のように小さく見える。まるで遠近法のように……。

 怪物はカナスを離し、カナスとともに“それ”を見上げた。天を覆うほどの巨大な影は怪物のほうへと伸びた。

 この街で一番巨大な塔よりも巨大化したパーシバルが怪物をつまみあげた。そして巨大な手はそれを握り潰した。

 巨人は不快そうに壁に肉片や血を壁にこすりつけ、カナスを見下ろしてから、またあのしぐさをした。

 歓声が巻き起こった。パーシバルはカナスのもとに近づくたびに小さくなった。

 カナスは疲れきったように、床に尻もちをついた。

 地鳴りのような振動が足の平から伝わり、それはやがて鼓膜へと到達した。遠くのほうで大歓声が沸き起こっていた。

 やがてだまし絵の世界は端から崩壊していった。兄弟はまた闇の底へとに消えていった。




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