第10話 ニセモノ

10 ニセモノ



〈アークジウム当日〉


 貴族たちはいくつかのグループにわかれ、立食会を楽しんでいた。どの出場者が勝つか、戦いの舞台はどのようなものになるか。中には連合国との戦争について話ている者たちもいたが、多くの無知な貴族たちはこの試合を単なる娯楽としか考えていなかった。

 ララはひとりでソファに座っていた。だが何かがいつもと違う。そうだ、そういえばセシルがいない。ついさっきまであの子の手をしっかり握っていたのに。いつの間にかすり抜けてしまったんだ。

 どうしていつも逃げ出してしまうんだろう? ララはため息をついた。もう嫌になりそうだった。

 それは今にはじまったことじゃない。昔からずっとそうだった。ララは母を見た。美しく輝く金のドレスをめかしこんだ皇后は重臣たちと何やら議論を繰り返していた。母はああやって自分の責務をこなし、自分はそれを横目にセシルの面倒を見る。いつもそんな日常だった。

 セシルなんか知らない。もう、どこかへ行ってしまえ。

 心のどこかに孤独感を感じていた。実の母親だというのに、どういうわけか彼女が遠い存在に感じている自分がいた。

 実際に十皇月での立場を守るために皇帝に気に入られようと、重臣たちに気に入られようと努力していた。彼女は彼らが喜びそうなことはすべてこなしてきた。なんの反論もせず、皇帝がああしろと言えばそのとおりにし、こうしろと言えばそのとおりにした。いや、それ以上の働きをしてきた。

 そんな母親の姿を幼いころからずっと見てきた。報われない努力を健気にする姿はいまとなっては可哀想にもなった。

 父は母になど興味はない。父が興味があるのはカナス。いや、その先にあるカナスが手に入れるべき蝶の杯だ。母はそんなことも露知らず、その身を削っているのだ。捨てられることを恐れているのだ。 

 闘いの塔は円形闘技場と密接し、一体化しているため、この控え室からはすぐに闘技場を見下ろせた。すぐ目の前には貴族専用の観覧席があり、バルコニーからそこへ直接下りることができるのだ。

 一般客が座る観覧席と違いこの場所は皇族や重臣、一部の上流貴族が城の内側からしか入れない特別な観覧席だった。一般客の座席は石造りの質素なものだったが、こちらはもっとずっと質のいい座席だった。最も貴重な鉱石であるムーンストーンを丸く削った座席には柔らかそうなクッションが幾重にも敷かれており、さらに頭上には豪華な天蓋まで備えつけられていた。皇帝と皇后の座席は一番大きく、さらに豪華絢爛だった。

「ご気分が優れませんか?」

 獣のように低い声。ララの隣に大きな男が座ると、ずしんとカウチがはずんだ。

「デズモンド卿……」

 その厳しい顔の禿頭の男は微笑んだ。「塩漬けにでもされたのですか?」

「いえ……大丈夫です……」

「いろいろと不安はあるでしょう」宰相は言った。「お気持ちはよくわかる」

「ええ……」

「……兄上たちが心配ですか?」

 ララはうなずいた。

 デズモンドは指を組み、前のめりになってバルコニーの向こうを見すえた。「殿下方からは強い覚悟を感じられます。それはカナスさまだけでなく、パーシバルさまもです。殿下方ならきっと大丈夫。生きて帰りますよ」

「──デズモンド卿」ララは考えにふけってから、改めて聞いた。「聞きたいことがあります」

「なんなりと。皇女殿下」

「あなたはこの闘技大会をどう思いますか?」

「それは随分と率直な質問ですね」デズモンドは大きな口でまた笑みを浮かべた。

「宰相であるあなたが、どう思っているのか知りたくて……」

 デズモンドは先ほどの笑顔から、だんだんといつものつり上がった眉と厳しい顔に変わっていった。

「ここにいる貴族たちや、帝都にいる三十万人の民衆たち、その誰もが信じ切っている」デズモンドは言った。「この帝都は安全で、中央連合国になど負けるはずがないと。それは皇帝陛下もお思いになられていることです。誰もがアークジウムの開催は妥当だと思っている。しかし私はそうは思いません。知っている者はごく少数ですが、中央連合国はやや混沌としていて、アテリアのテオグリムが強行軍を進めています。食い止めてはいますが……。いまの現状を見るに、我々は中央連合国を見くびっていたようだ」

 デズモンドの言いようでは、やはり中央連合国の侵攻については知らない者も多いのかもしれない。

「……ここはどうなるのです? 帝都は安全なのですよね?」

「安全とは言い切れなくなってきました……」デズモンドはつり上がった眉をさらにしかめた。「テオグリムは勢いを増しています」

「皇帝はこのことを知っているのですか?」

「ええ、もちろんです。国境が破られたことも存じておられます。しかし連合国を食い止める我々の軍は西へは向けられていません。つまり皇帝陛下は帝都の壁の外で迎え撃つつもりなのです」

「危険な賭けだわ。それに無謀よ」

「私もそう提言しましたが、皇帝陛下は本当にそうなさるおつもりのようです。このアークジウムにすべてを賭けておられる」

「それではわたしたちは……帝国は滅びてしまうわ」

 デズモンドは低く唸った。「……実際のところは私にもわからない。皇帝陛下の決定が、吉と出るか凶と出るかはね」

「ときどき、思うんです。父が我を見失っているんじゃないかって。病気のせいで頭がおかしくなってしまったんじゃないかって」

 デズモンドはまた唸った。

「わたしは怖いんです。ここにいる誰もがその目的のために我を見失っているような気がして……ホワイトハースのようにならなければよいのですが……」

「ララ皇女殿下、やはりあなたはまだお若いのに賢明でおられる。その洞察こそが帝国を救うのです」デズモンドは続けた。「心配はいりません。ホワイトハースの事件は悲劇でしたが、あれはただの偶然です」

「偶然?」ララは聞き返した。

「さてはラングレン卿に何かを吹き込まれたのですね」デズモンドは余裕のある笑いをこぼした。「あれは真実ではありません。彼はこの帝都に舞い戻るために嘘をついているだけなのですよ」

 ララは背筋に悪寒を感じた。この宰相はまるで何もわかっていないのか。それとも、“想像の歪み”について何か知っていて、わざとはぐらかしているのか。

 ララは思い切って言葉を振り絞った。「もし本当なら?」

 するとデズモンドは考える間もなく、即答した。「そのときはラングレン卿は英雄と讃えられてしかるべきでしょうな」

 ワインを飲む宰相の、その緑色の目を何気なく観察した。慢心、余裕、すべてを知ったような目。ソマロン家はオーギエム家の旗手にして皇族に次いで高貴な一族。

そして最も注意すべき一族。弱りきった父に変わって政治をしているのは彼だ。それなのに、まるで自分は政治に関与してないような、他人事のような話し方をする。読めない男だ。




✱✱✱


 帝都はお祭り騒ぎだった。いたるところに飾りつけがされ、帝国内のあらゆる商人や、外国の珍しい品物を売る商人たちが出店を広げ、通りという通りは帝都の住人や観光客でごった返している。

 大広場では吟遊詩人が歌い、踊り子が美しい想像物の花吹雪を舞い散らせながら踊る。そして曲芸士は二つの塔を生成し、太鼓の音に合わせて綱渡りを披露した。今日だけは学院の生徒たちも街へ出てきて出し物を楽しんでいた。もし自分が皇子でなければ、この闘技大会は最高の思い出になっただろう。

 無造作に積み上げられた絵画の山の向こう、バルコニーでパーシバルはその景色を眺めていた。もう試合開始直前だった。しかし、どうしてもとロデリックを説得してこの祭典をひとりでゆっくりと眺めているのだ。

 ほんの少しだけでいい。ただこうして眺めていたかったのだ。

 円形闘技場から七つの巨像の武器が突き出していた。大きな歓声によって巨像の掲げる剣や斧の切っ先にたむろしていた鳥たちが一斉に羽ばたいた。

 母さんが生きていれば、いまの自分をどう思うだろうか。褒めるのか、背中を押すのか。心地の良い風が頬をなでた。

 そしてロデリックの呼び声で、パーシバルは自室をあとにした。

「心の準備はよろしいですか、殿下」二人の衛兵を引き連れたロデリックは心配そうに言った。

 パーシバルも同じく心配そうに、何度か小さくうなずいた。

 もうすぐ死ぬかもしれないからだろうか、廊下が果てしなく長く感じた。

 衛兵が広い廊下にある八つの鉄格子の前で立ち止まった。もう一人の衛兵が腰袋からチェスの駒を取り出し、その空洞に向かって投げると、駒は細かな粒子を纏いながら滑車つきの木の板に変化し、滑車は見事に紐と連結した。パーシバルは衛兵たちとともにその板に乗り込んだ。衛兵が鉄格子を閉めて滑車についたレバーを引くと、滑車の軋む音とともにその木の板はどんどん塔をくだっていき、あっという間に地上階に到着した。

 パーシバルはアークジウムを生成できないため、衛兵かロデリックが必ず付き添っていた。パーシバルにとってこれは耐えがたい苦痛だった。どのような貴族の子供も七つにもなれば昇降機などひとりで使うというのに。

 衛兵が木の板に触れると、それはまるで砂浜で作った砂の城が崩壊するようにボロボロと崩れ、その代わりに衛兵の手の中にはチェスの駒がしっかりと握られていた。

 出口が左右にひとつずつあった。左は街に出る出口、そして右が円形闘技場に繋がる出口だった。パーシバルは衛兵とロデリックに連れられて闘技場へ繋がる出口へ向かった。

 闘技場の出場者専用の通路から裏口へ向かった。ずっと向こうにある闘技場正面入り口には、数え切れないほどの太く長い列ができていて、衛兵の誘導で少しずつ動いていた。

 そして反対側では賑わう街があった。観覧客や貴族たちは世界最大の祭典のために、大いに賑わっていた。中にはこちらに気づく者もいたが、衛兵に囲まれる高貴な人物がパーシバルだと知ると、残念がって行ってしまった。何度かそれが繰り返されると、ロデリックは言った。

「気にすることはありませんよ、殿下。あなたさまは自らのやるべきことに集中なさればよい」

 こちらを見ては何かを囁き、また行ってしまう人々。パーシバルはそれらを見ないふりをして、ロデリックの言葉にただ小さくうなずいた。

 闘技場の裏口へと入ると、そこはホールのようなあけっぴろげな空間だった。天井から巨大な名家の紋章の垂れ幕がいくつもなびいている。あまりの壮大さにパーシバルは目眩を起こしそうになった。

 ここは出場者専用のメインホールだった。

 観覧希望者のメインホールは反対側にある。彼らはチケットを持っていてこれからそれぞれの座席を目指す。十万人を収容するこの巨大な円形闘技場では自分の席につくことは容易なことではなかった。メインホールから昇降機で一気に目的の階層まで行くのもいいが、昇降機は長蛇の列だった。闘技場に出てから階段で目的の場所へ行くのもいいが、それもまた容易ではなかった。闘技大会は開場から観衆が全員席につくまで三時間以上かかるのだ。

 アークジウムという闘技大会は模擬海戦、罪人の処刑、人食いと戦士の一騎打ち、馬上槍試合、百人対百人の乱戦、想像術の盤上試合、想像術の精密さを競う試合などがあった。だがそれらは最後の戦いの余興にすぎなかった。蝶の杯をかけて戦う試合こそ、本当のアークジウムなのだ。

 出場者や関係者たちがパーシバルの横を通り過ぎた。大木のように大きな女や岩のように屈強な男たち、残忍そうな者たち。その中でただひとり、小さく軟弱そうな少年が歩く。これほど惨めな光景はない。さぞ滑稽だろう。

 ロデリックが手をかざすと、受付の女は微笑んで会釈し、パーシバルたちを通した。

 地下は砂まじりの石畳の造りで、悶々とした湿りと熱気と殺気立った声がどこからともなく聞こえてくる。それ以外には想像術を使用するときの独特な生成音、鎧や剣が分解されるときの金属音。時々、人食いの断末魔のような叫び声も響いた。

 地下は迷路のように入り組んでいて、いくつもの部屋が設けられていた。それぞれの部屋で出場者たちはそれぞれの時間を過ごしていた。

 いくつもの部屋を通り過ぎた。控え室には扉がなく、出場者たちが想像術の鍛錬をしているのが見えた。

 美しい鎧を着た女騎士レイヴェラ・ジュ・オルデリアスは長剣を振ったときの些細な音を確認し、筋骨隆々の剣闘士、蒼のダーレンは鉄の塊をうめき声をあげながら持ち上げ、レムレイスと呼ばれる痩せ細った老人は吹き矢で藁人形の眉間に針を突き刺し、フリンギラは生成したばかりの長槍を回転させながら藁人形を真っ二つにして試し切りした。

 パーシバルは丁寧に仕立てたばかりの小綺麗な胴着に違和感を覚えた。彼らの傷だらけの鎧や服と比べると、あまりに綺麗すぎるのだ。そしてそれは死に装束のように思えた。

 ロデリックはひたすら曲がりくねる通路を進んだ。湿気と殺気に満ちた視線を感じる。

「こちらです」ロデリックが立ち止まると、今までの見た部屋では一番広い、番兵つきの部屋があった。ただしこの部屋にも扉はなかった。ただの石畳の穴ぐらにしか見えないその部屋の奥に、見慣れた影があった。

 カナスは剣の想像術を解除して振り返った。「来たか」

「遅れてごめん。ちょっとひとりになりたかったんだ」

「わかってるさ」

 パーシバルが部屋に入ると、カナスは木製の椅子を生成して座った。そして同じものを生成すると手をかざした。

「ありがとう」

 カナスは椅子を引き寄せ、腰を下ろしたパーシバルに近づくと、肩をがっしりと掴んだ。「心配するな。おれがついてる」

「……ねぇ、カナス」パーシバルは言った。

「どうした?」

「僕たち、本当に死なないよね。生きて戻れるんだよね」

 カナスは当然のように言った。「死ぬわけないだろ。おれたちは必ず勝つんだ」

 サイコロを握りしめると、カナスの右手に粒子が渦巻いた。やがてそれは美しい鋼の剣となった。

「おれは想像術の腕はたしかに秀でてる」カナスは言った。「でもな、誰でもできることを、ただ人より上手にこなせるだけだ」

「そんなことない」パーシバルは反論した。「すごいことだよ」

「パース、人との違いは嘆き悲しむことじゃない。お前だけに与えられた力を考えろ」カナスは剣をまたサイコロに戻した。

 パーシバルは笑った。「力? そんなのないさ」

 カナスの目は真剣そのものだった。「人と違うことができる人間は稀だ。それゆえ、強い」

 パーシバルの呆れた顔が少しずつ元に戻った。「よくわからないよ……」

 そのとき、地鳴りが起こった。地上の歓声はこの控え室を震わせ、二人の骨や肉を震わせた。

「処刑が終わったみたいだ」カナスは言った。




✱✱✱


「皇帝陛下」肩や胸が強調された赤いドレスを着た女は指に散りばめた宝石が無造作に光り輝かせた。そして手のひらに指先を合わせ、微笑んだ。「観覧席へ参りましょう」

 だが皇帝はムーンストーンの角ばった大きな玉座から立ち上がらず、どこか遠くを見ていた。

「陛下、どうなされましたか」メラリッサは言った。「顔色が優れませんわ」

 皇帝は一度大きく息を吸い込み、そして惜しむように吐いた。「余は先代の意志を継ぎ、二十年もの間このオスロンドを守ってきた」

「さようにございます」メラリッサは恐れ多そうに頭を下げた。

「今日まで帝国の安寧が守られてきたのは雨の巫女の加護であり、すべて今日この日のためだったのだろう」皇帝の黒い絹のダブレットは動くたびに艶かしく反射し、繊細な刺繍を光らせた。

「まさしく」

「だが余は……」皇帝は言葉を詰まらせた。「余はその先が見えんのだ。もう少しで桃源郷に着きそうなものを、濃い霧が視界を塞いでしまうのだ」

「何をおっしゃいますか、皇帝陛下」メラリッサは訴えた。「あなたさまの鎮座するその玉座こそ、桃源郷にございます。この帝都が桃源郷にございますよ」

 だが皇帝はメラリッサの言葉などなかったように続けた。「──夢を見たのだ」

「……夢……?」

「果てしなく続く草原だった。余はそこで目を覚ました。すると目の前に雨の巫女が現れたのだ。まばゆい光でお姿は見えなかったが、あの神々しい姿はなんとも……形容しがたいものだった。だが次の瞬間に余は下半身が沼に沈んでいることに気がついた。しかもよく見ると沼ではなく毒蛇の群れ、いや、死肉の塊のようなものだった。余は必死でもがき、巫女に助けを求めた。だがあのお方はただそこに立っているだけだった。──まるで沈みゆく余の姿を憐れむように、ただ見下ろされていた。余はまたたく間にその中に沈んでいった。残ったのは暗闇、恐怖、後悔だけだ」

「そんなものはただの夢に過ぎません」メラリッサは強気だった。「あなたさまはすべてを手にするのです。その玉座が何よりの証拠。アークジウムは成功し、中央連合国にも勝利する」

 皇帝は苦しそうに咳き込み、その手のひらについた血を虚ろな目で見た。「死など恐れてはおらん。だが気になるのは、あの夢がただ単に余の死を暗示するものだったのかということだ」

 メラリッサは皇帝の手に付着した血に気づいていないかのように振る舞った。「どういうことです?」

「雨の巫女は警告していたのだ」

「まさかそんな、ただの夢にございましょう?」

「雨の巫女は帝国を見限ったのかもしれん……」

「雨の巫女がわれわれ帝国の民を見捨てるわけが──」

 皇帝は女を見下ろした。「本当はお前もわかっているだろう? 我々は禁忌に触れようとしているのだぞ」




✱✱✱


 移動式劇場はオスロウィン城前の大広場でずいぶん長く足止めをくらった。ドレトン大劇団のファンたちが殺到したせいだった。バーティミウスは彼らをどかせようと大声を張り上げていた。

 シリルは屋上で街を眺めていた。大広場では舞台はいくつも行われていた。その中でも特に客を釘付けにしていた舞台があった。

 立派な鎧を着た黒髪長髪の戦士が猛々しく敵や怪物を打ち倒してゆく。だが観客が盛り上がっていたのはそこではなかった。

 その戦士の後ろを、弱々しく間抜けな人物がつきまとっていた。きっとあれは子どもだ。その子どもが登場してから、あの戦士のときよりも観客は盛り上がった。

 戦士はあらゆる敵を打ち倒してゆくが、その子どもはいつも戦士の足手まといのようなことをしていく。観客は大いに笑っていた。

 シリルはちょうど身支度をするために屋上に上がってきたソフィアを呼び止めた。

「ねぇ、あれは誰?」

 ソフィアはその演劇をほんの少しだけ見てから言った。「カナス皇子だよ。アークジウムの演劇をしてるみたい」

 シリルは首を振った。「そうじゃなくて、あの子どものことだよ。変な動きをしてる方」

 ソフィアは身を乗り出した。そして、ちょうど間抜けな動きをしてカナスの頭を棒で叩く子どもを見て言った。「あれはパーシバル皇子だと思う。カナス皇子の弟の」

「パーシバル皇子……」シリルはその馬鹿で間抜けな演技をする子どもを興味深そうに観察した。

 カナス皇子が対戦者と怪物に挟み撃ちにされ、さらに滅多打ちにされている場面だった。

 観客は息を呑んだ。絶体絶命のピンチの場面。

 するとまたパーシバル皇子が馬鹿な動きでどこからともなくやってきた。カナス皇子を助けるのかと思いきや、その子どもはむしろ足にすがって助けを求めた。

 観客の笑いが爆発した。

 そして動きを止められたカナス皇子は敵に切られ、さらに二人は怪物に食べられてしまった。だが怪物はまずそうにしてパーシバル皇子だけを吐き出した。

 また笑いがおきた。パーシバル皇子が、拍子抜けした顔で肩をすくめると、舞台の幕が下りた。だが幕はパーシバル皇子の頭の上にぶつかり、観客はまた笑った。

 だがそのとき、観客が騒然とした。巡回の兵士が何かを叫び、舞台をやめさせたのだ。まだ物足りなそうに残念がる者。笑いの余韻が残る者も。満足そうにする者。いろんな反応があったが、否定的な反応を見せる者はいなかった。

「あれが舞台?」シリルは顔をしかめた。

 ソフィアは縁にもたれかかり、微笑んだ。「観客が求めているのよ」だがその微笑みは本当に笑っているわけではなかった。「演者たちはそれを見せているだけ」

 シリルは不満そうに口を歪めた。「ぼくらは人に希望を与える仕事をしてるはずだ」

「お前の言うこともごもっともだがな、現実はそうはいかねぇんだ。ソフィアはよくわかってるぜ」いつの間にか隣にいたマルックが言った。「人が関心を示すのは、ああいうのなんだよ」

「どうしてみんなに夢や希望を与えないんだ」シリルは言った。

「夢や希望で飯が食えるってんなら、みんなそうしてるさ」マルックは鼻を鳴らした。

 シリルは言葉を探していた。

 マルックは皮肉めいた笑いを浮かべた。「実際パーシバル皇子はダメダメだって聞くぜ。やつらはそれほど間違っちゃいないのさ」マルックは猿のように飛び跳ねてはしごを下りていった。

 あの舞台の想像術が解除されると、団員らしき男と何人かの演者は兵士の手をすり抜けて逃げ出した。

「ソフィア、僕たちは何のために舞台をしてるんだろう」シリルはつぶやいた。

「お金のため。生きるためよ」ソフィアはいくつかの荷物をまとめながら言った。

 シリルは不満そうに、肘をついて馬鹿げた舞台の最後を見送った。




✱✱✱


 移動式劇場は帝国兵の案内のもと、闘技場へと足を踏み入れた。死体が山積みにされた荷車とすれ違い、綺麗に整えられたばかりの地面に車輪が轍を作る。 

 バーティミウスは闘技場の真ん中で劇場を止めると、いびつで冗談めいた移動式劇場はほんの一瞬で巨大で豪華な舞台に変身した。観衆たちの拍手が舞台を震わせた。

「いいか」バーティミウスは念を押した。「必ずうまくいく。リハーサル通りにするんだ」

 シリルは道化服に触れ、靴職人の少年の衣装に変えた。「ドレトンがいないのに、疑われないかな?」

 バーティミウスは指輪を外し、それで仮面を生成した。「疑われるもんかい」

「いいか、セリフを忘れるな? 立ち位置も確認しておけ」バーティミウスは台本を確認しながら仮面をつけた。

 カルステンは石工職人の格好だった。「逃げ道はどうするかね?」

「もちろん考えてるよね?」ソフィアは地主の令嬢役のために大きな三つ編みを解いて、白いドレスを着ていた。

「もちろん考えてねぇよ。お前らは馬鹿か。公演をうまくいかせるか、死刑か、どっちかなんだよ」バーティミウスは即答した。「これは命がけの勝負なんだ」

「背水の陣ってやつだね」シリルは言った。

「そりゃあいい。スリルがある」マルックはわざとらしく言ってから、毒づいた。「クソジジイが……」

 バーティミウスはマルックの言葉などなかったかのように、意気揚々と舞台へ踊り出た。

 その瞬間、全身を震わせるような拍手喝采が巻き起こった。十万人の観衆に向けて、闘技場の四方八方に会釈をし、大層な言葉を並べて注目を集めた。

 移動式劇場はバーティミウスの想像術によって粒子をまとって変形したり、増大したり、ねじ曲がったりして新たに何かを形づくりはじめた。「これは世にも不思議な物語。想像術が織りなす夢の世界のはじまりはじまり」

 バーティミウスが手を叩くと、移動式劇場は闘技場全体を覆うほど広がった。中央にメキメキと大聖堂のような建物が生え、いつの間にかその下には城下町が広がっていた。まるで闘技場の中に小さな街ができたようだった。

 するとシリルはマルックの肩を叩いた。「団長を信じるしかない。いつもうまく切り抜けてきただろ? 今回だってうまくいくさ」

「もし計画がうまくいかなかったら、ぶっ殺してやる」マルックはそう言って舞台へ踊り出た。

 大聖堂の門の前で、マルックがセリフを話しはじめた。木でできたヒト型の人形たちが、機械式の動きで洗濯女やパン屋、掲示人になりきっていた。マルックのセリフに合わせて、兵士の人形もやってきた。

 靴職人のシリルは判事の命令で殺害され、死の間際のセリフを苦しそうに言った。

 マルック扮する判事がカルステンの石工場を焼き払うころには、観衆たちは見事に物語の中に引き込まれていた。

 大聖堂の裏手に、小さく移動式劇場の名残りがあり、出番を終えたシリルはこそこそと戻った。小さな納屋ほどの大きさになってしまった劇場で、バーティミウスは満足げに笑みを浮かべていた。そしてシリルをちらと見てから肩を叩いた。「見てみろシリル。観客の反応を。上々じゃねぇか」

「やっぱりバーティミウスについてきてよかった」シリルは言った。「夢を叶えてくれた」

「馬鹿野郎。余計なことを言ってないでセリフの復習でもしてろ」バーティミウスはまんざらでもなさそうに口を歪めた。

「第二幕……」バーティミウスがしゃがみ込み、床に触れると、大聖堂はうねうねと歪み、城へと姿を変えた。

 ソフィアが舞台へ躍り出た。彼女は城の階段をするすると上り、バルコニーに出ると、悲劇のセリフを話しはじめた。

「なぁ……なんでいつもソフィアだけセリフが多いんだよ」戻ってきたマルックが悪態をついた。

「劇団の華だからだよ、このトンチキ。演技も卓越してる。歌も上手い。腕が上がれば、お前たちの出番も増やしてやる」バーティミウスは役者たちの演技に合わせて劇場の生成を変化させていた。

「どうせ女だから贔屓してるんだろ」マルックは顔をしかめた。「この変態親父が」

「なんだとこの憎たらしい減らず口のガキめ」バーティミウスが悪態をつくと、出番を終えたカルステンが慌ててやってきた。「団長!」彼は声をできるだけ殺しながらも、声を張った。「出し物が違う! ちゃんと集中しないと!」

 バーティミウスは慌てて出し物を変えると、また悪態をついた。「お前の文句を聞いてる暇はないんだ。さっさと消えろ」

 するとマルックはふんと鼻を鳴らし、判事の衣装を兵士の鎧に変化させた。「クソジジイが……」

「気を落とすなよマルック」シリルは言った。「昔と比べたらセリフだって増えてるし、重要な役ももらえてるしゃないか」

「お前はなんでいつもそう前向きなんだよ」マルックは不満そうだった。「なんでそうやって楽しそうにできるんだ」

「最高の仲間と演技をしてるからだよ、マルック」

 するとマルックはため息をついて呆れたように首を振り、次の衣装を生成した。「お幸せなやつだ」

 劇場はバーティミウスの操作によって大聖堂を中心とした街から、城と城下町に変わり、次は海を見下ろす丘に変わり、さらには密林へと場面転換を繰り広げた。

 観衆たちは見せ場が来るたびに驚きの声を上げ、ときには喜びの拍手をし、マルック扮する中央連合国の兵士に罵声を浴びせた。興行は上々だ。バーティミウスの満足げな顔がそれを物語っていた。

 だがバーティミウスの過去は謎に包まれていた。自分はもとは貴族で、帝国に仕える兵士だったと言った。そして違う日には、自分はもとは孤児で、自分で公演をして回って成り上がったと言った。いまでは、自分はもともと大劇団の一座の跡取りだと言い張っている。

 だからみんないつの間にか、バーティミウスの過去や経歴についていちいち聞こうとしなくなった。

 そういえば、マルックがこっそり言っていたのを思い出した。バーティミウスは実は悪党なのだと。バーティミウスがドレトン大劇団を襲撃したのはほんの序の口だと言っていた。脅し、盗み、誘拐、暴行、殺人、きっとぜんぶやってきたに違いないと言っていた。

 とはいえ、みんながあの男を信頼しているのはたしかだった。嘘つきでインチキで飲んだくれだったが、自分たちにとって、団長は信頼に値する人物なのだ。

 公演はクライマックスに突入していた。令嬢役のソフィアが殺害され、王子役に変わったカルステンが後悔のセリフを長々と話す。観衆たちの反応は上々だった。

 すすり泣く声、悲しみのうめきが闘技場に響いた。バーティミウスはクライマックスを迎えるためにセリフの間合いを確認しているところだった。

 だが何かがおかしい。出番を終えたシリルの目には観客席に動く小さな影が見えた。深緑色のマントを羽織り、フードをかけた影。しかし、それがゴドウィンだとわかるころには彼が隣に誰かをしたがえているのが目に入った。

「……なんだろう……?」シリルは目を凝らした。

「シリル、どうしたんだ?」マルックはシリルの目線を追い、探した。「何か見つけたのか?」

 ゴドウィンは隣の人物とともに、観客席の階段をゆっくりと下りていた。隣の人間は男だ。小汚いチュニックを着た、中年男はこちらを見ると、ゴドウィンを差し置いて階段を駆け下りた。


「あいつらを捕まえろ!!」小柄な中年男は叫びながらこちらを指差している。「あいつらは偽物だ!!」


 闘技場ではひとりの人間の声など蟻の叫び声と同等のものだった。だがタイミングが悪かった。クライマックスの静けさは雲の動く音すら聞こえそうなほどの静寂の場面だったからだ。

 中年男の声によって観客席は次第にざわつきはじめた。バーティミウスが異変に気づいたのはいよいよざわつきがカルステンのセリフを覆い隠してしまうころのことだった。

「なんだ、あのイカれた男は……」バーティミウスは顔を歪めた。「いいとこなのによ」

 シリルは叫び狂う男を見たまま呆けたように言った。「バーティミウス、本物のドレトンだ……」

 バーティミウスは目玉が飛び出すのではないかというほど驚嘆の表情をして、言葉でない言葉をつぶやいた。

 いよいよ観客席がざわつきからどよめきに変わっていた。そして混乱するバーティミウスと、崩壊してゆく城や城下町、人形たち。

 バルコニーがぐにゃぐにゃと歪み、ソフィアはそのまま落下した。カルステンが彼女の腕を掴み、引き上げた。しかしカルステンの足場まで崩壊していったせいで、二人は転がり落ちてしまった。マルックが二人を助けるために駆け出した。

 シリルはバーティミウスの肩を揺らした。「しっかりしてくれ! バーティミウス! ドレトンが来た! 早く逃げようよ!」

 バーティミウスは呆気にとられたまま、シリルに揺さぶられるがままだった。

「バーティミウス!」シリルはバーティミウスを払いのけ、駆け出した。「早く!」

 中年男はいまだに叫び狂っていた。そしてクライマックスの感動は、狂気へと変わっていった。


〈偽物だ!〉

〈捕まえろ!〉

〈そいつらを殺せ!〉


 観衆たちの狂気はやがて帝国の兵士たちを駆り立てた。闘技場の周りの門から数え切れないほどの兵士が飛び出し、もう小さくなってしまった劇場を取り囲んだ。

 なんとかソフィアとカルステンを救出したときにはすでに、古びた移動式劇場があるだけだった。

 そして“ドレトン大劇団”という文字が剥がれ落ち、“バーティミウス大劇団”となった途端に、観客たちはさらに怒りをあらわにした。罵声と怒号が飛び交う。

「このままじゃあ殺されちゃうよ!」シリルは慌てふためいた。

「なんで本物のドレトンがいるのよ!」とソフィア。

「あの男に騙されたんだよ。まんまとね」カルステンは諦めたように言った。「やられましたね。どうも怪しいと思っていたんだ」

 シリルは近づく兵士たちに怯えていた。「でもどうしてそんなことを……」

「んなこたぁとうだっていいんだよ!」マルックは言った。

 シリルはゴドウィンを見上げた。「僕たちを最初から利用するつもりだったんだ。帝国の使者なんて嘘っぱちだったんだ」

「カルステン、私たち、どうなるの?」ソフィアは泣きそうな声で訴えた。

 カルステンはただ目をつぶり、首を振った。

 すでにバーティミウスは地面にうつ伏せに羽交い締めにされていた。

「だからあのジジイは信用できねぇんだよ。おれが馬鹿だった……」

 ついにマルックも拘束され、そしてカルステンも……。

 気がつくとシリルは地面に頬を強打していた。闘技場の細かい砂が口の中に入り、血と混ざった。

「おとなしくしろ!」兵士がシリルの頭を殴りつけた。その瞬間、世界がゆらめいた。

 シリルはゴドウィンのいた場所を見上げた。だが男はもう姿を消していた。




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