第9話 嵐の前

9 嵐の前



〈アークジウムまであと一日〉


 ララは二人の兄の話をじっと聞いていた。だがそのうちに、納得がいかなそうにしていた。グラデンという男が話したテオグリムの裏切り、ラングレンの素性などについてではなく、彼女が最も憤ったのは、二人の兄が自分たちだけですべてを解決しようとしていることだった。

 ララは幼いころから自分の居場所を探していた。おそらく愛情に飢えていたのだろう。二人の兄にとって、ララがセシルの面倒を見ているのは、特段愛情深いからというわけでもなく、仕方なくそうしているだけのようにも見えていた。

 クロヴィッセ以来帝国には女帝はいない。女を容認しない風潮がある限り、妹には皇位継承権はほぼないに等しく。特段目立った才能もなく(それでもパーシバルよりは学院の成績もよく、話せる外国語も多く、想像術の腕もあった)、あの皇帝に一目置かれるほどの魅力がないことをずっと気にしているのだ。

 ララは肉親であるアンナ・オーギエムよりも皇帝の愛を欲した。

 瑠璃の間には噴水の水の流れる音だけが響いた。

「すまなかった」カナスは催促した。「でもお前を面倒に巻き込むわけにはいかないんだ」

 ララはいらだった様子で葡萄を口に放り投げた。「わたしはもう子どもじゃないのよ。賢人会議や祝賀会、貴族のお茶会にもたくさん出席した。それに〈蛾の女王〉の夜会にも使いを送った。あなたたちが私を無視している間に、やるべきことをやっていたのよ」

 カナスは石のテーブルに片肘をかけて言った。「おれたちはお前を子ども扱いしているわけじゃないんだ。お前を巻き込みたくないだけだ」

「だから、それが子ども扱いって言うんでしょ?」

「そういうわけじゃないんだ、ララ」パーシバルはたじろいだ。

 カナスは諭した。「父さんの容態は日に日に悪化して、それに伴ってゴルドやソマロンの仲もピリついてる。お前やセシルに目をつけられてしまわないように、やつらを詮索するようなことはやめるんだ」

「兄弟二人だけで帝国の英雄にでもなるつもり?」ララはいらついたようにワインを飲み干した。「そんなの思い過ごしよ。わたしだって力になれる」

 カナスは険しい表情でパーシバルを見やった。

「まさか」パーシバルが切り出した。「何かやったの?」

「まぁね」ララは得意げに言った。

 カナスは呆れてうなだれた。「……まさかとは思ったけど……」

「アークジウムはソマロン家とゴルド家、そしてオーギエム家の皇帝と叔父さま、さらに有力貴族たちが入り乱れた争いになる。誰もが灰燼文書の言葉を期待しながら、そして帝国や中央連合国を支配する王座をかけて争う。ラングレン叔父さまの言ったとおり、これはただの闘技大会なんかじゃない」

 二人は黙って妹の話を聞いていた。

「わたしが聞いた限り、デズモンドやメラリッサは強力な軍を持ってて、訓練してるのよ。アークジウムの日、大規模な謀反が起こるかもしれない」

「ったく。どいつもこいつも忠誠心もクソもねぇな」どこからか声がしたかと思うと、パーシバルの顔の横で意地汚い笑顔が光った。「腐りきってやがる」

 みな驚いたが、中でもパーシバルはワインを噴き出すほどだった。ラングレンはパーシバルに寝間着を紫に染められ、不愉快そうに顔を歪めた。「カナス、お前は皇帝に従順だ。もしお前がおれたちを裏切るようなことがあれば──」

「おれが父さんに従順なのは、皇太子としての役割を果たしてるだけさ。裏切ったりなんかしない」カナスはきっぱりと言いきった。「蝶の杯を渡すようなことは絶対にしない」

「その言葉を聞けりゃあ、おれぁ安心ってもんさ」ラングレンはそう言うと石のテーブルに腰をかけ、置いてある半分入ったワインを一気に飲み干した。「いいかお前たち、自分の頭で考えろ? この城は嘘つきだらけだからな」

「いい気なもんだよ、まったく」パーシバルはラングレンを横目で見た。「自分は闘いの塔で、文字通り高みの見物か。僕らを戦いの駒にして」

 ラングレンはいつものように下品に笑った。「誤解されちゃあ困るぜ? おれだって相応のリスクは背負ってるんだ」

 パーシバルは首を振った。「どうだか」

「そういえば、グラデンに会ったよ」カナスがそう言ったとたん、ラングレンは目を丸くし、氷漬けにされたように固まった。

「全部聞いた」パーシバルは言った。「あんたが何をしようとしてるのか。過去にあったことも……」

 カナスとパーシバルはラングレンに話した。グラデンのこと、テオグリムの強行軍が本当にはじまってしまったこと、ラングレンの過去のことを。するとラングレンは何を思ったのか、バルコニーまで歩き、石柱にもたれかかり、景色を眺めた。「そうか……聞いちまったんだなぁ……」

「あんたを信用するのはグラデンのおかげだ」パーシバルは言った。「あんたは帝国を救おうとしてた」

 ラングレンは鼻で笑った。

「どうして笑うんだ」パーシバルは言った。

「いやまさか、お前にそんなことを言われる日が来るとは思ってもみなかったんでな」

「とりあえずだ……信じるのは……」パーシバルは顔をそむけ、つっけんどんに答えた。「別にあんたを許したわけじゃない」

「許すって何を?」ララは眉をひそめた。

「……いや、気にしなくていい」パーシバルはごまかした。

 ラングレンはパーシバルの棘の落ちた表情を見て、安堵したように少し微笑んだ。

 瑠璃の間の扉が開くと、ずんぐりとした老人が会釈した。「まもなくトーナメント組分けが始まります。闘士の間へお越しくださいませ」

「ありがとう、ロデリック」

パーシバルが振り返ると、ラングレンは背を向けたまま景色を眺めていた。

 あんたはその目で何を見ているんだ。何を知ってるんだ。パーシバルはすべてを吐くまでいますぐ問いただしてやりたくなった。しかし、なぜかできなかった。あの男の握る秘密を、知ってはいけないような気がしたから。



✱✱✱


 夕暮れを前に、車輪の悲痛な叫びは林中に鳴り響いた。移動式劇場は林から頭を突き出していて、それは信じられないほど巨大な熊がゆっくりと森を闊歩しているようだった。

 帝都を往来する人々によって均された林道でさえ、古びた移動式劇場はあらゆる動きで自由に軋み、うごめいた。

 褐色の肌、真っ赤な髪はくせ毛。ボロ雑巾のような道化服は青と黄色が半分ずつ。少年がはしゃぐたびに胸の飾り鈴がシャリシャリ鳴った。「ついにこのときが来たんだ! 夢が叶ったんだ!」

 するとキザな巻きひげを生やした吟遊詩人風の男が下からひょっこりと顔を出した。「浮かれ気分で大事なことを忘れないよに、いいかい? シリル。私たちはいまはドレトンの一座。くれぐれもバーティミウスの名前を出さないように」

 カルステンは吟遊詩人か貴族の格好をしていたものの、やはりその服は薄汚れていた。だが振る舞いは高貴な人間のそれだった。

「僕は幸せ者だ……。カルステンもそうだろ?」

 カルステンは訝しげに髭を弄んだ。「喜ぶのはまだ早いですよ。私が喜ぶのは舞台をうまくいかせて、金をもらってからです」

「最高の舞台で……最高の演者たちと……最高の演劇をするんだ」シリルの耳にはカルステンの言葉など入ってはいなかった。「金なんていらないさ」

 カルステンは白目を剥いて呆れたように顔を引っ込めた。

「金がなきゃどうやって生きてくんだよ、能天気野郎」すると下の階層から別の少年の声がした。「どうせ帝都の人間もケチな輩ばっかりだろうぜ。どいつもこいつも金を落としゃしねぇ」

「あたしたちが大都市で公演したことが一度でもあったかしら?」踊り子の格好をし、顔の下半分をベールで覆った女が言った。「それに帝都は特別なのよ。そんじょそこらのへんぴな街とは違う。世界最高峰の娯楽が一同に集まる場所なのよ。アークジウムみたいな祭典ができるのは帝都だけ」

 シリルは意気揚々と階段を滑り降り、前転をして着地してみせた。「そうだ。アークジウムが、僕たちの夢を叶えてくれる。十万人の観客の前で舞台を披露する。アークジウムの前座なんかじゃない。僕らのための舞台なのさ」シリルが小気味よい踊りをするたびに、ぐしゃぐしゃの赤毛からしらみが飛び散った。

 すると丸刈りの少年はブラシで床をこする手を止め、目の前のうごめく大きな袋に目を移した。紐がめり込むほどにきつく縛りあげられ、もぞもぞとうごめくそれを見て、顔をしかめた。「本当はこいつの舞台だったがな」

「不条理。それが世の常」カルステンは詩人のように言い放った。「彼もそれを知っているはずです。この世界はそう甘くはない」

「あたしたちだって生きていかなきゃいけないし」ソフィアの腰まである大きな三つ編みが揺れた。

 彼女の頭についたうさぎの耳は後ろにたたまれていたが、時々、ヒクヒク動いた。シリルはそれを見て、最初は奇妙なものがついていると驚いたが、いまではもう見慣れてしまった。世の中にはそういう人もいるし、もっと変わった人もたくさんいるのだ。ということは、帝都に行けばソフィアみたいな動物人間はもっといるのだろうか? シリルは余計に胸を高鳴らせた。

「いいからさっさとその辺に捨てちまおう。劇場の中を調べられたらどうすんだよ」マルックは気だるそうにブラシにもたれかかった。

 劇場が揺れるたびに、シリルの道化服のベルが小さく鳴った。

「検問があるのですよ。それも厳重な検問です」カルステンは言った。

「ドレトンの一座とわかれば二つ返事で通すさ。検問はきっとされないよ。なんせこの人はヴェルカントで一番の劇団の団長だ」

「ヴェルカントで一番なのはあたしたちよ」ソフィアは反論した。

「まぁ、ある意味そうとも言えるがね……」カルステンは巻きひげを指でもてあそんだ。

「こんなクソ劇団のどこが一番なんだよ。ルーゲンウッドですら二十グレッツも稼げなかったじゃねぇか」マルックは悪態をついた。

「ものは考えようですよ、マルック。二十グレッツあれば、一人分の食費にはなりますから」カルステンは諭すように言った。

「戯れ言はよせ」マルックは言った。「バーティミウスが気づいてないうちにさっさと済ませちまおう。適当にごまかせばいいさ。逃げたとかなんとか言っときゃあ」

「だめだめ、そんなのだめ!」シリルは大げさな素振りでマルックに訴えかけた。「もしドレトンを逃がせば、一座の輩が死にものぐるいで追ってくる! なにせこの移動式劇場は亀でも追いつけるからね。それにこの人は今後必要になるかもしれないんだよ」

 マルックは顔をしかめた。「どうでもいいがバレたら間違いなく死刑だぞ。おれたち全員な」

「いままで団長に間違いがありましたか?」カルステンは自信ありげに言った。

 マルックは思わず吹き出した。「はぁ? バーティミウスの言うことを聞いてコトがいい方向に進んだ試しが一度でもあったか?」

 カルステンが聞いていないフリをすると、マルックは舌打ちをした。「おれぁ知らねぇよ。関係ねぇし。いざとなったら逃げ出してやる。──あぁ、クソ! さっきからうるせぇんだよ。誰かこいつを黙らせろ!」

 そのとき、ガタンという音とともに全員が転げ落ちた。

 あまりの衝撃にみんなが視界から消え、シリルは頭を壁に強打した。全員が何人も重なって見えた。

「バーティミウス、いったいどうしたっていうんだ」シリルは腫れ上がる後頭部を抑えつつ、ふらつきながら歩みだした。

 ビロードのカーテンを開けると、馬の操縦席にいる樽のような男の背中が視界を覆い尽くした。団長はずんぐり膨らんだ赤い衣装を着て、奇妙な形に整えられた髭を撫でつけていた。

 シリルはバーティミウスの肩を掴んでひょいと操縦席に飛び乗ると、彼の視線の先を追った。「どうしたの」

 ボロボロのローブをまとった男。それも血だらけだ。シリルよりもずっと黒い肌をしている中肉中背の男はゼエゼエと呼吸を乱し、跪いた。

「薬を……」

 カルステンとソフィア、マルックが操縦席に来るころには、男は苦しそうに血を吐いていた。

「どうか薬を……」

 バーティミウスはじっくりと男を観察したあと、鼻を鳴らした。「悪いがおれたちは急いでるんだ。明日の舞台のために今夜は夜通し稽古をしなきゃならねぇ。あんたを介抱してる場合じゃねぇ」

「頼む……」男は声を絞り出した。「このままでは……死んでしまう……」

「何があったんだね?」カルステンが言った。

「熊だ」男は言った。

「なに?」バーティミウスは聞き返した。

「熊に……やられたんだ……」

「帝都の周りは人の往来が激しい。熊なんて滅多に遭遇はしないぞ」

「本当なんだ。信じてくれ!」男は膝立ちで懇願した。「嘘じゃない。おれは薬が欲しいだけだ」

 だがバーティミウスは首を横に振った。「だめだ。どうも胡散臭せぇ。あんたのことは気の毒に思うがな、自分の身は自分でなんとかするこった」

「私を助けてくれれば帝都に入れてやる」

 男の言葉に一同の顔色が変わった。

「バーティミウス、聞いた?」ソフィアが言った。

「……あんた何モンだ」バーティミウスは手綱を持つ手を緩めた。

「……ゴドウィン。帝国の使者だ。あんたらもきっとわけありだろう? 私が許可を出せば検問なしで通過させてやれる」

 一同はまた顔を見合わせた。

「証拠はあるのか」マルックは言った。

 男は跪いたままうつむいた。「……ない」

「だったら信用できないね。あんたにゃ悪いがおれたちは──」

「シリル、薬はあるか?」バーティミウスは淡々と言った。

「バーティミウス! こいつは野盗か、詐欺師だ。まさか本当に助けてやるつもりじゃ……」

「シリル、さっさとしろ!」

 マルックはうなずき、劇場の中へ引っ込んだが、すぐに戻ってきた。

「だめだ……もうない。この前使ったばかりだよ」

「使っただと! 誰がそんなことを!」バーティミウスは太ももを思い切り叩き、憤った。

「……あんただよ、バーティミウス」シリルは呆れたように言った。「二日酔いを治すために薬草は全部使った。覚えてないのか?」

「なんだと……」バーティミウスは唸った。「ちくしょう! おれとしたことが!」

 するとソフィアが言った。「あたしの痛み止めでよければあるわよ。効果があるかはわからないけど」

 バーティミウスは煤けた歯をにんまりと覗かせた。「それでいい。持ってこい」

 そしてまもなく男は倒れた。男たちはその人物を運んだ。

 カルステンが生成した出来合いのブランケットで男は横になり、ソフィアの生理用の薬を飲んだ。

「……すまない……」

 マルックは男のそばでひざをついて言った。「帝都に着いたら、部下に命令しろ。おれたちを通せとな」

「……わかっている」

「もし嘘をついたりしたら、あんたを一番に殺す」マルックは短剣を生成してゴドウィンに見せつけた。「それもわかってるな?」

 男は二、三度うなずいた。

 ソフィアはゴドウィンの服を脱がせ、手当てをしていた。

「生成物だから、この包帯はそのうち崩壊してしまうけど……。帝都についたらすぐに病院へ行くのよ。あたしたちは公演があるから、付き添うことはできない。ごめんなさい」

「何から何まで、すまない……」ときおり男は苦痛に耐えながら言った。

「ソフィアの手当てが受けられるなんて光栄なことだよ」カルステンは言った。「あなたは幸運だ」

「私も……そう思うよ……」ゴドウィンは視線を変えた。「……ところで……あれは何だ?」彼の視線の先にはうごめく袋があった。

「あんたにもいろいろ事情があるように、こっちにもいろいろあるってことさ」シリルは困ったような顔で言った。

「助けてもらった立場で言えることではないが……あんたたちも私がいて幸運だったぞ」

「どういう意味ですか?」カルステンは聞いた。

「劇場の看板にはドレトン大劇団とあったが……。どうみても偽物だとわかる。綴りが間違っているし……それに本物はこんなにちゃちな造りじゃない」

「どうしてわかる?」シリルは言った。

「……ドレトン大劇団は世界一の劇団だ。彼らを知る者は多い。私も帝都での公演を見たことがある。実際それはこんなボロ屋のような造りじゃなかった」

 カルステンは眉を上げた。「まぁ……それもそうか」

「バーティミウスの生成物だからね。どうしようもないよ」シリルは言った。

「せめて解放してやったらどうだ。あのままにしておくと今晩には死んでしまうぞ」男は時々傷にうめいた。

「ドレトンを解放すれば我々のことを言いふらされてしまう。それにきっと報復も」とカルステン。

「帝都に入ることはできる。しかしいずれは必ずバレるぞ。娯楽好きな貴族どもがドレトンの一座を見分けられないはずがない」

「僕たちはアークジウムで公演をして、それでおさらばさ」シリルは言った。「帝都に長居するつもりはないよ。ぜんぶバーティミウスがうまくいかせるのさ」

「……好きにするといい」ゴドウィンは深く深呼吸をして身体を楽にした。「そうだ……助けてもらった礼に、もうひとつあんたらにいいことを教えてやろう」

「なんだ?」シリルは座り込んだ。

「公演が終われば、すぐに逃げろ」

「おれたちは逃げるのは得意なんだ」シリルが自慢げに言った。「いつもそうやって稼いでるからね」

「……違う……ドレトンのことではない」

「どういうこと?」ソフィアが言った。

「……戦争がはじまる」

 マルックは言った。「戦争なんざ怖くねぇ。それより金のほうが大事だ」

「その通りです」カルステンも同意した。「飢え死にはごめんですから。それに我々は中央連合国と帝国の長きに渡る戦争のことを知っています」

「違う。帝国と中央連合国の戦争はもう冷戦ではない。大規模な戦争が起こる。そしてアークジウムをめぐる戦いも同時に──」男は咳き込んだ。

 シリル、カルステン、ソフィア、マルックは顔を見合わせた。そして質問される前にゴドウィンは口を開いた。「……アークジウムの開催によって大勢が死ぬ。帝都は滅びの道をたどっている」

「そりゃ闘技大会なんだから死傷者はでるだろうさ」マルックは言った。

「違う。虐殺だ」ゴドウィンは言った。「今夜大虐殺が起こる。帝国は滅び、世界は大きく変わる」

 シリルは首を振った。「どうしてわかるのさ」

 マルックは思わず吹き出した。「ああ、おっさん、あんた占い師の才があるぜ」

 そのとき、バーティミウスがカーテンを開いた。「もうすぐ正門だ。おい、ゴドウィン。約束通り、頼んだぞ」

 ゴドウィンはカルステンの肩を借りながらよろよろと立ち上がった。

「ありがたい情報を教えてくれたのは感謝するよおっさん。でもおれたちはな、あんたのありがたい予言を信じる余裕はないんだ」マルックは言った。

「おい、さっさと来いゴドウィン」

「それもいいだろう。君たちがどうするかまでは私の知るところではない。──君たちはじっとして劇場の中で待っていなさい」

 ゴドウィンは脇腹をおさえてよろよろと立ち上がり、外に出ると衛兵たちと話しはじめた。

 バーティミウスはきっと肝を冷やしているだろう。シリルたちは劇場の中でただ祈るしかなかった。

 すると劇場の壁をゴンゴンと叩く音がした。それも何度も。シリルは凍りつき、カルステンはゆっくりと息を吐いて平静を保っていた。ソフィアはただじっとしていて、マルックは憎らしそうにつばを吐いた。

 外からこもった声が聞こえるが、何を言っているのかわからない。わからないが確かなことはあった。交渉が長引いている。

 するとバーティミウスの声が聞こえた。あの声色はどうやら衛兵と揉めているようだ。

 くそ、もうじっとしていられない。シリルはたまらずに階段を登った。

 外には圧倒されるような巨大な壁が聳え立ち、大きな門の横には黒豹の家紋をはじめとする、諸侯たちの旗が吊り下げられていた。そして中央にはアークジウムの印の旗がたなびいている。

 クレーターの下までは見えなかったが、真っ黒いオスロウィン城だけは天空を貫いていた。

 もう帝都は目と鼻の先なのに。こんなところで夢を諦めるわけにはいかない。死ぬわけにもいかないのだ。

 下のほうで小さく声が聞こえた。

「ずいぶん遅かったじゃないか。ドレトン大劇団がアークジウムに遅ればせるなんてな。……皇帝陛下からの招待状を見せろ」

「頼む。もう時間がないんだ。わかるだろ。みんなおれたちの公演を楽しみにしてるんだ」バーティミウスは必死に説得していた。「あのドレトン団長が今ごろしびれを切らしてるぞ」

「招待状はどうした。あれがないと通せない」

 衛兵たちはすでに移動式劇場を取り囲んでおり、それぞれ物色をはじめていた。

「こうしてあんたらに尋問を受けている間にあとでお叱りを受けるのはおれたちなんだぞ」

「そんなことはどうでもいい。招待状がないなら、せめてドレトンと話をさせろ」衛兵が言った。

「……ああ、それは……。団長はいま稽古中で……」バーティミウスの表情はもはや氷漬けにされた魚のように固まっていた。

 シリルはゴドウィンを探した。劇場の周り、城門の横を見回したがどこにもいない。最悪の予感が的中した。

「あのクソ野郎……逃げやがった……!」マルックは声を殺して怒った。

「まずい……」シリルは腰を抜かした。「これじゃあ夢が叶うどころじゃないよ……」

 下からいくつかの足音が聞こえる。ついに衛兵たちが舞台の中に入ってきた。背筋が凍りついた。

「おい、この袋はなんだ」衛兵の声が下から聞こえる。

「それは舞台用の出し物ですよ」カルステンは必死に言葉を探して衛兵につきまとった。「それは大事なものですから……」

「想像物ではなく実際の出し物を使っているようだな。怪しい。中を開けて見せろ」衛兵はしつこく迫った。残りの衛兵たちも劇場をくまなく物色していた。

 そしてついにドレトン入りの袋はうごめいた。衛兵は気味悪そうに後ずさり、口調を強めた。「動いたぞ! いますぐこれを開けて見せろ!」

 やっぱりマルックの言ったように、ドレトンは捨ててくるべきだったんだ。だがいま後悔しても遅い。シリルは絶望した。

「衛兵さん、これは私たちの命なのですよ? それをわかっいてそうおっしゃるのですか?」カルステンは余裕のある素振りで言った。

「くだらん……何が命だ。道化の分際で」

「ご冗談を……」カルステンは飄々と言った。「我々旅芸人にとって出し物のネタをバラすのは死刑の宣告と同じなのですよ」

「ええ、公演の最後に特殊な仕掛けで皆さまをあっと言わせるんです」ソフィアも弁解に入った。「それを見せろだなんて……ここにいる衛兵さんたちが子供たちに言ってしまえば、明日には帝都中に広がり、一週間後には帝国中に広がり、一ヶ月後にはあたしたちは廃業しています」

「減らず口を叩くな。騙されんぞ。みんなこっちへ来い!」その衛兵は他の仲間を呼び、袋を取り囲んだ。

 あの勘のいい衛兵はきっと諦めない。

「いいから開けろ、道化め」衛兵のひとりが長剣を生成し、カルステンの喉もとに突きつけた。「貴様ら……言葉がわからんのか? 次はないぞ」

 カルステンはおとなしく従った。きつく縛られた紐が解かれてゆく。ドレトンはきっといまごろ神の救いを感じていることだろう。

 紐はさらに解かれていき、ついに猿轡で両手両足を縛られたドレトンが姿を現した。

 だがどういうわけか、老齢の太った男は汗ひとつかかず、叫び声ひとつあげなかった。猿轡をしていても、声は上げられるのに。

「貴様ら……どうしてドレトンを縛りあげているんだ!」衛兵たちは一斉に剣を生成し、カルステン、ソフィア、マルックの首に突きつけた。外ではバーティミウスも拘束されている。「何者だ貴様らは!」

「弁解の余地もありませんな」カルステンは諦めたようにつぶやいた。

 だがドレトンはどういうわけか固く結ばれているはずの手足の縄をいとも簡単にほどいた。そして最後に猿轡を取ると、深いため息をついた。

「衛兵さん方、あなた方にはがっかりしたよ」

 驚くことに、ドレトンは衛兵に助けを求めるわけでもなく、平然と喋りはじめた。シリルは目を丸くした。

「カルステンが言ったとおりだよ。これは出し物のための練習だったんだ。だがね、これで我々の商売はあがったりだよ。君たちがせっかくのネタをぶち壊しにしたんだからね」ドレトンは立ち上がって怒りを衛兵たちにぶつけた。

 案の定、衛兵たちは困惑し、もはや後悔すらしているようだった。

「あなたは……ドレトンか? ドレトン大劇団の?」衛兵は言った。

「見てわからんのかね。目玉がついていれば劇場にそう書いてあるのがわかるだろう。まったく。帝国の兵士は字もまともに読めないらしいな」

「それは……失礼した……」衛兵たちは武器が粒子となって崩壊した。

「名前を言え! 私の劇場に触れた全員の名前を! 私は皇帝陛下と長い付き合いがあるのだよ! ケチな因縁をつけた輩は明日から水運びにでもなるがいい!」

「大変失礼しました……。私どもの勘違いでした……」衛兵たちはドレトンの怒りようを見てからは面倒くさそうに立ち去っていった。

「こら! 待て! 名前を言え! 訴えてやる! 兵士とて許されん罪だぞ! 待たんか! 人食いに食われてしまえ!」

 どういうことだ。シリルは終始あっけにとられていた。だがそんなことはお構いなしに、移動式劇場は帝都の門をくぐった。

 シリルは階段を下りて真っ先にドレトンを問い詰めた。「なぁ……あんた……本物か……?」

 舞台用の衣装を着た老紳士はうなずいた。「ああ、そうだが?」

「きっとこれは雨の巫女の仕業だ」カルステンは目が潤むほどに嬉しそうに言った。「そうに違いない!」

「あなた……何者?」ソフィアだけは疑わしげに紳士の顔を覗きこんだ。「あり得ないわ……。あたしたちはあなたを拉致したのよ。それなのに……」

「不思議なこともあるものだ」ドレトンはそう言って、笑いかけた。

「あんた……ゴドウィンだね……」シリルがそう言うと、ドレトンの身体が痙攣をはじめた。バキバキという骨の音、ミシミシと筋繊維が千切れる音とともに、脂肪と皮膚がみるみるうちにただれ落ちていった。

 ゴドウィンは肉の繭から現れ、生まれたままの身体から湯気を立たせ、深く深呼吸をした。「これで貸し借りはなしだ。私は行かねばならない」

「あんた……何もんだ……?」シリルは床に散乱した肉と脂肪の塊を見てから、ゴドウィンを見上げて言った。「いったい帝都に何しにきたんだ……」

「探しものがあってね」指輪の想像箱が崩壊し、マントに変わると、彼は身に着けた。「私はもう行くよ。世話になったな」男はシリルの肩を叩いた。「君らの公演がうまくいくことを祈ってるよ。くれぐれも私の忠告を忘れぬように。死にたくなければさっさと帝国から離れろ。逃げ道はもうないかもしれんがな……」

「本物のドレトンは……?」マルックは思い出したように言った。

 シリルは気味悪げに首を振った。「わからない……」

 いつの間にかゴドウィンはどこかへ消えていった。

「なぜあのゴドウィンという男は交渉しなかったんだろうか」カルステンは言った。「帝国の使者は衛兵なぞよりはるかに高位のはずだが」

「確かにそうだ……使者ならあんな手品を使わなくても交渉して僕たちを入れれたはずなのに」シリルは言った。「……嘘をついてたんだ」

 そのとき、馬車が大きく揺れた。バーティミウスは文句を垂れながら、馬に拍車をかけ、急勾配を一気に下った。

 巨大な塊がなだれ落ちてくるので、帝都を埋め尽くすほどの人だかりも否応無しに道を開けた。道を開けたというより、轢かれないように飛びのいたり、逃げまどっていた。

 人々が逃げまどう中、シリルたちは屋上でこの世とは思えない景色を目の当たりにしていた。

 クレーターに沿うようにして建てられた建造物や、巧妙に張り巡らされた通行路、六角形の美しい鉱石を連ねてできた学院。そしてはるか遠くに闘技場も見える。

 そしてぬっと陰が空を覆い尽くした。まるで巨大な化け物のような不規則な高さの七つの塔がこちらを見下ろしている。黒い城の上層は雲がかかり、猛禽類が羽ばたいているのがかすかに見えた。

 こんなにも恐ろしく、美しい景色は見たことがない。帝国になど微塵も興味がなかったマルックでさえ、空いた口が塞がらない様子だった。

 カルステンは何を思ったのか、リュートを生成し、即興演奏をはじめた。この壮観な景色をバラッドにしておかずにはいられなかったのだ。

 絶妙に外れた耳障りなキーが、移動式劇場から逃げまどう人々の悲鳴をかき消した。

 坂を下り終えるころには巨大な広場が目の前に広がった。二百、いや、三百もの商店があり、人々はアークジウムの記念品や、珍しい外国の品を見たり、帝国の珍しい料理を食べ歩いていた。

 移動式劇場は頭でっかちな身体をこれでもかというほど傾けながら曲がり、闘技場を目指した。



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