第8話 ルイン家

8 ルイン家

 


 モルディン城の廊下は白い荒削りの石でできていて、使いの者の足音が反響した。重々しい客間の扉を開くと、使いの者はひざまずいた。「陛下、各国の王が到着いたしました」

 大きな暖炉が白く殺風景な空間を蜜柑色で彩った。壁際には白熊や猪、ヘラジカの剥製が並べられ、さらにモルズの歴代王の彫像が置かれていた。長い楕円形の丸テーブルには豪勢な食事が並べられ、部屋に入ってきた王たちは使用人の案内によって決められた場所に座った。使用人たちは王たちの雪だらけのマントやコートを預かり、すぐに引き下がった。

 ロートレクの呼びかけには諸王たちはすぐに応えた。中にはロートレクを毛嫌いする王もいたが、それでも、ロートレクの招集に応じない者はなかった。

 モルズのロートレク王、アテリアのテオグリム王、スメリアのシアラン王、ルトランドのオリアンナ女王以外の王たちが揃うのはロートレクの先代、先々代でもなし得なかったことだった。中央連合国の歴史上はじめて、十二のすべての王が同じテーブルを囲んだ瞬間だった。

 窓の外は雪が降りしきっていた。そしてうっすらと、怪物のように見えるのは霞山だった。帝国との国境に沿うようにせせり立つ霞山はこれまで何度も帝国の侵攻を妨げてきた。帝国の強大な武力をもってしても、霊峰を攻略するのは至難の技だった。

「タイストはついに狂ったようだ」長いテーブルの向かいに座るアテリアのテオグリム王は馬のような顔でワインの入ったグラスを暖炉で透かし、色味を確かめていた。艷やかで長い金髪の頭頂部は綺麗に禿げ上がり、それを隠すように宝石の埋め込まれた金冠を頂いていた。

 テオグリムはワインをひとくち口に含み、少し回してから飲み込むと、顔をしかめて悪態をついた。「たかが闘技大会ごときに魂を捧げているのだ。自らの後継者を殺し合いに出すなど……。だがまぁ、これは我々にとっては好機と言えるだろう」

 ロートレク王は野太い声で言った。「早まるな、テオグリム。我々中央連合国は長きに渡る帝国との小競り合いによって疲弊しておる。無用な戦いは避けねばならん」

 テオグリムは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「ロートレク、かつて武勇を奮ったあの英雄はどこにいってしまった」

 メランベルクの厳格王ジグムントは険しい表情で指を組んだ。「ロートレク、我々は貴殿を信じている。だからこうして招集に応じた。だがテオグリムにも一理はある。帝国が和平交渉を受け入れる可能性は極めて低いことは事実だ」

「……たしかにこれほどの好機は一生に二度はない。形勢を逆転できるのはいまだ」ロートレクは言った。「だが……殺戮によってそうするのではない」

「どうするつもりだ」テオグリムが言った。

「協力によって帝国の悪行を、皇帝の狂乱を終わらせる。タイストの令弟、ラングレン卿と手引きしたのだ」ロートレクは言った。

「ラングレン? あのラングレン・オーギエムか? ふざけるのもたいがいにしろ。あれの噂は聞いている。それに皇帝の弟など信用できるものか」テオグリムは吐き捨てるように言った。

 だがロートレクは続けた。「たしかにラングレンは皇帝に追放されておる。兄弟間の些細な諍いによってな。ラングレンは信用に足らぬ人物だが、利害は一致しておる」

「それで?」聖人王ヘンリックが催促した。

「皇帝を殺害し、カナス皇太子を皇帝にさせる。穏健派の彼なら、和平協定を受け入れるはずだ」

 テオグリムは笑った。「皇帝を殺害するだと? それができるならとっくにそうしているだろう」

「我々が手を下さずとも、皇帝は殺される。いまや皇帝に力はない。病状が悪化しているようだ。十皇月たちは死期の近い皇帝よりも、次の権力に目をつけはじめている。皇帝の幕引きを皆が待っている」ロートレクはそう言うと、指をこまねいた。

 すると背後から騎士が前へ出た。赤毛で白い外衣を着た男は言葉を引き継いだ。「私がラングレンにトリカブトと貝毒の合成薬の製法を教えました」

「毒殺ですか」アテリアのオリアンナ女王は塔のようなベール付きの帽子を被り、豊満な身体に藤紫色のドレスをぴったりと密着させていた。女王はぶ厚い唇でワインを一口飲むと言った。「ずいぶん安易な方法ですわね」

「毒とはいえ、芥子よりも安全なものですが。その毒は極めて弱いものなのです。そらゆえに、七日間かけてじっくりと身体を蝕みます。痛みもなく、苦しみもなく、違和感すらない。“七日間の夢”を服用した者はちょうど七日後に息を引き取るのです。まるで夢の中へ堕ちるかのように」

「馬鹿げている」テオグリムはやはり嘲笑した。「我々が真っ先に疑われるぞ」

「言ったはずだテオグリム。我々が手を下さなくとも、どのみち皇帝は殺害されるのだ。今回の闘技大会の判断によって多くの金に飢えた貴族を味方につけ、多くのまっとうな貴族の信用を失っておる。十皇月も黙っておらぬだろう。皇帝は敵を増やしすぎた。この闘技大会の間に、必ず皇帝は殺害されるだろう。十皇月どもに先を越される前に、手を打ったまでだ」

「一週間……」若きシアラン王は言った。「闘技大会のその日に、新皇帝と和平条約を結ぶためですね」

 ロートレクはうなずいた。

 赤毛の騎士が恐れ多くお辞儀をして引き継いだ。「タイスト皇帝崩御の直後に、迅速に和平交渉をする必要があるのです。十皇月や貴族たちが余計な動きを見せる前に。皇帝崩御直後は、カナス皇太子は暫定的な皇帝でしかない。正式な皇帝でない以上、和平交渉を阻もうとする貴族は少なからずいるはず。灰燼文書の文言が真実であれば、なおさら」

「ラングレンが裏切ったらどうするつもりだ」そう言ったのはやはりテオグリムだった。「何か企みがあったら、どうするつもりなのだ」

「我々に何ができるというのだ。テオグリム」ロートレクは言葉を返した。「帝国の皇子を信用する以外に、いったい何ができようか。闘技大会の日は何よりも先に手を打つことが重要なのだ。敵を信用することも必要だ」

「ねじ伏せればよかろう」テオグリムは言い切った。「回りくどいことをせずとも、この好機に侵略すればよい。毒殺などせずとも皇帝の首をはねればそれでよい。くだらんおとぎ話などにうつつを抜かしていれば痛い目を見るぞ。あのラングレンの報告は耳にしているが、まさかみな信じているのか? “想像の歪み”などというものを」

 ゴドレインの老婆王ジルベルタが言葉を返した。「皇帝がお前の言うくだらんおとぎ話にうつつを抜かしていたとしても、中央連合国の戦力は帝国よりも大きく劣るのだぞ。次に戦争を起こしてみろ。これ以上兵士を失えば、それこそ我々は無力だ。今度はオスロンドだけでなく、西からも攻め入られるぞ」

 テオグリムは言葉を飲み込むと、不服そうにワインを一気飲みした。

 グラデンは恐れ深く前へ出た。「恐れながら、申し上げます」

 中央連合国の王たちはその赤毛の騎士に注目した。

「和平協定に反対する方もおられるかと存じますが、カナス皇子は聡明な方だと聞いております。侵攻などせずとも、彼らなら、きっと連合国を救ってくださる。血は流さなくてよいのです」

「ロートレク王の騎士よ」オリッガのレシェク王は鼻の下の巻きひげを指で巻きつけながら言った。「後継者は良き皇帝になるだろう。皇太子の噂は聞いている。我々の攻城兵器などきっと出る幕もないだろう」

 テオグリムはいきなりテーブルを叩いて笑いだした。「冗談を言ってるのか、レシェク!」

 レシェク王は癪に障ったように顔をしかめた。

「いいか、王たちよ。ラングレンは皇帝の座を狙ってるのだ」テオグリムは言った。「なぜわからんのだ」

 その言葉に王たちはたしかにテオグリムの言葉に耳を傾け、それぞれがその言葉を吟味していた。その中でもエルドーの聖人王ヘンリック王は気に食わない様子で声を荒げた。「ラングレンの噂は聞いたことがある。オーギエムの恥さらしと呼ばれているそうだ。そんな男が皇帝に据えられたときには帝国はもう滅びたも同然だ。だがテオグリム、帝国がそんな愚かな決断をするはずがなかろう」

「いいや。ラングレンとかいう輩は我らが思っているよりも狡猾な男だ」テオグリムは鼻を鳴らした。「やつが二人の皇子を手玉にでも取ってみろ。帝国はラングレンの言いなりだ。それに十皇月にはあのデズモンド・ソマロンやメラリッサ・ゴルドもいる。やつらはそれぞれ大軍を指揮できるほどの力を持っている。それにラングレンがゴルドやソマロンと手を組みでもすれば、ふたりの皇子など簡単に潰されてしまうぞ」

 岬の王ランディルは頷いた。「たしかに、皇子たちには後ろ盾もないに等しい。ラングレン公に上手く利用されるだけだろう」

 単純王エリックは溜まっていたものを吐き出すように言った。「おれはテオグリムに賛同する。中央連合国がラングレンなどという不埒な放蕩者に征服されようものなら、我々は後世まで笑い者になってしまう」

 テオグリムが席を立つと、使いの者が慌てて駆けつけたが、王はそれを忌々しそうに追い払った。「こんな会議はまったくの無駄だ。我々には今しか勝機はない。よく考えることだな。ロートレク」テオグリムはマントを翻して足早に広間を出ていった。

 そして、単純王エリックがあとを追うと、王たちは沈黙した。

 そして一人、また一人と彼らは部屋をあとにした。残ったのはやはり、賢王オリアンナ、岬の王ランディル、若王シアランだけだった。

「テオグリムは何をするつもりだ」岬の王ランディルは言った。「エリックもやつに賛同しているようだが……」

 ロートレクは険しい表情で深くため息をついた。「わからぬ。テオグリムは気が短い。それにエリックは単純王と揶揄されるほどに論理的な考えを持ってはおらん。あの二人には注意せねばならん」

「わたくしはいつでもあなたに力を貸します。ランディルとシアランの協力の上、連合艦隊の準備は進んでいます。すべては和平交渉のため。それを使わないことを祈るばかりですが」

「なんと頼もしいことか。オリアンナ」

 若いシアランは目を伏せた。「テオグリムを放ってはおけない。やはり、彼は危険だ」

「仲間割れだけは避けなければならない」ロートレクは言った。「やつと対抗すると、中央連合国は分裂してしまう」

 ランディルは黒髭をさすり、唸った。

 だが、会議がそれ以上進むことはなかった。王たちが出ていくと、ロートレクは暖炉の前に立った。パチパチと燃える火は王の悩ましげな顔を照らした。

 するとグラデンが背後から仰々しく言った。「恐れながら陛下、わたくしからよろしいでしょうか」

「申せ」

「陛下はどこか迷われているように感じます……。ラングレンを信用してよいのかどうかを」

「私はお前を信頼しているのであって、ラングレンを信頼してるわけではない」

「はい。承知しております」

「私の選択が間違っていないことを祈るしかない」

「陛下の選択に間違いなどございません」グラデンは一瞬ためらってから、また話した。「あの男は自らの帝国と、この中央連合国を救おうとしています。悪人ではない。学生のころ、彼は戦争による“想像の歪み”の危険性を提言しました。誰よりもその事実を広めようと努めていました」

 ロートレクは背を向けた。

「諸王たちは灰燼文書や“想像の歪み”については信じていないようでした」

「それどころか、私の考え自体にも懐疑的なのだ。彼らにとって団結するのは彼らにとって最善だからだ。あまり突飛押しもない話をしても意味がない」

 すると柱の影から白いドレスを着た少女が顔を出した。少女はロートレクの呼びかけで近づくと、父の太ももあたりに抱きついた。

「マリアン、何をしているんだ。ずっと聞いていたのか? 広間には来てはいかんと言っているだろう。大事な話をしているのだぞ」

「ごめんなさい……でも……心配だったの」

「……そうか、それはすまなかったな。こんなに小さなお前に心配をかけてしまって」

「いいの」

 ロートレクは表情を緩めた。「お前は優しい子だね」

「お父さま、でも気になるの。この国はどうなってしまうか……。王さまたちの国も、このお城も、これからどうなるの……?」

「来なさい」ロートレクは娘を片手で抱きかかえた。「心配ない。お父さまとグラデンが守ってやる。この国も、城も、王たちもな」

「そのとおりですよ、マリアンさま。すべてうまくいきますから、ご安心ください」

 少女は父の髭をもて遊びながら言った。「人を殺したりしないで、お父さま。オズマンドやアダムみたいに死なせないで。みんな、いなくなってしまうから」

 ロートレクは言葉を失った。

「大丈夫ですよ、マリアンさま。敵の中にも優しい人間はいるのです。陛下はそれをわかっておいでだ」

「……それならいいの」

 少女はロートレクの腕から下りると、寂しげな背中を向けて行ってしまった。

 マリアンが出ていくと、ロートレクはため息をついた。「我々にとっての唯一の希望は、ラングレンや皇子たちだ。敵国の皇族に頼るしかないのは情けないことだが、それが事実だ」

「じきに混沌の時代がやってきます」グラデンの赤毛は暖炉のそばではさらに赤くなった。「闘技大会の日にすべての命運が決するでしょう」

「希望の光を絶やしてはならん」王は丸々とした背を向けたままだった。「必ず、皇子との和平交渉を成立させろ。ラングレンとの約束を果たしてみせろ。本心を言えば私は灰燼文書などどうでもよいのだ。あれが真実か嘘かなどは、どうでもよいのだ。せめて娘たちに平和な世界を見せてやりたいだけだ。息子たちへのせめてもの償いとして……」

「お任せください陛下、このグラデン、全力を尽くしてまいります」




✱✱✱


 夕陽が少年の痩けた頬と窪んだ目を不気味に照らし出す。そして仔馬が歩くたびに身体は左右に揺れ、いまにも落馬しそうだった。

 額の大きなたんこぶが痛み、口の中が血の味でいっぱいだ。ときおり血の唾を吐いたが、その力すらもはやなく、唾液はだらしなく顎から垂れた。

「大丈夫ですか、殿下」アランはきっと笑いをこらえているのだ。「いきなり実戦は少し厳しすぎたかもしれませんね」

「おれたちは決めたんだ。絶対に優勝するって」カナスは言った。「そうだよな、パース」

 カナスの言葉などもう耳に入らない。それよりも背骨あたりが激しく痛む。「……ああ……」パーシバルはやさぐれた声で言った。「きっと背骨が折れてるんだ……」

「折れていたら馬にも乗れませんよ」

 パーシバルのふてくされが直るまで、アランはなんとか皇子を励まそうと、この街についてを話していた。

 ジルコンベルグは城壁だけでなく、街全体も赤と黄色に染められていた。これは煉瓦などの材質にも着色できる特別な塗料を使っているそうで、錬金術師たちが自分たちで染め上げたのだという。いったいなぜそんなことをしたのかアランに尋ねると、その騎士もわからないと肩をすくめた。

 馬は人であふれる街道をゆっくりと進んだ。人で賑わってはいたものの、この街の規模にしては人は少なめで、それに古い廃墟も多かった。

 錬金術が淘汰されてから、この街は少しずつ、緩やかに衰退を続けているのだ。若者たちや国に使える者は帝都に移り住み、芸術を学ぶ者はメイオンフルトにでも住むのだろう。

 そしてアランはこの都市の領主だったが、彼は帝都に常駐しているため、この都市の維持に関わることはほとんどなかった。ジルコンベルグを治めているのは、アランの従兄のレイナード卿だった。

 帝都やオスロウィン城を見慣れてしまったからか、ジルコンベルグ城は小さく見えた。それでも、ジルコンベルグは帝国では有数の大都市だった。

 きっと感覚が麻痺してしまっているのだ。オスロウィンが異常な規模なのだ。あんなにも巨大な七つの塔を建造したのは、きっと雨の巫女は巨人たちの力を借りたんだ。そうに違いない。こうして普通の城を見ると、オスロウィン城がいかに常軌を逸したものかよくわかる。

 城門に着き、馬を衛兵に預けると、三人は城の中へと入っていった。ルイン家の大鷹をあしらったタペストリーや盾がそこかしこに飾られていて、小洒落た壺や石像などはいかにもアランの一族らしい気品のあるものたちばかりだった。

「ルイン家は代々オーギエム家に仕える家系であり、数百年に渡って帝国を支えてきました」

 謁見室の脇の螺旋階段を下っていくと、そこには書斎の入り口があった。アランはやはり入り口にも掲げられた紋章を見上げた。「我々はオーギエム家を守るべくしてこの世に存在するのです。まるでこのエレマイアの大鷹のように、黒豹を空から守っているのです」

 アランは壁にかけられた銀の皿に触れると、たちまち青い炎が立ち上がった。そしてそれに呼応するように、書斎のあらゆる場所に青い炎が立ち上がった。

 アランはその奇妙な炎を見つめる少年たちに言った。「これは光る虫ですよ。なんという虫かは私も知りませんがね。錬金術師は想像術を使いたがらない」

「変わった人たちだね」パーシバルは光る虫に触れようとしたが、虫たちはちょうど指を避けるように動いた。

「錬金術師たちからすれば想像術師たちこそ、変わっているように見えているのでしょうね」

 本で埋め尽くされた一本道の書斎を進むと、広い空間に出た。

 ドーム状のその空間は金細工で建てられており、青い炎が部屋をてらてらと輝かせた。いくつかある長テーブルの上には、様々な実験道具がそのまま放置されていた。フラスコの中のものはそのままにされ、ホルマリン漬けの奇妙な生き物の入った瓶も、ほこりをかぶったまま、そのままにされていた。開かれた古い本、羽ペン、フラスコ、虫めがね──。

 するとその騎士は言った。「ここが祖父の実験室です」

 カナスは人形のように切っては縫いつけられる奇妙な生き物を見て、顔をしかめた。「これは人食いの幼生だ」

「私の祖父はここであらゆる研究をしていた。錬金術、生物学、薬草学、天文学……もちろん想像術もね」アランはもの惜しそうに開かれたままの書物を指でなぞった。「この実験室は祖父が亡くなったときのままにしています」

「錬金術って何だかよくわからないな……」パーシバルはホルマリン漬けの瓶をコンコンと指先で叩いたり、実験道具を不思議そうに手にとって観察していた。「変なことをするもんだ」

 カナスは机に大雑把に並べられた本を手にとって興味深そうに読んでいた。

 アランは続けた。「錬金術が淘汰されていったのはある意味自然なことです。この世の摂理を理解する学問は、想像術という力の前ではあまりに空虚でしたし、現実的ではなかった。この世界では科学というものは必要とされなくなった」アランは続けた。「錬金術の衰退が始まったのは、ずっと昔からでしたが、祖父や私の祖先たちはなんとか科学を世の中に根づかせようと努力してきました。錬金術師の唯一の収入源であり、存在意義だった薬学すらも、想像術に取って代わられました。いよいよ錬金術の終わりがやってきたのです。いまでは錬金術はまるで異端の妖術のように見られるようになりました」

「錬金術に想像術……」パーシバルはつぶやいた。「よくわからないな」

 カナスは錬金術の分厚い本を読みながら言った。「たしかにおれたちは想像術に頼りすぎてる。なんでもかんでも想像術だ。人の価値基準でさえな」

「なぜこのような力が存在するのか、想像術とは何なのか、それを明らかにしようとしたのが錬金術です。ですがそれが淘汰されたいまでは、想像術の源流を知ることは不可能でしょう。幻想の王が想像術を人にもたらしたという伝説だけが残されただけ。もう誰もそのルーツを知ることはできなくなった」

「想像術の源流か……」カナスは言った。

「幻想の王は我々に多くの謎だけを残していったのです……」アランは部屋の端にある小さな三角フラスコを眺めて言った。ガラスについたほこりを手のひらで取り去ると、中にはどろりとした黒い液体があった。

「もし幻想の王が生きていたら、教えて欲しいもんだ」パーシバルは話すたびに口の中を気にした。

「幻想の王は神だったのか?」カナスは本をめくりながら言った。「それとも悪魔?」

 アランは何かを思い出したように言った。「さぁ、どうでしょうね。……ニコデモに聞けばわかるかもしれません」そして二人をさらに部屋の奥へと案内した。「さぁ、こちらへ」騎士は扉を開けると、二人を中へ入れた。

 扉を開けるとまた金色のドーム状の空間が広がっていた。そして巨大な球体が目に入った。その球体の周りには幾何学的なリングや別の球体が常に動いていた。惑星か何かを模したものだろうか。

 この部屋も銀の皿にとまる光る虫たちが部屋を明るく照らしていた。

 少し歩くと、アランは慌ててパーシバルの腕を掴んだ。何が起こったのかと思うと、アランはパーシバルの足もとを指で示した。

 巨大な穴──。天体の模型の下に広がるのは、大きな丸い空洞、そして壁に敷き詰められた本、そして可動式のはしご。

 パーシバルは慌てて後ろに下がった。「あぶなかった!」

「錬金術たちは少々変わり者で、こういった部屋を作るのです」

「ニコデモはどこに?」カナスは尋ねた。

 するとアランは歩きだし、はしごを使って下へと降りていった。「ついてきてください」

 一番下にたどり着くころに上を見上げると、あの天体は小さくなっていた。

 そして薄暗い底でカナスが松明を生成すると、全貌が浮かび上がった。

 その机に座る丸い背中、そして床一面に散乱する計算式の紙、実験道具、散らばった骨董品。その老人は常にひとりごとをつぶやいていたが、しばらくするとこちらを振り返った。伸ばしっぱなしの白髪に眼鏡、垂れ下がった顔は老木の皮のようにしなびていた。

「想像術をここで使うでない」老人は言った。

「すみません。あまりに暗くて……」カナスの松明で老人の顔が不気味に照らされた。「ニコデモ・ジェン・ロンドヴェントさんですね」

「あんなもの……使うべきではない……」老人は椅子から立ち上がると、よろよろとこちらに近づいた。「ほら、さっさとフードを上げなさい」

 二人がフードを上げると、ロンドヴェントはかすれた声で笑った。「ふん、これはどういうことだ」

「こちらはカナス皇太子殿下と──」

「知っておる……」アランが言いかけると老人は言った。「黒髪、茶色い目……。オーギエム家」

「ここはあなたの実験室ですか?」パーシバルは気を使ってできるだけ骨董品には触れないようにした。

「さっさと要件を言いなさい」老人はパーシバルを無視して言った。

 するとアランは肩をすくめた。さしずめアランはこう言いたいのだろう。〈彼は長らく人と話していないのです。無礼な言葉遣いですが、多目に見てやってください〉と。

「灰燼文書について教えて欲しいんです」カナスははっきりと言った。「幻想の王の力が蝶の杯に宿るのか。真相を教えてください」

 アランは皇帝に忠実だった。だからこうしてカナスがはっきりと、おおっぴらに幻想の王の力について質問したことが少し心配だった。

「想像術者たちは幻想の王や灰燼文書について学校で習わせないのか?」老人は尋ねた。

「ええ」カナスは答えた。「帝国では雨の巫女のことはみっちりと教え込まれますが、幻想の王についてはほとんど何も教わりません。せいぜい子供向けのおとぎ話か……。灰燼文書のことも、教わりません」

「……灰燼文書に刻まれている文字はほんのわずかなものだった」老人はカナスの言葉がなかったかのように続けた。「わしの著書を読んだことは?」

 二人の少年が気まずそうに首を振ると、老人はため息をついた。そしてよたよたと歩きだし、椅子に腰を下ろした。

「太古の昔、幻想の王はこの世界の頂点に君臨していた。奴隷だった人間たちに自我が芽生えると、幻想の王に対して反乱を起こした。何世代にも渡る戦いが続いた。ようやく幻想の王に打ち倒すと、偉大なる始祖たちはそれがまた復活せぬよう、血肉を三つにわけて保管することにした。三つにわけられた人類がそれぞれの力を手に入れて、それぞれの文明を発展させた。力を手に入れた人間たちがやることはひとつ。偉大なる始祖たちはそれぞれの力を欲しがり、今度は人間たちが争うようになった。そして残ったのは我々の祖先であるアダン人だ。想像術を使う者」

 松明によってそれぞれの影がうごめいた。

「もう二つの偉大なる始祖たちは絶滅したみたいですが……」カナスが口を開いた。「どんな力を持っていたんでしょうか?」

 老人は首を振った。「二つの種族については何もわからん。はるか古の時代に消え去った文明だ」

「〈三千年の後、器を持て。そこには血が注がれる〉」カナスが言った。「蝶の杯に力が宿るという根拠はありますか?」

「そもそも“器”というのが蝶の杯を指すものなのか。“血が注がれる”とは、いったいなんなのか」ロンドヴェントはくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにさせて言った。「そんなものはわしにもわからん。ありとあらゆる文献を読み漁ってきたわしにもな。だが、古い文献によるとアダン人が伝統的な儀式のようなものを執り行っていたことは事実だ」

「……儀式ですか?」パーシバルは聞いた。

「きっと幻想の王の魂を鎮めるためのものかなにかだろう。皇帝はそれを闘技大会として仮定的に再現したのだろうな」

「じゃあ……灰燼文書の言葉は本当なんですか?」パーシバルは老人に近づいた。「教えてください!」

 少年は噛みつくような勢いだったが、老人は驚くわけでもなく、ただその子供を怪訝そうに、なじるように見つめていた。「わしは事実だと思っているが」

 パーシバルはカナスのほうを見た。ラングレンの疑いは決して晴れたわけではないが、少なくとも前進はした。

「幻想の王についてはあまりにも謎が多すぎる。それに研究者もずいぶん少なくなってしまった。世界中で幻想の王に対する関心が失われつつあるのだ」

「幻想の王について知る方法はもうないんですか?」パーシバルは言った。

「ない」ロンドヴェントはきっぱり言い切った。「どこにもな……」

 パーシバルは何か言いたげで、納得のいかない表情をしていた。

 しかし、ニコデモからそれ以上の情報を聞き出すことはできなかった。




✱✱✱


 今夜は大聖堂の近くにある立派な宿を貸し切っていた。ジルコンベルグの夜はどこか物寂しく、月は雲に隠されていた。野犬の遠吠えが遠くから聞こえた。

「わざわざジルコンベルグまで来て、知れたのはたったのあれだけだ」パーシバルはベッドでふてくされていた。

 カナスは髪をくくるリングを外すと、髪が腰まで垂れ下がった。そしてサイコロで櫛を生成すると、丁寧に髪をときはじめた。二人は同じ薄絹のローブを着ていたが、カナスがそれを着ると、女の人のように見えて仕方がなかった。

「長旅をしてきて、あれだけか……」パーシバルは言った。

「そう落ち込むなよ。それより優勝することが大切だ。真実かどうかなんてどうせ誰かが優勝すればわかることなんだ」

「僕はラングレンが嘘をついているのか知りたい」

 だがそのときだった。何か物音がしたかと思うと、窓の近くに誰かが立っていた。

 ろうそくが灯る薄暗い部屋ではその影が誰かは判別がつかなかった。

「……アランなの?」パーシバルは聞いた。

 だがすでにカナスは身構えていた。髪はほどかれたままで、ベッドの上でサイコロを握っている。

 サイコロはまたたく間に分解され、カナスの身体に渦を巻いてまとわりついた。

 奥の物陰から細長い影がぬっと姿を現し、フードを取ると、無造作に伸びた赤毛のひげと髪の中年男は薄笑いを浮かべた。

「……カナス……知ってる人?」

「いいや」カナスはもうひとつのサイコロで剣を生成し、ベッドからゆっくりと下りた。

 赤毛の男もすでに鎧と長剣を生成しており、手の中で剣をくるくると回して弄んだ。

 カナスは剣を構えた。

 赤毛の男は怯えるパーシバルと果敢に立ち向かうカナスを品定めするように見比べ、何かの結論を思いついたように何度かうなずいた。「噂通りね。まるで似ていない」

 カナスの声は敵意を剥き出しにしていた。

「そんなに怖い顔しなくていいじゃないの……」

「来い」カナスはパーシバルの前に立ってかばいながら、赤毛との間合いを図りはじめた。

「そのつもりはないわ」赤毛は剣を下ろした。「カナス皇太子」

 赤毛は言い終える前に、身を低く切り込んだ。カナスはパーシバルを後ろにかばいながら、自らは赤毛の懐に潜り込んだ。

 薄暗い物置きで火花が上がった。すかさず何度も火花が上がり、パーシバルは四つん這いでベッドの脇に隠れた。

「弟さんは本当にあの調子でアークジウムに出場できるのですか?」赤毛は巧妙な剣戟を何度も繰り出しながら言った。「あれでは物置きのネズミと間違われても仕方がないわね」

 カナスは剣を受けながら赤毛の腹部を蹴り押し返した。「人には向き不向きってものがある。それにパーシバルは皇帝に無理矢理出場させられるんだ」

 赤毛は剣を鎖鎌に変化させ、目にも止まらぬ速さで回した。「この世の中想像術は人間の存在価値を決定づける大きな要素なのよ。そんな大事なことを怠るなんて、皇子失格だわ」

「パーシバルは生まれつき想像術がうまく使えないんだ。それにその話し方はなんだ? ふざけてるのか?」

 赤毛の鎖鎌は矢のように飛び、カナスの剣に巻きついた。そしてカナスの手から剣が離れ、それが宙を待って床に落ちると剣はサイコロに戻り転がり落ちた。少年は横に転がり、呼び鈴に触れて剣に変えると、振り下ろされる剣を受けた。

「まるで母親ね」赤毛はおかしげに笑った。「あなたがそうやって甘やかすからパーシバル皇子は成長しないのよ」

「どうしてみんな同じことを言うんだ? どうしてみんなと同じ能力がなければ劣っていると思うんだ」カナスは剣を分解すると白い粉が赤毛の顔に飛び散った。

「目潰しなんて卑怯よ!」

「おれたち子どもを相手にしてる時点であんたも卑怯者だ」

「生意気だわ!」赤毛は目を充血させ、涙を流しながら鎖鎌を回し振り下ろした。

 カナスは天井にある大きな銀皿の明かりを見上げた。「それにパーシバルは妹弟思いのいいやつなんだ」そして手をかざすと、銀皿は松ヤニに変化し、赤毛の頭に降り注いだ。その男は油まみれになり、耳障りなうめき声をあげた。

「弟を馬鹿にするなよ」カナスは転がったサイコロに触れ、それを弩弓クロスボウに変化させると立ち上がろうとする赤毛めがけて打ち放った。

 その矢は赤毛の肩に突き刺さった。立ち上がれなくなった男はしばらくうめいていたが、いよいよ諦めたのか、動きを止めた。

「それ以上動いてみろ。丸焼きにしてやるぞ」カナスは弩弓クロスボウの矢の先端に火を灯した。

「触れずに生成できるのね……。まるで上級想像術師ね」

 カナスが赤毛の肩の矢の刺さった部分に指をねじ込むと、男は悶絶した。

「何者なんだ」

「言う! 言うから! だからこの忌々しい矢をさっさと抜いてちょうだい!」


 カナスはベトつく男の身体に生成したロープを巻きつけ、ベッドに腰を下ろした。「それで?」

「あたしはモルズから来た密偵。ああ、密偵だけど、もう言っちゃったから密偵じゃないけど。グラデンよ。ただのグラデン。あなたたち兄弟に用があって来たのよ」赤毛は言った。

「密偵にしては大胆だったじゃないか。無礼もいいとこだ。おれたちはオスロンド帝国の皇子なんだぞ」

「ロートレク王のご命令だった。あなたが闘技大会で優勝できるのか、どれだけの腕を持っているのか確かめるためだった」

「いったいそんなことをして何になる」カナスは言った。

「なんかこの人変だよ、カナス……」パーシバルはつぶやいた。「喋り方とか、しぐさとか……いろいろ」

「別に信じようが信じまいがあなたたちの勝手よ。帝国の未来がかかっていようともね。とにかく大事な話をするから、よく聞きなさい」

「大事な話?」

「そうよ。大事な話と言っても、いい知らせと悪い知らせがあるわ。どっちから先に聞きたい?」

「どっちからなんてどうでもいい。あんたとおしゃべりがしたいわけじゃないんだ。さっさと要点を言え」カナスは短剣を生成してちらつかせた。

「あらそう。偉そうにしちゃっていいのかしら? いまから話すことはあなたたちが欲しがってる情報なのにね」

「いいからさっさと話せ」カナスはうんざりしていた。

 赤毛はため息をついた。「まるでラニーみたいに強引な男ね」

「ラニー?」このときばかりはパーシバルは声を荒げた。

「知ってるくせに」男はふてくされたように言った。

「どうして中央連合国の人間がラングレンを知ってるんだ」

「どういう関係なんだ」カナスは言った。

「すごくせっかちだわ。そんなんじゃあ、女の子に嫌われてしまうわよ」

 カナスは立ち上がり、男の油まみれの髪を引っ張り、喉に短剣を当てた。

「待って! やめて! いまから話すから落ち着きなさい!」

 カナスがベッドに座るのを見てから男は切なげにため息をついた。

「彼とは深い付き合いと言っておきましょう。そう、とても深い深い仲なの」

 カナスとパーシバルは目を見合わせた。そして二人とも、いまにも身震いしそうになった。そしてラニーという呼び方にも違和感を覚えた。

「なーに気味悪そうにしてるのよ。嫌ね。深い付き合いっていうのはただの友達ってことよ」

 その言葉を聞いて二人はどういうわけかほっとした。

「まぁ……いい男だとは思ってるけどね……。別に気になってるとかじゃないのよ。ただその……彼はどうしようもなく衝動的で利己的な人間だけど……あらあたし、彼のそういうところがいいのかしらね……」

 カナスは眉間にしわをよせた。

 そしてパーシバルは顔をしかめた。「……ラングレンとどこで知り合ったんだ?」

 グラデンは古き良き思い出に浸るように三角座りになり、天井を見上げた。油まみれの顔が蝋燭に照らし出される。「彼とはじめて出会ったのは、あたしが学院にいたころ。想像術の基礎学問から同じ学舎で学んでいたのよ。なーんだか思い出しちゃうわね」

「学院にいたってまさかあんた……」カナスは言った。

「あたしはもともとオスロンド帝国の人間だったのよ」

「ほんとに?!」パーシバルは驚いた。

「あら、そんなに驚かなくたっていいじゃないのよ」

「でもなぜ中央連合国に鞍替えを?」カナスは尋ねた。

「ラニーがそうするようあたしを説得したからよ」

「どういうことだ」カナスは言った。

「ラニーは想像術師見習いのころから帝国のやり方を好んではいなかった。それも相まってか、彼は想像術の学問よりも帝国の歴史について調べるようになったの」グラデンは続けた。「あなたたち、ラニーがミュリンに送られたことは知ってるわよね。あれがなぜだか知ってる?」

「いいや」カナスはそういい、パーシバルは首を振った。

「ラニーは当初、想像術学院の成績は常にトップクラスだったの。教授たちは口を揃えて彼を上級想像術師になる器があると言ったものよ。学院長でさえ、ラニーに一目置いていたらしいわ」

 兄弟は黙って話を聞いた。

「でもラニーは帝国の犬になることよりも、帝国の過去を明らかにすることを選んだ。まぁ、彼の兄タイストが次期皇帝になるのも決まっていたということもあるかもしれないけれどね。“想像の歪み”や“幻想の王”について熱心に調べていたわ。まるで取り憑かれたように知恵の塔にこもりっきりだった。当時あたしもラニーを馬鹿にしていたの。そんな空想話に熱心になるなんて馬鹿げてるって。でもあるとき、ラニーはあるものをあたしのところへ持ってきた。それは数枚の羊皮紙だった。あらゆる歴史書を読み漁り、手がかりを紐付けて、ある報告書を完成させた。“想像の歪み”は戦争によるものだという報告書よ」

 グラデンは二人を見上げた。「もちろん、戦争で莫大な利益を得ている上位貴族たちはそんなレポートを民の目に触れさせまいとした。もちろん皇帝や賢人会議もそのレポートを揉み消すために動いた。彼らは結託してラニーをミュリンへと追いやったのよ。酒場での暴力事件を引き合いに出して、まるで彼を頭のイカれた狂人扱いにして、永久に帝国の隅に追いやった。普通なら即刻死刑のところを皇族という身分に免じて追放で済ませてやった。それが帝国の言い分よ」

 パーシバルは思い詰めた表情でその男の話を聞いていた。

「精神的に追い詰められていたのね。あの人は貴族たちだけでなく、学院の生徒たちにも変人扱いされ、のけ者にされ、世界の闇を知るうちに、どんどん心を病んでいった。帝国を救いたいという願いは彼には重すぎたのよ」

 パーシバルは何も言えなかった。

「以前からあたしはラニーに言われていた。もしものときは、お前だけが頼りだと」グラデンは二人を交互に見た。「あたしはラニーをずっと見ていた。彼が真実を伝えようとしていることも知っていた。すごく迷ったわ。でも決めたの。中央連合国に寝返ってやると。そして約束したの。ラニーとあたしが帝国と中央連合国の架け橋となって、戦争を終わらせると。そうして何年も経って、あのロートレク王が頭角をあらわしはじめた。そして帝国の皇子たちはまるでラニーの意思を引き継いでいるようにこうして帝国の真実を暴こうとしている。ロートレク王やあたしが、あなたたちに協力しない理由がない。もちろん、ラニーが一番喜んでいるはずよ」

 パーシバルはいつの間にか呆然とし、言葉を失っていた。

 少しの間の沈黙を破ったのはカナスだった。「……知らなかった。おれたちは叔父上が嘘をついていると疑ってたんだ。……でも……違ったみたいだ」

 パーシバルは心のどこかではまだ納得できなかった。パーシバルは母親から譲り受けたムーンストーンのアミュレットを握りしめた。母の殺害についてはまだ何も解決していない。グラデンはそのことを知っているのだろうか。個人的な話はしないほうがいいのだろうか? いや、これは言うべきだ。

「ラングレンは母さんを殺した……」パーシバルはついに口を開いた。「見たんだ……」

 グラデンはしばらく考え込むようにうつむいていたが、ゆっくりと顔を上げると言った。「以前ラニーに会ったとき、言ってた。自分は永遠にこの罪を背負って生きていくのだと。でも、あたしにはわからない。あなたたちのお母さま、皇后陛下とラニーの間に何があったのかは。でも……きっと彼には理由があったはず」

 パーシバルは顔を陰らせた。また言葉が出なくなってしまった。

「……悪い知らせは?」カナスはこの話を避けるように切り出した。

「……中央連合国が帝国への侵攻を開始したわ」グラデンは言った。

 カナスはグラデンの肩を掴んだ。「いつだ!」

 グラデンは激痛にうめいた。「ちょ、ちょっと落ち着きなさい……! 痛いじゃないの!」グラデンは肩を強く握りしめるカナスの手を肩で振りほどいて睨みつけた。「まったく……乱暴なところは父親そっくりね」

「そんな……」パーシバルは蒼白した。「ラングレンの言ったとおりになってる。ロートレクはやっぱり裏切られたんだ。中央連合国はもうテオグリムの先導で動きはじめてる」

「最悪の事態よ」グラデンは言った。「ラニーが危険視していたテオグリムがやっぱり事を起こした。すべてラニーの言ったとおりになっているわ」

「僕らはどうすれば……」パーシバルは身を乗り出した。「ラニーから話を聞いているはず。ロートレク王と和平を結ぶの。それは変わらないわ。アークジウムで優勝者が決まれば、すぐにね。蝶の杯に幻想の王の力が宿っても、たとえ嘘だったとしても、和平交渉は迅速にするべき」

「おれにはそんな権限はまだない」カナスは言った。

「皇帝はもう長くないわ。あなたが皇帝になって、調印するの。十皇月たちに邪魔される前にね」

「アークジウム当日に都合よく父さんが死ぬと?」カナスは疑わしげに言った。

「……それは……」グラデンは口ごもった。

「なぜわかるんだ」カナスは問い詰めた。

「それは、皇帝はアークジウム当日に必ず殺されるからよ。あらゆる政略において、それはもう避けられない」

「あんたらがやるのか? 父さんを」カナスはグラデンに鋭い眼差しを向けた。「そうなのか?」

 グラデンはあまりの覇気に圧倒されそうになりながら、なんとかごまかした。「ええ、そうとも言える」

 パーシバルは不思議な感覚に陥った。父が殺されるというのに、怒りはなかった。

「十皇月も同じことをするわ。ゴルド家やソマロン家のどちらかが帝国を乗っ取る前に、その前に先手を打たなければならないの。カナス皇子、すべてはあなたを皇帝の座に座らせるためのことなの。どうか理解してほしい」

 カナスは珍しく思い悩んでいるようだった。そうだ。カナスにとって、父さんはかけがえのない人なのかもしれない。パーシバルはその感覚を羨ましくも思えた。しかしカナスのように苦しい思いをしなくて済んだのは救いなのだろうか。

「まずはアークジウムで灰燼文書の真偽を確かめる。できればあなたたちに優勝してもらわないといけない。そして皇帝は偶然病によって亡くなり、カナス皇子、あなたは新たな皇帝となるの。ロートレク王と和平調停を結ぶのよ。こちら側のテオグリムや、そちら側の十皇月に目をつけられないよう、慎重にやらないといけない。それで中央連合国と帝国は新しい関係を築ける。すべてが終わるの。もう戦争をしなくていいし、ラニーの言う“想像の歪み”は起こらない。ホワイトハースのような悲劇を恐れる心配はもうなくなるの」

 カナスは何も言わず、口をぎゅっと結んでいた。

「うまくいくの?」パーシバルは言った。

「うまくいかせるのよ。すべてのピースが揃わないといけない。あたしたちの計画はすごく難しいものなの。ほとんどが運まかせなところも多いわ。中央連合国と帝国の未来は、あたしたちに懸かっているのよ」グラデンは真剣な目を二人に向けた。「この世界を救うのよ」

「……父さんは……」カナスはようやく口を開いたかと思うと、その声は震えていた。「……死なないといけないのか……?」

 グラデンは目をそむけ、小さくため息をついた。「……ええ」

「……何か他の方法は……」カナスは力なく言った。

「……皇帝はどのみち殺されるわ。それにあなたが誰よりも早く手を打たないと、あなたの家族まで殺されてしまうかもしれないのよ。ゴルド家やソマロン家、テオグリムがどれだけ残忍か知っているの?」

 カナスはつぶやいた。「父さんが死ぬなんて……」

「しっかりしろ!」グラデンが男の声で、いや、獣のように吠えると、カナスは驚き、パーシバルは飛びのいた。

「あなたたちしかいないのよ。帝国と中央連合国の絶望的で破滅的な争いを終わらせられるのは」グラデンは鼓膜に直接叩きつけるようにはっきりと言った。

 パーシバルは固まったまま、彼の言葉を聞いた。

「あなたたちがしっかりしなきゃ、誰もこの二つの国を繋ぐことはできないのよ」

 パーシバルは唖然とするカナスの横に立ち、兄の震える肩に触れた。「カナス……。みんなで協力しないと、ララやセシルでさえ危険なんだ。だから……」

 しばらくカナスはうなだれていた。そしてパーシバルは自分に嫌悪すら抱いた。こうしてカナスを慰めていられる余裕があるのだ。

 カナスはしばらくうなだれてから、顔を上げ、グラデンを見た。そして言った。「あんたらの計画に乗る」

 グラデンは真剣な表情で小さく何度かうなずいた。「……あなたのその決意は中央連合国と帝国の数十万の命を救う」グラデンは言った。「父上にお別れを言っておきなさい。残された時間は少ない」

 パーシバルも、決意を固めたように頷いた。

 そのとき、誰かが階段を上がってくる音がした。

「アークジウムの日に会いましょう」グラデンはそう言って窓から消えていった。「あたしやロートレク王が生きていればね」

 アランは松ヤニだらけの床を見て驚いていたが、カナスはパーシバルと訓練をしていたとごまかした。

 アランは伝え忘れていた明日の訓練の予定言いにきたようだったが、それよりもパーシバルが熱心に練習に励んでいることに感心していた。










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