第6話 ワヒポウナム

6 ワヒポウナム

 


 知恵の塔の中は空洞になっており、壁には下から見上げてもきりがないほど遥か上まで本がぎっしりと敷き詰められていた。そして昇降機のための筒状の檻がいたるところにあり、それらはやはり遥か上まで続いていた。

 見上げると、まるで蜘蛛の巣のように渡り廊下が張り巡らされていた。

 オスロウィン城は七本の塔として分離してはいるが、ここもれっきとした城の一部だった。そして王城であるからには、入れるのはやはり高位の者だけだった。

 数名の学院の生徒たちのグループも往来していた。彼らも入ることはできるが、検閲規制をかけられ、読むことのできる本は限られているのだ。

 ただし、ふたりは別だった。特別な許可を得ずとも、この知恵の塔の蔵書を読むことができる。

 ラングレンは〈蝶の杯〉を皇帝の手に渡らないようにするために、優勝して、それを手に入れろと言った。だがそのためにはまず幻想の王について知る必要がある。

 幻想の王の力があの優勝杯に宿るなんて、現実にありうることなのか。それでも帝国の命運がかかっているからには、ラングレンの言葉の真偽を足がかりだけでも確かめる必要があった。

 調べておく価値は十分にある。ただアランとの訓練が控えている。日が高くなるまでには終わらせておく必要がある。

 カナスはサイコロを取り出し、それを滑車つきの板へと変化させた。昇降機に乗り込み、レバーを引くと、どんどん上へと登っていった。

 この知恵の塔はあまりに広く、壁に敷き詰められた本が壁の模様のように見えるほどだった。あらゆる階層を往来する人々が塩のひと粒ほどに見えた。

 そして壁には螺旋状に、規則的に、いくつもの蜜柑色の光がぼやけて見えた。ランタンの光は温かく、なぜか気分を落ち着かせた。昇降機から下を覗くと、もう地上は霞んで見えなくなっていた。だが、あの優しい灯りたちのおかげで怖くはなかった。

「……もしラングレンが皇帝の座を狙っているなら、僕らふたりが闘技大会で命を落とすのは都合がいい」パーシバルは寝癖のついた髪をかきあげた。

「そんな単純な話で済むんだろうか……」カナスは深刻そうだった。

「ラングレンは僕らをガキ扱いして、見くびってる」

「でも……こんな嘘をつく意味があるのか? なんというか、奇妙な嘘だ。ラングレンが皇帝の座を狙っていたとしても、おれたちの出場は父さんや十皇月が決めたことだ。叔父上が決めたわけじゃない」

「わざわざあんな凝った嘘をつく意味がないと?」パーシバルは代弁した。

「おれはそう思う。きっと本当のことだ。もしおれたちを殺すつもりなら、他の方法がいくらでもあるはずだ。闘技大会で殺すなんてわずらわしいことはしないはずだよ」

 昇降機は鉄の軋みとともに、頼りない上下運動をしてから止まった。二人は降り、カナスは板の生成を解除し、サイコロを握りしめた。

「灰燼文書なんて本当にあると思う?」パーシバルは言った。

「さぁな。見たこともないからわからないけど」カナスはパーシバルを案内しながら言った。

 二人と入れ替わりで、学者風の男が昇降機に板を生成し、乗り込んだ。

 カナスは知恵の塔に詳しかった。どの階層にどの本があるか、だいたいの察しがつくのだ。パーシバルはカナスの案内のままに、廊下を進んでいった。

 ところどころ丸い大きな窓があり、窓際には木製の丸テーブルと椅子が並べられていた。そんな場所がいくつもあり、人々はそこで紅茶を飲みながら、闘技大会の準備でざわつきはじめる街を横目に、読書を楽しみ、勉学に励んでいた。

 カナスのサイコロが崩壊し、こんどは長い梯子が生成されると、それをのぼった。

 兄はいくつかの本を吟味しはじめた。

 二人の座る丸テーブルからあふれるほどのありったけの本が積まれていた。

「幻想の王、灰燼文書、アークジウム、これだけあれば十分だろう」カナスはぶ厚い本をどしっと開き、読みはじめた。

 どの本も自分の握りこぶしよりも分厚く、そしてめまいを起こしそうになるほど退屈な内容だった。二人はひたすらに本を読みあさった。

「天文学、宗教学、闘技大会……。どの本にも灰燼文書の真偽についての記載はない」パーシバルは気だるそうに言った。

「お前、叔父上の言葉の真偽を見極めたいんだろ?」

「こんなにも大量の本を読むことになるなんて思ってなかったし……」パーシバルは文句を垂れながら、ページをめくった。

 その周りにも本が塔のように重なっていた。通りがかる貴族たちはそれを見ると驚いていたが、軽く会釈をすると、去っていった。このオスロウィン城では、皇族を見かけても不用意に声をかけてはならない。それらは帝国では無礼な作法にあたるからだった。

「……学術的な記述はほとんどない」カナスは拍子抜けしたような顔で、小さな子供に読み聞かせをするための児童書を山積みの本の上からパーシバルに見せた。「子ども向けの童話ばかりだ」

「こんなんじゃだめだ……。ラングレンが嘘をついてるなら、そのまま放っておくわけにはいかない」パーシバルはページをめくりながら言った。

「パース」カナスはページをめくりながら言った。

「何?」

「叔父上が玉座のためにおれたちに嘘をついて何かを企んでるとしたら、お前はどうするつもりなんだ?」

「そのときは僕が殺してやるさ。この手で殺してやる……」

 カナスは眉間にしわを寄せた。「なぁ、パーシバル」

 パーシバルはある本を流し読んでは、幻想の王や灰燼文書について書かれていないことがわかると、テーブルの横に投げ捨てた。

「おい、聞いてるのか?」

「何!」パーシバルはいらだっていた。

 カナスは言葉を慎重に選んだ。「母さんのことはおれだって悔しい……。叔父上がなんでそんなことをしたのかわからない。……でもな、パーシバル。あまり恨みに執着するんじゃない。いまのお前はいつもと違う。叔父上が来てから人が変わったようだ」

「母さんが殺されたんだぞ……!」パーシバルはできるだけ声を抑えた。「逆にカナスはよくそうやって平気そうにしてられるもんだ。僕らの母さんなんだぞ……!」

「おれだって混乱してるんだ」

 パーシバルは童話を読みはじめた。一冊、また一冊と。

「なぁ、パース、おれたちの目的はなんだ」

「目的?」

「おれたちは帝国を救うためにこうやって幻想の王についての手がかりを探してる。すべては帝国や、ララ、セシルのためだ。家族を守るためにやってることなんだ。叔父上については、あとで決着をつければいい」

「そんなことわかってる」パーシバルはページを指で追っていた。

「それならいいんだよ」カナスは言った。

「よくもそんな余裕ぶっていられるもんだ」パーシバルは乱暴に本を閉じると、カナスを睨みつけた。「あの男が憎くないのか?」

「だから何度も言ってるだろ。おれだって気持ちの整理がついてないんだ」

 するとパーシバルは呆れたような声で次の本を開いた。「こうやって言い合っても無駄だ。いいから手がかりを探そう」

「ああ、それがいい」カナスはやりきれなそうに次の本を読みはじめた。

 それから二人は話すことはなく、ただ本を読み進めた。それぞれが十五冊ほど読み終えるころ、パーシバルは本の最後のページを気にしていた。

「どうした?」カナスは言った。

「どの本にも幻想の王はまるでおとぎ話みたいに描かれてる。灰燼文書については書かれてもいない」

「ああ……まぁ……幻想の王は神話的な存在だしな。よくよく考えると、書いてないのも当然っちゃ当然か。灰燼文書なんて、そもそも公なものじゃないし。そもそも本で叔父上の真意を知ろうとするなんて無謀だったのかも──」だがカナスは本を閉じたとき、ぴたりと動きを止めた。

「パース」

「何?」

 カナスは表紙の著者名を指差して見せた。「幻想の王にまつわることが書いてある本にはどれも、同じ名前がある」

「ニコデモ・ジェン・ロンドヴェント……」パーシバルはつぶやいた。

「この人に聞けば、幻想の王の噂が本当かどうかわかるかもしれない。この人はきっと灰燼文書について詳しいはず」

「その人はたしか教授だよ」二人の後ろの席から聞き慣れない声がした。

 体の半分にやけどを負った少女は髪留めの代わりに布を額の上のほうに巻いていた。黒い長髪は大きく結われ、肩から下げていた。そしてビロードの深緑のドレス。彼女はにっこりと笑い、パーシバルに向けて指で挨拶をした。「三年ぶりだね、パーシバル」

 目を丸くするパーシバルをカナスは不審がった。

「パーシバル、この子は?」

「……ミリア……」



 

──三年前。


 皇族も学位を取らなければならない。帝国外の一般的な王族は乳母や親、教育係に剣術や読み書きなどを習うが、この帝国では皇族も学院へ入学を義務づけられていた。

 まだ十歳のパーシバルにはだだっ広い想像術師学院のアーチ門はあまりにも大きかった。いくつもの巨大な六角柱が無造作に連なったアーチ門は、鈍い虹色の光を反射ていた。クォーツという鉱石はそのひとつひとつの六角柱がパーシバルの身体よりも大きく、鈍く、そして鋭く輝いた。

 帝国は鉱物資源が豊富だった。皇帝の間が月長石でできているように、帝国のあらゆる施設に様々な鉱物が使われていた。この鉱物資源が帝国の主な収入源で、中央連合国を除く諸外国や、ユルシ大陸との貿易の要だった。

 鈍い虹色の城は学院の本堂で、見上げると、奇妙な卵型のオブジェクトが城の頂点で往来する学生たちを見下ろしていた。いまだにあれが何なのかわからない。カナスは警報装置か何かだと言っていたが、本当かどうかは不明だった。

 歴史の授業は退屈だった。帝国の貴族家と、各都市の王や成り立ち、帝国の隆盛の歴史と中央連合国との関係、ユルシ大陸の砂の王の歴史……。

 パーシバルは見つからないようにして教科書に落書きをしていた。

 歴史や帝王学、地理学、薬草学、その他もろもろを学んだところで、皇帝になるのはカナスだ。自分が勉強しても意味はない。

 想像術が使えない自分がどんなことを勉強しても、誰も認めてはくれない。つまり、この学院は自分にとって何の意味もない場所なのだ。

 そしてときどきこっそり抜け出して、図書館に逃げ込んだ。ここは広かった。高い天井にはステンドグラスの天窓があり、光が射し込み、ところどころの貴族の子どもたちが勉学に励んでいた。皇子がいるのに気づいても、勉強を続けた。いや、彼らはまた授業を抜け出す皇子に呆れて目もくれないだけだ。

 芸術に関する本も結局のところ想像術に関わりのあるものしか置いていない。想像術での複雑な機械の生成法、想像術でのモダンな建築デザインの生成法、炎や水など自然界の物質の生成法。どこもかしこも想像術、想像術、想像術……。

 いまの時代、想像力の中にワヒポウナムの『花を編む女』の情報があれば、術によって簡単にその作品の複製を生成することができる。もちろん、想像力や記憶に依存するものなので細かいところに誤差は必ずある。そして想像術は想像力の及ぶ範囲でしか維持できない。例えばある貴族がワヒポウナムの絵を図書館で見て、それを想像術で生成して家に飾ろうが、貴族が風呂に入って明日の晩餐会での話題を考えているうちにその複製した想像物の絵はたちまち崩壊し、もとのコインに戻るのだ。

 想像術というものは一時的なものであり、不安定なものなのだ。絵画のように数百年も保存でき、永遠に心に残るようなものではない。

 パーシバルは机に座り、鞄から羊皮紙を取り出した。薬草学の模写の端に、まだ描きかけの女性の絵があった。

 ワヒポウナムのあの繊細で計算し尽くされた複雑な技法を素人が想像力だけで複製できるわけがないし、もしできたとしてもそれはただの想像物に過ぎない。

 パーシバルは小難しいことをあれやこれやと考えながら夢中で羽ペンを走らせた。学院に筆と顔料と適切なキャンバスさえあれば……。

「ロザリンド教授、かなりお怒りみたいだったけど」

 その声でパーシバルは飛んで驚いた。

 彼女はこちらが皇子なのを知ってか知らずか、図々しく指摘した。「また抜け出したんだね」

 パーシバルはぎこちなく話した。「なんだよ君は……!」

 深緑のビロードのドレスを着た長い黒髪の少女は顔の半分に火傷の痕があり、髪留めとして額に布をあてがっていた。その娘は海のように青い目でパーシバルを見てから、羊皮紙に目を移した。

 娘はパーシバルの絵を見ると、しばらく考え込んだ。「それは何? 馬の絵を描いてるの?」

 パーシバルは赤面し、絵をすぐに覆い隠した。「違うよ……!」

「うーん……だとしたら……ピッチフォーク。農場の絵かな?」

「違う!」パーシバルはさらに赤面し、いらだったように言った。「これは……女性の絵だ……」

「ああ……」娘は眉間にしわをよせた。「女性の絵ね……」

「ワヒポウナムの絵の模写だよ……」

 彼女はその言葉で反応した。「花を編む女……?」

 それはパーシバルも同じだった。「君、ワヒポウナムを知ってるの?!」

「もちろん。わたしの家に彼の絵があったから」

「ワヒポウナムの現物が……?!」

 彼女は言った。「わたしはそれほど知らないけど、父の影響で少しはね。あなたもワヒポウナムの絵を?」

「いいや……」パーシバルは急に暗くなった。「……持ってないんだ」

「へぇ……なんだかかわいそう……」

 それにしてもこの娘は帝国の皇子に対してずいぶんな口の利き方だった。丁寧語を使う気はさらさらないし、まるで同郷の友達と話すようにしていた。パーシバルは思わず口にした。「君、一応聞くけど、僕が誰だかわかってる?」

 パーシバルがそう言うと彼女は隣に座った。「もちろん。パーシバル皇子でしょ」

 パーシバルは呆れたように、説法でもはじめるかのように上半身を彼女に向けた。「いいかい、これはおせっかいなことかもしれないけど、一応言っておく。君はもっと口の利き方を学んだほうがいい。もし君の態度が廷臣か誰かに見られたら、ただではすまないからね」

「ええ、そうでしょうね」

「そうでしょうねって、本当にわかってるのか? 僕は君のために言ってるんだぞ」

「カナス皇太子なら、そうなるでしょうね」

「な、なんだって……!」パーシバルは立ち上がって声を荒げた。「僕は兄とは違う! 失礼なやつだ!」

 彼女はパーシバルの威圧にはまったく動じていなかった。

「いいか、僕はこの帝国のオスロンド帝国の第二皇子だ。無礼な発言は許さないぞ」

「冗談で言っただけだよ。まったく。それにそうやって偉そうにいばっちゃっても無駄だよ。だってあなた、あの有名なパーシバル皇子なんだから」

「皇子にそんな口を利くなんて、きっと後悔するぞ!」

「わたし、脅されても怖くない。それにわたし、そんな偉そうになんかしてないじゃない」

 パーシバルは赤面した。「し、したさ! 皇子に対して丁寧語を使わなかった!」

 娘は口角の片方を吊り上げて、腕を組んだ。「あなたに友達ができないわけがわかったような気がする」

「君に僕の何がわかる。君はすごく……すごく嫌な女だ。性格の悪い女だ」

「そうかもね」

 パーシバルは落ち着いてから、机に座り直した。そしてため息混じりに言った。「わけのわからない子だな……頼むから、あっちへ行ってくれないか」

「なぜワヒポウナムの絵ぐらい持ってないの?」彼女は平然と言った。

「なんだって?」

「だってあなた、皇族なのに」彼女は言った。「欲しいものはなんでも手に入るはずでしょ?」

 パーシバルはしぶしぶ返事をした。「……仕方ないだろ……。そういうものなんだ」

「カナス皇子は特別待遇のようだけど?」

「……カナスは特別だからさ」パーシバルはつぶやいた。「僕に対しては……勉学の邪魔になる絵画なんてものは必要ないって……。だから皇族である上で役に立たないものは僕にはくれたことがない」

 少女はパーシバルの隣の席に座り、頬杖をついた。「皇子にもいろいろあるんだ」

「でも絵は好きだ。だから、内緒で筆や顔料を持ち込んでもらって、自分で絵を描いてるんだ。部屋にあるのはぜんぶ僕が描いたものだ。アーティストの作品は一枚もないけどね」

「さっきみたいな絵を?」少女が絵を指差すと、パーシバルはまたそれを覆い隠した。

「下手くそなのはわかってるさ」

 彼女は少し考えてから言った。「わたし、皇子はもっと、なんでもできると思ってた」

「いいやまさか。そんな世界じゃないさ」パーシバルは当然のごとく言った。「でも、王が優しい人だったら、そうなのかもしれないね」

「あなたは悔しいと思ったことはないの?」娘はいきなり質問した。「差別されて」

「悔しい……?」

「想像術の使えない皇子とか言われてさ」

 パーシバルは顔をそらし、そして黙った。

「みんなから冷たく扱われて、それなのにこうやって閉じこもってばかりで、なにもかも諦めたような顔をしてる。どうせ僕はって顔してる」

「君に僕の何がわかるんだ。僕だって一生懸命やってるんだ」パーシバルはいらついた。

「だって、そう見えるもん」

 パーシバルは鼻を鳴らした。「そうか、わかったぞ。君は占い師か何かをやればいい。きっと天職になる。いいか、君は僕のことをわかっているつもりかもしれないけど、何にもわかっちゃいない。知ったような口を利かないでくれ」

 少女はふんっとため息をついた。「わたし、あなたを馬鹿にするために話しかけたんじゃない。──まぁちょっと馬鹿にしたかもしれないけど。でもね、気になっていたのよ。どうしてあなたは、そんなにひねくれてるのかなって」

「この世界では想像術がすべてだ。想像術ができなければ誰も認めてはくれない。それだけのことさ」

「たしかにそうだけど……」

「無理なものは無理だ。そういう君はいったいどういうつもりだ? 僕にお説教でもしにきたのか? まったく。だんだん腹が立ってきた。どこのどいつなんだ」

 彼女は言った。「フロウリー家のミリア」

 パーシバルはなんとかその名前を思い出そうとした。「フロウリー……」

「エクシアだよ。帝国の同盟国」

「エクシア……フロウリー……」パーシバルは考えたが、その国がどこにあるのかさえわからなかった。「エクシアにフロウリー家なんてあったっけ?」

「同盟国なのに、知らないの?」ミリアは不機嫌そうに言った。「本当に勉強不足だね」

「悪かった。覚えておくよ」パーシバルは思いたったように言った。「ところで君は、どうして帝都に?」

「留学だよ。建前的にはね。エクシアはいま安全じゃないから。エクシアのエワルド王と私の父には確執があって……まぁ、簡単に言うとそんなとこ」

「内乱が起きそうなの?」

「ううん、わたしが幼いころから、内乱ははじまってた。最近になって激しさを増してるの」ミリアは続けた。「話すとすごく長くなるし、いろいろとややこしいから、あまり気にしないで」そして少女は何かをひらめいたように言った。

「君もいろいろ大変みたいだね……」

 するとミリアはパーシバルの目を見て訴えかけた。「あなたのお兄さんが皇帝になったら、少しは世界も良くなるかな?」

 少年はうなずいた。「ああ、もちろんだよ。カナスは頭がいいし、優しいし、強いから」

「パーシバル、あなたが皇帝になっても、そうなるかな?」

 ミリアのあまりの不意をついた質問に、パーシバルは時が止まってしまった。

「……僕が……?」

 するとミリアは笑った。「何を深刻になってるの? 例えばの話だよ。大げさだな」

 パーシバルはミリアの笑顔でようやく我に返った。「あ……ああ……例えばだよね」そして深刻になってしまった自分に笑いがこみ上げてきた。「まぁ、ありえないけどね」

「あなたなら、どうするの?」ミリアは尋ねた。

「……僕なら──」

 パーシバルが嬉しそうの話しているのを、頬杖をつきながら彼女も嬉しそうに聞いていた。

 パーシバルは目を輝かせたまま、ずっと話し込んだ。こんな気持ちになるのははじめてだった。自分にはこんなにも喜怒哀楽があったなんて、そしてこんなにも壮大な夢があったなんて、思いもしなかったのだ。

 パーシバルは思った。この娘はいったいなんなのだろう? なぜこんなにも、僕の話を嬉しそうに聞くのだろう。他の人なら誰も興味がないのに、この子は違う。不思議な子だ。

 ミリアは何かを思いついたように言った。「そうだ。ねぇ、この日を境に、私たちは友達になれると思わない?」

「友達……?」

「そう。友達。あなた、いるの?」

 パーシバルは目を泳がせ、考え込んだ。

「じゃあ、いないってことね」

「いるさ! 友達ならいる!」

「へぇ、じゃあ誰がいるの?」

「……アランやロデリック……それに……えぇと……」

「臣下は友達じゃないよ」

「だって、僕は皇子だぞ。皇子は普通の子とは友達になんてなれない」

「そうやって心を閉ざさないでよ。どんなに偉い人だって、明日どうなるかわからないんだよ。助け合わなきゃ」

「でも……」パーシバルは言った。

「友達になるぐらい、なんてことないでしょ?」

 パーシバルの表情がだんだん固まった。「……父さんが許さない……」

「皇帝? そんなの関係ないよ。もっと単純な話」ミリアは差し伸べた手を催促した。「ひとりぼっちの人生は嫌でしょ?」

 彼女が差し出した手は、ピンク色に変色し、老婆のようにしわしわになっていた。

「気になる?」彼女は手を引っ込めた。

「い、いや……」パーシバルはそうでないふりをしたが、彼女には見え透いていたようだった。

 ミリアはごまかすように言った。「わたしの国では十回目の命名日のときに、船をもらえるのよ」ミリアは続けた。「すごい立派なんだから」

「船……?」

「そう、船。今度見せてあげる。きっと驚くから」

 パーシバルは軽く微笑むと、ぎこちなく手を差し出した。もしかするとこの子は、僕より何倍も辛い経験をしてるのかもしれない。自分の身だってどうなるかわからないのに。

「一歩前進ね、パーシバル皇子」ミリアははじめて無邪気な笑顔を見せた。

 二人は握手をかわした。

「これで友達」ミリアは言った。

「……友……達……」

 パーシバルは人が変わったように、饒舌に話しはじめた。「僕はパーシバル・オーギエム。正式にはパーシバル・ナサニエル=スヴェン・ディル・オーギエム。よろしく」

 ミリアは少年の手をぎゅっと握った。

「じゃあ、パースって呼ぶね」

「……そう呼ぶのは家族だけだ……」

「友達だもん。いいでしょ?」

 少女の手は温かく、柔らかくて、パーシバルよりほんの少し小さかった。

「そうだね……」パーシバルは言った。「これから君は、どうするの?」

「さぁね」ミリアは肩をすくめた。「でも、エクシアの内乱が落ち着けば、帰ると思う」

 パーシバルは思わず彼女の南国の海のような青い目に吸い込まれそうになりながら言った。「せっかく友達になれたのに、帰ってしまうの?」

「またすぐに会えるよ」

「みんなそう言うんだ」パーシバルは言った。

「みんなって?」

「いや、なんでもない」

 図書館の天窓から射す日光でようやく彼女の碧い額当てには繊細な蔦と青い花の刺繍がされていることがわかった。

 彼女は立ち上がり、深緑のビロードをくるりと翻して歩き出した。

「じゃあね。いつかまた会いましょう。ヘタレ皇子のパース」

「ヘタレって言うな!」パーシバルは立ち上がって反論したが、ミリアは背中を向けて手を振るだけだった。

 



「フロウリー家のミリア……」パーシバルは呆気にとられたようにつぶやいた。

「ずいぶん大きくなっちゃったね。パース」

 少女はカナスの前に来ると、深緑のビロードのドレスを持って礼儀正しくお辞儀をした。「皇太子殿下、ごきげんよう」

「やぁ」カナスは笑顔で返した。「パーシバル、紹介してくれないか?」

「エクシアのミリア……」パーシバルはミリアを手で示した。「フロウリー家の子だよ」

「どうぞよろしくね、フロウリー家のミリア」カナスはミリアと握手してから、少し考え込んだ。「フロウリー家……」

「父がよく話していました。カナス皇太子はまだ小さいながらに、皇帝の資質を持っていたと」

「おおげさだよ」カナスは笑い、弟の顔色をうかがった。

 少年の顔は明らかにこわばっていた。

「パーシバルどうした? お前、もしかして緊張してるのか?」

 すると少年は少々怒り気味に言った。「……緊張? 僕が?」

「お前以外に誰がいる?」カナスはいたずらでもするような顔で言った。

「ふざけるなよ……」パーシバルは怒りをぎこちない笑いでごまかした。「誰が緊張なんかするか」

「さっきの話ですが……」ミリアは気にせずに言った。「ロンドヴェントは学院の教授です。私、授業を受けてたので。でも臨時講師で、いまは帝都にはいらっしゃらないはずです」

「そうか」カナスは言った。「そのロンドヴェントという教授はいまどこにいるかわかるかい?」

「ジルコンベルグです」

 パーシバルはカナスと顔を見合わせた。

 カナスは言った。「すごく助かったよ。どうもありがとう。ミリア・フロウリー」

「とんでもございません。それだけしかわからないのですが……」ミリアは微笑んだ。「お力になれたのなら、嬉しいです」

「十分だよ。ありがとう」とカナス。

 パーシバルは唐突に言い出した。「内乱は……どうなったの……?」

 カナスは眉をひそめた。

「覚えてくれてたんだね」ミリアは笑顔を見せたが、その笑顔はどこかぎこちなく見えた。「大丈夫だよ。みんな無事だから」

 パーシバルは安堵したように言った。「そうか……」

「そうか、エクシアは内乱が……。あれはすべて帝国のせいだ。すべての責任は僕らにある」カナスは胸に手を当てた。

「そんな、帝国や皇子方は悪くありません。これはこちらの問題ですので……」

「エクシアのことは僕らがなんとかしてみせる」パーシバルが珍しく声を張るのでカナスは驚いた。「君が無事に故郷に帰れるように……僕らが戦争を終わらせてみせるよ」

「ありがとう、パーシバル」ミリアはまた微笑んだ。「……うれしい」

「だからもう少し待ってて」パーシバルは言った。

 ミリアはただうなずいた。

「では授業があるので私はこれで失礼します」

「ああ、またね」カナスはそう言ってミリアを見送った。

 そのころ、パーシバルは何食わぬふりをして本を片付けていた。

「パースお前……」カナスは真剣な表情で言った。「……かっこつけてたよな?」

 パーシバルは山積みになった本を抱え込み、そそくさと本棚へと向かった。「ジルゴンベルグか。じゃあ話は早い。アランとの訓練場だ」

「無視かよ」カナスは眉を上げてから、意地悪そうに鼻で笑った。





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