第5話 あの丘の上で

5 あの丘の上で

 


 大蛇湖のほとり、森の木々から頭を出す小高い丘にはイチイの老木と古びたアーチ門があるだけだった。アーチ門とはいえ半分は崩壊し、もはやアーチと呼べるものではなくなっていたが、それはかつての面影を忘れることなく佇んでいた。

 カナスは想像術の達人であり、同時に博学者でもあった。このアーチに刻まれている文字はずっと昔にここに住んでいた民族のものであると言った。自分たちオスロン人よりももっとずっと昔の人々のものだと。

 きっとこの丘も、墓か何かに使われていたのだろう。ここら一帯の森の木は白樺なのに、一本だけイチイなのも、きっとそういうことだろう。

 クレーターに聳えるあの帝都オスロウィン、この広大な森、遠くにかすかに見渡せる山脈、そして竜門。これらはいまはもう見慣れてしまって、何も思わなくなってしまったものばかりだ。でも大昔にはもっと違う景色が広がっていたのかもしれない。

 ここからは山脈だけでなく、淵の海の水平線も見渡せた。ゆっくりと水平線から昇る朝日は、広大な草原や森に黄金のベールを降り注がせた。

 ロデリックの目さえかいくぐれば、オスロウィンを抜け出すのはそう難しくはなかった。中庭の訓練場(大嫌いな場所だ)そのそばにあるほこりまみれの物置き部屋には地下通路へ抜ける床下扉があった。間違いなく自分とカナスしか知らない特別な抜け道。

 ララやセシルでさえ知らない。なんたってセシルに知られたらもう最後、抜け出し癖の弟は帝都に二度と戻ってこれないかもしれないから。

 床下扉を最初に発見したのはカナスだった。皇帝や貴族、給仕や衛兵、奴隷、誰もあの扉のことは知らなかった。城では真面目に振る舞うカナスでも、こうしていたずらに花を咲かせるときは無邪気な笑みを浮かべた。

 兄はちょっとばかり扉に細工をした。床下扉を開けて閉め、中から糸を引っ張るとカーペットが扉を隠す仕掛けをしたのだ。もちろん想像術ではなく、実物で。想像物はあまりにも術者と距離が離れていても、意識が逸れて崩壊してしまうからだ。

 臭くて古い地下水路を二キロも歩き、穴ぐらから外に出ると、ようやくソルアドの丘に降り注ぐ太陽の光を拝めるのだ。カナスはときどきパーシバルをこうして丘に連れ出した。ここで話すときはたいてい、深刻な話だ。

 カナスはイチイの木の下に腰を下ろし、海の向こうを指差した。

「あっちには三国の砂の王たちがいる。三つの大きな国はたったいまもユルシの覇権を争っている最中だ」

「ジェト王か」パーシバルは言った。

「若く、有能な王だ。無能な権力者や諸王を殺し、ジュードラを再興した英雄。十皇月たちも言ってた。ジェトはきっといつかこの帝国にもやってくるって。ジュードラがセンドラやマンドラを飲み込めば、オスロンド帝国を圧倒するような世界最大の統一国家になる」

「西には英雄ロートレク、東には英雄ジェトか」

 そしてカナスは海とは反対方向を指差した。「でもいまおれたちが向き合うべき問題はあっちにある」

 カナスは少し考えてから言った。「おれたちが中央連合国との戦いを終わらせるしかない。そうすれば、帝国が滅びることはない。叔父上の言ったように、戦争をやめさせて“想像の歪み”を止める。そうすれば、最悪の事態は避けられる」

「僕らにできると思う?」パーシバルは不安げに尋ねた。

「中央連合国の向こうにもいくつもの国がある」カナスは目に見えないものの、山脈の向こうを透かすように見据えた。「まだ見たこともない国々があって、おれたちの知らない文化が栄えてる。──帝国や中央連合国の争いなんて、この広い世界に比べれば、草原で蟻が痴話喧嘩してるようなもんだ」

「そうなのかなぁ」

「アークジウムなんてこの世界に比べれば、些細な問題に過ぎない」

「些細な問題……か……」

「だから大丈夫だ。きっとうまくいく。おれたちが優勝して、うまくいかせる」

「優勝できなかったら?」

「そのときはそのときで考えるさ」

 パーシバルは思わず笑った。「カナスはしっかりしてるのに、意外と適当なところがあるよね」

 するとカナスは顔をしかめた。「適当なんじゃない。直感を信じてるだけだ」そしてカナスは少し考えにふけるようにうつむいてから、もう一度話しはじめた。「そういえば、パーシバル、お前、何か言いたいことはないのか?」

「言いたいこと?」

「叔父上のことだ」

 その言葉を聞くとパーシバルの笑顔はなくなった。

「お前が叔父上に対して冷たいのには、理由があるんだろ?」

 パーシバルはカナスから顔を逸らすように、山脈を眺めているふりをした。

 カナスはもう一度言った。「言いづらいことなのはわかってる。でも、打ち明けてほしい。おれは何かしてやれるわけじゃないかもしれない。でも、一人で抱え込むことほどつらいことはないんだ。わかるだろ?」

 パーシバルはまだ黙っていた。言葉を喉につっかえているようにしていた。

 帝都の狭い鶏小屋で思い悩んだときは、こうして淵の海を見渡したり、丘に吹く優しい風を感じたりする。制約も、時間も、悩みも、すべて忘れて、こうして古びたアーチに寄りかかるだけで、安らぎを感じることができた。パーシバルはもう一度、肺いっぱいに新鮮な空気を取りこみ、思いっきり吐き出した。「思い出すと……つらくなるんだ……」

 カナスはパーシバルの肩に手を置いた。「無理はしなくてもいい……。もしお前が話す気になったら、また聞かせてくれ」

 パーシバルはラングレンと話すときはまるで凶暴化したネズミにでもなったかのように敵意を剥き出しにしていたが、いまでは嘘のように落ち着きを取り戻していた。

 パーシバルはカナスの横で、同じようにイチイの木にもたれかかっていた。

「お前と叔父上は本当の親子みたいに仲がよかった」カナスは手のひらの上でサイコロをもてあそんだ。

 パーシバルはしばらくの沈黙のあと、つぶやいた。「……僕の話を信じてくれる?」

「おれがお前を疑ったことが一度でもあったか? お前の言うことなら信じる。だから事実をありのままに話してほしい」カナスは真剣な眼差しで弟を見ていた。「もうひとりで悩むな」

 パーシバルは三角座りをして顔を膝にうずめた。

「おれはお前の兄貴だ。お前の味方なんだ。だから、お前がラングレン叔父を嫌う本当の理由を知りたいんだ」

 パーシバルはしばらく考え込み、そして口を開いた。「まだ誰にも話したことがないんだ……」

 カナスは黙って弟の言葉を聞いていた。

 パーシバルは決意を固めたように、ふぅっと息を吐いてから言った。「じゃあ……話すよ……」

「ああ」

「……父さんはいままでずっと、母さんの死は病死だと公表してきた。貴族も民衆も、みんなそれを信じてきた。もちろん十皇月も、アランでさえ、それを信じてる。仕方なかったんだって……みんな思ってる。──でも、本当は違うんだ」パーシバルは続けた。「八年前のあの日、ラングレンは許されない罪を犯した。僕の五歳の命名日の日だった──」




 パーティは昼から行われた。皇帝の塔の宴の間はまるで大聖堂のように広かった。天井は見上げるほど高く、部屋の真ん中を貫く巨大な柱には繊細な彫刻がなされ、食卓は果てしなく続き、豪華な料理が並べられていた。

 料理がほとんどなくなるころになると、貴族たちがそれぞれ酒を持ち込むのが皇族の命名日の恒例だった。

 貴族たちのほとんどが酒蔵を所有していて、彼らはここぞとばかりに自分たちの酒を披露した。

 中でも評判がよかったのはあの鉄血宰相デズモンド・ソマロンの酒と白銀の騎士アラン・ルインの酒だった。デズモンドは帝都にある巨大な酒蔵で造ったクリーク酒を持ち込み、アランはジルコンベルグ名物の蜂蜜酒を持ち込んだ。アランはジルコンベルグの領主でもあるので、もちろん養蜂所や醸造所は彼のもので、醸造法を考案したのも彼自身だった。

 ふたりはそれぞれが造った酒を五百人以上の貴族たちに飲ませ、多数決を取ってどちらの酒が優れているのか勝負した。結局、アランの蜂蜜酒に軍配が上がったが、デズモンドは不服を申し立てた。そしてついに、それがなんとも馬鹿げたことに、ふたりの決着は飲み比べ対決ですることになった。

 あのころの皇帝はそんなくだらない酒自慢大会でも、振る舞われた酒を飲んで楽しんでいた。なんといっても、そもそも酒を持ち込んで楽しむ恒例行事は父が言い出したのが始まりだったから。たった数年前なのに、皇帝は別人のようだった。(それでも、パーシバルにとっては厳格な人間ということに変わりはなかったが)。

 そしてパーシバルの横に座る女性も同様だった。ベール付きの被り物をして、真鍮のように艶のある茶色い髪は腰まであり、複雑な編み物のように器用に結われていた。そしてオーギエムの紋章のイメージとは反対の、真っ白い綿のローブを身につけ、その青い目は燭台の灯りで輝いていた。

 皇帝よりも上戸のジリアンは、デズモンドとアランの酒だけでなく、すべての貴族の酒を上座に持ってこさせた。ジリアンは上品で知的な女性だった。優しく、人徳もあった。だが、人は意外な一面を持ち合わせているものだ。彼女はどんどん酒を飲み干していくと、貴族たちは目を丸くした。

 やがてデズモンドとアランの決着よりも、皇后の酒の飲みっぷりに貴族たちの関心は移ってしまったようだった。ジリアンの周りには人だかりができていた。

 そのあと彼女は歌を歌って、使いの少年と踊ったりもした。宴を一番盛り上げたのは間違いなく彼女だった。なにより皇帝は、ジリアンのそんな姿を見ているときにだけ、あのささやかな笑顔を見せた。いまではまず見ることのできない表情だ。

 そして縁もたけなわ、貴族たちがそれぞれの話に華を咲かせるころ、カナスはいつの間にかクラグス家の貴族たちと話し込んでいた。カナスは八歳のころから、大人と対等に話すことができたから、パーシバルにとってはうらやましくて仕方がなかった。

 そんな中、たったひとり、ある少年だけは不満そうに座っていた。そしてジリアンは猫のような笑顔で、透き通った青い目で、何かを言った。

──だが憶えてない。母がそのとき何を言ったのか。母の口だけ動き、言葉がすっぽり抜けてしまっているのだ。

 そして貴族たちの群れの向こうから気配がした。そして誰かがぽつんと立っているのが見えると、ジリアンもすでにその影のほうを見ていた。

 その男の姿を見ると、ジリアンのおてんば娘のような笑顔はなくなっていた。驚きとは違う、どこか、呆気にとられたような……。まるで奇妙な表情だった。

 ジリアンはもう一度、青い目でパーシバルを見た。そして優しく微笑んだ。そして口を動かした。

 パーシバルはうなずいて、席を立ち、貴族たちの集まりをいくつもかきわけていった。

 ラングレンは腕を組んで隅の柱にもたれかかり、パーシバルが駆け寄るとあのにんまりとした笑みを浮かべた。ラングレンはいまとさほど変わってはいなかった。サークレットが載せられたあの頭もこの時から禿げていた。ただ唯一今と違うところは、髪の毛が短かいことだった。そして宮廷にいるころはまだそんなに臭くもなかった。

「ラングレン叔父さん!」

 ラングレンはパーシバルをそのまま抱き上げた。「よぉ、ちび皇子。どうやら退屈してるみたいだな」

「来てくれたんだね!」

「ああそりゃ、おれも退屈で仕方なかったからな」すると叔父はニヤついた。

「叔父さんに来てほしかった!」

「もちろん、お前のためならどこへでもだ」男は片方の眉を上げた。「ああ、そうだ。パーシバル、いっちょ森にでも行ってみないか?」

 パーシバルは目を輝かせた。「うん! 森に行く!」

「ゴールドフィンチってマヌケが口を滑らせたんだがな、大蛇湖の森にはとびきりでかくて若い牡鹿がいるらしい」ラングレンはいやらしい笑顔を向けた。「そいつより先にそいつを獲ってやろうぜ。おれたちでな。──どうだちび? 乗るか?」

 パーシバルはラングレンと同じように、あのにんまりとしたいやらしい笑顔で返事をした。


 パーシバルは丘の向こうの森を見た。昔あそこで狩りをした。思い出の場所だった。

「あのころはラングレンを好いてた。大好きだった。想像術はできなかったけど、いろんなことを教わったよ。父さんよりも父親のように接してくれた」

「ああ、ラングレン叔父は誰が見てもお前を特別扱いしてた。いまでもな。当時のおれでもヤキモチを焼いてしまうぐらいだ」

「たしかにラングレンは僕に目をかけてた。でも、あのころから、何かを隠してた」

「……それで?」カナスは催促した。


 森の中は肌寒かった。霧に覆われ、そして静かだった。ときどき変な生き物の鳴き声が遠くから響くばかりで、動物の気配はほとんどなかった。

 夕方だというのに、夜のように薄暗かった。

「ここでいいだろう」ラングレンは木と木の間の土の盛り上がったところに身を伏せると、パーシバルにもそうさせた。そして木々と茂みの向こう、霧の中を指差した。「あそこだ」

「何も見えないよ」パーシバルは叔父の横にぴったりとくっついていた。

「あの大きな岩が見えるか?」

「あれのこと?」パーシバルは指差した。

「そうだ」ラングレンは目を細めた。「あの岩の右側の木があるだろ?」

 パーシバルは霧の中に目を凝らしたが、やっぱり何も見えない。

「まぁ見てろ」

 ラングレンは長細く、青白い指から指輪を抜き取り、それを握りしめた。すると拳の間から粒子が舞い踊り、次第にそれは何かを形づくっていった。生成された弩弓クロスボウはところどころ銀細工がなされており、それなりに質のいいものだということは子供ながらにもわかっていた。

 叔父は弩弓クロスボウをさらにもうひとつ生成し、パーシバルに自分と同じ持ち方をさせた。

 男がクランクを回すと、カチッという音とともに矢が指定の位置にロックされた。パーシバルも同じようにした。

 男はふぅっと息を吐いて身をかがめると、片目をつぶり、じっとその時を待った。

 パーシバルは弩弓越しに、岩の向こうのものをなんとか見つけようとしたが、どうしても見当たらなかった。

「本当にいるの?」パーシバルが言うと、叔父はしっ!と人差し指を口に当てた。

「見てろ」

 そして叔父の指が引き金に当てられると、ゆっと力が込められた。

 ひゅん!と矢が風を切ると、ものの一瞬で、霧の向こうから断末魔のような鳴き声が聞こえた。パーシバルは驚いた。動物の断末魔がこれほど聞き苦しいものだとは思っていなかったから。

 ラングレンが首で“ついてこい”と合図すると、パーシバルは重い弩を落とさないようにしながら、急いで茂みやでこぼこを進み、叔父のあとを追った。

 ようやくその苦しそうなうめき声の発生源にたどり着くと、茂みの中にそれは倒れていた。

 ラングレンは弩弓を下ろすと、腹をかかえ、大声で笑った。

 ロデリックはうずくまり、苦しそうに悶ていた。尻には横方向から矢が突き刺さっていた。

「ロデリック!」パーシバルはその教育係の身体を揺さぶった。「大丈夫! ロデリック!」

「勝手に城を抜け出しては……なりません……」ロデリックはうめき声に混じった言葉を絞り出した。

 だがラングレンがあまりに大笑いするので、パーシバルもくすりと笑いがこみ上げてしまった。やがてその笑いは大きくなり、ラングレンとパーシバルの笑い声は森中に響いた。もちろん、二人とも同じように、あの独特の下品な笑い方で笑った。

 ロデリックはそのことをずいぶん根に持っているようで、お尻の傷のことはいまだに嫌味を垂れることがある。

 二人はロデリックを介抱しながら都に戻った。もうすっかり夜だった。クレーター上部は貧民街のため、パーシバルはできるだけフードを深く被った。ラングレンは気にしていなかった。

 登り屋の少年に金を渡して急勾配を下り、大通りを経てから夜になっても商人や民衆たちで賑わう大広場へ。するとようやくオスロウィン城が目の前に聳え、三つの塔に囲まれた庭園へ到着した。

 オスロウィン城の七つの塔のうちの皇帝の塔、祈りの塔、癒やしの塔の三つに囲まれるようにある庭園、そこから上を見上げると、塔と塔を繋ぐ通路が数え切れないほど入り組んでおり、空がほとんど覆われていた。だがほんの少しの隙間から、星が見えていた。

 この庭園にはいろいろな目的で人が往来する。迷路のような庭園でうつつを抜かす男と女、吟遊詩人は庭園の中心にある大木で、皇帝の英雄的なバラッドを歌い、夜の街へ繰り出す貴族らの集まりがこちらに会釈をし、上の塔と塔を繋ぐ通路からは貴族たちの談笑がかすかに反響し、あの石のベンチに座る生真面目な学者は生成されたランタンの明かりを頼りに夜通し読書に明け暮れ、修道女たちのグループは祈りの塔に帰ってゆく。

 ここは普段関わることのない、それぞれの塔に住むあらゆる人々が団欒する場所だった。もちろん、この庭園は王宮の敷地内のため、庭園の壁には衛兵が配備され、一般市民は立ち入ることができないようになっている。だからこそ、高貴な者や彼らに使える者だけの安らぎの場所なのだ。

 ラングレンが指を鳴らして修道僧たちを呼ぶと、ロデリックは彼らの手を借りて癒やしの塔に運ばれていった。その間も、ロデリックはうめき声を上げていた。パーシバルは謝罪の意味も込めてロデリックにさよならを告げた。

 そしてパーシバルは言った。

「次はいつ会いに来てくれるの?」

 ラングレンは小さな少年の頭をがしがしと乱暴に撫でた。「……おれは自由に城を行き来することは許されてない。今日は命名日で多目に見られてただけだ。……だから……」叔父は少年の寂しそうな顔を見て言葉を探した。「だから、またすぐに会えるってことだ」

 パーシバルはそれでも嬉しそうにはしなかった。

「……どうして父さんは叔父さんを閉じ込めたり、遠ざけたりするの?」

「さぁな」ラングレンは笑ってごまかした。「兄弟ってのは、なかなかうまくやれないもんなのさ」

 ラングレンは別れを惜しむことはなく、マントをくるりと翻して背中を向けた。しかし、もう一度振り返った。「カナスとは仲良くしろよ、ちび皇子」

 そして叔父は行ってしまった。

「ラングレン叔父さん……」

 パーシバルは立ち尽くした。すぐ会えるなんて、嘘だ。アランが言ってた。ラングレン叔父はミュリンへ送られるかもしれないと。ついに皇帝は叔父を帝都から、いや、皇族から追放すると決めたのだ。だからじきに叔父はこの帝都からいなくなる。

 吟遊詩人の歌が庭園に響き、夜の街のささやかな喧騒が聞こえた。そして握りしめた右手に何か違和感を感じた。血のように真っ赤なルビーが埋め込まれた金の指輪。

 そうだ。狩りのとき、叔父に渡された弩弓クロスボウ……。それが指輪に戻ったものだ。パーシバルはそれをずっと握りしめたままだった。

「返さなくちゃ……」

 だがもう叔父は行ってしまった。いまから追いかけたら間に合うだろうか。叔父の離宮はわからないから、見失ったら最後だ。

 とにかく少年はもう一度フードを深く被り、衛兵の目をすり抜けて街へ出た。

 すると、坂を登る滑車つきの荷車に、見慣れた背中が見えた。


──いた!


 パーシバルはポケットをまさぐったが、金は持ってきていない。悪態をついてから、坂を駆け上った。

 登り屋の青年が、必死に坂を駆け上る小さな子供を不思議そうに見ていた。

 叔父の離宮はずいぶんクレーターの上の方にあるようだ。荷車はどんどん上へと向かった。

 この帝都では、クレーターの上に行くほど身分の低い者の地域だった。叔父はそんなところに住んでいたのか。

 叔父の乗った登り屋の荷車は、さらに一番上の方まで登っていった。荷車はゆっくりと急勾配を登っていたが、それでも見失わないように、パーシバルは息も絶え絶えになりながら、必死に追いかけた。

 こんなことなら、次に会ったときにでも返せばよかったんだ。パーシバルは思った。

 いや、だめだ。ちゃんと返さなくちゃ。叔父さんの大切な想像箱だ。

 でも本当は指輪を返すことよりも、叔父を驚かせたい気持ちのほうが強かった。もっと話したかったのだ。もっと楽しい話を聞かせてもらいたかったのだ。

 もうへとへとだった。もう坂を登ってから二十分以上は経っている。もうだめだ、これ以上は足が動かない。

 上層に着くと、ようやく叔父は荷車を降り、あの不格好ながに股で歩きだした。ラングレンは貧民街のさらに奥の、ある建物へと向かった。

 その建物は、離宮と呼ぶにはあまりにもお粗末なものだった。どう見てもただの廃墟にしか見えなかった。

 煉瓦造りの縦長の建物は風化して白くくすみ、ところどころ大きなヒビが入って、さらに蔦に覆われていた。

 建物の周りは“鼠の巣”と呼ばれるスラム街で、浮浪者たちはパーシバルをじっと観察していた。早く叔父さんのところへ行きたい。ここは不気味だ。

 ラングレンの入った建物は貧民たちの修道院か何かだったのだろう。ずいぶん前に手放されて、そのまま放置されていたのだ。

「叔父さんはこんなところに住んでるのか……」

 見張りもいない開け放たれた門をくぐると、両側に崩れた石像があった。倒壊している。いや、明らかに意図的に壊されている。しかもこの石像のモチーフは見たことがない。砕かれて何がなんだかわからなくなっていたが、雨の巫女じゃないことはたしかだ。

 修道院の中には吹き抜けの中庭があり、崩落した天井の瓦礫がそこら中に散乱していた。中庭の真ん中にはまたさっきのように壊された石像があった。だが月の光によって、その悲惨な状態すらもどこか美しく見えた。

 ラングレンは中庭をぐるりと周り、中庭を挟んで向こう側の扉へ入っていった。パーシバルはこっそり叔父を追いかけた。扉はやはり半分開け放たれていた。

 そこから暖かそうな光がもれていた。そして声が聞こえた。叔父のあのしゃがれたいつもの声だ。

 するとすぐに、違う声が返ってきた。女の人の声だ。それもなにやら声を荒げている。

 パーシバルはゆっくりと、すり寄るように扉の隙間を覗き込んだ。

 ろうそくがいくつか灯された部屋。がらんとして、何もない。外壁と同じように、いまにも崩れてしまいそうな古びた煉瓦造りの部屋。

 そしてラングレン叔父のひょろ長い身体にマントを羽織った立ち姿の向こうに、その誰かがいた。だが、顔が見えない。声からするに、女の人だ。

 その女性はどうやら怒っていた。必死で何かを訴えかけている。


──でも、何を喋っていたか、どうしても思い出せない。


 叔父は怒ってはいなかったが、何かを必死に訴えかけていた。

 そして見えた。叔父の背中越しに、その女性は怒っているのではなく、泣いていたのだ。

「……母さん……?」

 そこにいたのは母だった。なぜだ。なぜ母さんがこんなところに? なぜ叔父さんと……?

 テーブルに並べられたいくつものろうそくがふたりを照らし、ゆらゆらと影でもて遊んだ。

 そして叔父はいくつもある指輪のうちのひとつを外した。

 そうだ、この指輪を返しに来たんだ。でも、いまはなぜか行っては行けない気がした。なぜかはわからない。でも、行っちゃだめだ……。

 ラングレン叔父は外した指輪で何かを生成しはじめた。粒子が彼のゆるく握った拳に集まってゆく。

 一瞬のことだった。生成が完了する前に、叔父は早足で母に近づき、左肩を掴んだ。そして右手は母の腹部にそれを──。

 床にほとばしる血はろうそくで照らされ、奇妙な光を放っていた。

 そして次に憶えているのは、足早に扉から出ていく男の姿。彼はいつの間にか月の光の向こうに消えていた。

 パーシバルは扉の影で固まっていた。早く行かないと。早く行かないと。硬直した身体をなんとか動かし、部屋に入った。

 倒れる母、広がり続ける血、ろうそくの眩しい光。白いローブがどんどん赤く染まる。

「母さん!」

 パーシバルはテーブルへ向かった。血を止められさえすれば、助かる! まだ見込みはある!

 だがテーブルの上にあるのは半分ほど溶けたろうそくが数本あるだけだった。ろうそくなんかじゃ役に立たない。火で傷口を焼く? いや、鉄かなにかを熱さないと駄目だ。それにそんなんじゃあ時間がかかりすぎる。

 こうしてる間も、床には血が広がり続けている。急げ。何か考えろ。

 この部屋で使えるものがないか考えるんだ。パーシバルは辺りを見回した。寂れた修道院の一室にはこの木のテーブル以外は何もない。ただひびの入った煉瓦の壁と床、そして瓦礫のようなものばかりだ。

「待ってて、いますぐに血を!」

──布だ。布があれば、お腹に巻いて止血できる! 小さな少年はジリアンのもとに駆け寄り、ローブを両手で掴み、思い切り引っ張った。

 だが、皇后のために仕立てられた分厚い綿のローブは五歳の子供が引き裂くにはあまりに分厚すぎた。そして自分の麻のローブでさえ、引き裂くことはできなかった。

 パーシバルはいつの間にか母の血の海で崩れ落ちていた。傷口を小さな手で抑えるが、小さな指から血は情け容赦なく溢れ出た。

 今度は自分のローブを脱ぎ、それで抑えつけた。母の背中を支え、傷口に強く。

 しかし、ローブにも血は染み出した。こんなに弱い力じゃあ駄目だ。きっとこの傷はこんなものじゃあ止まらない。もっと他のものでないと。

 そして震える手で、血まみれになった小さな手でポケットをまさぐり、叔父の指輪を取り出した。

 血は布や手では止まらない勢いだった。

「大丈夫だよ、母さん、絶対に助けるから!」


──想像術しかない。想像術で熱した何かを生成するしか。


「母さん! 待ってて! 僕が助けるから! 絶対助けるから!」

 ジリアンは小さく、細かい呼吸を繰り返していた。小鳥のように力のない吐息が繰り返されるたび、それはパーシバルの心臓に突き刺さった。

 額から汗がにじみ、母の血でぬるついた指輪が震え、鼓動はこれ以上ないほど高まる。パーシバルは血だらけの手で指輪を握りしめると、まるで祈るように心を集中させた。

 ああ、いまここにカナスがいれば……。カナスなら熱した鉄など簡単に作ってくれるのに。いや、そんなことを考えてる場合じゃない。集中するんだ。


──カナスなら、母さんを助けられるのに!


──なぜ叔父さんはこんなことを!


──母さんの息が小さくなってる!


「だめだ集中できない……」


──自分が助けないと母さんは死ぬ!


──想像術さえできれば、助けられるのに!


──どうして自分はできないんだ!


──いや、僕のせいじゃない!


──叔父さんが殺したんだ!


──集中しろ!


「なんで……。考えが止まらない……」


──鉄の棒どころか、布切れひとつ作れないのか!


──なんとかしろ! なんとかしろ!


──なんでもっと訓練しなかったんだ!


──もう少し頑張れば、布切れぐらいなら作れたかもしれないのに!


──集中しろ!


──ぜんぶ僕のせいだ! 僕が想像術を使えないから!


──馬鹿! 考えるな! 集中するんだ!


──なんで考えが止まらないんだ! なんで!


 あらゆる思考が脳を駆け巡る。鼓動はもう心臓を壊そうとしていて、ろうそくの光が少年の血走る瞳を照らす。


 そして、暗くなった。ふとテーブルに目をやると、窓から入るほのかな月の光が、粒子となって崩壊するろうそくを照らした。粒子が窓から吹くささやかな夜風に飛ばされ、散り散りになってゆく。

 少年は唖然とした。

 ろうそくがなくなってせいで、何も見えない。ただ、膝と手のひらに冷たくなった血を感じる。そして母の肩に触れた。

「母さん……」

 ジリアンはもうすでに、動かなくなっていた。血も、もう出ていない。そしてかすかに開いた目からは、もう生気はなくなっていた。

 膝の上に、ジリアンの手が添えられていた。

「なんで……」

 小さな少年は、母の手を両手で強く握りしめた。まだ温かい。今朝、息子の頬をつまんだあの手だ。中庭を散歩するときに繋いだあの手だ。落ち込んだときに頭を撫でてくれるあの手だ。

「僕がこんなんじゃなければ……助けられたのに……」

 少年は血の海の中、母の肩に頭を添えて、夜通し泣き続けた。


 


 カナスは言葉を失っていた。そして弟の顔を見ると、静かに言った。「……ぜんぶ、本当のことなのか?」

 パーシバルは返事も、うなずきもせず、兄の目を見た。するとカナスは唖然としたまま、前に向き直った。「母さんは……殺されたのか……」

 パーシバルはただ呆然としていた。

 するとカナスもパーシバルと同じように三角座りになった。「なぜ……」

「世間では、病気だったってことになってる」

「叔父上は……いったいなんのつもりで……」カナスは言った。

 パーシバルは小さく首を振った。

「会話の内容は、憶えてないのか?」

 パーシバルは言った。「……憶えてないんだ。何ひとつ。母さんの口だけ動いてて……発せられた言葉はまるっきり記憶から抜けてる。それに僕は当時五歳だったから、会話の意味がわからなかったから、記憶に残らなかったのかもしれないけど。──でも穏やかな雰囲気ではなかったことはたしかだった。母さんは泣いてた。そして何かを言い争ってたんだ。そのとき、ラングレンが何かを生成したんだ。一瞬のことだった。母さんの泣き声はなくなった。ラングレンは逃げ出すように、早足で僕のすぐ横を走り去っていった」

 カナスは怒りでも、悲しみでもなく、ただ黙って聞いていた。

 パーシバルは続けた。「母さんに寄り添って、何時間も泣き続けていると、もう外は明るくなりはじめてた。慌てた様子でロデリックがやってきて……。僕や皇后を探すために、衛兵を何人も連れてきてた。母さんの遺体は兵士に回収された。それから昼になって、夕方になって、夜になって……次の日の朝にようやく賢人会議で話がついたみたいで、父さんは皇后の死を公表した。混乱を避けるために母さんの死因は“病死”とされた」

「おれが知ってるのはそこまでだ。てっきり病気だって……」

 パーシバルは森のほうを見たまま言った。「みんなそう思ってる。母さんのことを知ってるのはロデリックと皇帝、そして十皇月だけだ。だって、僕はラングレンがやったことを、誰にも言ってないんだから。結局賢人会議では、中央連合国の暗殺者の仕業だと断定された」

 カナスは眉をひそめた。「どうして言わない? 叔父上は……母さんを殺したんだ……。罪を犯したんだ。おれはまだ頭の整理がついてなくて、叔父上を憎むことができない……。でも、罪は償うべきだ」

「死刑にでもするつもり?」パーシバルは言った。「いくら皇族でも、罪人は罪人として扱われるから、死刑は免れない」

 珍しく、パーシバルの正論によってカナスは黙るしかなかった。

 そしてパーシバルも黙り込んだ。カナスはじっと弟の顔を観察し、何かを察したように目を開いた。「パース、お前、まだ叔父上を……」

「いや、そういうわけじゃない。あのときの真相を知りたいだけだよ。いつかあいつから事の真相を聞き出してやろうと思ってる」パーシバルは続けた。「……何を思ったのかラングレンは数週間後も平然と僕を狩りに誘った。まるでなにごともなかったかのように、いつものあのふざけた調子で」

 カナスは黙っていた。

「でも僕は狩りに行ったんだ。──なぜかはわからない。多分、あれは何かの間違いだったんだって自分に言い聞かせるためだったのかもしれない。叔父さんがそんなことするわけないって……」

「叔父上は何か言っていたか?」

 パーシバルは嘲笑った。「僕が鹿を取り逃したあと、ラングレンは“そんな顔するな、ちび皇子”と言った。ただ、それだけ言ったんだ。そのときから、目が覚めたんだ。優しいふりをした嘘つきだってことを、思い出したんだ」

「だからお前は叔父上に対してああいう態度を……」

 パーシバルは怒りのこもった言葉を吐き出した。「母さんのことをみんなが忘れ去るころ、ラングレンはまた帝都に舞い戻った。のうのうと、平気な顔をして」そして拳を地面に強く打ちつけた。「僕はラングレンに同情してるわけじゃない。いつか報いは受けさせるために、処刑なんかさせないために、公表しないだけだ。死んだら、何もわからなくなる」

「でも、聞き出せずにいる……」カナスは疑念のこもった言い方をした。「そういうことか」

 パーシバルは少し考えたあと、自信がなさそうに言った。「なんで聞き出せないのか、自分でもわからない」そして、呆けたように言った。「……でも……あのとき、僕が想像術を使えていれば、母さんは助かった。それは確かだ」

「それはお前のせいじゃない」カナスは強く言った。「お前は生まれつき想像術が使えなかったんだ。仕方ないことだ」

「……でもあのとき、熱した鉄の棒を生成できていれば。たったそれだけでも生成できていれば……」パーシバルは言った。「……母さんは……」そして何かを考えふけるように遠くを見て、続けた。「カナス……僕……」

 カナスは弟を見た。「どうした」

 そしてパーシバルは怒りと悲しみの織り混ざった言葉を出した。「僕、もう誰も失いたくないんだ。みんなを守りたいんだ」

「パーシバル……」

「もう誰も……」

 カナスは少し考えてから、小さくうなずいた。

 パーシバルは言葉を探した。「……どうして僕だけ、想像術が使えないの?」

「人には得意なことと、苦手なことがある。ただそれだけのことだ」

「僕にはどうしてもそうは思えない」パーシバルは言った。「貧民街の子供でさえ、想像術は使えるんだ。熱心に勉強しなくても、最低限の想像力があれば、想像術はできるんだ。それなのに、おかしいじゃないか……。どうして僕だけ……」

「パーシバル……」

「……なんで僕だけ……」そしてつぶやいた。「そんなの不公平だ……」

 こうしている間も、森は平和だった。鳥はさえずり、木々は揺れた。

 カナスはおもむろに人差し指親指立て、中指を親指の中間に当て、そのしぐさをパーシバルに見せた。

「……何してるの?」

「悲しい出来事があったとき、昔の人々は言葉の代わりにこのしぐさをしたんだ」

 パーシバルが眉をひそめると、カナスは笑った。「なんだよ、その顔は。あのな、このしぐさは悲しいとき以外にも使うんだ。“きっとうまくいく”って意味だ」

 パーシバルは投げやりにそのしぐさを真似し、それをぼうっと眺めた。「これでうまくいくなら、苦労しないよ」

 カナスは言った。「うまくいくさ。何もかも」

 パーシバルはささやかな笑みを見せてから、また森の向こうを見据えた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る