第4話 皇帝の間

4 皇帝の間



《アークジウム開催まであと七日》


 パーシバルは儀礼用の黒いダブレットの窮屈さよりも、貴族たちの視線が苦痛でならなかった。貴族たちを見下ろすこの十皇月の席からでも、ささやきが聞こえた。そしてまるで蛙を張り付けにでもするかのようなあの目。

 こうして席についてからも、入場してからの彼らの言葉が脳内に反響する。

(世界最高峰の高等教育を受けているにと関わらず、まったく、前代未聞だぞ)

(いまだに想像術が使えないなんて。十三とはいえ、もう立派な大人ではないか)

(大した皇子だこと)

(皇太子に対してはたいそうなご寵愛っぷりですがね)

(カナス皇子は特別だ。格が違う)

(それにしても皇帝が腫れものを表に出すとは……。いったいどういう風の吹き回しなのでしょうね。よほど病が深刻とか?)

(これこれ、お戯れがすぎますぞ夫人)

(しかし夫人の言うとおりですぞ公爵。皇帝は何かを考えているようです)

(あのラングレンもね)

(聞きましたよ、あの男が帰ってきたそうな)

(ずいぶんといい時期に来られたようだ。しかしあからさますぎはしないか?)

(ともかく、皇帝はパーシバル皇子をどうするつもりなのですかね)

(もしかすると、もしかするかもしれません)

(ありえない、後継者を殺めて何になりますか)

(私は陛下の意向に賛同します)

(いったいなぜ賛同を?)

(名誉の死ですか……)

(なるほど、そうするのが皇子にとっては……)

(私もあのような境遇で生まれたなら、そうするやもしれませんな)

(みなさん、それ以上は口にしないほうがよろしいのでは?)

(ええ、そうですね)

(口が過ぎましたかね)

(しっ、お気をつけください。皇帝陛下がいらっしゃいますよ)

 貴族たちは奇妙なほど優しい笑みでパーシバルに微笑みかけた。聞こえていないと思っているのか、それともわざと聞こえるように言っているのか。

 パーシバルは聞こえてないふりをして、貴族たちに微笑みかけた。


 玉座の間は白一色だった。見上げるほど高い天井には一面に雨の巫女の絵が美しく多様な色彩で描かれていた。下界には祈りを捧げる人々や、豊作を感謝する人々、燃えさかる炎によって罰を受ける人々が描かれている。雨の巫女は人々に安寧と罰をもたらしていた。

 壁には規則的にステンドグラスがあり、オーギエム家の黒豹の紋章の形を縁取っていた。それは大理石の床に虹色の光を降り注がた。

 そして堂々たる品格をもって白と虹色の空間を締めくくったのは、鉱石を四角く削ってできた皇帝の玉座だった。月長石はミルクのように白く、ときおり月の光のように青く光った。

 皇帝は黒地に金の刺繍が入った長丈のダブレットに焦げ茶色のジャーキンを羽織り、左肩から紫の絹のマントを垂れ下げていた。そしてそれはオーギエム家の紋章のブローチで留められており、黒の短髪には金の冠を戴いている。

 黒と紫。それが帝国を象徴し、威厳を知らしめる色、極彩色の空間に場違いなほど暗い色合いだが見事に調和のとれた色だった。

 皇帝が杖を頼りに席につくと、玉座の間に集められた貴族や廷臣たちが風になびく稲穂のように深々と頭を垂れた。

 玉座の下には同じような、だが少し小さな月長石の席があり、賢人会議の面々が揃っていた。

 カナスは脛まである紫がかった黒のダブレットに、なめらかな銀の狐のマントを肩に掛けていた。

 賢人のひとりマドシル大司教はパーシバルたちの前をそそくさと歩き、階段下で深々と一礼した。そして振り返ると、仰々しく咳払いをした。「ただいまより、タイスト・デュバル=スヴェン・ディル・オーギエム皇帝陛下による洗礼の儀を執りおこなう」

 彼ら選ばれた帝国の重臣は〈十皇月〉と呼ばれた。カナスは若くして十皇月のひとりだった。十代で十皇月になった人物は帝国千年の歴史においてカナスがはじめてだそうだった。

 貴族たちの集まる下座には白いドレスを着たララがいつものようにセシルを連れていて、心配そうにこちらを見上げていた。

「この洗礼の儀によって、わが息子カナス、パーシバルは雨の巫女の洗礼によって永遠の加護を受ける。アークジウムではオーギエムの名に恥じない戦いをするだろう」

 玉座の間にところ狭しと集まる廷臣や貴族たち、重臣たちは一斉にうやうやしくお辞儀をした。

 タイスト・オーギエムは玉座に座ったまま、集まった帝都の重役たちを前から後ろへじっくりと舐めるように眺めた。

 マドシル大司教が大理石の床を引きずるほどたいそうで優雅な衣装を纏い、司教の被りものの宝石を輝かせながら皇帝の玉座への階段をあがった。

 この玉座への階段を登ることを許されているのは十皇月だけだった。大司教は木板に貼られた調印書を仰々しく差し出し、タイストがそこに玉璽を捺すと、高く掲げ観衆に知らしめた。「この玉璽ぎょくじによりアークジウムは神聖なる祭典として巫女によって守られる。そして勇敢な戦士たちに祝福がもたらされるであろう。今年は初めてここにいらっしゃるカナス皇子と、パーシバル皇子が出場される」

大司教は声を張り上げた。「オスロンド帝国第一皇子にして、ゲルンワース公爵、ヴァンハノシュ島の相続人にしてオールドフェル及びリヴァーフィス総督にしてメルン領主、カナス・レイナード=スヴェン・ディル・オーギエム皇太子殿下からお言葉を頂戴する!」

 カナスは銀狐のマントを翻して前へ出た。

「雨の巫女に誓って、オーギエムの名に恥じぬ戦いをしてみせよう。そして我が民に栄光あれ! オスロンドに栄光あれ!」カナスはいかにも皇子らしく猛々しい声を出すと、観衆たちはまた喝采を贈った。

「続いて、オスロンド帝国第二皇子にして、ルヴカー伯爵にして、ヴァンハノシュ島の相続人、パーシバル・ナサニエル=スヴェン・ディル・オーギエム皇子殿下よりお言葉を頂戴する!」

 カナスは“練習したとおりのことを言え”と目で合図をし、うなずいた。

 パーシバルは前に出るとき、何を思ったのか、皇帝のほうをちらと見上げた。やはり父はこちらを見てなどいなかった。オーギエム特有の茶色い瞳は父も同じだった。そのはずなのに、同じ目をしているのに、とてつもなく冷淡なものに思えた。

 貴族たちは曲芸を披露するリスザルでも見るかのように、嘲りと好奇心と、軽蔑の目でこちらを見ていた。ほくそ笑む者もいたし、怒りに近い目で見る者もいた。だがパーシバルはそのすべてを、見ていないふりをしなければならなかった。

「雨の巫女に誓って……オーギエムの名に恥じぬ戦いを……してみせよう」

 拍手が起こった。だが、心なしかカナスのときよりも少し控えめなものだった。パーシバルは胸が張り裂けてしまう前に席に戻った。

 大司教はたっぷりとたくわえられた白髪のひげを動かしてまた長ったらしい巻き物を読み上げた。すでにこの帝都には出場者たちが到着しており、世界中から集まった猛者たちはいまも帝都内のどこかで訓練に励んでいると。

 パーシバルは嗚咽をなんとか飲み込み、平然を装った。しかし貴族たちを見ていると、また気分がわるくなりそうだった。

 貴族たちは闘いの塔から軽食を食べながらワインをたしなみ、賭博を楽しむ。彼らにとって神聖な戦いであろうが、その程度のものなのだ。

 富と権力をこれ以上ないほどに膨らまし、それを堅く守っている彼らにとって、あと必要なものは娯楽だけなのだ。

 長い洗礼式が終わると、皇帝は貴族たちを出ていかせ、十皇月たちに古いワインを持ってこさせた。

 皇帝はワインの入ったカップを少し持ち上げた。

「我が息子カナスはこの玉座に座り、君らの君主として、そしてオスロンドの統治者として領土の守護者となるのだ。みなで息子の出場を祝おうではないか」タイストが乾杯の音頭をあげると、重臣たちもワインを口にした。

 皇帝は少し間を開けてからまた話しだした。「知っての通り余はもう長くはない。病にこの身を蝕まれ今では芥子汁がないとまともに歩くことすらできん。……なんとも情けないことだ。息子が皇帝として、世界に認められるためにはアークジウムで臣民に強さを示さねばならん。キツネどもを頭に乗らせるわけにはいかない。民衆は強き指導者を求めているのだ」皇帝は一同にささやかな目配せをした。

 皇帝が灰燼文書について触れることはまずなかった。なにせあれは本来、皇族だけの秘密なのだから。

 誰が情報を漏らしたのか、灰燼文書については皆が知るようになった。中央連合国やもっと向こうの国までも。

 つまりここにいる貴族たちが外に漏らしたということだ。彼らは皇族にとって敵でもないが、味方でもないのだ。自分たちの富や権力、名声をより大きくするために、もしくはいまのそれらを守るためなら、なんだってやるような人間たちだ。

 大司教は優しく微笑み、胸に手を当て、会釈をした。「巫女の加護のもとカナス皇子殿下、パーシバル皇子殿下が輝かしい勝利をおさめることを心からお祈りしております」

 十皇月たちは希少なクランヴァニア産のワインを楽しんでいた。その中にはアランもいた。彼はひとくち飲むふりをして、それから手をつけなかった。闘技大会にはアランも出場する。トーナメントでぶつかれば、武術指南役の彼とも戦うことになるだろう。

 赤いドレスを着た美しい女が不健全で好奇心に満ちた視線をパーシバルに向けた。頭からつま先まで宝石で埋め尽くされていて、手を動かす度に指輪が品のない輝きを見せた。メラリッサ・ゴルドはワインをあっという間に飲み干し、さらに給仕に注がせた。

「ジュードラで捕らえたという獰猛な人食いたちが何十頭も解き放たれます。ああ、とてもうずきます。そして人食いどもをなぎ倒し、死骸の上に猛々しく立つ剣闘士たちの勇士はさらにわたくしを震わせるでしょう」メラリッサはたしかに美しく、宮廷でも彼女に近づこうとする者は少なくない。だがその誰もが、彼女に近づいたことを後悔するのだ。

 〈蛾の女王〉の笑顔はどこかぞっとするような不気味だった。まるでここにいるすべての人間の弱点を知り尽くしているかのような……。

 メラリッサは財務大臣と情報大臣を兼任していて、帝都から世界の果てまであらゆる情報を知っていた。だが、彼女が大っぴらにする情報はほんの少しだけだ。実際彼女は謎が多かった。裏ではよからぬ噂もあったが、口にすること自体死を意味する。なぜなら彼女はあらゆる事を知り、帝都のあらゆる場所に小さな“さなぎ”を飼っているから。

 嘘と欺瞞のおしろいで塗り固められた笑顔はカナスだけでなく、ぎょろっとこちらにも向けられると、パーシバルはとっさに目をそらした。

 いかにも軍人らしい男が言った。「キツネどもが活気づいておりますが、ご安心ください。小競り合いに過ぎませんゆえ、闘技大会の開催になんら支障はありません」

 その軍人は髪はほとんど剃り上げ、上部に残った白髪をオイルで綺麗に整えている。コンラッドの率いる帝国軍は中央連合国のクォーゼとの戦いを目前に控えていた。夜が開ければまた戦地へ赴くのだ。

 コンラッドは征服主義の残忍な将軍だった。しかしそうは言っても生粋の戦士だった。だから不気味な笑みを浮かべることもなかった。安全な籠の中にいながら、あまりある欲望という果実を蛇のように虎視眈々と狙っている他の重臣たちとは違って。

「無事に開催を迎えられそうで何よりでございます」

 想像術学院の校長ブレンダン・ハートがその賢者のような出で立ちとは不釣り合いなほどのかん高い声で言った。ハートは顔中に白髭をたくわえていて、高く首を覆う襟のついたコートに丸く膨らんだズボン、乳白色のタイツと先の尖った革靴を履いていた。それらのデザインはどこか異国風の情緒があった。

 十皇月は皇后アンナ・オーギエム、宰相デズモンド・ソマロン、マドシル大司教、メラリッサ・ゴルド財務大臣、コンラッド将軍、ハート校長、〈フィユスの豹〉団長アラン、ロイド大法官、そしてカナスの九人だった。“十皇月”とは言え、必ずしも十人いるわけではなかった。パーシバルはその残った一席に座っていた。

 アランから聞いた話では、二百年前はたったの三人しかいなかったそうだった。

 賢人会議は無意味なものだった。十皇月たちは皇帝に忖度するような発言しかせず、ふたりの皇子が命懸けで出場することに関しては何も触れなかった。この闘技大会は命の保証はないというのに、誰もそのことを疑わず、めでたそうに喜んだ。帝国の後継ぎを闘技大会などに出場させて、彼らは何の反論もなく、皇帝の決定を受け入れたのだ。

 ラングレンの言ったとおり、皇帝はおかしくなってしまったのだろうか。そして十皇月たちは願ったりだろう。皇帝や正統な後取りがいなくなれば、自由に帝国を動かすことができる。パーシバルとカナスが死ねば、ララに継承権が移ることにはなるが、どうなるものか。妹はカナスのように民衆に人気があるわけでもなく、政治の腕も、想像術の腕も立つわけでもない。十皇月のあくどい連中たちに利用されるに違いない。

 この中でも特に強大な権力を持つのは宰相のデズモンドだった。彼は〈鈍牛〉という二つ名にふさわしい山のような身体を動かし、地鳴りのような声で祝いの言葉を話した。

 そして、デズモンドの話が終わると、カナスは立ち上がった。「みなさん……少しよろしいでしょうか?」

 十皇月たちはカナスに視線を移した。

「……前にもお話しましたが、弟は想像術を使えない。なのにどうやって戦えというのですか? 今回ばかりは出場を見送ることはできないのですか」そして皇帝を見上げた。「皇帝陛下……」

 すると皇帝は呆れたように言った。「雨の巫女が決めたことだ。見送ることなどできない。かつての帝国の皇子たちも出場したのだ。お前の弟を例外的に出場を見送ることは許されん」

「しきたりだから……ですか?」カナスが言った。

 皇帝は厳しい表情を変えないまま、無機質に言った。「雨の巫女のしきたりにならって、アークジウムでは十歳以上の皇子は洗礼を受け、そして雄々しく戦わねばならん。神の意思はどうやっても避けられぬことだ」

「ずっとなかったことになっていたしきたりを復活させて、それをしきたりだと言うのですか?」

「……そうだ」皇帝は言った。

 帝国はあまりに広すぎる。そしてあまりに強大すぎる。この平和を三百年以上維持しており、中央連合国との小さな諍いはあれど、これほど豊かな国は世界でも例を見ないだろう。

 ただここにきてその平和が仇になったのだ。民衆たちは一時の平和を悠久のものと勘違いし、甘んじた。だから皇帝によるアークジウムの開催には湧いたし、ふたりの皇子が出場するとなればさらに歓喜した。彼らはきっといまごろ考えもしない。皇帝はいま病によって身体を不自由にしていることを。ふたりの皇子が死ねば帝国は大きく変わることを。

 ラングレンの言ったことが脳裏によぎった。本当に皇帝を信用していいのだろうか。もしかすると心まで病に蝕まれ、あらゆる尊厳を失ってしまったのかもしれないのに。

「想像術が使えなくとも、勝機はあるはずです。雨の巫女による課題はみなに等しく与えられますから」メラリッサは言った。

 〈蛾の女王〉がデズモンドに相当するほどの権力を得ることができたのはまぎれもなくあの美貌のおかげだった。アランが言うには彼女はずっと昔から十皇月の地位にいるらしかった。ずっと昔というのはつまり、アランが当時十皇月だった父の従者だった頃からということだ。十皇月の席を護衛していた頃からずっと〈蛾の女王〉の容貌は変わらないという。不思議なこともあるものだ。

 その女はいま着実に宰相の座に近づきつつあった。ソマロン家のいち旗手に過ぎなかったゴルド家は、密かに勢力を拡大し、ソマロン家とほぼ同等の力を得るようになった。それもすべて〈蛾の女王〉の綿密な画策によるもので、デズモンドはいまごろ脅威を感じているだろう。

 何より、彼女が急速に勢力を拡大しはじめたのは皇帝の考えが発端だった。皇帝の大きな過ち(つまり闘技大会の開催のこと)はソマロン家やゴルド家にとって勢力を拡大する絶好の機会だった。オーギエム家にとってはこれ以上ない絶望的な状況だった。

 だがどちらにせよ、オーギエム家は危機的状況にあった。ラングレンの言ったことが本当ならば、オーギエムは内側からも、外側からも狙われていることになる。だとすれば皇帝はその絶望的な状況を見越して、あの灰燼文書にすべてを託したのだろうか。あんな予言のような信憑性のないものに、すべてを託したというのか。

 パーシバルは皇帝を見上げた。相変わらず父は無骨な表情で、十皇月たちの提案や報告に対して、必要最低限の言葉を言い渡していた。

 三十代前半の黒髪の騎士は白銀の板金鎧プレート・アーマーを着込み、いつもの愚直な表情で皇帝を見据えていた。アランは皇后と同じくカナスとパーシバルが闘技大会に出場することに疑問を持つ数少ない人物だった。彼は何度も皇帝に抗議を申し立てたが、結局どれも受け入れられなかった。ある時からアランは皇帝や十皇月に抗議するよりも、カナスやパーシバルに武芸を仕込むことに専念するようになった。

 この城で想像術ではない鎧を着ているのは彼だけだった。帝国の紋章が刻印された白銀の鎧が光った。想像術で鎧はいつでも生成できるから、他の騎士たちはチュニックなど、動きやすい格好をしていたが、彼だけは常に何かしらの鎧を装備していた。アランいわく、自分にはこれがしっくりくるのだと。

「皇帝陛下、誠に不躾で申し上げにくいことではございますが、財務大臣のわたくしからお伝えすることがございます」蛾の女王が言い出すと、皇帝はただうなずいた。

「この度のアークジウムでは三千万グレッツが国庫から使われます。そしてそれは同時にゴルゴドール銀行からの借り入れが一億グレッツを超えたということを意味します。わがオスロンド帝国とゴルゴドール銀行は長年の付き合いで、度重なる交渉の後に、なんとか借り入れ金を上げて頂いております。ですがゴルゴドール銀行は昨日の賢人会議にて、一度の貸し付けを百万グレッツまでと制限しました」

 皇帝は白髪混じりの黒髭をなでつけ、メラリッサの言葉を冷静に聞いた。

 メラリッサは一瞬皇帝の顔色をうかがい、話を続けた。

「ゴルゴドール銀行は帝国の財政破綻を危惧しています。おそらく数年は援助を差し止めて様子を見るつもりなのでしょう。そこで──」蛾の女王は改まって座り直した。「我々ゴルド家からご提案がございます」

「──提案だと?」皇帝は言った。

「はい、わたくしから融資の提案がございます」

「なんのつもりだゴルド」デズモンドは言った。「皇帝陛下に融資だと?」

「経済を安定させるためです」蛾の女王はデズモンドに目を移した。「民衆に財政難を知られてはならない。誰かが手を打たねば」

「皇帝陛下を鴨のようにあつかうつもりか」〈鈍牛〉は怒りのこもった声で言った。

「いいえ、まさか。そんなつもりはありませんよ。わたくしはただ、この帝国のために──」

「皇帝陛下」デズモンドは言葉をさえぎった。「なりませんぞ」

 すると突然、扉の向こうが騒がしくなりはじめた。外のざわつきとともに扉が開いた。ラングレンは制止する衛兵たちをうっとおしそうに払いのけ、ここぞとばかりに口を開いた。「いやぁ、おれ抜きではこの有り様ですか。借金に身内のごたごた。なんとまぁ賑やかなことだ」

 皇帝は信じられないような表情で、その乱暴な男を見ていた。

 衛兵たちがついに武器を生成し構えると、ラングレンは両手を広げ、おおげさに言い放った。「これがあなたの礼儀ですか? 兄上。これでも一応皇族なんですよ」

 大司教は立ち上がり、息を荒げながらその乱入者を指を指した。「ラングレン・オーギエム! そなたは追放されたのだ! 賢人会議に押し入るとはなんたる無礼!」

「いやぁ、話を聞いてるといても立ってもいられなくなったもんでな」ラングレンは衛兵たちを馬鹿にするように睨みつけ、さらに飄々と言った。「兄上、この衛兵たちの想像物を解除してくれませんか? 武器を向けられるのはうんざりなものでね」

 パーシバルは思わずカナスと目を合わせた。カナスも目を丸くし、何が起きているのかわからず肩をすくませた。

 デズモンドは皇帝を見上げた。「追い出しますか?」

 だが皇帝はしばらくラングレンと衛兵の悶着を見ていたが、ようやく右手を上げた。すると衛兵たちは武器を粒子状に分解させ、すぐさま門の脇に戻った。扉はゆっくりと閉められ、ラングレンはおおげさに胸をなでおろす素振りをした。「わかっていただけてよかった」

 皇帝は指でこまねいた。

 すると男はいつもの大股でずかずかと歩きだし、十皇月の階段下までたどり着くと、仰々しく一礼をしてみせた。「十皇月のみなさま、ごきげんよう。あまりに久しいもので、自己紹介でもいたしましょうか?」

 全員がこの状況に驚いたが、蛾の女王だけは無表情でいた。「ラングレン卿、あなたらしい登場ですね」

「洗礼式の参加を断られたんですよ。皇帝の弟なのに。腹を立ててもよろしかろう」ラングレンは皇帝を見上げて言った。「ずいぶんと苦労なさってるようだが、おれの留守の間に何があったんです? 見たところ、どうやらいろいろと芳しくないようですがねぇ」

 ラングレンはパーシバルに目を移すと、得意げに微笑んだ。「おれのかわいい甥を闘技大会なんぞに出場させて、命の危険に晒すおつもりですか? 兄上」

「ラングレン卿」アランは言った。「どなたの前で話されているのか、わかっておいでか」

「お前はひっこんでろ。この──」ラングレンはわざとらしく咳払いをした。「これは失礼いたしました。どなたの前で話されているのかは、わかっておいでですよ。サー・アラン」

 するとアランは話しても無駄なことを悟ったように、首を振った。

「相変わらずクソ真面目なこって」ラングレンは皇帝に向き直った。

 大司教は癇癪を起こしたように言った。「発言権があるとでも思っているのか! あなたは本来ここにいるべきでない人間なのだ! 雨の巫女の法のもとやむを得ず召喚を許されているだけだ。それなのに……」大司教は言った。「いますぐに謝罪し、すべての行為を──」

 皇帝が右手を上げると、大司教はすぐに黙り込んだ。

「すべて雨の巫女によって……導かれているのだ」皇帝は静かに言った。「巫女の采配に間違いはない」

「そりゃあいい。巫女の采配か。ぜんぶ雨の巫女に責任を押しつけりゃあいい。──そうそうところで、兄上はアークジウムに多額の投資をしている。そしてそのことは中央連合国にまで知れ渡ってるが……中央連合国は好機を狙って団結をはじめてることはご存知で? モルズのロートレク王を筆頭に中央連合国が強化されてる」

「問題はない」大司教が言った。「中央連合国など烏合の衆に過ぎぬ。帝国に勝利するなど、魚が空を泳ぎだしでもしなければありえないこと」

「実に素晴らしい例えですが、実際に空を飛ぶ魚はおりますよ、大司教」ラングレンは飄々と話すと、大司教は目の下を痙攣させた。

「兄上、いますぐアークジウムを中止して中央連合国の団結を阻止すべきでは? ふたりの後継ぎの亡骸の前でも、雨の巫女の采配がなんだのと言えるのですか?」

 ラングレンはこうやって皇帝に進言しても、皇帝が闘技大会をやめないことぐらいわかっていた。ただ、カナスとパーシバルに見せつけていた。自分の言葉が真実であるということを。

 皇帝は黙ったままだった。ただ目の前にいる愚かな男を見つめてるだけだった。

 ラングレンは続けた。「ホワイトハースの集団狂気のことはみなさんもご存知でしょう? あれはまぎれもなく“想像の歪み”だ。戦争をする意思によって国は滅びるんだ。それも知ってるはずだ。なんたっておれがあんたらに教えたんだからな」

「私からも、よろしいでしょうか?」宰相デズモンドが咳払いをして全員の注目を集めた。禿げあがった頭、吊り上がった眉、大柄で体格のいい男はゆっくりと立ち上がり、一礼した。「ラングレン卿の言ったことはすべて、戯言に過ぎません。ホワイトハースの出来事と我が帝国の破滅との因果関係は極めて薄い。それらの狂気は偶然にほかならない。いまはそんなよりも、我が帝国のことを、民衆のことを、そしてアークジウムのことを考えるのが得策でしょう」

 するとラングレンは“ほれ、見たことか”というように両手を上げてパーシバルたちに見せつけた。「私にはどうしても些細なことであるとは思えませんがね」ラングレンは続けた。「それか……そこまでしてアークジウムにこだわる理由があると?」

 これ以上は危険だ。ラングレンは挑発をやめなかった。必要以上の挑発は死を意味する。パーシバルは緊張した。

 そして皇帝は立ち上がった。何も言わず、杖を使って階段をよろよろと降りはじめた。十皇月たちの席の前を歩き、階段の前でラングレンを見下ろすと、重臣たちは固唾を呑んだ。皇帝はただ、杖で身体を支えながら、その瞳でその男を見下ろした。

 皇帝は低い声で、ゆっくりと言った。「すべて、雨の巫女の、おぼしだ」

 ラングレンが真剣な目をしているのは珍しかった。その男は皇帝の言葉を吟味してから、言葉を探した。「思し召し? なんだそれは」

 皇帝は階段上の玉座を指差した。月光によって照らされた月長石の玉座はミルクのように白く、ときどき海のように青く輝いた。「あそこに座りたいのか? よかろう。ではそうするがいい。お前のかねてからの望みも叶う」

 ラングレンは兄を見上げたまま、何も言わなかった。まるで一瞬、兄弟に戻ったかのようにも見えた。皇帝はさらに階段を降り、ラングレンと正面から向かい合った。

「──だがお前にあそこに座る権利はない」皇帝はそして弟の肩に手を置いた。そして皇帝はラングレンの耳もとで小さく囁いた。「お前は雨の巫女に見捨てられたのだ。この外道め」

 ラングレンは鼻で笑った。

「何がおかしい」

「あんたは……」ラングレンは皇帝にしか聞こえない声で話した。「いずれこの帝国を滅亡させる」

 皇帝はすぐに答えた。「すべて我々オーギエム家を絶やさぬためにやっていることだ。息子は必ずこの帝国を救う。お前にそれができるというのか?」

「さぁな。だが本当にアークジウムですべて解決しようとしているなら、大きな間違いだぞ」ラングレンは皮肉をこぼした。「それに、あんたの息子はカナスだけだろう?」

「お前に意見する資格があるのか? ラングレン。お前のような人間が……」

「おれがどういう人間だって……?」ラングレンはタイストを睨みつけた。「言ってみろ……」

 皇帝は穢らわしいもののように弟の肩から手を離すと、ゆっくりと扉へと歩きだした。

 すると老人たちは慌てて皇帝の後を追い、他の十皇月も出ていった。

 ラングレンは通り過ぎる十皇月たちには目もくれず、考えにふけるように立ち尽くしていた。

 残ったのはラングレンと子供たち。そしてメラリッサだった。彼女は宝石の指輪がはめられた、枝のように細長い指をもて遊びながら、わけ知り顔で言った。「余計な心配をなさるより、闘技大会を満喫なさったほうがよろしいのでは? あれが終わればミュリンへ帰るのでしょう。たったの一週間しか余暇はありませんよ」

「ああもちろん、楽しむつもりだ」ラングレンは言った。「ぞんぶんにな」

 蛾の女王はカナスを見てから、そしてパーシバルを見た。蛇が茂みの中をかいくぐるように、何かを探っていた。「そうだとよいのですが……」

 女は月長石の席から立ち上がり、皇子たちに一礼してから、階段を降りた。「──そう言えば……」そして階段の途中で立ち止まり、振り返った。「帝国内に中央連合国の密偵が忍びこんでいたそうです。捕えたときに自ら命を絶ったようですが……」

 ラングレンは鼻を鳴らした。「そうかい……」

 女はラングレンを無視してふたりの皇子に目を移した。「くれぐれもご用心ください。帝国にはいくつかの密偵が隠れ潜んでいるようですから。──不用心に人を信用してはなりませんよ」そしてラングレンにも軽く会釈をしてから、皇帝の間を去っていった。

 ふたりの皇子と男はその女が扉の向こうに消えるまで待った。

 ようやく女がいなくなるとラングレンは閉ざされた扉を見据えたまま、鼻を鳴らした。

 カナスはふと弟に目をやった。階段下の男を見下ろす弟は、メラリッサの言葉を噛み締めているようにも見えた。たしかに、あの女の言うとおりだった。やすやすとラングレンを信用するのは危険なことだ。自分も、叔父を信用してよいものかわからない。いや、どちらかというと信用はしていない。だが、パーシバルの感情はきっと、もっと複雑であることは間違いないだろう。





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