第3話 ラングレン

3 ラングレン

 


 瑠璃の間を最初に見つけたのはパーシバルだった。皇帝の塔の下層部でかくれんぼをしていたとき、昔から使われていない物置小屋を見つけた。たしかまだセシルやララが産まれてもいないときだった。

 そのときはほこりと蜘蛛の巣だらけで、想像物ではない本物の骨董品が山積みになっていた。骨董品の廃棄は兄弟ふたりでなんとかやってのけたが、鼠の駆除だけはどうにも厄介だった。カナスは昔から頭がよかったが、別にだからと言って虫や鼠が得意なわけではなかったのだ。

 この部屋を使っていることを見つかってはならない。なぜなら皇子たちには専用の談話室があったから。だがその談話室というものは、談話を楽しめるような場所ではなかった。常に衛兵がいるし、使用人たちがうろついている。

 礼儀知らずな言葉を使えばすぐにロデリックの耳に入るし、帝国を嘲るような言葉を使えば、性格の悪い使用人にでも報告されてしまう。

 それに比べてここはいわば皇子たちにとって秘密基地のような場所だった。どんな言葉を使おうが、帝国の文句を言おうが、関係なかった。

 ロデリックにも勝手に瑠璃の間へ入るなとちゃんと釘を刺している。告げ口をすれば、あのアビゲイルとかいう看護師といい仲になっていることをみんなにバラしてやるとカナスは脅した。ロデリックは口をひん曲げて何か言いたげにしていたが、さすがに反論しなかったようだ。

 ただし、あまり長居はできない。この迷宮のような城で衛兵はいちいち皇子たちの居場所を把握しているわけではないが、さすがにしばらく姿を見かけないと探しにくるだろうから。

 “雨の巫女”は長い髪を垂らす美しい女性で、両手から水をとめどなく流し続けた。海のように透き通った翡翠でできていて、女神はこの空間に癒やしを与えた。

 兄妹たちは噴水のそばの無機質な石造りの丸テーブルを囲んでいた。

 パーシバルは思った。このささやかな秘密基地に、ほんの少しの果物やベーコンなどのつまみ、ワインの入ったグラスさえあれば、文句はなかったのに。でも贅沢は言ってられない。瑠璃の間には給仕すら入れないという決まりだったから。

 それに想像術で食べ物を生成するのは禁止されている。有機物は想像術で作ってはいけない。衛生面や栄養面が関わっているものは、人体へ入れることは危険とされた。確かめたこともなかったが、とにかく、法律でそう決まっているのだ。

 ロデリックが言うには、昔ある使用人がこっそり生成して焼きたての白パンを食べていたのだという。だが次の日に彼は一日中、厠にこもりきりだったという。そして月に一回の検閲で想像術の履歴を見られ、彼は追放された。彼は下賎の身分に逆戻りして帝都を追放なんて、死刑宣告も同じことだった。彼がいまごろ無事であることを祈るしかない。

「聞いたかパーシバル」カナスは嬉しそうにパーシバルの肩を掴んだ。「叔父上が帰ってくるんだ」

「……そうかい」とりわけパーシバルは苛立ったように言った。

「わかってるだろ?」カナスは声変わりのほとんど完了した、大人びた声で言った。「おれたちの試合を見に来たんだ。いまだけは帰還が許されているはずだからな」

「私は叔父上のことは憶えてないわ。だって最後に会ったのが十年前よ。私はまだ小さな子どもだったから」

「いまでも小さな子どもじゃないか」カナスは言った。

「うるさい。わたしはもう立派な大人です」

 そしてセシルは珍しくおもちゃ遊びではなく、バルコニーから見える凱旋に興奮していた。そして声でないうめき声をあげて、歓喜の感情を表した。

「セシルも楽しみだとさ」カナスははしゃぐ弟を見て微笑んだ。

 パーシバルはどうも不機嫌そうに、あしらうようにうなずいた。「セシルは誰のことだかわかってないだろ。生まれてすらないんだから。なんてみんなが騒ぎ立ててるのかすらわかってない」

「なぁ、パーシバル、最後に叔父上に会ったときのことを憶えてるか?」カナスは言った。

「……いいや」パーシバルはそっけなく答えた。

「パーシバル、あなたは叔父上と仲が良かったって聞いたけど」とララ。

「叔父上はお前のことを特にかわいがってくれてたろ」

 パーシバルはカップに入った葡萄水を飲むふりをして誤魔化した。「さぁ、よく憶えてない」

 カナスは両手を挙げた。「何をそんなに不機嫌にしてるんだ?」

「英雄の凱旋じゃあるまいし」パーシバルは吐き捨てるようにささやいた。

 カナスは鼻を鳴らした。「まぁ……叔父上はたしかに奔放な人間だけど……」

「パーシバル、ラングレンおじさまと何かあったの?」ララはいつもの心配そうな表情で聞いた。

「別に何もない。気にしないでくれ」

「おれたちは叔父上を迎えに出る」カナスは言った。「お前はどうする?」

「僕はここにいる」パーシバルはバルコニーの外を眺めるふりをした。

「ほんとうにいいの? 叔父さまはパーシバルに会いたがるんじゃない?」

「……みんなで行ってくるといい。僕は構わない」

 カナスとララ、セシルが出ていくと、パーシバルはバルコニーから街を見下ろした。

 豆粒のように小さくある光景が見えた。二十人以上の衛兵に囲まれ、馬にまたがった男。その男は民衆に向かって愛想よく手を振っていた。

 ラングレン・オーギエム。オーギエム家の除け者。人間のだらしなさを詰め込んだような放蕩者。そしてパーシバルにとっては忌むべき相手だった。

 帝国、学院、雨の巫女教団が共同で主催する十年に一度の大祭典(とはいえ数百年ぶりに、つい十年前に復活させたばかりだが)世界最大の闘技大会〈アークジウム〉。

 罪人の処刑からはじまり、剣闘士と“人食い”の戦い、模擬海戦など、様々な演目の催しものが繰り広げられる。その中でも〈アークジウム〉のメインイベントは選ばれた八組のトーナメントだった。それは最終決戦でもあり、人々が最も期待するメインイベントだった。最後まで勝ち進んだ者には優勝杯が贈与される。それを手にしたものは、幻想の王の力を手にすることができるという。ただし、灰燼文書の言葉が真実であればの話だ。

 十年前にはサー・アラン・ルインが初優勝を果たした。彼らは強さの証である優勝杯を手に入れ、その中でもアランは帝国で最も高潔な騎士に選ばれた。

 アランは言っていた。十年前のアークジウムは今回のための演習に過ぎないのだと。

 今回、皇帝は法律によって十歳を超え出場権を得たふたりの後継ぎを出場させる。皇帝ならばいくらでも根回しをして皇子を優勝させることができる。ただし、それがそこらの並の闘技大会であるならばの話だ。アークジウムはそうはいかない。例え皇帝であろうと、世継ぎの皇子であろうと、不正は許されない。

 雨の巫女がいてこその帝国であり、不正は巫女や先祖の英霊たちへの冒涜となる。帝国を動かしているのは皇帝だけではなく、始祖の意思が前提にあるのだ。

 カナスが優勝すれば晴れて“約束された皇子”が真実になる。だが負ければ、ただの誇張された肩書きになるだろう。これは国としての威信をかけた戦いなのだ。

 パーシバルには理解できなかったが、どういうわけか民衆は想像術を使いこなせる者を強き者として認める風潮があった。誰がそんなくだらないことを決めたのかはわからなかったが、民衆が強く勇敢な指導者を求めることには変わりなかった。

 そんな中まさしくカナスはこんな能力主義の世界で、誰もが認める皇帝の座にふさわしい人物だった。それは間違いなかった。

 そしてそんなカナスとは対象的に、自分は想像術をうまく扱うことができなかった。そしてその原因となったのがまさしく、あの男だった。


 瑠璃の間の扉が乱暴に開けられると、その男は両手を掲げ、「パーシバル!」と意気揚々と叫んだ。

 古く毛羽立った分厚い熊の毛皮に、ボロの布切れのようなダブレットは胸元がはだけ、そして男の胡散臭さを引き立てるのがあの安っぽい指輪や宝石の数々。白髪まじりの黒の長髪を金のサークレットで留め、馬のように長い顔は痩せこけ、伸ばしっぱなしにしただらしない髭が顔を覆っていた。そして笑うたびに黒ずんだ乱杭歯が見えた。

 男はいきなりずかずかと大股でこちらに近づくと、否応なしに甥を強く抱きしめた。

「久しぶりだなぁ! パース! 元気にしてたのか!」男が話すたびに酒くさい息と、おそらく一週間はまともに風呂にも入っていない体臭が鼻をついた。「おれはお前に会いたくて仕方なかったぞ! カナスもだ! あいつぁずいぶん立派になってびっくりしちまった……。ついにお前たちがアークジウムに出るなんてなぁ。まるで信じられん。最近まで赤ん坊だったのによ!」おしゃべりな男ははがっしりと甥の肩を掴んで言った。

「どうでもいいから離してくれよ」パーシバルは嫌悪のこもった口調で言った。「それにカナスは十六だ。忘れたのか?」

「……ああ……まぁ、同じようなもんだろ?」

「いいからやめろ。離してくれ!」パーシバルは叔父の両手を振り払い、すぐに椅子に座りなおした。

 叔父はパーシバルの反応など気にしていないように笑ってみせた。「ララもべっぴんになったなぁ、あんときはまだこんっなにちいちゃかったんだ。よちよち歩きの赤ん坊だったんだぞ。弟もできたみたいでおれぁうれしいぞ」

「セシルよ」ララは言った。

「そうか! セシル!」

 セシルが奇妙な言葉と動きではしゃぎだしたのを見ると、男は眉をひそめた。「まぁオツムは少々弱いみたいだが、問題はない。なんたっておれぁ目を見ればわかるんだぜ。人間の本質ってのは目に宿るんだ。──この小僧は頭がいい。きっと大物になるぞ」

「だってさセシル、よかったな」カナスは言ったが、セシルは見向きもしなかった。「まぁ聞いちゃいないけどさ」

「とにかくみんな立派になって、うれしい限りだ!──そしてパーシバル! お前はまた一段と男前になりやがって、この色男め!」

 パーシバルは無神経な叔父を睨みつけた。「もういいだろ? 用が済んだならもう行ってくれ」

「待て待て、まぁそう焦るな。お前に渡したいもんがあるんだ」すると男は懐から小さな箱を取り出し、石造りのテーブルの上に置いた。「……これはなんだと思う?」

 パーシバルはラングレンを睨みつけたまま、箱などには目もくれなかった。「何のつもりだよ」

 ラングレンは箱を開けると、魚の形をした銀のブローチをパーシバルに見せた。「どうだ? ミュリン名産のニシンのブローチだ」

 パーシバルは言葉を失い、呆れたように首を振った。「……こんなものいらない」

 ラングレンは残念そうにふん、と鼻を鳴らした。「お前なら気にいると思ったのになぁ」

 パーシバルは無感情に言った。「挨拶が済んだならもう行ってくれ。頼むから……」

「叔父さまはパーシバルを気にかけてくださってるのよ」ララは言った。「どうしてそんな態度をとるの?」

「……関係ないだろ」

「──ま、まぁ……とにかくだ!」ラングレンは神妙な雰囲気を大声で切り上げた。「これで全員勢揃いというわけだなぁ!」

「そうだ。叔父上、ミュリンの生活はどうなんだい?」カナスは冗談めかして聞いた。

 ラングレンはその質問を待っていたかのように、骸骨のような細い身体をくねらせてマントを払いのけ、石造りのスツールに座った。

「そりゃあもう最高だぜ? 塩漬けの生ニシン以外の料理を思い出せねぇからなぁ」ラングレンは言った。

「そりゃいい」カナスは笑った。

「ねぇ、お父さまとは話をしたの?」とララ。

 セシルが不思議そうにおしゃべりな中年男を見ていた。ラングレンはそれに気がつくと、ひとつの指輪を外し、剣士のおもちゃを生成しセシルに渡した。セシルは喜んでそれを持って駆け出した。

「セシル、叔父さまにありがとうは?」ララは言ったが、セシルもうどこかへ走り去っていた。

 ラングレンは石のテーブルをコンコンと叩いた。「兄貴と話すより、このテーブルと話したほうがまだものわかりがいいってもんだ。おれとの謁見を拒否しやがったんだよ」

 ララは眉をひそめた。「相当仲が悪いみたいね……」

「父さんは……ああいう人だから……」カナスは肩をすくませた。「仕方ないさ」

「お前ら兄弟がうらやましいよ。仲が良くて。まぁそうだな、兄貴は優秀で弟はてんでダメなとこはおれたちと共通してるが」

「うるさい」パーシバルは叔父を睨みつけた。「一緒にするな」

「冗談だって、怒るなよ。な?」ラングレンは憎たらしい笑みで応え、カナスに口添えするようにわざと囁いた。「なんだその顔はよぉ。こいつぁどうやら反抗期ってやつみたいだな」

 パーシバルは呆れたように首を振った。

「叔父さまはアークジウムのために帝都へ?」ララは言った。

「ああ、そうだとも。かわいい甥や姪に会いにきたのもあるが、なによりカナスとパーシバルが闘技大会に出場するんだ。記念すべき日をこの目に焼きつけておかないとな。 だから絶対に死ぬんじゃないぞ。甥っ子の死にざまなんて見たかねぇからな」

「そのつもりだよ」カナスは言った。「全力を尽くす」

「なんだか叔父さまって、本当のお父さんみたいね」ララは言った。「だってお父さまはこんなに心配しないもの」

「馬鹿言うな。おれは父親の器じゃない。こんな立派な子供たちの育てられたのは兄貴だからこそだ。ああ見えても兄貴は、お前たちを気にかけてるんだ」

「父さんは後継者を気にかけてるだけだ」パーシバルが口を開いた。「それに……あんたに父親はつとまらないことはそのとおりだ」

 するとカナスは呆れたように言った。「……パーシバル、いい加減にしろよ。いくらなんでも失礼だろ」

 パーシバルは怒りのこもった目でカナスを睨みつけた。「何も知らないくせに」

「いつまでもそうやってふてくされてるのはよせ。みっともないぞ」

「ふてくされてなんかない!」

「そうか。じゃあ自分の顔を鏡で見てみろ」カナスはパーシバルの顔を指差した。

「そういう態度が──」パーシバルが言いかけると、爆発音が鳴り響いた。それはララがいつのまにか生成した木のハンマーで石のテーブルを思い切り叩いた音だった。パーシバルとカナスは固まり、ラングレンとセシルでさえ驚いていた。

 ララはため息まじりに言った。「……ふたりとも、そこまでにしておきなさい」

 ララの一言でパーシバルは席に座り直した。

 そしてラングレンは改まったように咳払いをして言った。「兄弟喧嘩が済んだか。じゃあお前らに見せたいものがある。ついてこい」




✱✱✱


 一週間後の〈アークジウム〉のために円形闘技場の砂は綺麗に均されていた。古びた灰色の塔〈闘いの塔〉は闘技場に密着するように建ち、すべてを見下ろしていた。

 闘技場の縁には八つの巨大な石像があった。オスロンド帝国初代皇帝であり、最も偉大な想像術者であり、最も勇敢な女戦士であるクロヴィッセ・オーギエムは闘いの塔の反対側にいた。右手には丸いものを繋げたネックレスが握られていたが、それは半分ほど煙のようになっていて、鎧として身体に生成されつつあった。そして掲げる左手には、すでに生成された剣が闘技場の中央上部を指し示していた。

 あれほど巨大で繊細な彫刻はこの帝都だから造れるものだ。世界で有数の彫刻師たちを集められるのはこの帝国だからこそだ。巨像をじっと見ていると、その巨大さと迫力で圧倒されてしまいそうになった。

 それぞれの巨像は勇ましい出で立ちで中央に向かって剣や斧、槍、弓、盾など、それぞれ異なる想像物を掲げていた。彼らはオスロンド帝国皇族家の優れた剣闘士たちだった。八人の剣闘士たちはこの闘技場が建てられた千年以上も前からここを守り続けているのだ。

 闘技場を守る剣闘士たちはなぜか八人と決まっていた。皇族家の剣闘士たちの質感はそれぞれ古いものや、新しいものがあった。ここにある八体の巨像は常に最高峰の腕を持つ想像術者たちでなければならなかった。つまり、想像術の腕前次第では、巨像は破壊され、新しく選ばれた優れた人物が歴史に名を刻むことになる。

 闘いの塔の直下には、皇帝や上流階級の者たちの観覧席があった。座り心地の良さそうな椅子が並べられた特別な観覧席は天幕付きで、さらに天幕から黒豹の紋章が刺繍された二本の巨大なタペストリーが吊るされていた。オーギエムの黒豹は身体を丸め、シルクの刺繍によって金の牙はより輝いて見えた。

 そして皇帝たちの豪華な観覧席の下には、先端に炎を頂く二本の柱があった。そしてその中心にある金色に光る何かは衛兵によって厳重に守られていた。炎によって艶めかしい光を放つそれは、子供たちの目を奪った。

 その物体は、まるで金色の不死鳥が羽ばたかんとしているようにも見えた。

「優勝杯だ」ラングレンは指差した。「しかも今回のはただの優勝杯じゃない。〈蝶の杯〉とも呼ばれる特別なものだ」

「すごい……とても綺麗ね」ララははセシルの手を引きながら言った。

「純金でできてるからな。もちろん想像物じゃないぞ。正真正銘本物の金だ」ラングレンは言った。「そしてあれがお前たち兄弟が目指すべきものだ」

「そんなの知ってるさ」パーシバルはそっけなく言った。「いまさら言わなくたって」

「まったくつれないやつだなぁお前は」ラングレンは言った。「あれがどれほど重要なものかわかってないみたいだな」

「……名誉そのものだよ」カナスは蝶の杯を見据えていた。「あれために剣闘士たちは命を賭ける」

「そのとおり」ラングレンは満足そうにうなずいた。「世界中の王や貴族、騎士や傭兵、想像術の腕の秀でた者なら、身分は関係ない。十歳以上なら誰だって予選に応募することができる。そして三ヶ月間、いくつもの予選を経て、選ばれた八組が雌雄を決する。まぁお前たちふたりは最初から出場が決まっているがな」

「王や貴族が賭けてるのは命じゃなくて金だよ」パーシバルは言った。「あんたは誰に賭けるつもりなんだ? 〈蛾の女王〉の晩餐会への招待は受けてるんだろ?」

「誤解するなかわいい甥よ。おれは誰にも賭けるつもりはねぇさ。お遊びに来たんじゃないからな。お前たちを応援してるんだ」

 パーシバルはラングレンの飄々として、どこか影のある話し方が好きではなかった。誰にでも調子よく話している人間だ。

「ところで、お前たち。帝都から追い出されたおれが帰ってきて、貴族どもはどう思うかね?」

「みんな嫌ってるだろうさ」パーシバルははっきり言った。

「おーい!」ラングレンは大げさに演技をした。「大人だって傷つくんだから、もうちょっと優しく言えよな」

「でも、まぁ、パースの言うとおりだな」カナスは肩をすくめた。「叔父上は敵が多い」

「……まぁ……ああ、そういうこった」叔父はため息混じりに言った。「それもな、かなりのもんだ。なぜなら、お前らの次に玉座に近しい人間だからな」

 ラングレンはどこか誇らしそうにしていたのを見ると、パーシバルは嫌気がさした。

「ここはうってつけね」とララ。「帝都で一番広いもの。誰にも会話を聞かれない」

「おれが城を歩くと何人もがおれにつきまとってくるんだ。連中、バレてないとでも思ってるのかね。コソコソ嗅ぎつけてうっとおしいったらありゃしない。──それについでだ。お前らが闘技場に来る機会もないだろうと思ってな」ラングレンは言った。「いまのうちに目を慣らしとけよ。本場になってビビらないようにな」

 そのとき突然、骨に響くような地鳴りが轟いた。地面から巨大な檻がゆっくりとせり上がってきた。

 ラングレンは檻の方に振り返ると、言った。「あれにも目を慣らしとけ」

 全長五十メートルはあろう巨大な長細いものは、無数の足を動かし、うごめいた。巨大なムカデはゆっくりと頭を上げると、人間の赤ん坊の顔をのぞかせ、無邪気に笑った。やがて赤ん坊の顎はぱっくりとふたつに割れ、酸性の唾液を滴らせた。

「あぁ……なんて不細工な面だ」ラングレンは忌まわしそうに顔をしかめた。

 調教師であろう男が体の倍以上もある長い棒を振った。その先端には藁を丸めたものがついており、赤ん坊の顔はその棒の動きに合わせてゆらめいた。

「気持ち悪い……」ララはつぶやいた。

「ねぇ、あの人は何をしてるの?」カナスは調教師を指差した。

「さぁな。手懐けてるか、落ち着かせてるのか。知りたくもねぇな」ラングレンは絹のマントを翻した。「もっと近づいてみたいのか?」

「遠慮しとくよ」カナスは言った。

 パーシバルはぞっとした。ムカデはこちらを認知するや否や、ぎょろっとした目で兄妹たちをとらえた。だが違った。そのつぶらな瞳は、ラングレンやカナスたちではなく、パーシバルを見ていた。好奇心の向くままに、じっとこちらを観察していた。そしてふたつに割れた顎をガチガチとならした。

「パーシバル。お前気に入られたみたいだぞ」ラングレンはなぜか得意げに言った。

「うるさい」パーシバルは強がったが、下半身の力が抜けているのがわかった。

「わたしはやっぱり怖いわ」ララはカナスの後ろに隠れて言った。

 セシルはさらにララの後ろに隠れて言葉でない言葉をうめいた。

 まもなく、地鳴りとともにさらにいくつもの檻が、円を描くようにして地下からせり出した。ラングレンたちは檻に囲まれた。

「いまこいつらが解き放たれたら、おれたちは間違いなく終わりだな」ラングレンは言った。

 鎖で繋がれた猿のような化け物、人間の手が無数に生えた、黒く、這い回る化け物、化け鼠や巨大タコ……。調教師たちは三十もの檻にそれぞれひとりずつ配置され、化け物を手懐けていた。

「こんなやつらと戦うなんて……」カナスはそれらを見渡した。

「心配すんな。一試合につきたったの一匹みたいだからな」ラングレンは言った。

「人間同士の対決じゃないの?」とララ。

「観客が喜ぶんだろう」ラングレンは言った。「カナスなら化け物どもでも蹴散らしちまうさ。ただ問題はパーシバルだ。もし想像術がまともに使えないまま闘技大会に出場してみろ。あっという間にこいつらの胃袋の中だ。それもバラバラにされてな」

「余計なことを」パーシバルはいらついていた。

「あぁ、悪かった」

「僕だって闘技大会なんて出たくないさ」パーシバルは言った。

「しきたりってのは厄介だよなぁ。まぁしきたりと言っても? 皇帝本人が決めたことだがな。アークジウムを復活させて、兄貴は想像術の使えないお前まで出場させる」ラングレンは細長く伸び、無精髭の生えた顎をさすった。「まともじゃねぇよなぁ」

 五人を囲む檻はやがて地面に戻っていった。ただひとつ残った檻には馬を一頭丸呑みにできそうなほど巨大な鼠がいた。檻が開くと、何人もの調教師がフェロモンを撒きながら、それを外に誘導した。鼠の首輪から大人の腕よりも太い鎖が垂れ下がり、それは檻に繋がっていた。

 檻は床と一体となっているので、あの鼠が檻を引きずって逃げ出すことはない。ただ、あの程度の鎖から、もしかすると引きちぎることもできるのではないか? パーシバルはそれを想像するとぞっとした。

 きっとカナスが守ってくれる。ラングレンはあの鼠を打ち倒すほどの実力があるのだろうか。実際のところわからなかった。この男が戦っているところは見たことがなかったから。それに、自分たちを見捨てて逃げ出すことも、ありえるだろう。

 ラングレンはマントを翻すと、改めて言った。「なぁ、お前たちに聞きたいことがある」そして間を開けた。「いま、この帝国は安全だと思うか?」

 突然の質問に子供たちは戸惑った。

「まぁ、安全だからこうして闘技大会を開催するんじゃない?」ララは人食いを気にしながら答えた。

 カナスは人食いのことはさほど気にしていないようだった。「たしかに中央連合国との冷戦中だけど……やつらは烏合の衆だ。帝国に歯向かおうと必死にあがいてるが、帝国の守りは世界一だ」

 しかしセシルはいつものように「ああ、うう」とうめくばかりだった。

「おれぁな、昔っからややこしい話は大嫌いだ。だから結論から言わせてもらうぜ? いいか、よーく聞いとけ」叔父はひと呼吸おいてから言った。「このままだと帝国は滅びる」

 カナス、パーシバル、ララは黙り込んだ。そして顔を見合わせた。また叔父は何か言い出したぞ。と言わんばかりに、半ば呆れたようにしていた。言葉を理解しているのかはわからなかったが、セシルでさえ、目を丸くしていた。

「なんだお前たち。おれは真面目に言ってるんだぞ?」ラングレンは不服そうだった。

 ララはついに笑いをこぼした。「滅びはしないわ。大げさね」

 カナスは肩をすくめ、妹の言葉を引き継いだ。「むしろ繁栄を続けてる。いまもこうして人食いを飼い慣らしてアークジウムの演習をしてる。まぁたしかに中央連合国とは冷戦中だけど……。帝国が彼らの侵攻を許したことは一度もないんだ」

 ラングレンは拍子抜けした顔でひと呼吸おいてから、深くため息をついた。「やっぱりな。お前らは何もわかっちゃいない。いいか。この帝国を滅ぼすのは中央連合国でも、暴徒でもでもない」

「じゃあ誰が?」ララは言った。

「はっきり言わせてもらうが、お前たちの父親だ」

 子供たちはまた固まった。

「灰燼文書のことを言いたいのか……?」パーシバルは呆れていた。「そのことだろう?」

 ララは半分冗談でも聞くようにしていた。「あんなの嘘よ。あなたたちまさか、あの夢みたいな話を信じてるの?」

「〈三千年の後、器を持て。そこには血が注がれる〉」ラングレンは言った。「灰燼文書にはそう刻まれていた」

 カナスは言った。「父さんがその力を利用して戦争をしかけるつもりだと?」

 ラングレンは腕を組み、頷いた。「ああ。アークジウム開催当日が幻想の王が死んでから三千年後。そして器はあの蝶の杯。血というのは何らかの力が宿ることを意味してる。皇帝はそう解釈したんだ」

「蝶の杯に力が宿るなんて信じられない。現実的に……」パーシバルは言った。

「噂が真実かどうかはまだ問題じゃない。おれだって疑ってるぜ? でもな、少なくともお前らの父親や連合の王たちはそれを信じてる。それが問題なんだ」

「で……父さんは戦争をしようと?」カナスは言った。

「そうだ」ラングレンは続けた。「皇帝や連合国の王たちはもちろんそれを欲しがるだろう。もし灰燼文書の言葉が本当なら、皇帝はあの蝶の杯を使って何をすると思う。圧倒的な力を持つ兵器が手に入れば、欲深い人間がやることはひとつだ」

「なぜ帝国の儀式のことを中央連合国の王たちが知ってるの?」ララは言った。

「ロートレク王は皇帝を常に警戒してる」ラングレンは言う。「お前らよりも帝国の歴史について詳しいはずだ」

 パーシバルは言った。「皇帝も中央連合国も灰燼文書の言葉どおり、幻想の王の力が優勝杯に宿ると信じている。だから帝国と中央連合国はそれを奪い合うために戦争を起こすと?」

「そうだ」ラングレンは真剣だった。

 パーシバルは続けた。「でももし、幻想の王の噂が、灰燼文書がただの神話を刻んだ石碑に過ぎなかったら、あの優勝杯はただの純金の塊ってことになる。そうなれば、戦争は起こらないじゃないか。帝国はいまの戦力じゃあ中央連合国を圧倒することもできないし、中央連合国だってわざわざリスクを犯さないだろ? 噂が嘘ならそもそも戦争を起こさない。中央連合国の王たちだって灰燼文書が嘘だったと知れば、さっさと引き返すさ」

「うまくいけばそうなる。うまくいけばだがな。ロートレク王は賢明な王だ。実質的に十二の連合国をまとめあげてるにも等しい。そして彼は穏健派だ。灰燼文書が本当だとすれば防衛のためにやむなく戦争を引き受けることはあるかもしれんが、彼から喜んで戦争をしかけることはない」

「灰燼文書が本当かどうかによって戦争の行く末が変わるのね」ララは言った。

「だが話はそう単純じゃない。──おれたちにとってかなり厄介な人間がいる」

「……厄介な人間?」とパーシバル。

「あの暴力的で自信家の王、テオグリムだ。数十年前、やつはアテリアを一度帝国に侵略されかけた。追い返しはしたが、そのせいで多くの家族や民を失った。帝国への憎しみが最も強い男と言われてる。そして分が悪いのは、テオグリムは中央連合国でロートレクの次に力を持つ王だってことだ。あの男が穏健派のロートレクの意向を無視して強攻策に出る可能性はおおいにある。それにテオグリム以外の王たちが欲に目が暗めばどうなるかわからん。きっと幻想の王の力をみすみす放っておくような人間はいないだろう」

「なんだかこんがらがってくるわ」ララは顔をしかめた。

「要するに、噂が真実であれ嘘であれ、戦争は起こるってことだ」とラングレン。「アークジウムの開催が、戦争の引き金ってわけさ」

「でも、戦争が起きたからってこの帝国が滅びるなんてあまりに大袈裟すぎるわ。中央連合国になんて負けるわけないもの」ララは言った。

「優勝杯に幻想の王の力が宿り、王たちはそれを信じ、争う」パーシバルは言った。「でもなんで父さんが帝国を滅ぼすんだ。論理がおかしいじゃないか」

「おれたちにとって最大の脅威は灰燼文書でも戦争でもない」ラングレンは言った。「お前らの父親だ。もっと言えば、“想像の歪み”だ」

「それはなに?」ララは眉をひそめた。

 ラングレンは続けた。「幻想の王を殺した人類への罰」

 パーシバルは呆れたように両手をあげた。「灰燼文書の次は呪い? 突飛押しもない話だ」

「突飛押しもない話で終わればそれが一番いい。だが現実はそう甘くない」ラングレンは続けた。「数週間前のホワイトハースでのアルヴィン王の狂気を知ってるか?」

「さぁ」パーシバルは肩をすくめた。

「やっぱりな……。それじゃあ、これは知ってるか? ボルホートでの一ヶ月前の事件」

「ボルホート?」パーシバルは言った。

「ダンタリアの小さな街だ」カナスは言った。

「それで?」ララは催促した。

「──ボルホートでは集団自殺があった。聞いたところによると、その死に方がどれも常軌を逸したものだったらしい。普通の死に方じゃなかったようだ。心理学者たちもお手上げだったらしい。いまのところ、これらの事件は幻想の王の呪いによるものだとされてる。それが“想像の歪み”と呼ばれる現象だ」

「そんなこと、聞いたことがなかったわ」ララは言った。

「知るよしもないだろう」ラングレンは言った。「帝国の貴族どもはあの蝶の杯についての興味でもちきりだ」

「──でももしホワイトハースが滅びたのなら、誰がその事件のことを広めたんだ?」カナスは言った。

「給仕の女だけが生き残ったらしい」ラングレンは周りを気にした。「なぜかひとりだけ、生きて戻ったようだ。その女の証言がなければホワイトハースの事件は記録にも残っていなかっただろう。その女は滅びゆくドルミオンからダンタリアに逃げ込んだ。そしてランドン王にドルミオンの狂乱の大虐殺についてこと細かに話したそうだ」

 子供たちは叔父の言葉に耳を傾けていた。パーシバルだけは疑わしそうに腕を組み、ラングレンの言葉の裏を見抜こうとしていた。

「呪いはある規則性に基づいて発生することがわかってる」男は続けた。「……戦争だよ。イカれた事件の前には戦争が起きてる。ホワイトハースでのアルヴィン王の狂気の前にはドルミオンはダンタリアとの戦争に勝利したばかりだった。ボルクの集団狂気はイリシュ動乱があった直後だった。アンヴルトの集団自殺は戦争の直前に起きたようだ」

「ふぅん……」ララは言った。

 ラングレンは言った。「“想像の歪み”は戦争によって引き起こされる現象だ。ただアンヴルトは戦争になりかけたが、実際には戦争をしていなかった。それなのに滅びてしまったんだ。つまりアンヴルトを例にとると、戦争というより、戦争を引き起こそうとする意思が影響してるのかもしれない。だからお前たちの父親が戦争をする意思を持ってるだけで、帝国はホワイトハースの二の舞いになりかねないってことだ。中央連合国も同様にな」

 カナスは言った。「アークジウムで幻想の王の力が優勝杯に宿る。それを信じる王たちよって戦争が起こる。戦争が起これば帝国も中央連合国も滅びると。その“想像の歪み”によって」

「そのとおりだ」男は言った。「おれの話をおとぎ話だと思うか?」

「別にそうは思わないけど……」ララは言った。「ややこしくてよくわからないわ。わたしは別にどうだっていい」

 するとラングレンは大げさな素振りで落胆した。「まったく……。危機感ってやつがねぇよなぁ、お前らにはよぉ……」

 カナスは何かを考え込むようにため息をついた。「正直、おれもよくわからない。いきなりそんなことを言われても……」

「あれを見てみろ」ラングレンは人食いの檻を指差した。「あれが野生の獣に見えるか? 神が創りたもうた自然のものだと思うか? 大違いだ。人食いは明らかに異形のものだ。ここ数百年でも野生では見られることは滅多になかったのに、ここ最近では急速に数を増やしてる。駆除が間に合わないんだ。──つまり、この世界は明らかに歪みはじめてるということだ。世界がおかしくなってるんだよ。わかるかい?」

 子供たちは沈黙し、それぞれ考え込んでいた。

 男は説得を続けた。「お前たちにとって幻想の王や、灰燼文書や、王たちの戦争などどうでもいいかもしれん。おれだってそんな壮大な話は理解できねぇけどよ。でもな、家族の命がかかってるんだ。お前たちと、愛するものの命が」ラングレンは優勝杯を指差した。「要はあの優勝杯を手に入れろってことだ。簡単な話だろ?」

「蝶の杯を手に入れて、どうするつもりなんだ?」パーシバルは言った。「優勝したって、あんなもの、簡単に奪い取られてしまう。だって帝国は父さんのものなんだから」

「おれたちで守り通すしかない」ラングレンは言った。「おれたちで協力して、守り抜くんだ。実際にそのときにならなねぇと、蝶の杯にどんな力が宿るかわかったもんじゃねぇ。でも、皇帝や中央連合国の王たちの手に渡るぐらいなら、そのときは躊躇せず破壊する」

「壊せるの?」ララは言った。「そんな力が宿るなら、きっと普通の人間では壊せないんじゃない?」

 ラングレンは口角を下げた。「さぁな」

「さぁな……」パーシバルは怪訝そうに首を振った。「あんたがわからなければ、どうしたらいいんだよ」

「そんなことおれに言われても困るぜ。やるしかないだろ。お前たちは優勝するしかない。それだけだ。あれを手に入れ、守り抜くんだ」叔父は続けた。「帝国の破滅を止めるにはそうするしかねぇんだよ」

「父さんきっとそんなことはしない。僕らを犠牲にして優勝杯を手に入れようなんて……そんなことするわけ……」パーシバルは口ごもった。

「おいおい」ラングレンは言った。「あの父親を信用できるのか?」

「あんたよりは信用できる」パーシバルは吐き捨てた。「まるで嘘みたいな話をするあんたよりは」

「ふざけたことを言うんじゃないよ、まったく。よく考えてもみろ、父親と最後に話したのはいつだ?」ラングレンはそう言うと腕を組んだ。「言ってみな」

「父さんは僕らに……関わりたがらないんだ」パーシバルは弁解した。

「憶えてもねぇんだろぅよ?」とラングレン。

「そういえば……」パーシバルはごまかすように言った。「……僕らに会いに来たってのは本当なのか? ガキの僕らに幻想の王の力だの“想像の歪み”だの突飛押しもない話をして、ちょろまかしておけば時間が稼げるとでも思ってたんだろ」パーシバルはラングレンに近づき、神妙な表情の男を見上げた。

「時間が稼げる? 何を言ってる?」ラングレンは両手を広げた。

 パーシバルは叔父を睨みつけた。「……父さんの容態が悪くなったのも知ってるはずだ」

 ラングレンは子供ながらに威圧的なパーシバルにたじろいだ。「ふざけるな。おれはお前たちのことを思って言ってやってるんだ。少しは感謝されてもいいもんだがな」

「パーシバル、やめないか」カナスは言った。

「カナスもララも、おかしいのはわかってるだろ。都合が良すぎると思わないか。数年ぶりに戻ってきたと思えば、出会い頭にこんな話をしはじめるなんて、普通じゃない」

 カナスとララは困惑した。

 ラングレン少し考えてから、口を開いた。「おれにとっちゃあ帝国なんてどうだっていい。玉座にも興味はない。皇帝や貴族ども、民衆なんざ知ったことか」そして子供たちを見回した。「お前たちを愛してるんだ。だからこそ、真実を伝えにきた」

 子供たちは沈黙した。ラングレンを信じる根拠はない。しかしたしかに、父を信じる根拠がないこともたしかだった。皇太子であり、さらに想像術の優れたカナスを常に優遇し、弟妹たちはまるでお飾りのようにしか扱われなかった。父は、そういう人間だったのは間違いではない。

 さっきまで興味津々だったカナスでさえ、不服そうに顔をしかめた。「叔父上、父さんはそんな人間じゃない。叔父上が言ったことがせんぶ本当でも、父さんならなんとかしてくれるさ」

 ラングレンは馬鹿にしたようにせせら笑った。「お前たちは父親を信じられるのか? ホワイトハースやボルホートの狂気について一言もお前たちに言わなかったのにか? ろくに会話もしないのにか?」ラングレンは言った。「父親を信じる根拠はあるのか? 二人の息子を、それも世継ぎの息子二人を、命の危険がある闘技大会に出すような父親なんだぞ」

 するとカナスは返す言葉に詰まったようだった。

「……帝国のしきたりなんだ。十歳を超えれば、必ず出ないといけない」パーシバルは言った。「雨の巫女がそう決めたんだ」

「雨の巫女だって?」ラングレンは笑った。「皇帝はアークジウムの開催を正当化するために雨の巫女を利用してるだけだ。それに、しきたりのために世継ぎを死なせるのか?」

「……父さんはおれたちを信じてるんだ」カナスは言った。「おれとパーシバルが勝つと信じてるから、出場させるんだ。帝国の威信を他国に示すためだ。パーシバルは想像術が使えないことで貴族たちからも馬鹿にされてる。父さんはパーシバルの屈辱を払拭したいんだ」

「まったくお前らの楽観主義にはほとほとうんざりするなぁ」ラングレンは言った。「“想像の歪み”はもう帝国までやってきてる。兄貴はだんだん狂ってきてるんだ。そうに違いない」

「あんたこそ……」パーシバルは言った。「あんたこそ狂ってる。父さんを目の敵にするようなことばかり言って、僕らに父さんを敵視させたいんじゃないのか」

「もしおれの言ったことが本当だったらどうする。ホワイトハースのような惨劇が起こればどうするつもりだ」ラングレンは真剣だった。「中央連合国との諍いは長く続いてる。戦争や、その意思が呪いの引き金だとすれば、この帝都でホワイトハースのような狂気が起きてもおかしくはないぞ。そしてこれ以上皇帝が戦争を引き起こしたら、そのときには帝国は滅びるぞ」

 セシルは「ああ……うう……」と不安そうにこちらを気にした。

「叔父上、おれたちだって信じたいんだ」カナスは言った。「でも、混乱するのは当然だろ?」

「叔父さま、どうしてそんなに焦ってるの?」ララは言った。「もっとゆっくり話してくれないと……」

「どうしてわからねぇんだ! 時間がないんだぞ!」ラングレンは叫んだ。そしてほどなくして、子供たちの驚く顔を見てようやく我に返った。叔父は息を整え、乱れた髪を整えた。「……すまねぇ。怒っちゃいねぇよ」

 カナスはまるで叔父を心配するように言った。「叔父上、そのことについてはおれたちで話し合ってもいいかな? 少し時間がほしい」

「……もちろんだ。もちろんだとも、甥っ子よ」ラングレンは怒りで強張った表情をなんとか緩ませようとしていた。「そうするといい。ああ、それがいいさ。おれの言ったことをよく考えることだ」

 ララとセシルは驚き、パーシバルは何かを見透かそうと男をじっと見つめていた。

「とにかくお前たちは優勝してあの優勝杯を手に入れろ。それが帝国を救う唯一の道だ」ラングレンはそう言うとマントを翻し、足早に行ってしまった。闘技場にぽつんと取り残された子供たちはその背中を見送った。

 セシルが不安そうにララの手を握った。

「ねぇ、どうするつもり?」ララは言った。

「どうするって?」パーシバルは不満そうに、入場門に消えていく叔父を見つめていた。

「優勝はしてみせる」カナスは言った。「その意思は最初から変わらないことだ。それに避けられないことだ」

「もし優勝できなかったら?」ララは不安そうに言った。「蝶の杯が他の誰かの手に渡ってしまったら?」

 カナスは少し考えていたが、結局そう言うしかなかった。「そのときになってみないと……どうすることもできない……」

「ラングレンには注意を払うべきだ」パーシバルは言った。「みんな、あの男を簡単に信じちゃだめだ」

「おれも叔父上のことはよくわからない……」カナスは考え込んだ。「でも、どちらかというと、信じる価値はあると思う」

「ララはどう思ってるの?」パーシバルは尋ねた。

 ララは顔を歪めた。「わたしに聞かれても……わたしだってわかんないよ……」

 一同はまた沈黙した。そして、またララが口を開いた。「それより、気になったんだけど……どうしてパースは叔父さまをそんなに嫌うの?」

 パーシバルは言葉に詰まった。

「叔父さまと何かあったんじゃないの?」ララは答えを急かした。

「何もないさ……」

「とにかく、お前たちは心配しなくていい。おれがなんとかしてやるから」カナスは言った。「おれがパースを守って、優勝して、あの優勝杯を手に入れる。幻想の王の噂が本当でも嘘でも、お前たちは守る。戦争なんか起こさせないし、“想像の歪み”も起こさせない」

「でもこのタイミングで父さんが死ねば……次の皇帝になるのはカナスだ」パーシバルは神妙に言った。「気をつけないと……。何がどうなるか、わからない」

「敵は誰……?」ララは言った。「私たちは誰と戦うの?」

 人食いの檻が撤去され、誰もいなくなった闘技場にはただ砂をかき立てる風が吹き、七体の巨像が子供たちを見下ろしていた。

「わからない……」カナスは言った。「何も……」

 そして向こうから丸々とした身体を揺らして誰かがやってきた。ロデリックは苦しそうに、そして安堵したように膝から崩れ落ちた。







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