第2話 皇子たち

2 皇子たち

 


 優しく静かな歌声が雲の上を流れる風の中にとけた。

 若い鷹は太陽の反射によってときどき赤銅の羽毛を蜜柑色に変えた。ゆったりと優雅に羽ばたき、静かで優しい風を切る。雲海にうつる十字の影を連れて。

 鷹は一度さらに天高く上昇し、勢いをつけて急降下した。自らの影を貫くと、身体に雲のベールをまとってその海の下の世界へ潜った。

 見渡す限りの大地と、そして真っ白いヘンポラード山脈が眼下に泰然と広がっていた。巨人の背骨のような尾根をなぞると、北風が翼を打ちつけ、同時にうなるような轟きが鳴り響いた。

 しばらく尾根に沿って飛び、ようやく山脈を越えると、壁が見えた。いや、壁ではなく、あれは見渡す限りの巨大な山脈だった。ただ、真ん中の一箇所だけは人工物で、二つの塔が門を構えていた。

 それはあらゆるものを拒絶するかのように見え、竜の顔の彫像を一つずつ頂いていた。雲が近く霞んではいたが、その竜の目は厳しく、どの角度にいてもこちらを見つめているように思えた。だが人間たちの領土などには無関心な鷹はその竜の門を悠然と超えていった。

 いくつかの人間の集落を超え、ときには古びた遺跡を過ぎていった。遥か東には大河があり、大地を血管のようにめぐっていた。雲海がところどころ裂け、美しい太陽の光がはるかなる大地に差し込む。

 西はミルクのように白かったが、ここは違った。もうほとんど溶けた雪から新しい緑が芽吹いていた。

 そしてようやく雲から差し込む光のベールは巨大なクレーターを照らしだした。ついにそのクレーターの上空に達すると、中央に向かって傾斜した街が広がっていた。中心にはいびつな七つの塔が聳え立ち、鷹は自由に羽ばたきながら、その塔を目指した。

 鷹はすでに、この城郭都市で一番高い場所にいた。下を見下ろすと、塔と塔のあいだに中庭の広場が見えた。鷹は全身の力を抜き、風を信頼し、墜ちる。中庭がどんどん大きくなり、そして砂地の地面が目前に迫った瞬間、赤銅の翼を大きく広げ、砂煙に尾羽の後を追わせた。広い砂地の訓練場の真ん中で二人の人間が剣を打ち合っている。

 鷹はやっと柱のてっぺんで羽を休めた。訓練場を囲むように通路があり、その柱の下で数人がそれを見て何かを話し合っていた。




 少年が不安そうに言った。「ララ……」

「どうしたの?」少女の長い黒髪はくせ毛で、前髪だけを上げていた。妹は試合に夢中だった。

「いまの聞いた?」

「聞いたって……何を?」

「声だよ」

「……声?」ララは言った。

「わからないけど、ずっと……頭の中で呼んでる気がしたんだ……」パーシバルはララの表情を見て、何かを察した。「でも、歌のようにも聞こえた……。優しい女の子の……」

 ララは肩をすくませた。「カナスの大事な試合なんだよ。ちゃんと集中しないと。アークジウムまであと十日しかないんだから」

「ああ……そうだね……」少年は不安そうに眉をひそめ、口を歪めた。

 試合用のぶ厚い防護服を着た少年は、オイルで湿った黒髪を丁寧に後ろに流していた。風によって髪の毛が垂れるたびに、神経質そうにそれをかき上げた。

 カナスの試合にはいつものように貴族たちが集まっていた。なぜなら十六歳にしてすでに歴代の皇子では最高の想像術の腕を持っていたから。貴族たちは未来の皇帝の試合をこぞって見にくるのだ。

 クロヴィッセに匹敵するその才能によって、いつしかついたあだ名は“クロヴィッセの再来”。なんとも大げさなあだ名だ。それにどこかマヌケだ。

 パーシバルは緊張をできるだけほぐすために、訓練用の木製の玉の想像箱を手のひらで転がした。

「いつかカナスのようになれるわ」ララはふてくされる兄を勇気づけた。「だってパーシバルには才能があるもの」

「才能……?」パーシバルは片方の眉を上げた。

「そうよ」ララは大きな瞳でパーシバルを見上げた。「パースの描く絵はすごく……」

 ララが言葉をつまらせたので兄は催促した。

「……すごく?」

「……なんというか……」

 パーシバルは頭の中で言葉を巡らせる妹の発言を辛抱強く待った。

「独創性があるもの……」

 パーシバルはため息をつき、肩を落とした。「ララ、お前は優しいね。ありがとう、こんな兄さんに気を遣ってくれて」少年は精一杯の感謝を述べ、苦笑した。「でも帝国では絵の独創性では誰も認めてはくれない」そして試合のほうを指差した。「あれだ……あれこそが証明なんだ。想像術。人の価値はあれで決まる。強くないと、結果を残さないと誰も認めてはくれない」

「わたしはみんなとは違うわ。パースを心から尊敬してるもの。本当よ」

 カナスと皇帝直属の騎士団〈フィユスの豹〉団長アラン・ルインの一騎打ちはたしかに見ものだった。カナスの身体を包み込む軟鉄の想像物の鎧は俊敏な動きをものともせず、対するアランの重く守りに特化した鋼の鎧はあらゆる攻撃をたやすく受け入れる余裕も持ち合わせていた。

 激しい剣戟音がとめどなく鳴り響いた。カナスが鋼の剣を振り下ろすと、サー・アランは持っている剣を一瞬で崩壊させ、長い盾を生成した。そしてもういっぽうの手で訓練用の木玉をはじいたかと思うとそれは瞬時に槍に変わり、カナスめがけて投げ飛ばした。

 槍を剣で弾くと、カナスは身を低くして下段の構えに持ち替えた。そしてまたたく間にアランの懐に潜り込み、鋼の残光が弧を描くほどすばやく斬り上げた。

 しかしサー・アランは身じろぎひとつしなかった。あれだけの見事な一太刀を受けながら、全く動じていない。よく見ると騎士は鎧を身体の前面に集めて硬化させていた。カナスは反撃を避けるために後ろに飛び退いた。再び鎧がアランの全身に纏われると、今度は盾が砂のように渦を巻いて崩壊し、そして今度は剣が生成された。

 二人は微妙な間合いを測り合った。

 日が一番高く登り、二人の装飾のある鎧を宝石のように照らし出す。繊細で美しい想像物の鎧をさらに美しく、まるで絵画の一場面のように見せた。

「人間技じゃないわ」ララはあっけにとられていた。

「どっちが?」パーシバルは退屈そうに言った。

「カナスと対等に渡り歩くサー・アランがよ」

「まぁ……」パーシバルはやる気のない声で言った。「僕には関係のない世界だ」

 ララの隣には姉と同じぐらいの背丈のセシルがいた。もうパーシバルとほとんど変わらないぐらいのセシルはとろんとした目で姉の薄ピンクのシルクのドレスをひっぱり、「あー、うー」とうめき声を上げた。きっとおもちゃの馬を別のおもちゃに変えろとせがんでいるのだろう。

 ララが馬のおもちゃに触れると、それはすぐに槍を構える小さな兵士のおもちゃに早変わりした。セシルはそれを手にすると、ようやくおとなしくなった。

 もうすぐ八歳になるのに、いつもああやってララの生成したおもちゃの人形で遊んでいるのだ。弟はまるで小さな赤ん坊のようだった。生まれてからずっとこうだったのだ。

 皇后はよくこう言っていた。これは神が与えてくださった才能なのだと。

 パーシバルは少し安心した。自分のように世話の焼ける人間がここにもいるから、ちょっとは自分の存在がごまかされるだろう。

 ララはどこかへ逃げ出してしまわないように、弟の手をしっかり握っていた。

 第一皇子と騎士の戦いは絶妙な間合いだった。空気を緊張させ、集まっている城の貴族たちは彼らの戦いに釘付けだった。張り詰める緊張を先に終わらせたのはカナスだった。サー・アランとは対極にカナスは攻めの構えが得意だった。低い姿勢を保ったまま素早く斬り込んだが、サー・アランは守りの姿勢で呼吸を読み、見事に受け流す。また巨大な盾を作り出し、体当たりし、少年を小動物のように吹き飛ばした。カナスは兎のように反動を使って軽快に立ち上がった。

 ちょうど向こう側の柱には杖をつく皇帝の姿があった。帝国の象徴的な色、黒と紫のダブレットの上から黒いマントを着ている。そしていかにも皇帝らしい、厳しい顔で試合を見定めていた。

 だが皇帝は時折咳き込んではよろめき、杖に寄りかかった。世話役に声をかけられるたびに皇帝はうっとおしそうにそれをやめさせた。

 その隣には金髪の美しい女性がいた。皇后はパーシバルと目が合うと、優しく微笑みかけた。パーシバルはささやかな笑顔を返した。

 騎士と皇子は距離を保ったまま睨み合った。訓練場は静寂に包まれた。廷臣たち貴族が何十人も上階のバルコニーから見守っている。廊下をせわしなく動き回る給仕たちですら、こそこそと試合を見に来ていた。

 張り詰めた緊張の糸が途切れた瞬間、アランとカナスは一瞬で距離を縮め、最後の一太刀を打ち放った。金属のぶつかる鋭い音が中庭全体にこだまし、観衆たちは目を離さなかった。重く確実な一太刀で勝敗は決した。

 二人とも剣と槍を構えたままぴくりとも動かなかった。次の瞬間、アランの鎧がボロボロと崩れ地面に落ちていった。生成された鎧や剣は粒子状に崩れていき、最後には風とともにすべての鎧が塵として消え去った。地面には、二つの木玉が転がっていた。男は防護用のぶ厚い訓練着を剥き出しにさせ、がっくりと地面に膝をついた。

 観衆の拍手。皇子はよろめきながらも立ち上がり、一礼した。そして脇腹をおさえながらよろよろと騎士のもとへ駆け寄った。

 カナスは騎士の手をとってゆっくり立ち上がらせた。そのすぐ後に、従者が慌てた様子で駆け寄り、アランを介抱した。

 試合が終わるとカナスはこちらへやってきた。兄もオーギエム家特有の艶のある黒髪で、背中まで伸びたそれを金のリングでまとめていた。

 ただ、給仕の若い女たちはカナスを見ては、嬉しそうに何かを話し合っていた。これがいつもの光景だった。

「大丈夫か? パース」カナスは凛とした茶色い瞳でパーシバルをじっと見つめた。

 パーシバルは木玉を握りしめる手が湿っているのを感じた。「……うん」

 大勢の前に出ることには慣れていた。しかし、慣れていないものもある。貴族たちの腫れ物にさわるような目、それに何かをささやくあの口元。

 カナスの試合のときにいた若い女たちはもうどこかへ消え去っていた。

 貴族たちはそれぞれの反応をしたが、そのどれもがさきほどのカナスの試合のときとは大きく違うもので、あの反応をされるたび、心臓に一本ずつ杭を打たれるような感覚になった。

 皇帝もカナスの試合が終わると、杖をつき、よろよろとしたおぼつかない足取りで去っていった。貴族たちもひとり、またひとりと去っていった。

 若い女たちの代わりに、噂好きの貴族たちだけが残った。まるで見世物でも見るかのように、せせら笑っていた。

 あの視線が、パーシバルの手を湿らせ、動機を早め、息苦しくする理由そのものだった。

「気にしなくていいんだ」カナスは少し微笑んだ。「お前はお前のやるべきことをやればいい」

「……うん」

「“箱”は持ってるか?」

 パーシバルは二つの木玉を見せた。

「よし。じゃあ、確認だ」カナスは自分の木玉をパーシバルに見せた。

「想像術は、心を使うんだ。空気中を流れる不思議な力の流れに気づき、それを心に留める。そしてなんらかの物体に、心に留めた波動を移してやる。そうすればただのエネルギーの流れである波動は物体を変化させる力へと昇華する」

「知ってる……」パーシバルは呆然とうなずいた。「……完璧だよ」

 カナスの木玉は先端から渦を巻きながら崩壊し、林檎に変化した。「説明すると難しく聞こえるが……要するに、変化させたいものを想像するだけだ。どうだ。簡単だろ?」

「ああ、わかってる。いつもやろうとしてるさ。でもできないんだ」

「いいか? できると信じるんだ。想像術は、信じることが大切だ。今回はきっとできるさ」

 パーシバルは軽くため息をつき、少し間をあけてから、うなずいた。「まるで見世物小屋だ」

「やつらは気にするって言ったろう?」カナスはパーシバルのちょうど心臓のあたりを手でおさえた。「お前はお前のやるべきことに集中しろ」 

「頑張ってパース。セシルと一緒に見守ってるから」

 セシルはパーシバルに兵士のおもちゃを見せて喜んでいた。

「相手はセスだ」カナスは言った。「思い知らせてやれ」

 パーシバルは兄妹たちが見守る中、中庭の中央へと歩みでた。そして四方にそれぞれ一礼ずつ。「……オーギエム家の名に恥じない戦いをすると……誓います……」裏返った声でそう言うと、ぎこちなく身体を中央に向け、木玉をぎゅっと握りしめた。

 大きなはげ頭の大男がこちらをじっと見ていた。デズモンド・ソマロンはオスロンド帝国の宰相であり、セスの父親でもあった。

 デズモンドがうなずくと、中庭の向こう側から金髪の少年が偉そうに肩を揺さぶり大股で歩いてきた。訓練用のぶ厚い胴着を身に着け、木玉を上に投げては掴み取ってもてあそんでいた。

 セスはパーシバルと同じ十三歳だったが、パーシバルよりもひと回り大きく、体格もよかった。

 ソマロンの人間は、さらりとした金髪に緑の目を持っていた。特にセスの目はまるで蛇のように狡猾で、鋭かった。

 太陽が真上に照りつけ、セスの金髪がより輝いた。馬鹿にしたように口元を緩ませ、目を細めてパーシバルを下から上へ舐めるように見た。「お前のために貴重な時間を割いてやったんだ。感謝しろよ」

 パーシバルはセスの威圧に負けないようになんとか踏ん張った。

 審判が構えの合図をすると、セスはまるでウォーミングアップでもするかのように首や肩を回してから、木玉のひとつで鎧を生成し、もうひとつで剣を生成した。

 パーシバルは深く息を吐きながらうなずき、木玉のひとつに意識を集中させた。ゆっくりと目を閉じ、念じる。


《信頼する……信頼する……》


 木玉にすべての意識を集める。


《まるでそこにあるように……鎧を……剣を……想像する……想像する……》


 すると木玉が少しずつ崩壊していくのを感じた。木玉を構成していた粒子は身体を包み込んでいった。


《信頼する…………》


 するとかすれた笑い声が聞こえた。セスは片方の口角を吊り上げ、パーシバルの鎧を見てせせら笑っていた。「おい、馬鹿にしてるのか?……それが鎧か?」

 柱のところにいる貴族たち、二階や三階から見下ろす貴族たちも同じだった。笑いをこらえたり、何かをささやきあっていた。

 大きな鍋を頭から胴体まで被ったような鎧は、ボコボコに凹み、錆びて変色していた。そしてそれはすぐにバラバラに分解され、残ったのは剣とはとても呼べない棒状の物体だった。金属でも鉱物でもない、ただの木の棒だった。

 パーシバルは横を見た。兄は口を結び、ただうなずいた。

「できそこないめ」

 セスは鼠でも相手にしているかのようにパーシバルを見下し、挑発した。だが父親の視線を感じたのか、すぐに姿勢を正し、正式な構えをとった。

 パーシバルも同様に剣を構えた。下段の構え。そしてセスの蛇のような緑色の目を睨みつけた。

 中庭に春の少し冷たく感じる風が通り、鷹の鳴き声が響いた。パーシバルの額にひんやりと汗が流れ、少し口に入ると、鼓動が早くなりなまくらの剣を持つ手が震えた。

「始め!」その掛け声と共に試合は始まった。


 だが覚えているのはその掛け声までだった。目が覚めると看護役の修道女がなにやらカナスと話しているところだった。額にあてがわれた布はひんやりとしていて、パーシバルはようやく自分が中庭の影に倒れていることに気がついた。

 ララも膝をついて心配そうにこちらを見下ろしていた。セシルの指が頬に刺さる。

「うぅ……」パーシバルはなんとか声を絞り出した。

 カナスは眉をひそめ、首を横に振った。「いいんだパーシバル、気にするな。お前はよくやったよ」

 ララはしかめ面で囁いた。「セス・ソマロンの戦い方はひどかったわ。すごく乱暴だった」

「十分だ。上出来だよ」カナスは弟の肩を叩き、微笑んだ。

「あの鎧は僕が生成したものじゃない」

 カナスはとぼけたふりをして言った。「鎧がなけりゃあ、どう戦うって言うんだ」

「カナスが生成したの?」ララは言った。「想像物を遠くから生成するなんて、やっぱり人間とは思えない」

「仕方ないだろ。こいつの面目をセスみたいなやつに潰させるわけにはいかない」

「面目を保ててよかったよ」パースは皮肉を吐き捨てた。「完璧だ。セスに思い知らせてやったよ」

 カナスは肩をすくめた。「あんまりうまく生成したら、父上にバレてしまうだろ」

 中庭の真ん中にポツンと木玉が落ちていた。パーシバルはそれをじっと見つめると、深くため息をついた。皇帝や皇后、貴族たちはみないなくなり、中庭に残るは自分たちだけだった。

「また次もある」ララは言った。「次こそセスをこてんぱんにしてやればいいのよ」

 パーシバルはズキズキと痛む頭の横をおさえた。「どうせできっこないさ……想像術なんて……」

 カナスとララは二人とも同じような神妙な顔を見合わせた。パーシバルのひねくれがはじまったと言わんばかりに。

「農民の子供でももっと質のいい想像物を生成できるのに……」パーシバルは言った。「僕は、何ひとつ生成できない……。ろうそくひとつ……」

 セシルはいつものようにララのそばでおもちゃ遊びをしていた。

「いいよな、セシルは」パーシバルは言った。「こんなひどい目に合わなくていいんだから」

「この子はは病気なのよ。パーシバルのように大きくなって帝国のために尽くすことはできない」

「どうせ皇位はカナスが継ぐんだ。僕にも帝国なんて関係のない」パーシバルは投げやりに言った。

 そしてよろよろと立ち上がり、修道女の手助けを拒んだ。「少し休んでくるよ」そしてズキズキ痛む頭を手でおさえながら、パーシバルはとぼとぼと歩きだした。

「パース、心配するな。いつかきっとできるようになる。お前だって強くなれるさ」

 パーシバルはカナスの呼びかけに立ち止まって振り返ると「僕もそう思うよ」と言って肩をすくめた。少年はまたとぼとぼ歩きだした。




✱✱✱


 老齢の男は髭もじゃで、樽のような身体をすばしっこく動かしながらパーシバルの散らかった部屋を片づけていた。

 絵画で埋め尽くされた部屋。しかもそのどれもが、パーシバルが自分で描いたものだった。

「申し訳ございません、殿下。あなたさまの試合を拝見したかったのに」

 パーシバルは不機嫌そうに言った。「見なくて正解だったさ」

 部屋は足の文場もないほどに絵画で埋め尽くされていた。妖艶なしぐさをする女性の立体的な絵、森の中の滝や自然の絵、ただ顔料をぶちまけた絵、人物画。

「殿下、これはどういたしましょうか」ロデリックは額縁に入ったいくつも重ねられた絵画を整理整頓しながらひとつの絵を見せた。「この二頭の山羊の絵は──」

 パーシバルは怪訝そうに答えた。「それは水浴びをする女性の絵だよ」

 すると小太りの男は引きつった愛想笑いをしてから、何ごともなかったようにそれを整理しはじめた。

「こちらの抽象画はなんとも優美ですな。まるで人の心を写し取ったような──」

「それは抽象画じゃなくて花瓶のデッサンだ」

「ああ……そうでしたか」

「それはここに飾るから置いておいてくれ。あと、わざわざ聞かなくていい。胸が痛くなる」

「大変失礼をいたしました殿下」ロデリックはまた愛想笑いを浮かべた。「しかしこのように散らかった部屋をそのままにしておくわけにはいきません。皇帝陛下からのご命令ゆえ……」

「父さんの命令だって?」

「はい。皇帝陛下はアークジウムの鍛錬に不要なものは処分しろと……」

 パーシバルは顔を歪めた。「……不要なものか」

「いえ! 殿下の絵は素晴らしいものですよ!」ロデリックは慌てた。「わたくしはそう思います。ええ。本当に」

「もういいさ。ロデリック。父さんのいうとおりだ。僕はアークジウムの訓練に集中すべきなんだ」

「皇帝陛下のご命令なのです……どうかご承知を……殿下……」

 パーシバルは締めつける胴着を脱ぎ、肩や胸の痣に触れた。鈍い痛みが刺さる。

「この妖艶なしぐさをする女性は、肖像画ですか? それとも風俗画?」

「……それは林檎の木だ」

 二人の間にしばらくの沈黙が流れた。そしてロデリックは大袈裟に言った。「あぁそれは……実に素晴らしい……。この曲線美はなんとも女性を表しているのかと勘違いするほどの──」

「もういい。僕は疲れてるんだ。処分なら自分でやるから、またあとにしてくれ」

「ええ……」小太りの教育係は言われるままにした。「ではそのように……」だが扉を開けたところでこちらを振り返った。「殿下、ひとことよろしいでしょうか?」

「……何だい」

「殿下方はわかっておられます」

 パーシバルは絵画を片づけながら聞いた。

「あなたさまには仲間がいる。家族がいるのです。決してひとりではない」

 パーシバルは手を止めた。こんなに不幸な皇子がこの世界のどこにいるだろうか。こんなに無能な皇子がこの世界のどこにいるだろうか。

「もういい、ロデリック。出ていってくれ。ひとりにしてくれ」

 ロデリックは深く会釈をしてから扉を閉めた。

 チュニックに着替えたあと、ベッドに身体を投げ捨て深くため息をついた。まだ頭が痛い。背中と、肩の痣も痛むし、腰の骨もじんじん痛い。

 バルコニーの近くには描きかけのキャンバスが台座に立てかけてあり、顔料や濁った水が無造作に床に置かれている。

 パーシバルはベッドから立ち上がり、よろよろ歩いてバルコニーの前の小さな木製の椅子に座った。それからまた小さくため息をついた。


「無駄なもの……か……」


 アークジウムの出場は皇帝が決めたことだった。ずっとずっと昔の風習を皇帝はいまになって復活させた。そして二人の皇子が十歳を越えれば、出場させると。

 皇帝は息子たちが帝国を継ぐにふさわしいことを民衆に証明したいのだ。そして中央連合国にも。いや、世界に示したいのだ。そのために、継承者が死ぬかもしれないのに。だが皇帝の真意はわからなかった。

 アークジウムに出るなど、考えるだけでぞっとした。人間同士が殺し合いをして、凶暴で不気味な人食いと戦わされるのだ。情け容赦のないセスと、今度こそは本当に命を狙ってくる。それにもしアークジウムで死ねば、帝国に永遠に語り継がれるような無能でマヌケな皇子の誕生だ。

 死刑宣告よりも恐ろしいのは、汚名が後世まで語り継がれることだ。皇帝も、皇位継承者を死なせれば、とんだ笑い者だ。

 パーシバルは笑いがこみ上げてきた。いったい父さんは何のつもりで僕なんかを出場させようと思ったんだ。ただ、そっとしておいてほしいだけなのに。どうせ自分なんかが闘技大会に出ても、死ぬか、笑われるだけだ。

 きっと頭がおかしくなったんだ。最近病気がひどくなっているらしく、そのせいかもしれない。

 アークジウムなどどうでもいい。この筆と顔料とキャンバスがあれば、それでいいのに。パーシバルは赤い顔料のついた筆を見つめた。そしてどうにもこれが真っ赤な鮮血に見えてならなかった。

 とにかく、脇役の自分は目立たずに、民衆に少しでも戦っている様子を見せて、さっさと幕の後ろに引き下がる。それでいいのだ。皇帝もそれを望んでいるはずだ。せめて恥を晒さないように、皇帝の面目を潰しさえしなければ、咎められることはないだろう。カナスに力を借りて、戦っているふりでもしてればやり過ごせるだろう。

 新緑の香りがする心地のよい風が垂れた前髪を揺らし、心を少しだけ慰めた。

 バルコニーからは帝都全体が見渡せた。眼下には巨大なナラの木のある庭園があり、そこを出ると大広場があり、急勾配の斜面がある。急勾配にも街が栄え、それをのぼってゆくと、行き着くのはそそり立つ城壁だった。

 帝都はクレーターを半分ほど埋め立てて、まるで要塞のように造られていた。遠すぎて霞にかき消されそうな壁はパーシバルのいる高層階と同じ高さだった。

 パーシバルはオスロウィン城の七つの塔のうちの、第一塔〈皇帝の塔〉の上層階にいた。もう見慣れてしまったが、こうして見るとまるで奇妙な城だった。それぞれの塔が分離し、ところどころが繋がっている。ロデリックいわく、このような構造の城は世界でも類を見ないという。

 オスロンド帝国の帝都オスロウィンは、難攻不落の要塞として君臨し、建築技術においては世界最高峰と名高いのだ。

 タイスト皇帝は第一皇子のカナスを後継者として育て上げた。並の人間なら十五歳やそこらで想像術学院へ入学し、数年勉強と実践を繰り返した後にようやく蝋燭やサイコロを作り出せるレベルだが、三歳の頃にはすでに想像術の基礎を教わり、四歳で剣の想像物を作り出せた。六歳にはエクシア語、クランヴァニア語、ジュードラ語、そして難解な古代ドレーク語を話せ、医学や薬草学、考古学や天文学、戦争学など様々な学問を扱うことができ、高度で緻密な彫刻などもお手のものだった。

 そして現在、十六歳にして、帝国歴代最強の皇子となった。天才と呼ばれる類の人間は本当に存在するのだ。

 そのとき、街から急に慌ただしい声がせり上がってきた。

 扉をノックする音とほぼ同時に、カナスの声が聞こえた。「パース、いるんだろ? 瑠璃の間に来い」

「ちょっと休ませてよ」パーシバルはそっけなく答えた。

「じゃあこう言えばきっとお前にもわかるだろう? 叔父上が帰ってきた!」

 パーシバルは筆を止めた。ちがう、否応にも手が動かなかった。あの男が帰ってきたのだ。





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