イマジナリオン

@kubotakei

第1話 霧の死人

1 霧の死人



幻想の王──。


彼は想像術が伝えられるずっと前から、この世界の支配者だった。


我々人間を奴隷として従え、この世界を作ったのだ。


いわば我々人間にとっての神のような存在。

 

だがやがて奴隷たちは自我に芽生えると、神に対して反旗を翻した。


長きに渡る戦いに人類は勝利し、ついに神は死んだ。


人類の時代がやってきたのだ。


幻想の王の血肉は三つに分かたれ、三つの人種の人間たちがそれぞれの血肉を守った。二度と邪悪が復活せぬように。


その三つの人種こそが、すべての人間の祖先にあたる偉大なる始祖たち。


偉大なる始祖たちはそれぞれの血肉から幻想の王の力を奪うことに成功した。それからはそれぞれの人種が幻想の王に縛られることなく、文明を発展させていった。


幻想の王の支配から解き放たれた偉大なる始祖たちはほどなくして、血肉を奪い合うようになった。


そして生き残ったのは我々アダン人。二つの種族は静かにこの世から消え去った。


それから約三千年後。我々の世界はあの頃からなにひとつ変わってはいない。


こうして生き残っても、また戦争を繰り返すだけだ。


そして二百年前、とある碑文が帝国領内で偶然発掘された。


灰燼文書と呼ばれるそれにはこう記されていた。


〈三千年の後、器を持て。そこには血が注がれる〉


オスロンド帝国皇帝はこの文言を受けて、オスロンド帝国の古い慣習を復活させた。


アークジウムという闘技大会である。


もしこの碑文の言葉が本当ならば、闘技大会の優勝杯には力が宿り、優勝者は幻想の王の力を手にすることができるかもしれない。


あくまで灰燼文書の一解釈に過ぎないが、とにかく帝国は国を挙げて闘技大会に注力した。


だが隣国である中央連合国がそれを見過ごすわけはなかった。


灰燼文書の真偽は定かではないが、二つの大国は灰燼文書の文言を信じ、衝突しようとしていた。


アークジウムは目前に迫っている。






          ──『幻想の王に関する推察Ⅳ』

        (ニコデモ・ジェン・ロンドヴェント著)









✱✱✱


 街は燃えていた。夕暮れのような炎と巨大な怪物のような黒煙が空を飲み込み、星々さえもかき消そうとしていた。

 ウルマスと数名の部下は森を抜けるとその惨状を目の当たりにし、否応なしに馬を駆けた。本来ならば今夜は地表近くに大きな満月が見られるはずだった。しかし、満月の代わりに城壁が近づくと同時に大勢の叫び声がせりあがってきた。

 濠にかけられた橋にはついさきほどまで逃げ出そうとしていたであろう住人たちの死体が無造作に散らばり、ウルマスたちはそれを踏まないように馬を操り、正門を抜けた。

 炎はあらゆる家屋をなめつくしていた。そして兵士たちはけたたましい怒号をあげ、逃げ惑う街の人々を無差別に斬り殺していた。剣に着いた血をマントで拭き取っていた親衛隊のひとりがこちらに気づき、近づいてくる。

 ウルマスは男を制止する。「止まれ! いったい何が起こっているのだ!」

 しかし親衛隊の男はウルマスの言葉を無視して住人を切り倒しながら近づいてくる。

「止まるんだ! これは命令だ!」

 やはり男は聞く耳をもたず、こちらにやってくる。

 ウルマスはローブの中からチェスの駒を取り出し、意識を集中させた。あせらずにゆっくりと駒の存在を確かめ続けた。そして身体が大気を流れる不思議な流れを感じはじめる。それは少しずつ、呼吸とともに身体へ、臓器へ、脳へ浸透してゆく。波動は音もなく感覚もなくウルマスの身体を巡った。そしてついに鼓動と共鳴する。

 突然、雷のような衝撃が脳をほとばしる。波動がとてつもない勢いで指先からナイトの駒に流れてゆく。

 やがて駒は明らかに不自然に震えると、木彫りの馬の頭から微細な粒子となって崩壊しはじめた。粒子はウルマスの指先の間で渦を巻いて踊り、ふたたび何かの形を取り戻しはじめた。

 その粒子はウルマスの全身を覆う板金鎧プレート・アーマーとなり、剣となった。部下たちも同じようにして想像物を生成した。

 親衛隊の男の剣が粒子状に崩壊したかと思うと、それはふたたびカタチを取り戻して弩弓クロスボウとなった。親衛隊の男はレバーを引いてから矢先をウルマスに向けたが、部下の放った弩が男の太ももを貫通すると、力なく崩れ落ちた。

「貴様! 親衛隊であろう者がウルマス将軍に武器を上げるとはなにごとか! そして民を守るべき兵士がなぜ……。なぜ街を破壊し、殺戮しているのだ!」部下のひとりが馬を降りて男の胸ぐらを掴み上げた。「反乱か!」

 男は激痛に悶えながら答えた。「……違う……そうではない」

 炎がウルマスたちの表情を照らし、ときに影を落とした。あたりは鎧が擦れる音、断末魔の叫び声、炎が家屋を焼き尽くす音が入り乱れていた。

「これは勅令だ」

「勅令だと?」ウルマスはいつでも剣を振れるように構えながらあたりを警戒していた。そこらじゅうに兵士が駆け巡り、あらゆる家々を襲撃していた。「この虐殺を王が命令したというのか!」

 男は眼球を泳がせ、顔中に汗をしたたらせてたどたどしく答えた。「……そうだ……ドルミオン王アルヴィン陛下その人が……そうご命令なさったのだ……!」

「ありえない……」部下のひとりが男の喉元に剣を突き立てた。「あまりに突飛押しもない話だ。将軍、こいつは嘘をついています」

 ウルマスはまるで地獄のような光景を見回した。幼い子供は死んだ母親のもとで泣き、片腕を失った男が逃げ場を求めて徘徊し、ピッチフォークで応戦する老人はまもなく剣で喉元を切り裂かれ、おそらく女であろう火だるまがのたうち回り、中には我が家族を守らんとする兵士が兵士と戦っていた。

 アルヴィン王は“ドルミオン・サファイア”と呼ばれるほどの壮麗な容姿と聡明な頭脳を持ち合わせたドルミオン歴代王の中では稀に見る王だった。弱小国と呼ばれていたドルミオンを再興させた偉大な人物だった。まさに英雄だった。

 アルヴィン王がウルマスに見渡すかぎりのぶどう畑の広がるジェンウッドを与えたのはつい三日前のことだった。そしてアルヴィン王は、視察という名目の休暇をウルマスら家族に与えた。しばしの余暇を楽しんだあと、ウルマスは家族に別れを告げて王のもとへと帰還したのだった。

 ウルマスの一族は古くからドルミオンの歴代の王に仕え、そしてなにより、アルヴィンとウルマスは幼馴染であり、唯一無二の親友だった。アルヴィン王はウルマスには特別な待遇をし、そしてウルマスも王の格別の恩寵に恥じぬように相応の功績を上げた。ウルマスは親善大使として、ダンタリアのランドン王に我が王の政治や戦果を報告することは誇らしかった。

 ウルマスは怯える親衛隊の男を見下ろし、鷹のような鋭く光る眼を覗かせた。「貴様、勅令とはいえ、金輪際住民には手を出すな。そして仲間にも伝えろ。これは殺人罪であり、決して許されることではないと。そして、ウルマスが帰ってきたと」将軍は颯爽と馬を反転させると部下たちに告げた。「お前たちはこの虐殺からひとりでも住民を助けろ。バックローグへ避難させろ」

「将軍……どうなさるおつもりです」部下のひとりが言った。

「お前たちはやるべきことをやれ……そして私のすることに関わるな」そう言ってウルマスは馬を駆け出した。

「……ウルマス将軍!……お待ちください!」背後からの声はまもなく炎によってかき消され、城に近づくにつれて死体の数も多くなっていった。

 城下町の広場には数百人、いや、千人以上の無残な死体が転がっていた。そしてレンガ造りの建物は延焼をまぬがれていたが、想像術の頑強な武器で叩き壊されていた。建物がことごとく破壊され、そして燃やし尽くされていた。炎はごうごうと猛り、天を貫き、巨大な壁のようにウルマスを取り囲んだ。

 裏路地には逃げ遅れたいくつかの家族が行き場を失い、怯えて身を寄せ合っていた。そしてウルマスの姿を見ると一様に悲鳴をあげ、パニックを起こしていた。中には赤ん坊や老人、女もいた。

「落ち着け。私は敵ではない。──いいか。よく聞くんだ。養蜂所に向かえ。あの道のりはまだ燃えていないし、兵も少ない。あそこの空井戸をくだって地下水路を行けば外に出られる。抜け出せたらバックローグを目指せ。私と同じ紋章の兵士がいれば、彼らについて行け。ホワイトハースの紋章の者に出くわしたときには、逃げろ」

「……将軍さま……いったいなぜこのようなことに……」老人が言った。

「私にもわからない……」ウルマスは馬に拍車をかけた。「それよりもいまは生きることだけを考えろ」

 ウルマスは城へと続く階段を馬で駆け上がった。何人もの親衛隊たちをなぎ倒しながら、ようやく城内へ侵入した。城の下に広がる街を振り返らずに進んだ。いや、振り返ることなどできなかった。

 城内は石造りで、高い天井の廊下が延々と続いていた。豪華な装飾品が並べられた廊下を馬の蹄の音が反響した。

しかし、街の混乱と狂気とは裏腹に、城内は不気味なほど静かだった。王はきっとあらゆる親衛隊や兵士を殺戮に駆り出したに違いない。

 螺旋階段を昇り、中庭を抜け、そしてようやく王座の間に到着した。扉は閉まっていた。ウルマスは馬を降り、手にした剣を強く握りしめた。

 この向こうにアルヴィン王はいる。扉の向こうの音からして衛兵は引き連れてはいないようだ。ウルマスはふぅっと息を吐いてから、衛兵が二人がかりで開ける扉を押し開けた。

「陛下!」ウルマスの声が王座の間に轟いた。しかしその声は虚しく響いた。「これはいったい……」

 長テーブルには豪華な食事が並べられていた。そしてその食卓には、王子や王女たち、王妃、そして親族である王族たちが座り、つまりドルミオン王家の面々が一同に会していた。そして上座にはアルヴィン王が鎮座し、ちょうど口についた葡萄酒をナプキンで拭き取っているところだった。

「ウルマス、帰ったのか。なんだ、やけに騒々しいぞ」

「……アルヴィン王……! いま街で何が起こっているのか承知でおられるのか……!」ウルマスは悠長に話すアルヴィン王に近づきながら声を荒げた。

 アルヴィン王はまるで面倒ごとでも片づけるように言った。「なんだ見てわからぬのか……?」

「なんですと?」

「見てわからぬのかと言ったのだ」アルヴィン王は吐き捨てるように言った。「お前は王家の晩餐を邪魔するつもりか、ウルマス?」

 ウルマスは唖然と立ち尽くした。「何をおっしゃっているのだ……」

「こうして我ら家族が揃うのは滅多にないことなのだ。そして今日はなにより、九歳のアレンが鹿を狩ったはじめての日だ。その鹿肉を振る舞わないとしたらそれは父親として失格であろう」

 ウルマスは食卓を見渡した。王家の面々は誰ひとり、食事に手をつけていなかった。

「お前も座れ、ウルマス。積もる話を聞かせておくれ」

「……ご乱心なさったか……アルヴィン王……」ウルマスは震え、汗ばむ手で剣を握りしめた。

 食卓の誰ひとり、まばたきひとつせずに、ぴくりとも動かなかった。燭台の灯りが食卓に座らされた死体の生気のない顔を照らしだした。

 ウルマスは言葉を失った。赤ん坊のころから馴染み深い王子、王女たちが、もはや二度と言葉を交わすことのできない状態で、そこにいた。そしてウルマスが最もかわいがっていた幼いアレン王子には蝿がたかり、口からは蛆が溢れ出していた。

 ウルマスはもはや歩みを止めなかった。そして平然と鹿肉を口に運ぼうとするアルヴィン王の喉元に剣を突きつけた。「……なにをしたのです……!」

 アルヴィン王は愛想を尽かしたようにため息をつき、口を歪めた。「……王に剣を振るうとは何ごとか?」

「……ついにダンタリアを退けたというのに……」ウルマスは低く怒りのこもった声で言った。「ドルミオンは栄光を取り戻そうとしていたのに……ようやく繁栄しようとしていたのに……。あなたはこの国を……その手で破滅させたのだ……」

「ウルマス、お前には見えぬのか?」

 アルヴィンは汚物でも見るかのようにウルマスを見上げた。

「……何を……!」

 アルヴィン王は首につきつけられた刃を気にも留めず、後ろを振り返り、ちょうど玉座の下あたりを指さした。「あれだ」

 ウルマスは横目で玉座のほうを見た。

「……何も見えません……」

「──そうか。お前にはあのお方が見えぬのか……」アルヴィン王は残念そうに言った。

 ウルマスはいまこの剣で、すべてを終わらせてしまいたい衝動に駆られた。王の面影はなく、かつての親友でもない男をいますぐに殺してやりたくなった。しかし震える剣先を下ろし、ついに悟ったように口を開いた。「……あなたは精神に異常をきたしている。アルヴィン王、あなたは王家の人間を皆殺しにし、そして民を虐殺し、首都を一夜で滅ぼした……」

 するとアルヴィン王はウルマスの目をじっと見つめた。「ウルマス、お前にはわからぬのだよ」

「……あなたはうら若き王子、王女方をみるも無残な姿に──」

「──お前にはわからぬ……! これはあのお方のご意思なのだ……! ウルマス! 王の命令だ! 自害するのだ! いますぐ! この王の前で自害するのだ……」

 ウルマスは即座に剣を引いた。顔に生温かい鮮血が飛びかかり、アルヴィンは切り裂かれた首元を必死に押さえて悶えた。白いクロスに赤い染みが広がり、何かを訴える代わりに、ひゅうひゅうという音を喉から鳴らした。

 ウルマスはアルヴィン王の動きがなくなるのを最後まで見届けると、目をつぶった。「我らが偉大なアルヴィン王よ……」

 ウルマスはよろよろと歩み、王座下の階段に座り込んだ。そして血の着いた剣をじっと見つめた。王の血。決して見てはいけなかった我が君主の血。食卓にうつ伏せるように息絶える王の懐からは血が滴り落ち、石畳の床を赤黒く染めていた。そして王家の死人たちは目を開けたまま、晩餐を待っていた。

 なんと酷いことを……。ウルマスの手はいつの間にか震えていた。我が王はどうしてこのような暴挙に出たのだろうか。彼はちょうどいま自分の座っているあたりを指さしていた。ここに誰かがいると……。




 《……ウルマス……》




 そのとき、全身に鳥肌が立った。

「誰だ!」

 だがあれはたしかに生きた人間の声ではなかった。しかしたしかに聞こえた。この鼓膜を通して、音、いや、声が聞こえた。

「誰かいるのか!」ウルマスは立ち上がり、剣を構えた。「いるのなら出てこい!」

 そして支柱の影から、小さな影があらわれ、こちらにやってきた。

「……そんな馬鹿な……」

 その小さな影が七歳前後の少女だとわかるころ、ウルマスの剣はその切っ先から渦巻く砂のように崩壊してゆき、板金鎧プレート・アーマーも同じように粒子となって崩壊した。鎧で武装した姿から、ローブの姿に戻るやいなや、男はひざまずいた。

 ウルマスは娘の両肩を抱き、困惑しながら言った。「イルヤ……なぜここにいるんだ……。母さんたちとジェンウッドにいるはずだろう?」

「……お父さんが心配だから……ここまで来たんだよ」

「ありえない……ジェンウッドからホワイトハースまでは早馬でも二日半はかかるんだぞ。それなのにどうやってここまで……」

「そんなことはどうだっていいの……」

 ウルマスは娘に似た何かから手を離した。「お前はいったいどうして……」

 するとイルヤの顔は少しずつ爛れはじめた。皮膚はとろけ、眼球は飛び出し、やがて身体だったものはドレスの中でどろどろの肉塊となり、ウルマスの手からこぼれ落ちた。ウルマスは衝撃のあまり叫び狂い、飛びのいて尻もちをついた。

 肉塊はやがて霧となった。深い霧があたりを覆い尽すころ、何かをささやくような声がした。今度は娘の声ではない。男でも、女でもない、まるで錆びた鉄で人肉を切り刻むような、不快な声だった。



〈……ウルマス……〉



 リューディアは柱の影にいて、その一部始終を見ていた。アルヴィン王が兵士たちに街を焼き払い、民衆を殺せと命じたのも見ていた。自らの家族を毒殺し、ああして食卓に座らせたのも。ウルマス将軍がアルヴィン王を殺すのも。すべて見ていた。

 おそらく給仕で生き残ったのは自分だけだ。いや、この城の唯一の生き残りかもしれない。ほかの給仕たちはむやみに逃げ回ったせいで死んだ。自分だけは玉座の裏の柱に身をかがめて、息を殺し続けていたおかげで助かったのだ。

 そしてようやく助けがきた。あの勇敢な将軍がアルヴィン王を殺してくれたおかげで、虐殺は終わりを迎えるだろう。リューディアは物陰から飛び出し、将軍に助けを求めた。

「将軍さま! 将軍さま! 助けてください! 私はこの城の給仕です! どうか助けて!」

 しかし次の瞬間、男は不気味な笑い声をあげながら、食卓の肉切りナイフを取り、自らの眼球に思いきり突き刺した。それも何度も。

 返り血がリューディアの顔に飛び散る。リューディアは悲鳴をあげる代わりに口を手で押さえ、ついに逃げ出した。

 半開きになった扉をすり抜け、永遠に感じるような長い廊下を抜けると、ようやく街全体を見下ろせる階段までやってきた。

 街は燃えていた。しかし人の気配はない。そこら中に死体が転がっていた。

 リューディアは城を出て、街を歩いた。城下町にも、ブランタの養蜂所にも、街中のいたるところに死体が転がっていた。リューディアはそれでも歩き続けた。

 そのとき、白い煙が立ち込めた。いや、煙ではなく、霧だ。その霧はすぅっとリューディアを包み込んだ。

 霧の中に何かがいる。樫の木のように白く細長いものが立っている。そしてそれはじっとこちらを見ていた。目で見られているというより、心を覗かれているような気がした。心の中を、百足のような虫が這い回っているような。

 ──だめだ。殺される。

 私もアルヴィン王やウルマス将軍のように、狂わされ、殺される。

 リューディアは動けなかった。いますぐ走り出し、逃げ出したかったが、どういうわけかできなかった。

 いや、逃げたくないのかもしれない。きっとそうだ。私は逃げたくないのだ。なぜならどういうわけか心地よかったからだ。百足が心の中を這いずるのが快感だった。幼い頃の優しい思い出、忘れたくない思い出が走馬灯のように脳裏をよぎる。奇妙な虫は夢の中をするすると這いずった。ひとつの思い出を見ては、また次の思い出へ。

 何かを探しているのだろうか? 虫はすべての思い出を巡ったあと、心の穴からするりと抜け出していってしまった。

 リューディアは身体を起こした。街は灰によって白く染まっていた。どれくらい眠ってしまったのだろう。

 あの惨劇がうそのように、灰は崩壊した街やあらゆる死体を雪のように覆い尽くしていた。そしてあの霧も、もう消えていた。朝日が城壁から差し込んだ。





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