第8話 ノスタルジックな花野
灼熱を孕んだ、常夏ももう、どこかへ神隠しに遭ってしまった。
月を抱く少年の瞳の湖面に映る、虚ろな私を取り巻く時の影。
深夜に灯された妓楼のように咲き乱れる彼岸花の花野で、それだけがよく照り映えて見えた。
「時々、唇が湿るんだ。温もりが残って、そのときは布団の中で丸くなるしか、できなかったよ。暗い子宮の中で胎児が怖がって丸くなるように」
「もう、やめて。もう、やめようよ。そんな嘘をつかないで……」
「君にだけは聞いてほしいのに。分かってくれるって信じているのに」
夜はどんどん迫っても、朝は二度とやって来ず、思い違いの空白を埋めないように誰かが操った、言の葉の羽を埋めないといけない。
私はいつまでたっても、小心者のまま、とかすかに悟る。
言葉は呪われた魔法だ。
なぜ、神さまは人間に言葉を与えたのだろう、と徒に自責の念を覚えた。
「何で、そんな怖いことを平気で言えるの? 私は真君が歪んでいるなんて、思いたくないよ……」
どうしたらいいか、分からない。もう、知らないから、と私は後ろ髪を引かれるように一歩下った。
彼岸花が私たちを嘲弄するようにふらりふらり、と突き抜けるような、フラッシュバックをもたらした。
西日が地上に哀しい、流血をもたらすように、私たちの影も導かれるように赤い光線を帯びた。
微熱に負けた草叢に伸びる、彼岸花の茎が語り部で微笑む、風車のように揺れている。
ここはただでさえ、物憂いに更けりたくなる、居場所。
ノスタルジックな数え歌を唄う、青い宿舎で、残酷な童話をひそひそと夜毎に囁き合う、少女らのように私は耳を傾けている。
この時期特有の感傷も、狼煙に冷水をかけるように大人になれば、たちまち消え去るんだろうか。
知りたくなかった。
培った心情さえも全否定するような、闇夜に沈むワインカラーが入ったグラスを。
「普通の人にこの話をすると、みんなそうやって頑なに拒むんだ。精一杯、己自身を綺麗だ、と思い込みたいのだね。それは偽善、という毒薬なのに」
なぜ、この人は自己保身に走るようにさらに心を痛めつけるんだろう。
自ら、火口の入り江に立ちはだかり、忌々しい瘴気を嗅いでいるのだ。
炎の吾子を切り倒した、鏡の剣を天空に向かって、擲っているのだ。
「私は真君のこと、嫌いじゃないよ。真君はそんなこと、絶対にしないから。もう、やめよう。嘘をつくのをやめようよ……」
こんなに女らしさを纏った声だったことに私はかなり、驚いた。
どんなに拒んでも、女という性からは逃れられないし、身体は永遠に女という、宿命を背負っているのだから、こんなちっぽけな私でさえも内側から組み込まれている。
男でも女でもない、別の何かになりたいのに、神さまは二つにしか人間を分け与えない。
息をした暁には嫌でも大人にしてしまう。
こんな体勢のまま、ぼんやりと時の闇をやり過ごし、死にたくないなんて、どちらも本心ではない、と突きつけながらも、忘れ去られた伝説の草薙の剣を奮う、勇敢な皇子さまと、彼を一途に恋い慕う、お姫さまのように時空を壊してしまえばいい、とさえ、思った。
君は壊れそうな、薄い瞼を閉じた。
このまま、私も一緒に死のうか、なんて口が裂けても言えないし、夜が更けていく、決まり事を私はすぐさま、厭いたい。
いつまでも夜ならば、私は心穏やかのままでいられる。
君は夜の少年のまま、深々とする、夜更けで静かに、その傷だらけの背中で悶えながら、深く息をするんだろうね。
夜の屋根裏部屋を掌握する、精霊が夕焼けに居合わせる、私を揺さぶってくれる。
君はいつまでも夜の住人だった。
夕闇を天狗のように連れてくる、旧家の柱時計の鐘の音が私の小部屋にまで、忍び寄ってくる。
手紙なんて、古臭いものを今時、誰が胸に秘めながら書くのだろう。
万年筆も最近は安くていいものがあるんだ。真夜中の水辺で、インクの匂いを嗅ぐのもいい。
「真君?」
私が投げかけたとき、彼は学ランのポケットからナイフを取り出し、それを捲り上げたばかりの瘡蓋だらけの、白い腕にかざした。
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