第9話 秋の七草を、もう少しだけ
危ない、と鈍い悲鳴を上げる前に、私は彼の手を強く握り、その透明なナイフを下界へ捨て去っていた。
君の腕には新入りの、烙印のような傷が生まれていた。
血の涙が仕上げたばかりの、正絹のような皮膚に滲み出し、私はその真紅に惑わされ、思わず、彼の酷くうろたえたような、悲しげな双眸をじっと、見つめた。
傷口は幸い、小さかったものの、ごつごつとした岩肌のような、傷心に私は居たたまれなくなり、彼を発作的に罵った。
「こんなことをしても、何も変わらないよ!」
彼岸花に通る、風が彼の前髪に瑞々しい、蔦の枝が絡まるように触れ、伏し目のまま、見下ろす、漆黒の瞳には私を取り巻く、秋日影が見えた。
冷涼な空気を纏う、少年は氷柱のように冷酷無比な眼差しで、距離を保ったまま、その投げ捨てられたナイフを拾った。
そのナイフには彼の心から絞り出した、赤黒い樹液が付着していた。
その糖蜜が無造作に松林から差し込んだ、秋の薄らいだ、陽射しを受け入れ、ありもしない、慈雨を降らすように私たちはその優しい光を浴びた。
木立闇から天空に向かって咲き誇る、青みを増した、桃色の鹿鳴草も見えた。
その隣には母と生き別れた、小狐と雨宿りする、屑の花も見かけた。
水色の露草が今夜から遊ぶ、満月を待ち続けているのも見かけた。
目映い桃色の現の証拠の群生も見かけた。
秋の七草をもう少しだけ、私たちは欲している。
野辺の道で咲いている、女郎花や竜胆の花はまだ、見たことがない。
仏法僧も狭野神社のこんもりと広がる、鎮守の森から聞こえた気がした。
私たちは色鳴き風を司る、白秋を知っている。
高千穂の峰から沸き出でる、流水が零れるような、清々しい音も感じられている。
「真君、私がいるから。私は」
君の華奢な背中を、母が幼子を無条件に愛するように思い切り、抱きしめたかった。
雨水に打たれた、子犬のような眼をしている、君の瞳の奥には永遠を調べる、天の川銀河が見えていた。
君が羽織っていた学ランからほつれた糸屑が、私が来ていた、セーラー服に伝わり、再び、交差するように付いていた。
「だから」
偽悪に縁取られない、青い鏡の底を砕くように、私はナイフを持参したままの君へ駆け寄り、自分でも知らないうちに背中に手を回した。
詩情を集約したナイフが、落ち葉が散らばる地上に落ちる、微妙な金属音が木霊する。
森の精霊が私たちを誘う、楽章の調べが聞こえる。
「もう、自分を傷つけないで」
君の背中に手を回すと、私の背丈が一回り、君よりも頭一個分、低かった、とようやく、気付けた。
なよなよと見えていたはずの、二の腕にも程よい筋肉が付き、細すぎるアスパラガスのようだった、太腿も徐々にではあるものの、しっかりと重みを備えていた。
少年から青年へ、青い階段を歩もうと何とか、ふらつきながらも、一筋の信念を張っていた。
そうだよ、歳月に抗おう、とみんな白銀の浜辺で、座り込むだけではないからね。
大人への綱渡りを渡るとき、私たちは成熟しよう、と模索し続け、難問を付き尽きられ、爛れ落ちたGoサインを掴もうとしている。
難解な数式を万年筆一本でいとも、簡単に解くようには、大人への正解へ挑めない。
「癒してくれる?」
君のささやかな微笑が、耳元に触れたように私は感じられた。
「癒すって?」
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