第3話 竜が墜ちてきた日

 その竜はひどく傷ついていた。遙か遠くの大地で欲に駆られた人間の軍勢から攻撃を浴び、守り暮らしていた土地を奪われ、命一つの他にはすべてをなくして逃げ飛んできたのだ。

 だが、その命もすでにあらかた失われていた。

 生命の最期に、哀れな竜は本能的に火を求めた。

 火の温もりを求め、残された力を絞って翼を打った。


 飛翔した先には火葬場を有する砂漠の都市があり……そして、その上空で竜はついに絶命した。

 巨大な亡骸は、都市の心臓たる火葬場めがけて墜落する。


 そこで死んだことに竜には悪意などない。落ちた先に存在したことで都市に罪などない。

 誰にも悪意も罪もなく、しかし、それでも地獄は産み落とされた。


 竜の巨体に押しつぶされて死んだ、これが最も幸福な者たちだった。爆心地たる火葬場に居合わせた数十名は速やかに圧死し、それが為にその後の阿鼻叫喚を味わわずに済んだのだから。

 墜落からわずかに数秒後にはもう、竜の骸は呪いを撒き散らしはじめていた。

 恨みを宿して死んだ竜の遺骸が噴出させる、高濃度の呪詛と熱波。それらはたちまちのうちに都市に充満した。

 風よりも疾く街路を駆け抜けて、触れた物には火をつけ、触れた者からは命を奪った。


 都市はたちまち死と災いの巷と化した。


 

   ※



 あちこちに死が横たわっている。そちこちに死体が横たわっている。

 そして死は、この母娘にも食指を伸ばした。


「お母さん! お母さん!」


 コーデリアが母親に呼びかける。倒れた母親に縋って、呼びかけ続けている。

 その母親の唇が、『逃げて』と動いた。

 声はない。母親はもはや声を発せない。


 なぜなら母親は死にかけていた。


「やだ! やだぁ!」


 悲鳴が、呻きが、絶叫が幾重にも折り重なる地獄の街角で、少女の涙の声がそこに唱和する。

 コーデリアの涙が勢いを増した。

 母親を愛していたから。そしてその母親がもう助からぬとわかっていたから。


 そんな娘の頬を、母親の手が撫でた。

 汚れた手で娘の頬を撫でながら、母親の唇は再び『逃げて』と動いた。

 あるいは『生きて』と。

 そして、それっきりもう二度と動かない。


 なぜなら母親は死んでいた。



 母親が動かなくなっても、娘はその場を離れようとしなかった。

 呼吸と心臓が止まって十分と経たぬ内に、母親の骸には早くも蠅がたかりはじめていた。


 横たわっていた死体たちが起き上がりはじめたのも、ちょうどその頃だった。

 蘇り、ではない。

 死者は依然として死んだまま、歩く死者として徘徊をはじめたのだ。

 徘徊し、まだ死んでいない誰かを見つけるや仲間に引き入れんとして牙を剥いた。


 その様子を遠目に眺めながら、コーデリアの小さな胸に恐怖がこみあげる。

 死への恐怖ではなかった。襲われ殺されることへの恐怖では。

 少女が恐れたのは、愛する母親があの歩く死体の一員に加わってしまうことだった。


 だから、気がつけば祈っていた。

 祈りを捧げる対象は、しかし神ではない。


「ハエよ……ハエたちよ……」 


 神にではなく、骸にたかる蠅と蛆にコーデリアは祈る。


「どうか母さんを送ってあげて。手遅れになる前に、まだ間に合う今のうちに、どうか母さんを食べ尽くして……」


 それから再び、少女は泣く。

 誰にも弔われない母に、葬送の涙を流す。

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