時空超常奇譚其ノ九. SEACRET/白い扉の向こう側

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

時空超常奇譚其ノ九. SEACRET/白い扉の向こう側

「白い猫」

 関西の大学から東京の企業へと就職した青年は、実家を離れ生まれて初めて憧れの東京生活を大田区東蒲田の六畳二間のアパートでスタートする事になった。そこは南東角部屋で南側と東側に窓があり、東側の窓の外には小さな川が流れていた。

相当年期が入っている建物にしては部屋は綺麗で、JR蒲田駅に徒歩10分と近く陽当たりの良い部屋の割には家賃も安かった。夜になると、駅には酔っ払いが正体を失して寝ている姿も珍しくはなかったが、暫くすると住めば都でそんな事も気にならなくなった。

 前居住者は独身の若い男性教師で、横浜で有名な私立小学校までここから通っていたという事だった。

 ある日、関東エリアに大規模な地震が起きた。震度5強の地震に古い建物が耐えられるのかと心配したものの、幸い特に大きな被害を齎す事はなくほっと胸を撫で下ろした。

 青年はその部屋を結構気に入っていたが、新社会人生活に慣れようと朝早く出社し必死に仕事を熟し、会社帰りの麻雀の誘いやら夜の飲み会にも積極的に顔を出し、土・日は誘われたゴルフや釣りにも精を出した。そのせいで殆ど部屋の陽当たりを満喫する暇もなかった。

 暫く振りで何の予定もない土曜日の朝、押し入れの天袋の中で音がした。

部屋の天袋は奥行きも高さもそれ程なく、人の頭がやっと入るかどうかの大きさしかなかった。そんな場所に一体何がいると言うのだろうか?天袋の中をカサカサ、ヒタヒタと何かが歩いている。青年は『鼠以外』のその生物の正体にワクワクした。何故なら、田舎者の青年は鼠の足音を知っている、今聞こえているその音は鼠ではない。

足音が止まった。扉をカリカリ・と引っ掻き、ほんの少しだけ開いた扉から何かわからない生き物の光る目がこちらを見据えている。

「何やろな?」独り呟いた青年の言葉に応えるように、何かが「ニャー」と鳴いた。猫だ。

「何や、猫かいな」

 天袋の扉を開けると、見た事もない白く美しい毛並みに真青な目の猫が、青年の肩に飛び移った。いや見た事がある、何かの雑誌で見た毛並みの良い美しい猫だ。その品のある立ち振る舞いから、野良猫ではなく人に飼われているのがわかる。

「えっと、えっとこの猫は何やったかな?」と散々考えた挙句にそれがシャム猫である事を思い出した。白いシャム猫は一頻り部屋を彷徨くと、青年の膝に飛び乗り丸くなって寝てしまった。

 ほんの少しの微睡みの後、どこからか誰かの呼ぶ声がした。シャム猫を呼んでいるのかどうかも定かではないその声に、猫ははっとして起き上がった。そして、声の主に誘われるままに押し入れの前に積み上がった本と雑誌の山を器用に這い登り、元来た天袋の道を戻って行った。

 青年は退屈凌ぎに天袋に頭を突っ込み、猫の行方を探った。やっとの事で覗いた右奥のかなり向こう側に小さな光が見え、遠くで微かに「チェリー」と呼ぶ若い女の声が聞こえている。

「あの部屋の猫か、チェリーちゅう名前なんやな」

 青年は納得した。この部屋の天袋がどこかの部屋の天袋と繋がっているのだ。古い木造の建物だから、そんな事もあるのだろう。

 そんな事よりも、青年は別の事が気になった。あの女は何歳くらいだろうか、美人なのだろうか、独身なのだろうか、もしかしたらこれが縁で恋人同士になったりするかも知れない、この部屋にその美人が遊びに来たりするのかも知れない。妄想は果てしなく、宇宙の如く膨れ上がった。

 首を突っ込んだ天袋の隅に何か光るものがあった。手を伸ばして掴んだのは蓋の開いた金色の金属製の指輪の箱のようなもので、青年にはそれが何なのかはわからなかったが、何故か触ってはいけない気がして蓋を閉めてそのままにした。

それからも平日は殆ど深夜まで仕事と飲み会、土休日も連日のゴルフと釣りで忙しく、白い猫の事などすっかり忘れてしまっていた。

 ある日、深夜に帰宅した部屋に白いシャム猫チェリーがちょこんと座って待っていた。別に不思議でも驚くような事でもなく、あの日以来閉めた筈の天袋の扉が開いていたりしたから、どうやら白猫チェリーは幾度となくこの部屋に遊びに来ていたのだろう。

 当然ながら、チェリーは「お帰りなさい」と言って微笑む訳もなく「お疲れ様」と癒やしてくれる事もないし、青年の深夜の帰宅を待っていてくれる訳でもない。自由に部屋を訪れては帰って行ったのだろうと推測された。それは特に奇異な事ではなく拒絶するような事でもない。そんなもの高々、この部屋の天袋の東側がどこかの部屋の天袋に繋がっていて、どこかの部屋の猫が迷い込んで来て帰って行くだけの事だ。何ら不思議ではない、不思議ではないのだけれど、何か違和感があった。

「……あれ?」

 白い猫チェリーを抱きながら、青年はある事に気付いた。それは至極単純な事で、何を今更と言われる事だ。実家の姉がいたら「あんたホンマにアホやね」とツッコミを入れられただろう。そんな違和感は、青年の理解と理性を飛び越え、大きな疑問となってグルグルと宙を舞った。

 青年の部屋は南東の角部屋で、建物の東隣には川があり、当然だが東側に部屋はない。そんな事は当然とは言え、気付いてしまうと居ても立ってもいられず、わかっている筈の自分の部屋の東窓から外を確認したり、改めて外から建物を見たりもした。だがしかし、至極当然の如く部屋の東隣には部屋などあろう筈もない。最初からないのだ。

 青年は、何度も何度も飽きる程繰り返し確認したが、そこには敢然と川が流れているだけだ。それにも拘らず、青年の部屋の天袋は東奥に続き、その先にはどこかの部屋の光が見える。

 もしかしたら、白い猫は超能力で時空間を超越してこの部屋にやって来たのだろうか。マンガやB級映画じゃあるまいし、そんな事は到底あり得ない。物理法則はどこへいってしまったのだろうか。

 そんな事をしていると、白猫チェリーは再び天袋の中に入り東側へと歩き始めた。猫の後ろ姿が段々に小さくなって光の中に消え、遠くに見える部屋の明かりらしき光も消えた。特に大した事ではなく、単純にどこかの迷い猫がこの部屋の天袋から別の部屋の天袋まで歩いて行って消えた。そして、明日にはきっとまたある筈のないその空間から猫はやって来るのだ。そう、たったそれだけの事なのだ。

青年の頭の中のニューロンが切れ、思考が一時停止した。

開け放った東側窓の外から、川のせせらぎの音と清しい夜風が頬を撫でると、初夏の青臭い新緑の匂いがした。

 青年は、一晩じっくりと事の成り行きから時系列で整理し、この物理を無視した状況に何とか辻褄を合わせようと挑んだものの、いきなり1+1が3になったこの謎を解くには至らなかった。

 翌朝、青年は、ワクワクしながら改めてこの不思議な状況の解明に挑戦した。

「さてさて、これはどないなってるんやろな。夏の怪談話やろか?」と思わず口からそんな言葉を漏した青年は、不思議な高揚感に包まれている。

 まずは、天袋奥の部屋に行くのが解明の最短方法なのだが、どう見ても天袋は人が通れる程の広さはない。仮に、通れたとしてもそこを這って行ったら間違いなく不審者か泥棒と思われるだろう。かと言って、天袋奥に向かって叫ぶのも不審者と大差はないだろう。

 思案を続ける青年の目に、猫の首輪に描かれた文字と数字の羅列が見えた。その文字はCHERRY、天袋の奥で若い女が呼んでいた猫の名前だ。その次の数字は、きっと電話番号に違いない。青年はどうしようかと躊躇しながら、ドキドキする興奮を抑え、電話のダイヤルを回した。

「きっと、可愛い声の女性が出るに違いない」「どんな風に説明したらいいだろうか」「今直ぐに行きますなんて言われたらどうしようか」「部屋をかたずけなければ」と妄想が急激に膨れ上がり、切れていたニューロンが連結して煩悩となって元気いっぱいに暴れ出した。煩悩の祭り囃子が聞える。

 電話の呼び出し音が鳴り続け途切れた途端、緊張に身体が硬直する青年の陳腐な妄想を嘲笑い飛ばし、無理やり現実へと引きずり込む野太い中年男の声がした。

「はい、松尾です」

「あの、えっと、えっとですね、この電話番号の付いた首輪の白い猫がウチに迷い込んで来てるんですけど、どないしたら宜しいですか?」

 青年は、予想を裏切る目前の厳しい現実に焦りながらも、そのままいきなり電話を切る訳にもいかず、何とか状況を伝えた。

「そうですか、当方も飼い猫が行方不明で困っていたところです。実は、何度もご近所の皆さん方にご迷惑をお掛けしておりまして、大変恐れ入ります。では、直ぐに迎えに行きますので、住所を教えていただけますか?」

 中年男は慣れた口調で言った。猫の電話は今回が初めてではないようだ。早速、青年が「大田区東蒲田三丁目」と告げたのと同時に、電話の向こうの中年男が驚き絶句したのが手に取るようにわかった。一瞬の沈黙の後、中年男が訊いた。

「大田区と言うと東京の……本当に当方の猫がそちらに?」

その声には『そんな所にウチの猫がいる筈はない』という言葉が滲んでいた。

「どないかしました?」

「あっいえ、これから伺います。当方は横浜ですので一時間程かかるかと思います」

 中年男が慌てた声でそう言った。一時間半程して、髭を蓄えた品の良さそうな中年男がアパートにやって来た。

「すみません、道が混んでおりまして」

 アパート前の細く狭い道路に駐車した白い横浜ナンバーの大型車が、周辺を蹴散らすかのように威嚇している。青年は挨拶もそこそこに早々にチェリーを手渡した。中年男は、首を傾げながら猫を繁々と確認し、飼い猫だとわかると車に用意したゲージに慣れた手付きで入れ「お世話になりました」と言って帰って行った。

「あの中年男とあの声の女性はどういう関係なのだろうか。いやいや、そんな事よりもチェリーはやはり超能力で時空間を超越してこの部屋にやって来たという事なんだろうか……」

 事態が一段落した後も、理解を遥かに超えた疑問が溶解する事はなかった。

 翌日、帰宅した部屋にチェリーの姿はなく、天袋の奥にある筈の明かりも見えなくなっていた。その後、チェリーが姿を見せる事はなかった。

 青年は、3ヶ月程して体調を崩し入院した。子供の頃から風邪一つ引いた事のない程に健康には自信があった。きっと環境の変化から疲労が出たのだろうと考えていた青年は、心筋梗塞と診断されて驚いた。 

 それから暫くして、男は引っ越した。その後、東蒲田へは一度だけ仕事で行く機会があったが、大型マンション開発で周辺は様変わりしていた。やっとの思いで探し当てた場所に、かつて住んでいた古いアパートは既になかった。

 遠くで猫の鳴き声が聞こえた気がした。それが、あの白い猫チェリーだったのかどうかはわからなかった。

「黒い穴」

 ある日、横浜市内の高台にある住宅街で常識を超える飛行機事故が発生した。白雲一つない真っ青な夏空に、轟音を響かせて低空飛行を続けていた自衛隊のジェット戦闘機が、米軍厚木基地から発射されたと思しき地対空ミサイルに撃墜されたのだ。

燃えながら黒煙の尾を引いて落下する戦闘機は、幸いにも住宅街に隣接する山林に墜落し、大事故に至る事はなかった。

 目撃者の話によると、撃墜されて緊急脱出した戦闘機のパイロット二人は、パラシュートで住宅街外れの空き地に不時着した後、待機していた黒塗りの大型乗用車に乗ってそのまま姿を消した。パイロットの二人は、金髪の外国人で二人を乗せた車には『外79』のプレートが付いていたとの事だった。

 山林からは、いつまでも黒煙と赤い炎が空一面を覆いそうな勢いで立ち上り、消防車の消魂しい緊急音がいつまでも聞こえている。

 戦闘機の墜落で騒然となる周辺の騒ぎを他所に、住宅街南隣にある私立海明小学校六年一組の教室では、何もなかったように通常通り算数の授業が続けられていた。

 黒板の計算式を説明する担任教師は苛々していた。学校の外で起きている事件のせいで生徒達の意識が散漫になっている事が手に取るようにわかるのだ。

「皆、テストが近いんだから、もっと集中して授業を聞かないと駄目だよ」

「あの先生……」

 担任教師が落ち着かない生徒達を不満げに叱責したその時、女子生徒の一人が徐に手を挙げた。

「どうしたの?」

 担任教師の問い掛けに、女子生徒は泣きそうな声で告げた。

「先生、机の上に、黒い何かヘンなものがあります」

「ヘンなものって何?」

 声が微妙に震えている女子生徒は、「あれです」と言って隣の少年の机を指差した。隣の机の上、そこにある『それ』を見た担任教師は、不思議そうな顔で少年に質問した。

「これは何?」

 隣の少年は、何かを言いたげに首を振りながら答えた。

「何だかわからないけど、道に落ちて来たこの金色の箱を開けたら、中からこれが出て来た」

 どちらかと言えば、普段あれこれ無駄な事を言わないその少年が精一杯に説明しているのだが、奇妙な物体の状況を的確に担任教師や生徒達に周知させるには至っていない。

 少年の机に金色の金属製の小さな箱が置かれている。箱は四角い指輪ケースにそっくりで、真ん中から二つに割れる形になっていた。

「これが道路に落ちていたの?」と訊く教師に、少年は強く首を振った。

「違うよ、空から落ちて来たんだ。飛行機が飛んだら青い空に穴が開いて、この金色の箱が二つ降って来たんだ」

 何とか伝えたい気持ちは表れてはいても、要領を得ない。

「それって、UFOが落としたんじゃないの?」

「そうだよ、絶対宇宙人がUFOから落としたんだよ」

「違うよ、飛行機から落ちて来たんだ」

「えっ、UFO?」「えっ、宇宙人?」「UFO?凄ぇなぁ。」「UFO?」

 生徒の一人から宇宙人やらUFOの言葉が飛び出した途端、少年の言葉は掻き消され、クラスの生徒全員が一斉に集まり、少年の机の上を興味津々で覗き込んだ。

そこに、極小の黒い輪、いや円のようなものが存在していた。空中に浮遊しているという感じではなく、ぴくりとも動かずそこに『存在している』という表現がぴったりの黒い円形の物体が浮いている。鉛筆がやっと通る程の小さな黒い円は、不思議な事に正面からしか見えず、厚みは全くなく、側面や反対側からは見えない。

「お前、鉛筆突っ込んでみろよ」

 促された少年は、鉛筆の先を黒い輪に差し込もうとした。だが、表面は金属板のように硬く、鉛筆の芯がカツンと拒絶の音を出した。

「何だろうな、これ?」「何だろうな?」「何だべぇ?」「何だ?」

「先生、これが何だかわかりますか?」

 担任教師は、あらん限りの知識でその黒い円形の輪を表現した。

「安直に言うなら、異次元への入り口かな、或いはタイムトンネルかな?」

「異次元って何?」「タイムトンネルって何だ?」

 子供達は教師のフレーズに対応できず、一斉に質問した。意思の疎通を遮断する世代の壁、ジェネレーションギャップは如何ともし難い。

「昔、校長先生くらいの人が子供の頃、そういうテレビドラマがあったんだ。時空を超えて未来や過去に行くんだよ。タイムマシンみたいなものだね」

「凄い、これがタイムマシン?」「タイムマシン?」

 タイムマシンの一言に、生徒達の興味と疑問符が教室を乱舞する中、担任教師が思い出した。

「あれ、さっき空から『二つ』落ちて来たって言わなかった?」

「うん、言ったよ。もう一つある」

 そう言って、少年はランドセルから机の上にある箱と瓜二つの金色の箱を取り出した。教師は授業そっち除けで生徒達以上に黒い円形の輪に興味を示し、生徒達は何がなんだかわからないままに興味津々で見守っている。

「この金色の箱をこうやって開けたら、中から黒いのが出て来たんだ」

少年は躊躇なくもう一つの金色の箱の蓋を開けた。箱から予想を寸分も裏切る事のない同一の黒い円形の輪が出現した。その現象は誰もが見た事のない現れ方だった。箱を開くと、瞬時に何もない空間の一点から黒い円形の輪がニュルンと出て来たのだ。あっという間に二つの黒い輪が揃った。教師は閃いた。

「もし先生の考え通りなら、今度は鉛筆が通る筈だよ」

「もう一度鉛筆突っ込んでみようぜ」

「えっ大丈夫かな?ちょっと恐いよ」

 生徒達が見つめる中、少年は再び鉛筆の端を摘まんで恐る恐る黒い輪に押し入れてみた。

「あっ」「えっ、消えた?」「あっ、出た」「消えて出た」「あっちから出た」

 一方の輪に押し入れた鉛筆の先端部分が見えなくなった。そして同時に、片方の輪から出て来たのだ。まるで鉛筆が溶けて消え、再び現れるマジックショーを見ているようだ。驚愕する不思議な感覚で、クラスの生徒達全員が声を押し殺して凝視している。

「今度はこっち側から入れてみようぜ」

 別の生徒が反対側から勢い良く差し込んだ鉛筆は、当然の如くこちら側の輪から頭を出して、静寂に包まれる教室にカランと鉛筆の落ちる音が響いた。

「鉛筆が逆からも入って、出た」「わぁっ」「凄い」「きゃぁ凄い」

 生徒達の歓声が教室に響いた。もう算数の授業ではなく理科の実験になっている。輪を正面から見ていた一人の生徒がある事に気付いた。

「あっ、あっち側が見える」「本当だ」「見える」

 今まで漆黒だった円は、いつの間にか輪を残して反対側が透けて見える状態になっている。これは円や輪ではなく、穴だ。

「先生、これって本当にタイムマシン?」

「これが何なのかは先生にもわからない。でも一つわかった事がある、この輪を物体が通るって事だ。でも……」と担任教師は黒い輪、穴の正体に首を傾げた。結局の正体は予想も付かない。

「おい、指を入れてみろよ」

「やだよ、恐いじゃん」

 二人の生徒が言い合っている。

「じゃぁさ、この箱入れてみようぜ」

「お、俺がやるよ」

 生徒の一人が震えながら金色の箱を黒い輪に被せようとした。

「違うだろ、輪っかに箱を被せるんじゃなくて箱を輪っかの中に入れるんだよ」

「だって、恐いじゃんか」

「あっ」「あっ、消えた」「あっ」「消えた」「あっ出た」「出た」

 一人の生徒が金色の箱を黒い輪に被せると、再び不思議な事が起きた。いや起きたというよりも消えたのだ。黒い輪は箱に収まり蓋が閉まった途端に消え、床に落ちて転がり蓋が開くと再び違う位置に出現した。黒い輪が箱ごと移動したように見える。

「なる程、この箱に入れれば黒い輪を動かせるって事だ」

「あっ、輪が大きくなった」「大きくなった」「大きくなった」

 輪は時間とともに膨張した。徐々にではなく、生徒達の見守る前で一瞬で大きさを変えた。

 担任教師は確信を持って言った。

「この二つの黒い輪はね、きっと時空間が繋がっているんだよ」

「先生、時空間って何?」「何?」

「二つの離れた空間が繋がっているという意味だよ」

「先生、それならキテレツの天狗の抜け穴じゃん?」

「そうかぁ、なる程」

「じゃぁ、どこでもドアじゃん」

「そっかぁ、そういう事かぁ」

 生徒達は、教師の言ったタイムトンネルやらタイムマシンは頓とイメージ出来なかったが、『天狗の抜け穴』『どこでもドア』の二言で全てを理解した。

 金色の箱があれば黒い輪を移動出来る事もわかったが、教師の知識での理解出来たのはそこまでで、この二つの物体の正体を知る事は不可能だった。

「これが何なのかは先生にもわからないけど、物質がこの輪を通り抜ける事やこの金色の箱を使えば輪を移動させる事が可能だとわかった。明日までにこれが何の役に立つのか、皆で考えて来る事を宿題にしよう」

 結局、不思議な二つの黒い物体は教師が預かる事になった。

 夕方、教師は二つの金色の箱を鞄に入れ、帰宅する為小学校前のバス停にいた。帰りを急ぐ沢山の人々は、ちょっと遅れ気味のバスに文句を言いながら長蛇の列を成している。

 教師は子供のように心躍る気持ちを抑えきれなかった。二つの金色の箱を出しては眺めて、また鞄に仕舞い込み、そしてまた出しては一人眺めながら、思わず開けてしまいそうな衝動を何とか堪えていた。捏ね繰り回す手に汗が滲んだ頃、やっと最寄り駅行のバスが来た。

 停車したバスの左前部の扉が開くと、待ち草臥れていた人々が次々と乗り込んだ。運転手は、思ったよりも多い乗客に驚き急いでサイドブレーキを掛け直そうとしたが、ほんの一瞬だけバスの左前方を通り過ぎる茶髪にミニスカートの女の尻を目で追った。その瞬間、ブレーキから足が離れ、オートマチックの新型車両の為にクリープ現象でバスが動き出した。驚いた運転手は、慌ててブレーキを思い切り踏み直しサイドブレーキを引いた。バスの車内に寸時の騒めきはあったものの、大事には至らず客が全て乗車するとともに何事もなかったように走り出した。

 教師は後ろから雪崩れのように乗り込んだ小学生の列に押され、そのタイミングでバスが動いて急停止した為に、手に持っていた金色の箱の一つを落としてしまった。箱は乗降ステップに当たって勢い良く道路に跳ねた。仕方なく、教師はバスに乗るのをやめて落ちた一方の箱を探す事にした。乗降ステップから外に跳ねただけの箱など、造作もなく探せる筈だった。

 バスが走り去り、道路を見渡した教師の口から「あれ?」と思わず言葉が漏れた。バスが去った道路にあるべきそれが見当たらない。そこは側溝もない平坦な舗装された道路が畑に面している、その畑も作物のない空き地のような状態だった。そんな状況で金色の箱を見つけられない筈はないと日暮れまで周辺を探したが、何故か箱はなかった。

 走り出したバスの前方を横切り危うく轢かれそうになった白猫がいたが、クラクションに驚いた猫は一目散に逃げていった。

 教師は、薄暗くなったバス停で、バスを待つ客達の刺すような視線に耐えながら箱探しを続けた。だが、結局見つける事は出来ず、諦めて一つの箱を持って帰る事にした。自宅に戻った担任教師は、居ても立ってもいられずに残った一方の金色の箱を開けた。

 黒い輪は一気に空中に現れた。それは、見れば見る程に不思議な感覚にさせるものだった。小さな黒い輪、二つが揃っていれば繋がった時空間の穴が出現する筈の正体不明の輪が部屋の中に浮いている。しかも、それは何度確認してもどの角度から見据えても、側面や裏面からは全く見えない。激しい鼓動の高鳴りを感じる。何とか気持ちを静め、黒い輪を金色の箱に納めた。

 その日の夜9時を過ぎた頃、突然に教師の家の電話が鳴った。

「警察の者です。今日学校で不思議なものを見付けたそうですね。そんなものを持っていては先生の身が危ない。今からそちらに預かりにいきますので渡してください。こちらで保管しましょう」

「いや今日はもう遅いので、明日学校に来てください」

 そう言って、電話を一方的に切った。警察官だと言う相手は何故黒い輪を知っているのか、何故電話番号を知っているのか、教師は自分が置かれた理解のできない状況に困惑した。暫くして、立て続けに脅迫めいた電話があった。

「先生、直ぐにそいつを渡してくださいよ。渡さねぇと唯じゃ済みませんよ」

 何やら意味がわからない強圧的なその言葉に違和感がある。「取りあえず隠しておこう」と思い、部屋の天袋の隅に金色の箱を隠した。その夜、教師の家の電話は鳴り止む事はなかった。仕方なく電話機のコードを引き抜くと、今度は携帯電話に発信者不明の着信が次々と続いた。そして、深夜0時を過ぎた頃から部屋のドアの前を彷徨く複数の靴音が聞こえ始めた。身の危険を感じた教師は朝をじっと待ち、ドアの外に人影のない事を確認すると実家へと逃げ帰った。

 白い猫は気まぐれだった。気分次第で走り回り、何かを見つけては満足そうに住宅街の中程にある赤い屋根の家に戻った。そして和室に走り器用に天袋へ駆け上がった。そこは白い猫の宝物置き場だった。

「お母さんチェリーが帰って来た」「そう、良かったわね」

ある日、いきなり赤い屋根の家を人相の良くない男達が代わる代わる訪れた。その度に男達は警察手帳を見せ、家の中から顔を出した女性に同じ事を訊いた。男達はとても警察官に見える風体ではない。

「この辺で白い猫を探しているんやけど、お宅は白い猫を飼っていませんかのぅ?」

「何かあったのですか?」

「いや、何もありゃしませんよ。白い毛の猫を見掛けたら必ずここに電話してくださいや」

 男達は、周辺の家の聞き込みをしていると言いながらも何故かそんな様子は全くなく、明らかにピンポイントで家にやって来るカタギとは思えない男達に不審と恐怖を抱いた女性は、リビングで微睡む白猫を抱きしめながら「きっとヤクザだわ、怖い」と呟いた。

 私立海明小学校では、あの不思議な黒い物体を持って帰った担任教師が失踪を遂げた噂でもちきりとなっていた。続いて、金色の箱を拾った少年が心筋梗塞で入院した事がわかると、「UFOの呪いだ」「宇宙人の仕業だ」と根拠のない噂が真しやかに学校中を駆け巡ったのだった。

 だが暫くすると、当然のように誰もが黒い物体や金色の箱の事、UFOの呪いや宇宙人の事など忘れてしまっていた。そして数ヶ月後、担任教師と少年の訃報が伝えられた。連日TVや新聞を賑わせた『横浜ジェット機墜落事件』も、ジェット機撃墜の謎や立ち去った二人のパイロットの謎を残したまま、結局真相が報道される事はなかった。

 そんな事件が人々の記憶の彼方に沈み掛けたある日、関東南部に大規模な地震が起きた。幸いにも震度5強の地震がマンションや一戸建てなどに大きな被害を齎す事はなかったが、二つの場所で「ある事」が起きていた。

 地震で激しく揺れる年期の入ったアパートの天袋の中で転がった金色の箱、そして赤い屋根の家の天袋の中で転がった金色の箱。二つの金色の箱は、偶然にも同時に蓋が開き、中から黒い何かが出現した。白い猫は微笑み、悠々と天袋の中を反対側に歩いていった。

「空翔ぶ男」

 背の高い理知的な顔の少年は、小さな頃から父親の仕事の都合で西欧諸国や米国、大阪や京都に暮らした後、小学校5年生から両親とともに日本の成城学園に住んでいた。

 少年の祖父は、日系フランス人で米国マサチューセッツ州ボストンに住む気難しく気まぐれな大学教授だった。初孫であり、自分自身の置かれた環境と真摯に向き合い日本語や英語だけでなくフランス語や中国語、スペイン語まで流暢に話す利発な少年を、祖父は大層可愛がっていた。

 その祖父が一年程前から毎週のようにふらっとやって来ては少年と遊びに出掛け、またふらっと帰っていった。祖父は、来る時には必ず1m四方の薄い金属製の板を持っているだけで、他には財布とパスポート以外何も持っていなかった。

 田舎の爺さんが連絡もなくやって来ては孫と遊んで、満足して帰っていく。そんな事は特に変わった話ではない、ないのだが。

 米国マサチューセッツ州に住む一人暮らしの爺さんが、朝7時にやって来て、孫を連れてどこかへ遊びに出掛けて昼過ぎに帰って来る。ある時は、眠りに就いた深夜に母親には内緒で祖父がやって来て、少年と一緒に出掛けて、昼食時のボストンのマクドナルドに行き、ダブルチーズバーガーと飲み放題のコーラ、フライドポテトMにフレッシュベイクドクッキーを食べて朝7時に帰って来る。そんな奇妙な祖父と少年の小旅行は、少年にとっては夢のようなワクワクと胸躍るものだ。

 今週もまた、祖父が少年の住むマンションに来ていた。朝6時を過ぎいつもより随分と早い朝食の後で、祖父は母親に言った。

「和美さん、今から健太と一緒に米国ボストン市街の観光に行って来ます。昼12時までには必ず帰ります」

「えっ、アメリカのボストンですか?」

「大丈夫だよママ、美味しいケーキのお店があるんた。準備は整っているから心配しないで。お土産買って来るからね」

「それから和美さん、絶対に健太の部屋の金属製の板には触らないでくださいね」

 ボストンとはどういう意味なのだろうか、きっと新たなケーキ屋の店名なのだろうと思いつつも面食らう母親を他所に、子供部屋のドアの向こうで祖父とケンタが嬉々として叫ぶ声がした。

「kenta.Allons voir le monde aujourd'hui(健太、今日も世界を見に行くぞ)」

「Oui(おう)」

 暫くして、二人の仏語の会話と人の気配が消えた。冗談かと思っていた母親が子供部屋のドアを開けると二人の姿はなく、金属板が壁に立て掛けられているだけだった。金属板の下部に付いている小さな赤いランプが点滅していた。

 祖父が米国に帰った後、遊びに行った場所を訊かれた少年は母親にボストン市街の名所を説明し、日本との時差が13時間ある事やマクドナルドを「メッダノウズ」と言うのだと告げた。そして、地下鉄でハーバード大学美術館に行ったら土曜日で無料だった事。祖父の研究所のある大学で珍しい実験をした事や、ハーバード大学の廊下に建物の上から自動車を吊したイタズラ写真や校舎の上に自動車が乗ったイタズラ写真、校舎がロボットに変えられた写真などが張ってある事などを楽しそうに詳細に語った。

「何を言っているの?」とまるで状況を掴めずに呆気にとられる母親に、「その前は、フェンウェイパークでレッドソックスとヤンキースの野球の試合を見たんだ」と少年は答え、得意そうに日本人選手のサイン入りのボールを見せた。

 真偽を訊いた母親に、祖父は「全部本当ですよ」とだけ言った。そんな事がある筈はない。少年はパスポートを持ってはいたが、そんな簡単に米国へ、しかも日帰りで旅行するなど現実には出来る筈もない。

 ある時は、祖父と健太が遊びに出掛けたまま深夜1時になっても帰らず、祖父が一緒とは言え心配しているところへ電話があった。

「あっママ、今ニューヨークのマンハッタンで自由の女神を見てるんだ。もう12時だからお昼食べて帰るね」

 少年からの元気な声に、深夜1時まで安否を心配し重苦しい空気の中で心痛していた母親は、唯々困惑するしかなかった。

「えっマンハッタン?自由の女神?お昼?えっ?お祖父様、こんな時間にどこに?」

「そうか、日本は今、深夜1時か。和美さん、すみません。つい時差を忘れてしまった」と、祖父は至極恐縮した。

「時差?本当にニューヨークに?どうやって・」

 深夜1時半過ぎに帰って来た少年は、目を輝かせて「ニューヨークのリバティ島にある自由の女神の中に入ったら350段の螺旋階段があったよ」「タイムズスクエアには人がたくさんいたよ」「マンハッタンの5番街にあるエンパイアステートビルは102階建てだったよ」「ブロードウェイのミンスコフ劇場で見たライオンキングが面白かったよ」と嬉しそうに話した。

 要領を得ない母親は、久々に海外出張から帰った父親にその話をした。すると、父親は驚く事も慌てる事もなく「そうなんだ、じゃあきっと空を飛べるようになったんだ。子供の頃に、『Je t'emmènerai un jour à la place favorite avec moi(イツカどこヘデモ好キナ場所ヘ行ケルヨウニシテアゲル)』って親父が言っていたから」と、まるで子供のように目を輝かせた。

 それからも、少年は祖父の来るのを心待ちにしていた。だが、その後何故か祖父がやって来る事はなかった。少年は最後に祖父に会った6年生の夏に言われた言葉を忘れる事が出来ない。

『Je peux rencontrer la grand-mère ce temps(今度オ祖母チャンニ会ワセテアゲル)』

 それ以来、一度も祖父には会っていない。祖父と過ごした心躍る記憶は、時の経過とともに色褪せて遥か彼方に遠去かったが、「あの小旅行は何だったのだろうか、夢だったのだろうか?」「既にいないお祖母ちゃんに会わせてあげるとはどういう意味だったのか?」と少年は、長い間そんな疑問を漠然と持ち続けていた。

 それから10年後、少年は京都大学物理工学研究室にいた。教授の北条が言った。

「おいケンタ、警視庁がヤイヤイ煩さいねんけど、どないする?」

「先生ボクはどっちでもいいですよ、別に東京には抵抗ないし」

「そうか、ほな了解しとくで」

 少年は大学院卒業後、研究室のコネと日本政府からの強い要請で警視庁へ入庁した。しかし、理由は不明ながら少年が本庁へ勤務する事はなく、一年目早々から米国にあるマサチューセッツ工科大学のソウパ研究所への出向を命じられる事となった。一年目からの出向という奇想天外な下命に違和感はあったものの、その目的が何であれ少年には十分過ぎる意味があった。

 あの懐かしい夢の小旅行の舞台、ボストンの地に再び行けるのだ。そう思うだけで、少年は胸の高鳴りを抑え切れなかった。

「科捜研´のオンナ」

 3ヶ月前に警視庁八階にある公安対策課内に新設された科学捜査研修センター、別名科捜研´に、4人の関係者が集まっていた。この部署の目的は、対外的には「科学的捜査の向上を図る為の研修を行い、以て専門性の高い特殊捜査に対応するもの」とされている。

 因みに、研修センターとは名ばかりで講習など行った事は一度もないし、警視庁刑事部の附属機関として有名な科学捜査研究所、通称「科捜研」とは全く関係がない。

 この部署が即刻対応する特殊捜査は既に決まっており、アメリカ政府が極秘捜査に付ける名称を真似たような『プロジェクト・シークレット』なる名前が与えられている。捜査を担当するのは、課長松山譲二率いる『チーム松山』となっている。

 実際には、当然の如く設置された特命があるのだが、敢えて対外的な重要目的を隠す為に「科学捜査研修センター」なる得体の知れない部署が発足し、責任者に松山が就任したのだった。尤も、それ自体は上層部が勝手に極秘捜査だと言っているだけで、担当職員のみならず課長の松山までが、端からプロジェクトなどとは思っていない。

「誰が付けたか知らんけど、プロジェクト・シークレットやらチーム松山なんぞて、何やらアホみたいな名前ですね、恥ず。センスなさ過ぎやわ」

 関西弁が抜けない新人隊員の松坂華が言った。

「まぁ、私もネーミングについてはちょっとどうかとは思うが、警視総監が直々に命名したらしいから何とも言い難いな」

「ボクはプロジェクト・シークレットっていう名前は結構気に入ってますよ、意味が良くわからないけどね」

 隊員の青島健太が笑いながら言った。もう一人の隊員の重光裕之は、我関せず競馬新聞に没頭している。

 警視庁公安対策課の早朝一番の微睡みの珈琲ブレイクタイムが静かに終了し、突然雑踏に変わった交差点のように機密捜査がスタートした。課長松山が隊員達に言った。

「さぁ今日こそ『クロ』を探し出すぞ。お前達、線量計の携帯を絶対怠るなよ。この任務が命懸けだという事を忘れるな」

 松坂華か付け加えた。

「それから皆さん、ワタシが装備課から掻っ払ってきた放射線警報装置ガイガーセンサーもお忘れなく。放射線が1万ミリシーベルトを超えたら大警報音が鳴りますから、直ぐにその場から離れるのが身の為です。ヘタこいたら、放射線被爆の心筋梗塞やら脳梗塞で死んでしまいますからね」

 微睡惚けの華が言い終わると、隊員に言葉を掛けた松山は再び席に戻り突っ伏して何かに苦悩し始めた。松山の内線電話が鳴った。

「課長、忘れてました。さっきシワ爺から電話があって、『早く今日の報告に来いと松山に伝えろ』と言ってはりましたので、『喧しいアホンダラ、用があんのやったらオノレが来んかいボケ』と答えておきました。多分、この電話はシワ爺からの再度の悪魔のお呼び出しやと思います」

 華のお茶らけた声に押され、課長松山はこのところの日課となった上司、シワ爺と陰で呼ばれる警視庁公安部副参事官白内への朝一番の現状報告に、副参事官室へと向かった。心なしか足取りが重い。

 副参事官室へ入った途端、任務の即時完遂を急かす嗄れた声がした。いきなりテンションが高く、無駄に声がデカい。

「おい松山、まだクロは見つからんのか。奴等がロシアンマフィアとわかった以上、再びクロを狙ってくる事は間違いないのだぞ。警視庁の面子に懸けて、何としても奴等よりも先に回収せねばならんのだ」

 警視庁公安部に急遽新設された公安対策課科学捜索研修センターには、課長と現在三人の隊員がいるが、一ヶ月前の結成時には刑事課マルボウ担当の応援を含め10人程の隊員がいた。今、その殆どの隊員は過酷な任務に体調を崩し、入院または自宅療養中だ。

「全力で捜索に当たっていますが、隊員達の体調が……」

「莫迦者、お前の泣き言など聞く耳持たん。いいか松山、頼むぞ、お前だけが頼りだからな」

 副参事官室から戻った松山は、ぐったりしながら課長席でいつものように精神の鍛錬を始めた。「ふうっ」と息を吐き、もう一度大きく息を吸って、今度は魂が抜けそうな程に再び「ふぅっ」と息を吐いて、呼吸を整えると全て終了。

 京都育ちの松坂華は「課長、お疲れ様です。毎日々ヘタレ爺がグズグズ喧しいですよね。ウチがシバいたりまひょか?」と冗談なのか本気なのかわからない事を言った。

「あぁいつか頼むよ。それじゃあ、現在の状況を整理しよう」

 松山は、三人の隊員、中年係長の重光と青イチこと青島そして新人女子隊員華に状況を確認した。

「まず、重光の方はどんな状況だ?」

「蒲田の解体業者にアポをとろうとしているのですが、どうやら荒っぽいモグリの仕事や解体建物の一部売り飛ばし、違法産廃もやっているらしく、未だに社長と連絡が取れていません。社員の話によると、解体中に見つかった箱の中から黒いヘンなものが出て大騒ぎになって社長が箱に戻したらしいです。昨日も直接会社へ行ってみましたが、居留守を使っていて社長には会えませんでした。一応、専務とかいう人物に「クロが見つかったら今までの悪事は全て警視庁の力で揉み消してやるから」と言ってあります」

「重光さん、「警視庁の力で揉み消してやる」なんて、そんなん出来るんですか?」

 華が不思議そうな顔で訊いた。

「ん?そんな事出来っこないに決まっているだろよ」

「?」

 重光の詐欺的捜査など歯牙にも掛けず、課長松山は勇んだ調子で言った。

「そうか。今日は俺も一緒に行って何がなんでも社長に会って無理矢理にでも聞き出してみせるぞ。青イチと華の方はどうだ、赤い屋根の家と白い猫は特定できたか?」

「課長、そんなん当然です。ワタシは『京大の頭脳』と呼ばれた天才ですから、その程度の事はチョロいです。内偵中の神奈川県横浜市緑区山中1ノ35ノ26松尾清史宅に間違いないと思われます」

「クロは発見出来たのか?」

「チッチッ、そんなに簡単に上手くはいきまへん。課長、ガツガツしたら男は嫌われますよ」

「煩い。余計な事は言わなくていい」

「京大の頭脳なら簡単じゃないのかな?」

 青イチが微笑みながら、ぼそっとツッコミを入れた。

「課長、そもそも『クロ』って何ですの?」

「華はまだ知らなかったか?重光、説明してやれ。以上で朝の打ち合わせ終了」

 朝礼後に華が再度「クロって何ですの」と訊くと、重光は面倒臭そうに「一級国家機密事項で通称クロって呼ばれている」と言った。「それで?」と先を催促する華に、重光は「すまん。俺さ、関西弁ダメなんだわ」と言って、「仕事に関係ないやないですか?」と反論する華の言葉が終わらない内に、さっさと松山と蒲田へ出掛けて行った。

「アホか、関西弁は世界一じゃボケ」

「世界一か、そうだよね」

 青イチと呼ばれている青島に、口をへの字にした華が問い掛けた。

「青イチさんってワタシと同じ関西の大学ですよね、何で東京弁なんか使いはるんですか?ホンマ気色悪いわ」

「慣れだよ、慣れ。それにボクの実家は東京だからね。まぁ華ちゃん、そんなに興奮しないで僕達も横浜に行こうか」

 青島と華は横浜の赤い屋根の家の張り込みに出掛けた。青島は華と同じ京都大学工学部物理工学専攻の二年上だった。大学時代に面識はないが、年が近いせいもあり話は合う。普段言葉数の少ない青島が、自ら運転する横浜までの車中で重光に代わって華にクロを説明した。青島の説明の途中で華は笑い出した。

「一級国家機密事項って言うから何やと思ったら、『SERNのハドロン光速衝突実験中に偶然生まれた』って何ですの、それ?」

 SERNの実験中に、というクロの説明は確かに怪しいB級映画のようにも聞こえる。軽く呆れながら笑いが止まらない華に青イチが続けた。

「それでね、ボク達はクロって呼んでいるんだけど、それを米国MITソウパ研究所でピアス博士が金色の箱に閉じ込めたんだ」

「青イチさん、クロって結局何ですの?」

「ボク達が通常クロと呼んでいるのは黒い穴の略で、『ワームホール』の事だよ」

「ワームホールて、あの宇宙にあるて言われてる時空間の虫食い穴の事ですよね?」

「そうだね」

「そんなもんが、何で日本にあるんですか?」

「盗まれたんだ」

「誰に?」

「ボク達も詳しい事は知らされていないんだけど、盗んだのはロシアンマフィアで二人組の実行犯も既に逮捕されている。奴等はワームホール維持装置を開発したMITのソウパ研究所を襲撃して、盗み出したクロを日本ルートで運び出そうとしたんだ。その辺ついては、重光さんが厳しく取り調べしていて自供も取れている」

「マフィア?」

「そう。それでね、奴等が厚木基地からF22ジェット戦闘機を盗んでクロを国外に持ち出そうとした計画は地対空ミサイルで粉砕されたんだけど、クロはその後行方不明となってしまったんだ」

「それをウチ等で探してるて事なんですか?」

「そういう事だね」

「へぇ、そうなんや。ワームホールはどこへ消えたんやろか。もしかしたらジェット機から外に落ちてしまったんやないですかね?」

「いい勘してる。実は、ジェット機から外に落ちた事が実行犯の取り調べでわかったんだ」

 一ヶ月前、重光の厳しい実行犯取り調べでクロが機外へと落下した事がわかった途端、全隊員が夏真っ盛りの捜査に駆り出された。隊員達は連日周辺を聞き込み、どうにか目撃者を発見する事に成功した。目撃によると、米国空軍機に追尾されていたF22戦闘機から落下したクロの入った二つの箱を近くの小学生が拾ったらしかった。

捜査は、そこまでは順調に進んだが、夏の盛りの連日無休の聞き込みのせいで、殆どの隊員は体調を崩し入院してしまったのだった。

「拾った小学生がどこの誰やわかってはるんですか?」

「拾ったのは横浜の私立海明小学校の6年生で、クロが入っていた金色の箱二つを担任の教師に預けた。ところが預かった教師はその内の一つをバス停で失くしてしまい、一つを自宅アパートへ持ち帰ったんだ。この辺は聞き込みで間違いないとわかっている」

 華は興味なさげに聞いている。

「聞き込みでそれがわかって、その日の内に担任教師に連絡を入れて引き渡すように課長とその他の隊員で説得したんだけど、結果的は成功しなかった。その後担任教師は実家に帰って体調を崩して入院し、急性脳梗塞で亡くなってしまった。結局クロの行方はわからず、更にそのアパートが解体されてしまったから、それ以上の手掛かりは全くなくなってしまったんだよ。今、課長達が追っているのはそのアパートの解体業者って訳さ」

「じゃぁ、ワタシ達が見張っている赤い家はどういう繋がりがあるんですか?」

「白い猫、つまり担当教師がバス停で失くした片方さ。隊員の一人が毎日あの周辺で聞き込みを続けて五日目に、バス停前のコンビニの防犯カメラに白い猫が金色の箱を銜えて走って行く姿が映っているのを探し当てたんだ。そこまではわかっているんだけどね、そこから先が全く進んでいないんだよ」

「ワームホールなんてワタシは全く興味おまへんけど、そんなものが何の為にこの世の中に存在してるんやろ、そもそもそんなものが存在してエエんやろか?」

「そうだね」

 華が呟いた独り言に青島が頷いた。前方に赤い屋根の家が見える。

「それで華ちゃん、その白い猫のいる赤い屋根の家はあの家で間違いないの?」

「絶対に間違いないです。この辺で白い猫を飼っているのは、あの「松尾宅」しかおまへん」

「でも、それは一ヶ月前にわかった事だよね。それを絶対と言う根拠は?」

「実は、白いシャム猫があの家に入って行くのを、ワタシがこの目で二度も見てるんです」

「それは、「ワタシは京大の頭脳と呼ばれた天才ですから」って言うより確実な根拠だね」

「白い猫がいるちゅう事は、あの家にクロの片方がある可能性大って事ですよね?強制的に家をぶち壊す捜索は出来へんのですか?」

「まず令状が取れないだろうし、そもそも法治国家の日本でそんな捜査は無理だね」

「あっ、そう言えばあの赤い屋根の家って母親と子供が体調を崩して入院中で、近々田舎に引っ越すらしくて近所の不動産屋に家を売りに出す相談をしているそうなんですよ」

「それも凄い情報だからチェックしておいた方がいいね。家が売れていつの間にか「解体されて空き地になってました」なんてのは、もう一つのクロと同じパターンでシャレにならないからね」

 華は口をへの字にしながら「そうですね」と言った。

「でも華ちゃん、ツメ甘そうだな」

「何を根拠に言ってはるんですか?そんな事ない、絶対に大丈夫やわ」

 その日、青島と華は夕方まで張り込んだが白い猫も家人も姿を見せず、仕方なく諦めて帰庁する事にした。

 帰りしな、家の売買を予定する横浜の不動産屋である卯祖月不動産に寄った華は、青島と一緒に店舗内に入り、関西弁で殆ど脅迫とも取れる言葉を投げて帰ってきた。そして「これは脅迫ではなく、『不動産屋お願い大作戦』やから」と得意そうに胸を張った。

 数日後、いつもの朝のブレイクタイムに電話が鳴った。応対した華は、開口一番小さな声で「ナメとんのかワレ」と言って電話を切った後、明確に、きっぱり、すっぱりと松山に言った。 

「あの、ですね。横浜の不動産屋からの連絡で、赤い屋根の家の解体が今朝から始まる事になっちゃいました」と状況を報告した。

「何でそうなるんだ?」と呆れる松山に、「いいかも知れませんよ。解体中にクロが見付かる可能性が高いですから」と青島が絶妙のフォローを入れると、再び電話が鳴った。

「はい、こちらは警視庁科捜研´です。何や、オノレかい。何やと、黒い何か変なものがある?」

 電話は横浜の卯祖月不動産からだった。朝一番から始めた赤い屋根の家解体工事現場から、黒い変なものが出て来たとの連絡だった。

 また電話が鳴った。

「はい、こちら警視庁科捜研´。株式会社蒲田解体工業の社長さんですか、解体工事現場から出て来たもの全てを渡したい?」

 電話を聞いていた松山と重光が小躍りした。

「やった、課長直ぐに行きましょう」

「私と重光は蒲田解体工業へ行く、青イチと華は横浜へ行って、その「変なもの」を確認しろ。多分クロに違いない、ファイル型移動装置を持っていくのを忘れるな」

青島と華は車に乗って横浜へ向かった。華の元気がない。

「どうしたの華ちゃん、元気ないね。赤い屋根の家が解体されちゃった件なら気にしなくていいよ。そんな事は良くあるし、一々気にしてたらこの仕事は続かないからね」

「そうですよね、そうや、そうなんや。こんなん、どうって事ないわい」

 随分と立ち直りが早い。

 現地に着いた二人が埃だらけの解体機械の前で目にしたものは、空中に浮かんでいる1センチ程の黒い円形の『変なもの』だった。二人は今自分達が探しているクロを実際に見た事がない。それは責任者である松山でさえ見た事がないのだから仕方がないのだが、どう見てもその変なものは、『クロ』に違いない。

 現地周辺に数人のオバちゃん達がいて「あれは何?」「怪しいものに違いないわ」と噂してはいるものの、被害を受けている訳ではなく単に黒い物体が空中に浮いているだけという事もあり、未だ大きな騒ぎにはなっていない。解体機械の近くに金色の箱が開いたまま放置されている。

 解体機械のオペレーターと不動産屋の担当者は「警視庁です」と言う青島と華の言葉に縋るように「お巡りさん、お願いですから早くこの変なものを持っていってくださいよ」「野次馬が煩くて仕事になりゃしない。直ぐにお願いします」と懇願した。

 青島は、金色の箱にそれを収めて蓋を閉め「回収完了です」と不動産屋に告げて、風の如き素早さでその場を立ち去った。車を降りてそれに近づき箱の蓋を閉めるまで、ずっと二人の首に掛かるガイガーセンサーの警報音が鳴り続けていた。

「やったね、華ちゃん」

「ワタシの『不動産屋お願い大作戦』完璧やわ」

 二人が偶然完璧になった大作戦の成功を喜ぶ帰庁の途中、第一京浜国道に入る手前で華の携帯電話が鳴った。重光からだった。

「はい。あっ重光さん、今連絡しようとしていたんですよ。ワタシの作戦が大成功で任務完了です。解体工事で建物を壊したら金色の箱の中からクロが出て来たみたいで、空中に浮いていたそれを箱に入れて無事に回収完了しました」

「そうか、こっちも隊長の顔で話はついた」

「あのヤバい顔で脅迫したんですか?」

「まぁそんな感じだ。今から横浜第三埠頭の13番倉庫まで来てくれ」

 喜びを表す華に、電話の向こうの重光が奇妙な事を言った。

「えっ、横浜第三埠頭ですか、何で?」

「わからんが、課長の指示だ。どっちにしても何があるかわからない、早くそいつを課長に渡した方がいい」

「了解しました。横浜第三埠頭へ向かいます」

 帰路に立ち寄ったコンビニのトイレから出てきた重光が携帯電話を切ると、松山が問い掛けた。

「何か連絡があったのか?」

「はい、青イチと華から連絡があって、あっちもクロを発見して回収したそうです」

「そうか、やったな」

「で、課長に直ぐに渡したいので横浜第三埠頭13番倉庫まで来てくれとの事です」

「横浜第三埠頭って何だ?」

「さぁ、早く課長に誉められたいんじゃないですか?」

「何だか良くわからないが、取りあえず急ごう」

 松山と重光は横浜第三埠頭へ向かった。その途中、松山の携帯電話にメールが届いた。松山は何かを考えながら、緊張した顔でじっとメールを読んでいた。

 横浜第三埠頭は、夜間作業が殆どで日中は人の気配がなく薄暗い。一般には映画やTVドラマでしか見る事はないだろう、潮の匂いが事件を予感させる。埠頭先に係留されている一隻の中型船も何やら怪しい。

「何故、こんな場所に来いと言うんだ?人の気配がないじゃないか、しかも13番倉庫は最奥だぞ。重光、気をつけろ、何か変だ」

 松山は、違和感に身構えた。横浜第三埠頭最奥の13番倉庫近くまで来ると、いつもの調子で青島と華が手を振っているのが見えるが、何か様子が変だ。

「どうしたんだ?」

 松山の声に、慌てた様子で華が状況を告げた。

「課長、箱にクロがちゃんと入っているのかどうか最後の確認をしようとして箱を開けたら、こんなんなってしもぅて箱に戻りまへん。まだ々大きぃなってますぅ」

困惑する華の近くに、金色の箱から出て膨張したのだろう30センチ程のクロが浮かんでいる。華の首から下がるガイガーセンサーは警報音を発し続け、青島は青い顔でその場にへたり込んでいる。松山は冷静に華を制した。

「華、いいから近寄るな、それ以上被曝すると危ない。兎に角、後ろへ下がれ。後は私が何とかする。青イチはどうした、体調が悪いのか?」

「ガイガーセンサーの音に驚いて、10万ミリシーベルトの線量計数値を見たら、気分が悪ぅなったみたいですぅ」

 指示通り後方に退いた華を確認し、車から降りた松山が膨張したクロの対処に掛かろうとしたその瞬間、唐突に重光が驚く行動に出た。それは奇妙な姿だった。警察官が短銃を構えて銃口を上司の警察官に向けている。一体誰がこの状況を説明出来るだろうか。

 短銃を松山に向ける重光は、持っていたもう一つの金色の箱の蓋を開けた。中から二つ目の穴が現れ相似性から30センチ程に膨張した。

「何だ、どうした重光?」

「重光さん、暑さで気ぃでも狂ったんですか?」

 短銃を構える重光は、薄笑いを浮かべながら泰然として言った。

「いや、俺は気は確かだし至って冷静ですよ。これは『スポンサーへのプレゼン』とでも言うヤツです」

「スポンサーって何だ?」

「プレゼンて何ですの?」

「紹介します、この方々が私のスポンサーです。依頼主と言った方がわかりやすいかな」

 薄暗い埠頭の柱の影から、拳銃を構える二人の外国人が姿を見せた。スーツ姿の彼等は日本人には見えない。

「彼等はロシアからのお客様です、今回の実行犯であり俺の依頼主でもある」

「 Привет.」

「皆サン、コンニチハ」

 松山は、理解を超えた目の前の状況に「重光は何をしているんだ、こいつ等は何を言っているんだ。何がどうなっているんだ」と自問しながら呆然と重光を凝視した。

「Если ты не будешь делать то, что говоришь,

ты меня убьешь.」

「我々ノ言ウ通リニシタ方ガ身ノ為ダ、言ウ通リニシナイト殺スゾ」

 二人のマフィアは拙い日本語を発すると同時に、天空に向かって発砲した。埠頭の建物に銃声が反響し、華は悲鳴をあげ、青島が肩を竦めた。

「重光、もしかしてお前、買収されたのか?」

「まぁそういう事です」

「お前が買収されるなんて、そんな事俺には信じられない。今まで長い間一緒に辛い任務をこなしてきたじゃないか?」

「松山課長、アナタには感謝している。だが彼等からの報酬が一体幾らか知っていますか?10億円ですよ、10億円。公務員が逆立ちしたって手に出来る額じゃない」

「何故だ、何故なんだ?」

「理屈は簡単な事です。クロのテクノロジーはとんでもなく素晴らしい、必ずやこの世の中に革命を起こすでしょう。しかし、どの国の誰がこのテクノロジーを主導しようとも、この世界が画期的に変革を迎える事に変わりはない。つまり、俺が10億円を手に入れても入れなくても何ら変わる事なく世界の変革はやって来るんです。それなら俺が10億を手に入れても何ら問題はないって事ですよ」

「考えが無茶苦茶だ、それを許す訳にはいかない」

 松山が拳銃を構えると、華の悲鳴がした。マフィアの一人が背後から華を羽交い締めにして拳銃を突き付けている。青イチは手も足も出ずオロオロしている。

「Нормально ли, что эта женщина умрет? 」

「サァドウスルノダ、コノ女ガ死ンデモイイノカ?」

「Делай, как говоришь.」

「言ウ通リニシロ」

「Oпусти пистолет.」

「拳銃ヲ捨テロ」

「松山課長、銃を捨ててください。手荒な事はしたくない」

 松山は躊躇しながら、究極の選択に苦慮している。

「……わかった、人命が第一だ。クロは諦めよう」

「課長ダメです、渡したらアカン。こいつ等が正しい事に使う筈がありまへん」

華は涙ぐみながら叫んだ。声に悔しさが滲んでいる。

「もういい華、もういいんだ。そんなものより人命が大切に決まっている」

 松山は拳銃を置き任務の遂行を諦めた。華の顔は大粒の涙でぐしゃぐしゃになり、両手を高く上げる青島が抵抗の意のない事を示している。

「Как я могу это нести.」

「ダガ重光、ドウヤッテコレヲ運ブノダ?」

「Я не знаю, как это сделать.」

「ドウスレバ良イノダ?」

「重光、金色ノ箱ニモ、ファイル型移動装置ニモ入ラナイデハナイカ、入ラナケレバ運ベナイゾ」

 30センチに膨張した二つのワームホールの移動に、マフィアと重光は思案に暮れている。その後ろで両手を上げる松山が何故か奇妙な事を言い出した。

「重光、そこまでデカくなったクロを運ぶには、クロ自体の空間認識能力を利用する以外に方法はない。ワームホールに密閉し空間を認識させ、カシミールエネルギーを供給さえすれば確実に移動させる事が出来る」

「空間認識能力か、だがどうすれば?」

「これを使え。これは新型ファイル移動装置だ、直径1メートルまでなら密閉移動する事が出来る」

 松山は、四つ折りになった金属製新型ファイルケース二つを鞄から出し、重光に投げ渡した。

「それを使えば膨張したワームホールを移動出来るし、一時間もすれば元の大きさに戻るだろう。その新型ファイルケースにもカシミール電池が内蔵されているから問題はない。さぁこれでいいだろう、但し華を離せ」

「それがあれば運べる」

「Если у вас есть это, вы можете нести его.」

「Так ли это на самом деле?」

「ソレハ本当ナノカ?」

「本当だ。ロシア本国に行けば、長時間対応のエネルギー装置があるだろう?」

「本国ニナラアル」

「Давайте дадим женщине свободу.」

「イイダロウ、コノ女ハ放シテヤル」

「課長、ダメです」

 華は涙声で叫んだ。

「松山さん、念の為に拳銃と携帯電話と車の鍵は渡してもらいますよ」

「ボケ、関西人ナメたらあかんぞ」

 泣きながら叫び捲る華は、背後から羽交い締めにする2メートルはあろうかと思われる大柄なマフィア男の腕に噛みつき、怯んだ男を投げ飛ばした。華の足下でキュンと弾ける音がした。

「華、動くな、今度は確実に当てるぞ」

「喧しいわ。やれるもんやったらやってみんかい。関西人ナメたらイテまうど、関西弁は世界一なんじゃボケ」

 拳銃を構える重光に、躊躇なく捨て身で飛び掛かろうとする火の玉娘を、松山は慌てて制止した。

「華、動くな。業務命令だ、動くな」

 華は身構えながら、無念そうに動きを止めた。苛立ちの歯噛みが聞えて来る。

「そうそう、余計な事はしない方が身の為です。この埠頭からどんなに走っても電話のある場所まで15分は掛かる。でも残念ながら、15分後には俺達はもう日本にはいない。色々世話になりました、では」

 松山と華、そして両手を上げる青島の姿を確認しながら、マフィアと重光の姿は停泊中の船に消え、船から一機の飛行機が飛び立ち空の彼方へと消えていった。

 暫くすると、悔しがっていた松山と青島は、意味不明の会話とともに笑い始めた。

「課長、意外と演技派なんですね」

「高校時代に演劇部にいたからな。お前からのメールで重光の企みがわかったから、どんな演技をしようかと考えてしまったよ。お前のビビリの演技も笑えたぞ」

「課長、青イチさんも何が可笑しいんですか、演技って何ですの?それから青イチさん、さっきワザとクロを大きくしたでしょう、何でやの?」

「まぁ華、気にするな。その金色の箱を回収して早々に撤退するぞ。青イチ、直結で車のエンジンを掛けて発進しろ」

 松山は二つの金色の箱をポケットに仕舞い込み、飛行機が去っていった空の彼方を一瞥して車に飛び乗った。車の中でも松山と青島の笑いが止まらない。華には事態が呑み込めない。

 世界に一大変革を齎す事が確実視されるクロ、即ちワームホールが米国で盗難に遭ったが、警視庁は面子に懸けてその行方を突き止めた。それにも拘らず、そのワームホールが目の前で再び持ち去られたというこの非常事態に、松山も青島も慌てる素振りも見せず笑っている。その理由が華には全く理解出来ない。

「課長、笑ってる場合やないですよ。折角、苦労して発見したクロやのに取り戻さなくてエエんですか?」

 松山は、華の居ても立ってもいられない焦り憤る気持ちを他所に、吐き捨てるように言った。

「構わん。あんなモノくれてやれ」

「えっ、あんなモノくれてやれて、何を言ってはるんですか?そんなんエエ訳ないですやん。直ぐに本庁と厚木基地に連絡して、ジェット機で追尾してミサイル撃ってあの飛行機撃ち落としたりましょうよ」

 慌てふためく華の横で、いつまでも青島と松山の笑いが止まらない。

「課長、秘密にしておいて正解でしたね?」

「そうだな」

「秘密?」

 一ヶ月前、創設間もない警視庁公安部対策課科学捜査研修センターのフロアに米国帰りの青島がいた。青島は初対面にも拘らず、チームリーダーの課長松山に話し掛けた。

『松山課長、お話したい事があるんですが、宜しいですか?』

『ん?お前、名前は確か・』

『青島です』

『あぁ、そうだったな。青島、青田、青山か、メンバーの名字が青ばっかりだな。お前、出席番号なら青で一番だよな、青イチにしよう』

『青イチですか、やっぱりセンスないなぁ』

『お前、確か京大から入庁一年目でアメリカのMITのソウパ研究所に出向になって、帰って来たんだったよな?』

『はい。課長も京大なんですよね?』

『あぁ。生まれてから高校二年まで東京北区赤羽に住んでいて、その後親父の転勤で京都に引っ越して大学卒業までいたよ。お前の研究室の所長で京大教授の北条は私の高校時代の悪ガキ仲間でな、一緒にツルんで良く暴れたよ。京都駅前で、東京から修学旅行に来たヤンキー共10人と殴り合いのケンカになったのは忘れられない、私も北条も最後は逃げたけどな。お前の事は聞いている、IQ200の天才らしいな』

『天才は言い過ぎですよ、ボクも北条先生から松山課長の高校時代の話を色々聞きましたよ。先生が「あいつはホンマのアホやしセンスもないけど、正義感は誰よりも強い。人として信用の出来るヤツや」って言ってました』

『あの野郎』

 懐かしそうに昔話に浸る松山に、青島は何かを緊張気味に話し出した。

『課長は、入庁一年目のボクが何故ソウパ研究所に出向したのか、ご存じですか?』

『ん?それは、SERNで偶然に生まれたワームホールを維持する為に、ソウパ研究所で開発中のウラン原子力電池搭載の超小型カシミールエネルギー増幅装置のテクノロジーを習得する為なんだろ?まぁ、それだけじゃないって噂もあるけどな』

『それは、単なる噂ですよ』

 青島の言葉に、松山が声高に言い返した。

『それが単なる噂なのは当たり前だ、俺達の任務は飽くまでもクロ、即ち黒い穴であるワームホールを回収する事だ。もしもあの噂が本当だとしたら、クロの回収どころの話じゃなくなるぞ。アレは使い方によっては極めて危険だ。確かにワームホールは人間社会の移動手段が不要になるという意味では世紀の大発明と言えるのだろうが、人間がそれを真面に使いこなすとは到底思えない。まぁ、あの噂が本当ならの話だけどな』

『でも課長、もしあの噂が本当だとしたら?』

『何を言っているんだよ、馬鹿馬鹿しい。そんな事……まさか?』

 小さく頷く青島に、松山の手が止まった。

 クロは時空間を超越するワームホールという世紀の大発見であり、SERNで偶然に生み出された物質、いや物質かどうかもわからない物体に過ぎない。そのワームホールを、ソウパ研究所が開発したウラン原子力電池搭載の超小型カシミールエネルギー増幅装置に閉じ込め維持し、更に研究を重ねる事で将来的にワームホールを移動手段として実用化しようとする世界の科学技術的な流れがあった。

 警視庁は、その原子力電池搭載の超小型増幅装置の知識を逸早く習得する為、入庁予定の新入生をMITへ出向させるという異例とも言える不思議な人事を行った。

 しかし、100人超の研究員を抱えるMITソウパ研究所では、十数年程前から代表者のピアス博士が殆ど姿を見せる事はなく、一人で研究室に籠りながら何かの研究を続けていた事から、「原子力電池搭載の超小型エネルギー増幅装置だけではなく、ワームホール発生装置自体が既に完成しているのではないか」「警視庁は日本政府からの依頼を受け、ソウパ研究所から秘密裏にワームホール発生装置自体を取得するという特殊任務を、新入生に課したのではないか」そんな噂が絶えなかった。

『青島よ、それが本当に存在するって言うのか?もしそれが本当なら、お前はソウパ研究所からそれを盗む為に出向させられたって事になるぞ』

『そういう事です。一言で表現するならスパイです』

『で、お前は俺に何を言いたいんだ?』

『実は、一連のワームホールにはボクと北条先生以外誰も知らない『秘密』があるんです。勿論、日本政府も警視庁の誰一人としてそれを知っている者はいません。松山課長にだけはそれを伝えておいた方がいい、と北条先生に言われたんです』

「秘密って何ですの?」

 華は、青島の言葉「秘密」に即座に反応した。松山が言った「あんなものくれてやれ」の言葉と、二人の笑いの理由がそこにあると推定出来る。

「ワームホールというのは本来一瞬で蒸発してしまうものなんだけれど、原子力電池を使ってエネルギー供給をすれば約1年、カシミールエネルギー装置の場合で約24時間程度保存する事が可能なんだ」

「そやから、ウラン原子力電池搭載の小型エネルギー増幅装置が絶対的に必要で、やっとそれが完成したんですよね?」

 10年前にSERNで偶然生まれたワームホールを長時間維持するには、ウラン電池での増幅が必須と考えられている。

「まぁそうだよね。じゃあ華ちゃんここで問題、ボクはワームホールの寿命をピアス博士から聞いたんだけど、ピアス博士はどうしてそれを知っていたんだろう?」

「ワームホールの寿命を知っていた?」

「そう、ピアス博士はワームホールの寿命を知っていたんだ。ヒントは、10年前に偶然生まれたと言われるワームホールは1つだけだった。でも、今は何故か2つある。2つとも盗られちゃったけどね」

「ワームホールの分裂?」「いやワームホールは分裂しない」

「それやったら、SERNのその後の新たな実験で生まれたんとちゃうんですか?」

「いや、10年前の実験でワームホールが生まれて以降、ピアス博士は一度も実験をしていないし、それ以降に世界中の研究者達が競ってSERNで同様の実験をしたんだけど、ワームホールは一つとして生まれる事はなかった」

「でも2つあるんですよね……それに寿命を知っているのは何故か……」

 1つであるべきものが2つあるのは何故か。そんな謎々の答えに辿り着くべく、華の頭脳ニューロンは多角的に電気信号を捉えて勢い良く走り出す。

「ここから導かれる答えは、一つしかありまへんね。荒唐無稽かも知れへんけど、最初に偶然に生まれたヤツやないもう一つは、後で生まれた若しくは造られた。それもSERNのハドロン光速実験からやのぅて、別の機械で造られた可能性が高いって事、です」

「凄い、凄い、ほぼ正解、流石は京大の頭脳だね。正解はね、「2つとも後で別の機械で造られた」だよ」

「えっ、2つとも?それやったら、合計3つになってしまいますよ」

華は、予想外の青島の言葉に首を傾げた。確かに世界で唯一ワームホール実験に成功したピアス博士がその後は実験をせず、その後世界中の研究者が誰一人としてワームホールを造り出せなかったとするなら、別の機械で新たに造られたと考える以外にない。だが、それが2つとするなら、ワームホールは計3つ存在する事になってしまう。もしそうだとするならば、その内の1つが消滅した事になり、寿命を知っていた理由も成り立つ。

「じゃあ次の問題、その別の機械は今どこにあるのかな?」

「どこにあるという事は、どこかにあるちゅう事やんな。SERNか?アメリカ政府か?ソウパ研究所か?日本政府か?警視庁か?香港?台湾?中国?東京特許許可局……?」

「ヒントその3、それはSERNでもアメリカ政府でもソウパ研究所でもなく、日本政府でも警視庁でも香港、台湾、中国、東京特許許可局でもない。実は、難しそうだけどそんなに難しくはない」

「……別の機械で2つとも造られたんやったら計3つ存在する筈やけど、2つしかない。ヒントその1で『ワームホールには寿命がある』んやから、1つは消滅したとしか考えられへん。ヒントその2で『2つワームホールは別の機械で造られた』んやけど、松山課長はその2つのワームホールに「あんなモンくれてやれ」て言ぅた……」

華の頭脳ニューロンが全ての電気信号に反応し、ワームホールの秘密を解き明かす。

「あっ、そうか。答えは「あんなモンくれてやれ」にあるんや。あの2つのワームホールにも寿命があるし、新たに造り出す機械は別にある。そやから課長は「あんなモンくれてやれ」て言ぅたんや。そうやと仮定して、尚且SERNでもアメリカ政府でもソウパ研究所でも日本政府でも警視庁でも香港、台湾、中国、東京特許許可局でもないとしたら……多分、それは、金色の箱?」

 早々に答えを導き出す華に、青島と松山は驚きながら目を細めた。

「大正解。ワームホールはどんなにエネルギーを供給しても蒸発消滅してしまうんだ。ピアス博士はその対応策を知る為に、単独で数々の極秘実験を行っていたらしい。最大の実験は、NYセントラルパーク上空に放置されたワームホールで30mを超えて巨大化した。米国空軍からミサイル攻撃を受ける大騒ぎになったけど、翌日には消えてしまった。ワームホールというのは、限界時間とともに消滅してしまうものなんだけど、消滅後に常にピアス博士が発生させていた為に、『ワームホールは、エネルギーを供給すれば永久的に維持出来るもの』という概念が一般的になったんだ」

「それやったら、ウラン原子力電池搭載の小型エネルギー増幅装置の開発なんてアホみたいやないですか?」

「まぁ、それ自体が無意味ではないんだけどね」

 松山が言葉を被せた。

「結局、ワームホールは手に入れても自然消滅してしまうもので、金色の箱の発出機能を発動して初めて実質的に存続させる事が出来るのだ。奴等が持ち去ったワームホールも、その内消滅してしまうって事だ」

「なる程、それが「あんなモンくれてやれ」の意味なんですね。でも金色の箱が発生装置なんやったら、箱の仕組みさえ解明できれば幾つでも無限にワームホールが造れるし、直ぐにでも世界に大転換が訪れるて事やないですか?」

「現実的にどうかは別として、理屈としては幾つでも造れるっていうのは間違いないね。世界の大転換については何とも怪しいけど」

 華は話の流れには納得しつつも、判然としない点がある。

「でも、何で世界的に有名なピアス博士が青島さんなんかにそんな重要な秘密を教えたりしたんですか。そんなん、変ですやん?」

 例え日本政府の力が働いたとは言っても、それは明らかに奇妙な事だった。何故、世界的に有名な物理学の権威が、日本から来た一介の若者にそんな重要な事を教えたりするだろうか?そんな事があり得るだろうか、どう考えても理解し難い。

「いや、それ程変な事じゃないんだ」

「警視庁人事部が、入庁一年目の青イチを出向させた理由もそこにあったんだ」

リーダーの松山が不思議そうに青島に訊いた。

『青イチよ、何故一年生のお前なんだ。例えお前がどんなに優秀で天才だろうが、お前でなければならない理由なんかないじゃないか?それに、大体あの有名なソウパ研究所が良くお前みたいな入庁一年目の若造を受け入れたものだよな』

『いえ、そもそも日本政府が警視庁にボクを入庁させるように大学に要望したのは、米国MITソウパ研究所へ出向させる為ですし、当然、それが可能になる理由があるんです』

『理由って何だ?』

『ボクがピアス博士の実の孫だからです。だからこそ、日本政府は入所もワームホール発生装置自体の取得も可能と判断したんです』

「えっ、青イチさんってハーフやったんですか?」

「クウォーターなんだけどね」

「じぁあ、青イチさんの任務は、ウラン原子力電池搭載のエネルギー増幅装置の知識習得やなくて、ワームホール発生装置をパクる事、つまり泥棒やったんですか?」

「せめてスパイと言ってほしいけど、秘密は課長とボク、それに京大の北条先生の三人以外誰も知らない事なんだ」

「なる程」

 華が全てを理解し、ワームホールの秘密を知る四人目となった。

「課長、金色の箱さえあればシワ爺にゴチャゴチャ言われんようになるし、降格もしなくて済みますよね?」

 松山は自分の出世よりも、目の前の世界をひっくり返すかも知れないとんでもない物質の取り扱いに肺肝を砕いている。

「いや、私の出世なんかよりも青イチと私と北条の目的は他にある」

「目的って何ですの?」

「華ちゃんが言っていた事と同じだよ」

「ワタシの言っていた事?」

「「こんなものが存在して本当にいいのか」って事さ。同じ事を松山課長も北条先生も、そしてピアス博士自身も言っていた。そもそも、こんなものがなければ何も起こらなかったんじゃないのかなって思うんだ。果たして、このテクノロジーを人間は正しく大義を持って使えるだろうか?」

 華は青島の問い掛けに即答した。

「そんなん無理に決まってますやん。現にワタシ達はさっきまでマフィアと殺し合いする状況だったやないですか、人間なんて所詮そんなもんやと思います。課長がこれを本庁に渡して日本政府からアメリカ政府の手に渡っても、世界の大転換なんて起こりまへんよ。きっと、アメリカ軍の秘密兵器として戦争に使われるくらいがオチなんちゃいますか?」

 華の言葉に、松山と青島の安堵する顔が見えた。

「あぁ、私もそう思うよ」

「ボクもそう思うし、これを造ったおピアス博士もそう考えていたんだ」

 10年振りに会った祖父は、少年に秘密とともに告げた。

『健太、私は53年間ワームホールの研究を続け超小型維持装置を完成させたが、殆どの部分はソウパ研究所の優秀な研究員達が造ったものだ。私の研究のほぼ全ては維持装置ではなく、ワームホール発生装置の開発にあった。基礎理論は1948年カシミール博士が確立し、2010年のSERNハドロン光速実験装置の完成を待ってワームホールの発生実験を行い成功した』

『でもお祖父ちゃん、それ以降も世界中の研究者がSERNで何度も同じ実験を行ってるけど、一度も成功していないのは何故?』

『当然だ、私の理論を前提としなければ実験が成功する事はないだろう』

 苦悩の表情で老人は続けた。

『健太、日本政府が孫であるお前を私の研究所へ出向させた目的は、きっとワームホール発生装置の取得にあるのだろう?』

『そうだよ。その装置で世界を確実に転換させて、新しい未来を創造する事が出来るからね』

『やはり、そうか。発生装置は既に10年前に完成し、以来この10年間は実験の繰り返しだった。10年前にお前とボストンやNY遊びに行ったのも装置の実験に他ならないのだ。だが、50年余り完成を夢見て走り続けた私の中には、絶えず一つの疑問があった。その為に開発の殆ど全ては私一人で行った。いざ完成するとその疑問は極大化した』

『疑問?』

『そう。このテクノロジーが本当にこの世の中の役に立つものなのかどうか?という疑問だ』

『役に立たない可能性があるって事?』

『その可能性は、あり過ぎる程にある。重要な点は二つだ』

 疲労の見える老人が更に続けた。

『一つ目は、かつての核テクノロジーも同様だが、「人間がそれを本当に正しく使いこなす事が出来るのか」という疑問だ。所詮は戦争の一手段となるのが関の山なのではないだろうか?』

『確かに、理想のエネルギー革命を齎す筈の核開発は最強の武器、核爆弾に成り下がっているし、原子力発電所の安全対策と放射性廃棄物処理という本来先にあるべきものさえ、未だに確立されているとは言い難いよね』

『果たして、このテクノロジーが同じ徹を踏まないと言えるだろうか?』

『もしワームホールが軍事利用されれば、どんなに遠くても軍隊や核爆弾を目的の場所にピンポイントで打ち込む事が可能になるよね』

 老人は頷きながら続けた。

『二つ目は、「そもそも、このテクノロジー自体が本当に人間の役に立つものなのか」という根本的な疑問だ。時空間を超越するという事は「この世界の否定」なのではないだろうか?』

『この世界の否定って、どういう意味なの?』

『健太、この世界が何によって構成されているか、わかるか?』

『素粒子かな、時空間かな?』

『そうだ、この世界は時空間によって成り立っている。ワームホールはその時空間を超越し、ゼロにするのだ』

 青島が華に訊いた。

「華ちゃん、そもそもワームホールというこの世紀の大発明が実用化されたら、世の中はどうなると思う?」

「それって、便利な世の中になるかって事ですよね、それは方向性によるんやないですか。でも、現実的な意味は想像出来まへんね。移動手段が不要になるんやから……どないなるんやろ?」

「そう、想像するのさえ難しいよね。現実の存在である時間と空間の概念が意味を持たなくなるんだから。どこかのマンガみたいに、主人公がワームホールを好きな時に使うだけなら「便利だな」で済むけれど、この世界の70億人、いやもっともっと先の100億人が一斉に繋がったワームホールを使ったら、一体どうなるのか予想もつかない」

「100億個のどこでもドアで時空間が繋がったら何がどないなるんやろ、想像出来へんわ」

「それを突き詰めていくとね、この世界が消滅してしまうかも知れないんだよ」

「消滅?」

 老人は続けた。

『ワームホール移動は、この世界の空間と時間を否定、或いはゼロ化する。瞬間で移動する事で、「ここからそこという空間」と「それにともなう時間」が消えるのだ』

『どういう意味?』

『この世界には空間が存在し、空間の中に時間が存在する。時間は錯覚であり存在しないと言う哲学者もいるが、我々が認識する限り時間は存在する。その連帯する空間と時間の世界にゼロという概念が入り込み、空間の概念が崩壊し、空間のない世界に時間は意味を持たなくなる。その結果、ワームホールが時空間を超越するとともに、この世界自体が不要となり、消滅するのではないかと考えられるのだ』

「ピアス博士はボクにそう言った」

 華は、自分を中心として空間と時間のゼロ化を考えた。

「えぇと、移動手段が不要になるという事は、世界中の全ての空間が自分一点に集中して存在するという事やから、突き詰めたらそこにある空間に全ての世界が連続する……と言う事は時間がゼロになって……理屈としてだけやったら何となくわかりますけど、現実の問題として捉えるのは想像するだけでも難しいわ」

「実はボクも理屈としては理解出来るけど、現実的には良くわからない。でもやっぱり、この世界に存在してはいけないような気がする。それは課長も北条先生もボクも同じ意見なんだ」

「青イチの言う通り、私にも北条にも本当に何が正しいのかはわからんが、やっぱりない方がいいような気がする。もし、それがどうしてもこの世界に必要なものなら、今でなくてもいつか誰かがきっと改めて発明するだろう」

『健太、偶然にもお前がここに来てくれたのは、神のお導きに違いない。だから私は決意した、儂の研究は全てをお前に託そう。この発生装置を微調整して明日お前に渡す。それをどうするかはお前が決めれば良い、お前が日本政府に渡すならそれでも構わない』

 机の上に金色の箱が二つ置かれている。老人は伝えきった満足感に微笑みながら話題を変えた。

『健太、面白い事を教えてあげよう。移動する物体の時間が遅れる事は知っているな?』

『うん。アインシュタインの……』

『ある日実験をした。時空間を繋げたワームホールA・Bを用意し、Aのみを光速度近くまで回転させていくとAはBに対する相対時間が遅れるのだが、光速に達した時それ以上遅れる事が出来なくなったAは絶対時間との比較で遅れ始める、即ち過去へ遡っていくのだ。そしてワームホールBから入ると、過去となったAに行く事が可能となるのだ』

『タイムマシンが造れるって事?』

『まぁそういう事になるだろう。私はお祖母ちゃんに会いにいく事にした、もしかしたら、もうお前には会えないかも知れない』

 青島は、最後に祖父に会った6年生の夏に言われた言葉を思い出した。

『お祖父ちゃん、ボクもお祖母ちゃんに会いたいよ。10年前にJe peux rencontrer la grand-mère ce temps(今度オ祖母チャンニ会ワセテアゲヨウ) って言ったよね』

『あぁ確かに言った、お前はやはり賢い子だな。約束は必ず守るよ。男と男の約束だからな』

 青島が誰かに連絡を入れた。

「青島です。松山さんに代わります」

「おぅ松山や、元気か。ん、火の玉娘?あぁ元気過ぎるくらいやな」

 松山と誰かが何かを話しているが、傍から聞いているだけでその話題がわかる青島は、思わず吹き出しそうになっている。

「迷惑?まぁお前が爆弾みたいな娘やて言うてた通りやったわ。俺に?似てへん、似てへん、何言うとんのやアホ。それは兎も角、アレが2つとも回収出来たから、これから京都まで持っていくわ。今、東大に来とんのか、そうかわかった」

 電話を切り、緊張気味の声で「それじゃあ、今から東大でアレを消滅させてくる」と言う松山に、華は「課長、ホンマにエエんですかねぇ?」と問い掛けた。

 松山と青島は、華の言葉に一瞬躊躇した。これから最後の仕上げという段になって尚、松山にも青島にも『世界に変革を齎す世紀の大発明を意図的に消滅させるという判断が、本当に正しいのだろうか』という戸惑いが少なからずあった。だが、開発者であるピアス博士がきっとその消滅を望んでいるだろう事もまた、間違いなかった。

「消滅させるのが一番エエんでしょうけど、降格になってまいますよ」

 松山は、晴れやかな顔でその指摘に答えた。

「私なんか降格したって高が知れているさ、一番泣きを見るのはシワ爺だよ」

「それもそうやけど……あっ、課長にも科捜研´にも影響が出ない方法を思い付きました。この作戦やったら絶対成功しまっせ」

「華ちゃん、課長にも科捜研´にも影響が出ない方法なんてあるの?」

 華は、得意そうにこれは『あんなモンくれてやれ大作戦』ですと胸を張って言った。

 翌日、公安対策課科学捜査研修センター、科捜研´の極秘任務の完了報告の為、責任者課長松山は白内副参事官室を訪れた。

 松山は無言のまま、白内の机上にファイル型ワームホール移動装置を置いた。その薄い金属ケースの中に二つのクロ、即ちワームホールが入っている。ファイルを開いた白内は、沁み沁みと感慨深げに見入った。

「これがクロ、つまりワームホールか?良くやったぞ、流石は松山だ」

 松山は言葉少なに口を結び、緊張した顔で白内を凝視した。副参事官白内は満面の微笑を浮かべて意味のない話を続けている。普段決して出る事のない珈琲が松山の前に置かれている。直立不動を強いている姿勢では飲みようがない。

「それにしても、今回の任務は随分と休、退職者を出したが、こうやって完璧に任務が遂行出来たのは何よりワシの指導力の賜物だからな。これでこの任務責任者に松山を推薦したワシの評価も更に上がり、もしかしたら警視総監の目も出て来るやも知れん。ワシの立場は安泰だ。ご苦労だった、戻っていいぞ」

 松山は笑い出しそうになるのを必死で堪え、副参事官白内がいつまでもほくそ笑む部屋を後にした。科学捜査研修センターに戻り松山が黙って親指を立てると、青島と華は悪戯っ子のようにピースサインを送りながら、にやりと笑った。

 青く晴れ渡る夏空に吹き抜けていく一陣の風。青島は窓の外に祖父の声を聞いたような気がした。そして、いつかきっと祖父が祖母を連れて自分の前に現れる日が来るに違いないと思った。

「科捜研´の女Ⅱ/挑戦者」

「くそっ、あのジジイ。舐めくさりおってからに、ホンマ腹立つわ」

 警視庁8階の片隅にある科学捜索研修センター、通称科捜研´職員の松坂華が腹立ち紛れに叫んでいる。この叫びはこれまでも忘れた頃にやって来る定例行事だ。

「ジジイって、人事院の鬼山部長の事だよね?鬼の鬼山って言ったら、本部長でもビビるって噂だよ」

「何が鬼の鬼山じゃ、牛みたいな顔しやがって」

「あの顔で叱責された刑事課の若い職員が失禁したのは有名な話だよ」

 松坂華は口だけでなく物怖じしない、と言うよりも恐いものなどない。

「くそ、あのアホンダラジジイがあの時ワタシに言ぅたんですよ。「科捜研´」って紙を見せて、「ここに行きたいって事でいいんだね」って言ぅたんですよ。何も知らない純粋無垢なワタシは、「憧れの榊マリコに会えるんや」って興奮したのに・」

「実はその紙に『科捜研´』と書いてあった。残念ながら´ダッシュ までは見えなかったんだね」

「くそっ」

「そう言えば、鬼山さんがお前の事を『火の玉娘』って言ってたぞ。お前の研究室の北条も同じ事を言っていたな」

 華の母校京都大学教授で第一物理学研究室の所長北条誠は、課長松山の同期であり高校時代のワルガキ仲間でもある。高校三年時に京都駅で起こした群馬県の高校との殴り合い『京都ヤンキー戦争事件』は当時全国新聞でも報道された。松山も他人の事はあれこれ言えた類ではない。

「何を言ぅてるんですか、そんなん大間違いやわ。こんな可愛い乙女が何で火の玉やねん?」

 華は口をへの字にして不満を露にした。

「高校時代に柔道の県大会で優勝したのに審判を締め上げて失格になって、大学時代には梅田駅でヤクザを投げ飛ばしたんだろ?」

 松坂華は、高校女子柔道千葉県大会決勝戦で文句なしの背負い投げで優勝したその直後に、ガッツポーズを主審に注意され「煩い、喜びを表して何が悪い」との暴言を吐き「失格」を告げられた次の瞬間、倍近く体格差のある主審を体落としで投げ、見事な絞め技で落として会場からヤンヤの拍手喝采を浴びた。大学時代には、梅田駅構内で女子高生に絡んでいたヤクザ三人を一本背負いで投げ飛ばし、病院送りにした経験を持っている。

 即座に華が松山に反論した。

「話が正確やないし、大袈裟やわ。高校県大会の話は主審にイチャモンつけられたから当然やし、梅田駅でヤクザを投げ飛ばしたんは成り行きやわ」

「ヤクザを投げ飛ばすなんて、相当凄いけどね」

「そんなン、ちぃとも大した事やないですよ。ワタシの知っている女は、高校三年生の時に一人でヤクザの事務所に乗り込んで、ダイナマイトでビルごと爆破したんですよ。ワタシなんか可愛いもんやわ」

「類は友を呼ぶって事だね」

「誰が類やねん」

 他愛のない世間話に花が咲いている。その時、電話が消魂しく鳴った。電話というのは実に失礼なアイテムだ。こちらの事情などまるで思慮する事もなく、平気で土足でテリトリーに入って来る。

「はい、樹マリコのいない科捜研です」

「華ちゃん、科学捜査研修センターって言わないとダメだよ」

 青島がツッコミを入れた。

「はい、代わります。課長、新部長のハゲからです」

 松山は『新部長』の言葉に、ちょっと気乗りしない顔で電話を受けた。

「はい、今直ぐ伺います」

受話器を置いた松山は、新たに赴任した上司である部長中上一郎の元へ向かい、暫くして席に戻った。だが、固い表情で遠い目をしている。

「課長、どないしはったんですか?」

「いや、北区の王子で奇妙な事件があったらしいんだが・」

「奇妙な事件?」

「人が消えたらしい」

「その件で課長が呼ばれたんですか?」

「まあ、そういう事だ」

 青島は首を傾げながら訊いた。

「課長、この部署はいつからオカルト専門対策課になったんですか?確かこの部署は前回の国家機密、ワームホール事件の対策で設立された筈ですよね」

「けど、あれはもうアレで解決したやないんですか?」

「まぁ、一応そういう事になってるよね。回収したワームホールが警視総監の目の前で消滅したけどね」

「まあ、そういう事だ」

 松山の歯切れが悪い。

「そもそも、北区って、王子ってどこですか?」

「俺の実家のある赤羽の隣だ」

「華ちゃん、知ってる?」

「わかりまへん」

「僕も世田谷辺りなら実家があるからわかるんだけどね」

 青島は、パリやロンドン、NYに住んだ後、帰国し、大阪、京都に住んでいた事もあるが、現在は世田谷区成城学園に住んでいる。

 華は京都大学卒業で、自分では「京女」と言っているが、実家は千葉県の外れにあり、本人は完璧に関西弁を話していると思っている相当怪しいナンチャって関西人だ。阿闍梨餅も三色ゼリーも知らず、あの八ツ橋とおたべの区別さえ出来ない。唯一、鴨川の等間隔カップルは知っている。たぬきうどんに揚げがのっているのも、まむし丼が鰻丼である事も理解出来ず、実は京都に海がある事も知らない。本物となんちゃって舞妓さんの区別もつかず、洛中以外は京都にあらずの意味などわかる訳もなく、川道屋のそばぼうろなど知る由もない。

 課長松山は、纏まらない頭を払拭するように二人に促した。

「取りあえず、車で現場へ行こう。順序立てて説明する」

 松山は、車の中で気だるそうに経緯を話し始めた。

「事件現場は南北線王子神谷駅前にあるコンビニ店、犯人は単独犯で武器は持っていなかったが、レジから現金を持ち去りトイレに立て籠もった」

「それやったら、解決は時間の問題やないですか?」

 松山の顔が俄に曇った。

「そうなんだが、犯人は『消えた』」

「消えた?」

「消えたって何ですの、そんなんあり得へんわ」

「そうなんだよ、あり得ないんだよ」

「けど課長、何んでウチ等がそんなん捜査せなあかんのですか?」

「そうだよね、それは所轄のショバだからね」

「通常ならそうなんだが、人が消えたとなるとどうにも対処出来ないんだろう」

「人が消えるなんて事があるんやろか?」

「普通ないだろうな」

「でも、消えたって事なんですよね?」

 雲を掴むような事件が起きていた。現場に何かヒントがある筈だと勇んで現場に到着した三人は、説明されたあり得ない状況を理解出来ないまま、現場の調査をせざるを得なかった。如何せん訳がわからないのだ。

 現場には立ち入り禁止の黄色い標識テープが張られ、店舗内のトイレにも同様に厳重な措置が講じられている。一通り店内を捜索した後、問題のトイレを確認したが窓のない空間に便器が設置されているだけで、唯一の可能性である管理用の天井裏への出入口にも鍵が付いていて犯人が逃げた形跡はない。三人は何かを発見する事もなく帰庁した。

「成果なしや」「何もなかったですね」「なかったな」

 店に設置されたカメラの録画には、白いひょっとこの仮面を被った170センチ前後の小太りの若い男が、レジから現金をわし掴みしてトイレに駆け込む姿が映っていただけで、その後の行方を知る手掛かりは一切ない。

「人が消えるなんて事があるんやろか……瞬間移動、ワームホール?」

何気なく華から出た一言に、三人は顔を見合わせた。

「まさか……」「それはないだろ……」

「そうですよね、だってあれはもうこの世には存在しないんやから」

「あれは、東大で俺と北条とで確実に破壊した。もうこの世には存在しない」

 確かにワームホールは存在した。だが、存在したワームホールは三人が回収し、京大教授北条と松山で破壊、消滅した。

「ほな、新たに誰かが造り出したんやろか?」

 華の無邪気な問い掛けを青イチが即座に否定した。

「いや、それはムリだね。世界中の著名な科学者が同じように試行したけど、パリス博士以外には造れなかった。唯一造れる発生装置は、課長と北条先生で破壊した。誰かが造り出すのは現時点では無理だと思うよ」

「そんな事はないんやないですか?何らかの方法で造り方がわかれば……」

 青島は、最近気に入っている顎髭を右手で触りながら言った。

「そうか、あの時パリス博士は僕に金色の箱とレシピをくれると言った。でも盗まれた金色の箱は戻ったけど、レシピは行方不明だ。とは言っても、僕はそのレシピを見ていないから、本当にそれがあったかどうかは定かじゃない」

「それやったら、可能性はありますやん」

「まぁ、レシピがあったからと言って簡単に造れるものじゃないんだけど、ワームホールを誰かが持っている可能性があるって事か……」

「尤も、それも妄想でしかないがな」

「そうやわ」

「そうですよね。そんな事あり得ない」

 三人は互いに小さく頷き合いながら笑い飛ばした。三人は乾いた笑いの中で意思を統一したが、それが世間で言う嫌な予感である事を感じていた。

「ん、何だ?」

 その時、松山が気付いた。部屋の片隅に古いTVが常につけっぱなしの状態で置いてある。画質の粗いブラウン管式のTV画面の向こう側で、何かが起こっているのを松山は見逃さなかった。常に周囲に気を配る元刑事の習性というヤツなのだろう。

「MHKニュースの時間です」

 アナウンサーらしき男が事件を伝えた。

「今日午前10時過ぎ、北区東十条のコンビニに強盗が侵入。犯人は現在コンビニ内に立て籠もっています。JR東十条駅東口事件現場から中継です」

「あれ、また北区でコンビニ強盗事件ですね」

「ホンマやわ。これも「犯人が消えました」なんてオチやったらオモロいんやけど、そんな事ある訳ないですよね」

 華は茶化すつもりでそんな事を呟いた。事件は、追い詰められた犯人が店員のいない店内に立て籠っている。人質がいない事もあり、こうしたケースの場合タイミングを見て突入した警察官に犯人が逮捕されて終了する筈だ。

「警察が突入した模様です」

 アナウンサーが興奮ぎみに言った。事件はクライマックスを迎えている。

「これで終わりですね」

「呆気ないやん、まぁ日本の警察は優秀やから当然やわ」

 事件は終了、チェックメイトだ。無人のコンビニに立て籠った犯人を警察が周囲を完全に包囲して突入した。そして、犯人は逮捕、事件は解決する。日本では、それ以外のシナリオは考えようがない。

「あれ?」

 何かおかしな様子に、アナウンサーは戸惑いながら言った。

「突入した警察官が叫んでいます。何があったのでしょうか?」

 TV画面からもはっきりと聞こえる怒号が響く。マイクが拾ったのは明らかに突入した警察官の困惑する声だった。

「どこだ?」「どこにいる?」「わからない」「そんな筈はない」「どこだ?」

 犯人が包囲を潜り抜け、逃走したらしかった。だが、完全に包囲されたコンビニから犯人が逃走するなどあり得ない。

 その後10分程中継していた各社TV局が、事件現場からの番組を突然打ち切った。結局何がどうなったのかわからない。リアルタイムのニュース報道にも拘らず、さっぱり要領を得なかった。

「どうなったんやろ」

「何だか良くわからないね」

 翌朝の新聞報道によれば、警察官が突入した後、結局犯人はコンビニ店内には見当たらず、必死の捜索にも拘らず発見する事は出来なかったのだった。理屈の合わない不思議な成り行きをマスコミは挙って興味津々で伝えている。各新聞一面に『謎の犯人消滅事件』の文字が踊っている。

 早朝、青島と華のブレイクタイムはいつもよりも早く始まり、昨日の不思議な事件の話に花を咲かせている。松山は、朝から新部長中上のチェックタイムに呼ばれたままだった。

「華ちゃん、不思議な事件だったね」「あり得へんわ」と何度目かの同じ会話が交わされた時、恒例の新部長チェックタイムを済ませた松山が戻って来た。

 松山は開口一番、「これを見てくれ」と言って自前のスマホをTVに繋いだ。昨日の事件現場らしいユーチューブの画面が映った。ブラウン管の為か粗い画面にちょっと苛つく。

「課長、ユーチューブなんか見てはるんですか。中学生みたいやわ、やめた方がエエですよ」

「まぁいいから、これを見ろ」

 TV画面は、コンビニ店内に突入した警官隊の一人がレジ奥に追い詰めた犯人の姿を捉えた場面から始まった。

「抵抗するな」「両手を上げて神妙にしろ」

 松山が促したユーチューブ動画、警察官の叫ぶ声と緊迫感の溢れ出る映像は、おちゃらけていた華の言葉を一瞬で消し去った。

「これは何や……」「これは……」

 その画面に、青島も絶句した。画面には、レジ奥に犯人の姿を捉えた警察官がレジ台を飛び越えて奥に消え、次の画面は逃げる犯人が壁に激突する様を映している。壁に黒い円形の何かが貼り付いている。

「これは……」

 壁に激突した筈の犯人は、誰もが予想する結果を裏切って黒い円形の中に消えた。そして、壁に付いたその物体も壁に溶けるように消えていく。後には警官隊の叫び声が虚しく響くだけだ。

「どこだ?」「どこにいる?」「わからない・」「そんな筈はない・」

 動画はそこで終わっていた。誰が撮ったのかも定かではないが、カメラアングルから考えると警官隊の内の誰かのスマホだろう事が覗える。果たしてこの動画が本物なのか、CGなのかは現在検証中なのだという。

「インチキ物にしてはタイミングが良すぎませんか?」

「そうだな、昨日の今日だからな」

「絶対パチモンやわ。けど、こんなに早ぅCGなんか作れるもんなんやろか?」

 どんなに推測しても、何一つ想定出来る事はなかった。

 それから数日間、何か靄が掛かったような捉え処のない事件に、三人は相変わらず何かをしようとして結局何も出来ずに、その動画を繰り返し見るだけの日々が続いた。パチモンかどうかさえわからないような出所不明の動画を繰り返し何度見たところで、TV刑事ドラマでもない限りそこから事件解決の糸口を見出す事など出来る筈もない。華は既に飽きてゲームに興じている。

 そんなある日、華が来庁すると電話が鳴った。華はいつものように噓臭いくさい余所行き声で受けた。

「はい、こちらは科捜研ではない科捜研´です」

 電話の向こう側から年配者のようでもある甲高いチャラい男の声がした。相手番号は非通知。華はちょっと苛ついている。

「この一週間、不思議な事件が起こっているのは知っているだろう?それはオレが犯人だ」

「さあ、何の事やら知りまへんけど」

「知らない振りをしても無駄だ。オレは神だ、オレの挑戦を受ける気はないか?」

「ありまへん」

「今、な、何と言った?」

「ひつこいな、そんなモンないて言ぅてるやろが」

「警察なのにふざけるな。いいかよく聞け、これから一週間の内に起きる二つの事件は全てオレが犯人だ。果たして、君達はこのオレを捕まえる事が出来るかな?」

「何を言ってはるんですか?」

 用件を告げて電話は切れた。

 松山と青島が来庁すると、華は「・という訳です」と言って何の感情も込めず淡々と状況を告げた。尤も、何がなんだか掴みようのない悪戯電話とも受け取れる話に、感情など込めようがない。

「課長、イタズラでしょうか?」

「さあな、何とも判断のしょうがないな」

「一週間に二件の事件って何やろか?」

「さぁ、何だろうね?」

「動きようがないな、状況を見よう」

 いきなりの悪戯電話、手掛かりはゼロ。その三日後、再び電話が鳴った。いつもの通りに華が受けると、電話の向こう側から聞き覚えのある甲高いチャラ男の声がした。チャラ男は、華の応対を確認する事もなく、一方的に話し始めた。

「これから起こる二つの事件のヒントをやろう。まずは8月3日銀座四丁目で事件が起こる、オレはダイヤの指輪が欲しい。その次は8月10日午前10時城西銀行田町支店、オレは札束が大好きだ。以上」

 そして電話は切れた。相手番号は相変わらず非通知だった。

「課長、どう思います?」

「ホンマに起こるんやろか?」

「さぁ、どうなのかな」

「でも、何か変ですね」

「何が変なんですか?」

「確かに、これじゃあ捕まえてくれと言っているようなものだよね」

「なる程」

 犯人が何を目論んでいるのか、何故この科捜研´に電話をして来るのか、何もかも全てが不明のままだ。

「取りあえず、銀座四丁目の宝飾店に注意を呼び掛けておこう」

「ホンマに起こるんやろか?」

 半信半疑で構えていた最初の事件は、予告通りに起きた。銀座四丁目にある有名なブランド宝飾店のショーウインドウから時価500万円相当のダイヤの指輪が盗まれたが、店内外には何者かが侵入した形跡も、ガラスが割られた痕跡すらないというものだった。現場検証に立ち会った誰もが首を傾げ、内部関係者の犯行を疑わざるを得なかった。

 その後、事件はあるネットに投稿された動画によって思わぬ展開を見せた。その動画には、何者かがショーウインドウのガラスに手を突っ込み、ダイヤを盗み去る姿が鮮明に映し出されていた。しかし現場のガラスに損傷はない、唯ダイヤの指輪だけが消えている。不可解な事件である事は間違いはない。通常この手の事件は所轄警察署の扱いになるのだろうと思われたが、これもまた警視庁が誇る科捜研´に回されて来たのだった。

「グッドモーニングやでぇ」

 松坂華は今日も元気に出勤した。昨日までの陰鬱な理解不能な事件など、華にはどうでもいい事だ。「明日地球人類が滅亡する確率はゼロではないのだから、今日を大切に生きる事こそ人としての使命なのだ」という、いつかどこかで聞いた教義に則り、華は今日を正しく生きている。

「天気もエエし、今日も頑張ったるかぁ。あれ、課長は?」

 青島は熱目のコーヒーを煎れながら言った。

「部長に呼ばれて行ったきり帰って来ないんだ」

「何の件なんやろ?」

「華ちゃん、知らないの?ユーチューブのアレだよ」

「アレって何ですの?」

 知らない華の為に、青島は銀座の動画をTV投影した。衝撃的ではあるが、CGのようにも見える。

「華ちゃん、どう思う?」

「青イチさんはどない思うんですか?」

「難しいね。事件としては現実に盗難が起きている訳だから「CGだ」では済まされない。でも、ショーウインドウのガラスを透過するなんて出来る訳はない」

 どう考えようと、事件は現実に起きている。

「内部関係者が犯人って言うのがセオリーなんだが、この動画をどう考えたらいいのかがわからない。中上部長も「早く解決しろ」の一点張りだ」

 背後から、いつの間にか戻った課長松山が言った。

「課長はどう考えてはるんですか?」

「わからん。この前のコンビニ強盗事件もこの事件も似たような匂いがするし、華がとった電話の主が犯人なのかも知れない。それ以外はまるでわからない」

「ひょっとこ顔しか確認できていないから、特定のしようがないよね」

「今週中に、あと一回事件が起こるて事やんな」

「課長、銀座の現場検証に立ち会いますか?」

「いや、俺はちょっと行くところがある。お前達で適当にやっといてくれ」

 銀座事件の内部関係者のヒアリングは青島と華で立ち合い、一通り恙なく終了した。女性店員が犯人の仲間で、手引きしたと考えるのが通常のパターンだろうが、手引きとは言っても何をどうしたのか、さっぱり予想がつかない。手掛かりはまるでない。

 第二の犯行予告の8月10日が迫っていた。当日午前8時城西銀行で何かが起こるだろう。朝のミーティングで、三人は犯人の行動を考察した。

「明日8月10日午前8時に、城西銀行田町支店に現金が運ばれるらしい」

「それを強奪するんでしょうか?」

「そうに決まっとるやないですか」

「既に、城西銀行田町支店には5人の警察官が張り付いている。だがどうもスッキリしない。何故犯人は日時場所まで事前に言ったのか、どう考えてもおかしい」

「なる程やね」

「考えられる事は二つある。一つは、指定した日時場所で犯行は予告通り起こるが、5人の警察官がいてもそれでも犯行は成功する。もう一つは、全く違う日時または別銀行が襲われる。だが、二つ目はない」

「何故ですか?」

「別の日時や銀行であった場合、次に電話が掛かって来た時、犯人は華に罵倒されるからだ」

「当然やね」

「なる程。犯行を自慢するようなヤツが華ちゃんにボロクソに言われるような事はしないだろうから、やはりその時間に城西銀行を狙って来る確率が高い?」

「そうだ」

「問題はどうやるのかって事やね」

「考えてもわからない、そんな時は現場へ行け、ですよね課長?」

「そうだ」

 午前7時00分、三人は予告時刻の1時間前に場所へ向かい、既に配置に付いている5人の警察官とともに様子を窺った。城西銀行田町支店は田町駅西口駅前にあり、現金輸送車は東西に走る幹線道路から横道に入るように敷地北側の通路に停車する事になる。駅前でもあり、表通りには沢山の人々がひっきりなしに行き交うのに比べ、北側通路付近は極端に人通りが少ない。犯行には絶好の場所だ。

時間は午前8時00分、犯行の予告時間だ。予定通り現金輸送車が駅前幹線道路から北側通路へと入って来た。いよいよ事件が発生する筈だ。

物陰に隠れる青島が指を弾いた。小さな何かが華の頬を掠める。驚いた華が腹立ち気味に言った。

「何、痛いやないですか? 」

「あっゴメンゴメン、このオナモミを指で飛ばすのが僕の特技なんだ」

 小さな実のオナモミは投げると衣服にくっつく。特技であろうと、こんな時に不謹慎極まりない。

「これオナモミ言ぅんですか、ウチの祖母ちゃんはバカて言ぅてたな。けど、こんな時に遊んどる場合やないですよ。青イチさんて、子供みたいやわ」

 他愛のない会話の途中で、いきなり緊張が走った。

 現金輸送車に現金を積み込む為にドアを開けたタイミングで、表通りから一台の乗用車が猛スピードでハンドルを切って近づき、そのまま速度を落とす事なく現金輸送車の横腹に突っ込んだ。警察ドラマのようだ。

 乗用車から出て来たひょっとこの仮面の男は、一気に警備員を殴り倒し現金輸送車の中へ飛び込んで内側から鍵を掛けた。男が飛び込む瞬間に青島が親指を人差し指で弾く仕草をした。

 男は現金輸送車の中から叫んだ。

「残念だが、オレは捕まらない。例えどんな状況でもオレを捕まえる事は出来ない」

「お前がひょっとこか、舐めんなや」

「オレが捕まる事は、絶対に、ないのさ」

 青島は、強気に答えるひょっとこ仮面男に、何かを挑戦的に言った。

「大した自信だけど、どうかな。過信は身を滅ぼすって教わらなかったかい?」

「そんな言葉は知らない」の声とともに、現金輸送車の中に黒い円形の輪が現れ、男と現金袋はその中に溶けるように消えた。

「やられてもうたやんか」と華が悔しがる後ろで、松山は、青島が右手の親指を立てる仕草に歓喜の声を上げ、「車に乗れ」と叫んだ。車の赤いランプが光りサイレンが鳴り響く。

 松山の運転する車は、芝入り口から高速道路に乗って東方面を目指した。後方に警察車両を従えている。

「どこへ行きはるんですか?」

 華の疑問に青島が答える。

「さっきのオナモミだよ、オナモミにGPS発信器を内蔵して犯人の衣服に飛ばしたんだ。上手くいって犯人の居場所が特定出来そうなんだ」

「そういう事かいな」

 種明かしは終わったが、犯人をそんなもので追跡出来るものなのだろうか。

「青イチ、場所の具体的特定は出来そうか?」

「イケてます。葛飾区と江戸川区亀有三丁目の境あたり、亀有駅の南口近くですね」

「了解だ」

 芝浦PAからレインボーブリッジを通り、首都高速11号台場線を東へ向かった。

「これが有名なレインボーブリッジかい、大した事ないな」

 有明JCTで湾岸線に入って葛西JCTまで走り、6号線を北上して加平インターに到着した。そこから環状7号線を東に5分程走って、亀有駅前に着く。パトカーの赤いランプを点滅しての計40分はかなり早い。

「わぁ両さんの銅像かあるやんか、中川や麗子もおるで」と華がはしゃぐ中、三人の乗る警察車両と葛飾警察の応援車両が、亀有三丁目に佇む古びた木造アパートを包囲した。

 亀有駅前南口商店街を越え、5分程歩いた住宅街の外れにある相当に年期の入ったアパートの一室で、男は現金輸送車から奪った現金の束に八つ当たりしていた。

「クソ、何だこれは、上だけで残りは全部紙じゃないか」

「何よ、大金持ちになるって言ったじゃん」

 隣にいる女は、最上部の一万円札1枚だけが本物の札束を見て、大声で愚痴った。その時、ドアを叩く音と男の声がした。

「警察の者ですが、ちょっと宜しいですか?」

「何ですか?」

 女は平静を装って玄関口で答えた。ドアが開いたタイミングで警察官が雪崩込み、中にいた男女を取り押さえに掛かった。男はちょっと驚いた顔をしたが、それでも慌てる事なく、溢れ出る笑みを殺しながら自信を口にした。

「何故ここがわかったのだ?」

「二度目はないって言っただろ?」

「何故だ?」

「これだよ」

 青島が指で摘んだオナモミを見せた。

「君の服に付いているこの中に発信装置を仕込んである。最近のGPSは超小型で高性能だからね。ここを確定するのは難しくはない」

「なる程、そういう事か」

「そうや、神妙にせぇや」

「観念しなよ」

「重ね重ね残念だけど、オレは捕まらない。予想よりも早かったが、この状況は想定内だ」

 男は警察がガサ入れに来るのを知っていたかのように、壁に現れた黒い輪の中へと消えていった。青島が咄嗟に再度投げたオナモミ型発信装置は、拒絶されたように弾かれた。

「残念だな、同じ手は喰わない」

 その声と同時に、三人と所轄警察官の目の前で男が黒い輪の中へと消えた。その黒い輪がワームホールである事は間違いない。三人は、否定しようのないその事実に愕然としながらも、何故ひょっとこ仮面の男がこの世に存在する筈のないワームホールを所有しているのか。根本的な問題解決の想定すら浮かんで来なかった。

 帰庁した三人は、頭を抱えた。

「まさか、本当にワームホールがあるなんて……」

「あの女に聞けば何かわかるかもしれまへんね」

「いや、部屋にいた女は足立世理奈25歳。駅前でナンパされただけで、何も知らないらしいんだ」

「課長、どうにも対応が出来ませんね」

 理由は不明だが、ヤツがワームホールを持っている事はわかっている。だが、何故か三人が思っている以上に、ヤツはワームホールを使いこなしている。だから対応が遅れるのだ。

「ほな、また手掛かりなしでんな、どないしまひょ?」

「ヤツからの連絡を待つしかないね」

 翌日、三度目の犯人からの電話が鳴った。

「もしもし、科捜研と思ったら大違いの科捜研´です」

「先日は残念だったな、もう少しでオレを逮捕出来たのに。まさか発信機付きのオナモミを飛ばして来るなどというアナログな作戦とは思わなかった」

「煩いボケ、おちょくるのも大概にせいよ」

「負け犬の戯れ言など聞く耳持たない。悔しければオレを捕まえてみろよ、脳なし」

「何やと、コラ」

「さてと三度目の挑戦だ、一度しか言わないからよく聞けよ。五月一日にカラブネラ王国の大統領が来日する、必ず狙撃する。以上」

 電話は一方的に切れた。

「アホンダラから電話がありまして、「三度目の挑戦だ。五月一日来日するカラブネラ王国の大統領を必ず狙撃する。阻止してみろ、脳なし」そう言ってはりました」

 課長松山も青島も犯人逮捕のストーリーを組み立てようとしているのだが、組み立てが上手くいかない。いきなりの現場で逮捕しようとしても、結果的に逃げられてしまう。それ程にワームホールは厄介だ。しかも、三度目の犯行予告当日に犯人が現れる可能性が高いとは言っても、狙撃というのは毛色が違い過ぎる。

「狙撃してワームホールで逃げるて事なんやろか?」

「でも狙撃なんかして、ヤツにどんなメリットがあるんだろう?」

「確かにそうだな。決め付けは捜査のタブーだが……」

 結局、三度目の犯行予告当日も警察官を動員して警備に付いたものの、犯人は現れずに何事もなく過ぎていった。現地で張り込んだ三人と駆り出された警察官達は、極度の緊張感の中徒労に終わった事に疲弊しながらも安堵した。

「あのボケ、今度電話があったらシバき倒したらぁ」と、華が息巻いた。

「暇ですねぇ」

 手掛かりとなるのは亀有のアパート程度しかなかったが、賃借人は現場にいた女だった。しかも、ひょっとこ仮面の男との関係は駅前で声を掛けられた援助交際、女は男の素性を知らず、アパートからは女の指紋しか出て来なかった。

「これじゃあ、捜査のしようがないやん」

「まぁ仕方がない、こんな時もあるさ」

「そう言えば課長、お願いしたあの件はどうですか?」

「パリス研究所は再築されて、その後特に変わった事はないらしい。念の為、アメリカ政府経由で調べてもらったが、パリス物理学研究所の事故と同時期に退所したのは枚田陽一という日本人研究員一人だけだそうだ」

「枚田陽一?」

「親しかったのか?」

「枚田さんは主席研究員で、パリス博士専属の補佐をされていました。同じ日本人ですけど親しいという程ではありません。どちらかと言えば、嫌いでしたね」

「青イチさんて、好き嫌い激しいですよね」

「そんな事はないよ。でも何で辞めたんですかね?」

「理由まではわからんな」

 松山は、今日も早朝から新部長室に呼ばれたまま、戻って来ていない。いつになく長い。

「何をやっとるんですかね?」

「さぁ、また「何とかしろ」って言われてるんじゃないかな?」

「何とかて言ぅても、何ともなりまへんがな」

「まぁ、そうだよね」

 新部長室でのチェックタイムから帰った松山は、普段にも増して苦虫を嚙み潰したような顔をしている。開口一番に出て来た言葉は雲を掴むような内容だった。

「「犯人がわかった」と部長が言っている」

「薄らハゲの戯言ちゃいます?」

「薄らハゲかぁ、面白い。華ちゃん、最近絶好調だね」

「昨日の朝、北玄関であの薄らハゲが偉そうに車から降りて来よったんで、腹立って後ろからドツいたったんですよ。ほしたら、何やら「華ちゃん、お早う」とか言うて懐いて来よって、サブイボやわ」

「そう言えば、庁内に華ちゃんのファクラブが出来たらしいね。発起人があの鬼の鬼山部長なんだって」

「皆、ヘンタイなんやな。ホンマに気色悪いわ」

 青島と華の漫才の最中も、松山は一人頭を抱えている。

「ほんで課長、犯人て誰ですの?」

 何故か、松山が言い難そうに話し出した。

「アメリカ政府からの情報で、ブラックマーケットに妙なものを売り掛けているヤツがいる。アメリカ政府と台湾政府の協力を得て買いを入れ、近々1000万ドルで契約の運びとなるらしい」

「売り掛けてる妙なものて何ですの?」

「それが、ワームホールによる時空間移動装置及び保存装置だそうだ。普通に考えるなら、愉快犯か頭のおかしい輩なんだろうが、それがひょっとこ仮面でないとは言い切れん」

「なる程、その人物を特定出来たと言う事ですね?」

「まぁ、そうらしい」

「それが犯人かどうかはわからないけど、調べて見る価値はありますね」

「へぇ、あの薄らハゲも唯の爺やないて事やな」

 犯人の特定若しくは重要な手掛かりを掴むとは、流石は優秀な警視庁の役付きだけの事はある。にも拘らず、何故か松山が言い難そうに話している事に変わりはない。その理由は直ぐにわかった。

「それで、そいつを特定する手掛かり、例えば名前、年齢、アドレスや逮捕歴、写真その他のデータはどの程度揃っているんですか?」「ない」

「犯人の所在地は?」「日本だ」

「日本のどこですか?」「わからん」

「?」

「アメリカ政府から日本政府に連絡が入っとるんやから、日本ちゅう事は最初からわかってますやん?」

「課長、もしかしてなんですけど、日本以外何もわからないって事ですか?」

「そうだ、俺も同じ事を部長に訊いたんだが、一言「それを確定するのがお前の仕事だ」って言われたよ。しかも三日以内にそいつを特定しろとのお達しだ」

「アホはやっぱりアホちゅう事やね、アホのホルホル顔が目に浮かびますやん」

 そう言いつつ、華が昆布茶を美味そうに啜った。

 日本にいるのだろう犯人と思われる一人の男を、何の手掛かりもなく、三日以内に特定しなければならないのだが、どこから、何から手を付けたら良いのか誰にもわからない。手など付く筈もない。何かを指示すべき課長松山も、何を指示すれば良いのか、途方に暮れるしかなかった。

 翌日、再び松山が連日で新部長室に入ったきり暫く戻って来なかったが、戻るなり言った。  

「例の犯人の件の続報だ。アメリカ政府と台湾政府の協力を得て買いを入れた入札が上手くいき、1000万ドルでの契約が締結される事になった。当然の事として、売主にワームホールのプレゼンを要求したが、断られたそうだ。アメリカ政府は信頼する日本政府に付託し、日本政府は絶対的信用の下に警視庁に一任となった」

「真面に取り合う相手なんですかね?」

「面倒臭いだけやん」

 松山も青島も同時に頷いている。莫迦な愉快犯相手の捜査かも知れないが、これも警察官の仕事だから仕方がない。しかも、アメリカ政府から日本政府に付託され警視庁に一任されたと言えば聞こえは良いが、実際には単なる眉唾ものの厄介な事件が丸投げされた、唯それだけの事なのだ。下請け、いや孫請けが回って来た仕事にあれこれと言える立場にはない。

「アメリカ政府は契約場所をNYか台北を要求したのだが拒絶され、売主は新宿を指定したらしい」

「新宿ですかぁ、NYやったら海外旅行、もとい海外出張やったのに」

「建宏科技という台湾企業が買う設定で、俺達三人はその企業のCEO、COO、秘書として契約に立ち会う」

「そいつがひょっとこ仮面男であってもなくても、どっちゃにしてもそのアホを逮捕してまうんですよね?」

「そうだ」「ひょっとこ仮面だと一石二鳥でいいですね」

 契約の日が来た。新宿という場所の指定はあったものの住所の詳細は不明で、携帯で指示され15分程歩き、都庁近くの裏通りに面した10階建の雑居ビルに案内された。雑居ビルではなく廃墟と言った方が適切だ。エントランスの扉とエレベーターが動いているのが不思議なくらいだ、当然だが他階にテナントは入っていない。掃除などされている様子はなく、足の踏み場がない。階段にはバリケードが設置されている。ビルの周囲には気づかれないように数人の私服警察官が配置された。

 極端に狭いエレベーターで10階まで行き、明かりの点いている奥のフロアのドアを開けた。

 窓が一つあるだけの決して広くはない部屋には事務機器はなく、小ざっぱりと片付けられている。部屋の隅に、この部屋には不似合いな木箱が高く積み上げられている。それが何なのかは不明だ。

 その部屋に唯一置かれている黒光りする革張りソファに、一人の男が座っている。仮面は被っていない。サングラスで顔ははっきりとはしないが、50歳台に見える。

 松山は、台湾企業の建宏科技CEOとして挨拶した。

「初めまして、私が建宏科技CEOの林俊傑、彼がCOOの黄志豪 、彼女が秘書の張美玲です」

「日本語はどの程度?」

 甲高いチャラ男の声である事を華が目で合図した。

「私は日本と台湾のハーフで、大学も日本の大学を出ていますので問題ありませんし、彼等も日本語大丈夫です。アナタを何と呼んだら良いか?」

「それなら問題ないな、俺の事は神様と呼べ」

「ところで神様、何故日本の新宿を指定したのですか?」

「簡単だ。新宿を指定したのは、色々と小細工が出来るからだ」

「小細工?」

「そう、この部屋は10階にある。この部屋自体にも内側から鍵が掛かっていて、誰もこの部屋からは出られないという事だ。契約の邪魔をされては困るからな」

「ワームホールによる時空間移動装置及び保存装置は、どこにありますか?」

「これだ」

「時計、G‐Shockですね?」

「これが、時計型ワームホール発生装置だ」

「これが本物だという証拠は?」

「その証拠を見せるのは簡単だ。まずは10億円を指定の口座に振り込め、その後で納得出来るようにしてやる」

 CEO林俊傑の指示に従い、秘書の張美玲が携帯で連絡指示をした。

「合約金経転到銀行帳戸了(契約金は銀行口座に送金しました)」

「送金手続きが完了しましたので、その時計型がワームホール発生装置であると証明してください」

「駄目だ、振込確認が先だ」

「こちらの送金手続きは終了していますので、早く見せてください」

「まだ入金の確認が不明だ」

 進まない話に、突然COOの黄志豪が神様に向かって、名指しで𠮟責した。

「もう小芝居はやめましょうよ、枚田さん。随分顔が変わっていますけど、アナタである事は隠せませんよ」

「誰だ?」

「青島ですよ」

 男は口端を上げた。

「やっぱり、お前だったか。青島健太。久し振りだな」

「アナタがひょっとこ仮面男で、一連の事件がアナタの仕業だという事は間違いないですよね?」

「まぁ、そういう事だな」

「随分と余裕ですね」

「余裕というよりも、お前が来るのは想定内だ。そもそも、一連の事件はお前を誘き出す為の作戦だし、電話で挑戦したのもその為だ」

「ボクの電話番号が良くわかりましたね」

「横浜のオレの店に来たからだ。卯祖月不動産と言えばわかるだろう」

「あっ、『クロ事件』の時の不動産屋や」

 ひょっとこ男は知っていた。騙したつもりが返り討ちにあった華は、悔しそうに叫んだ。電話番号の件は解明したが、そもそもの大疑問は未だ不明だ。

「アナタが何故ワームホールを持っているのですか?」

「必然だ」

「必然とは?」

「あの偏屈爺さんの専属の助手を30年続けた。それは辛い日々だった。だから博士が引退すると聞いて、「この研究を引き継いでくれ」と頼んだのだ」

「でも博士は拒否した」

「そうだ、だから研究を盗んでやろうと思ったのさ」

『博士、お話したい事があります』

『いや、今は手が離せない。明日の朝までにやらねばならない事があるのだ』

『私は博士の専属助手として、今日まで懸命に努力して来ました』

『感謝しているよ』

『博士、お願いがあります。博士の研究の全てを私に引き継いでください。今後更に研究を進めていく為に、私に全てを引き継いでもらいたいのです』

『そういう話か、残念だがそれは出来ない。未だ公にしていないワシの研究は、将来公式にすべきか否かも決めていないのだ』

『いえ、博士の研究であるワームホールは、必ずこの世界に画期的な革命を齎すものです。ですから、一刻も早く実用化の段階へと進める為に、私が全てを引き継ぎたいのです』

『駄目だな、この研究は世界を変える前に、戦争の手段となる大いなる危険を孕んでいる。故に、前提となる部分の検討、即ち戦争の手段とならない為の議論と対応が必要だ。だが、それは我々科学者だけでは出来得ない事なのだ』

『では、博士はどうしようと考えているのですか?』

『どうする事が最良なのか、ワシにもわからないのだよ』

『それなら、是非とも私に……』

『だが、取りあえずどうするかは、ワシの中では既に決している。ワシの研究の全ては青島健太と日本政府に委ねる』

『博士、ここまで大きな研究を日本政府に渡すなんて、余りにも愚かな考えです。この研究は我がアメリカが世界の発展の為に利用すべきです』

『そうなるべきだった原子力はどうなったかな?』

『それは……』

「そう言って、博士は私の提案を拒否した。だから、研究室ごと爆破したのさ」

「お前がやったのか」

「俺の選択は間違ってはいない。想定外だったのは、爆破する寸前に研究資料を狙う窃盗団が現れて、ワームホール発生装置を奪われた事だ。ワームホール発生装置は、旧箱型と消滅時間の制御が可能な新型が存在した。幸いその時盗まれたのは旧型で、新型は私が持っている。現在旧型を持っているのが誰かは知らないが、所詮そいつには発生装置と保存装置の区別さえ出来ないだろうし、設計図なしに制御など出来る筈もない」

「設計図も持っているのですか?」

「当然だ、博士がお前に渡そうと態々新たに作成したものさ」

「そのワームホール発生装置と設計図は帰してもらいますよ」

「残念ながら、オレから奪う事は不可能だ」

「このビルは既に包囲されている、逃げ場はない」

「何度も言わせるな、オレから奪う事など無理だ。そもそもお前達こそ逃げ場はないのだ」

「どういう事だ?」

「オレが新宿のこんなビルを何故選んだか、何をするかを良く考えるがいい。エントランスとエレベーターの電源は既に切断してあり、この部屋は内側から電子ロック錠が掛かり、塞がれている窓を開ける事は不可能。そして、そこにダイナマイトの箱が起爆装置とともに置いてある。爆裂は時限式で、起爆スイッチはオレが持っている。この後どんな事が起こるだろうな?」

「そういう事か」

「この状況からどうやって逃げるつもりなのかを聞かせてほしいものだ。当然だが、オレはワームホールで逃げる事が出来る」

 男の嘲笑が響く部屋の隅に高く積み上げられた木箱の中にはダイナマイトの束があり、時限装置が付いている。この状況で起こる事と言えば、部屋内に存在するものが爆裂とともに木っ端微塵に吹き飛ぶ、それ以外にない。そしてそれは、信じたくはないのだが当然の如く3人を含んでいる。

「もう一つ、青島研究員との折角の再会を祝して、楽しいゲームのプレゼントを用意している。是非とも受け取ってくれ」

「ゲームのプレゼント?」

 男は時計のベゼルを回しながらボタンを二回押した。空間に二つの黒い輪、ワームホールが出現した。

「何をする気だ?」

「ゲームだよ、二つのワームホールはそれぞれある場所に繋がっている。一つは、新宿公園のベンチの上。もう一つは、都庁の屋上横、これだと真っ逆さまに落ちる事になる」

「どちらかを選ぶゲーム?」

「まぁそうだが、もしかしたらそれが全部嘘で、どちらもハワイのキラウエア山の火口かも知れないし、どちらかを選んで飛び込めば救かるかも知れない、というゲームだ。時間は爆破までの3分だ」

「アホくさ」

「こんな事をしてピアス博士が喜ぶと思うか?」

「青臭いな、反吐が出るぜ。精々、震えながら泣き喚くがいい」

 男は、時計のベゼルを回して三回目のボタンを押した。空間に、三つ目の黒い輪、ワームホールが出現した。時限装置のスイッチを押し、三つ目のワームホールの中に消えようとする男が吐き捨てた。

「そうだ、忘れていた。これがワームホール発生装置であるという証明だ」

 三つの内の一つのワームホールと男が時空間に消えた。

 後に残されたのは、松山、青島、華の三人と冷たく秒を奏でる時限爆弾、それに二つのワームホールだけだ。エントランスとエレベーターは動かず、部屋の電子ロックは開かないだろう。部屋にある塞がれた窓を壊したところで、10階から脱出するのは容易ではない。1階に設置されたバリケードの撤去にも時間が必要だ。外部に応援を呼んでも当てにはならないだろう。二つのワームホールのどちらを選んでも、良い事が起こるとは到底思えない。時限装置の音が、大きくなったような気がする。

「万事休すですやん」

「万事を使う言葉なら、ボクは「人間万事塞翁が馬」の方が好きだな」

「私もそうだな、世の中何が幸いするかなんて人間如きにはわからんよ」

 今にも時限爆弾で木っ端微塵に吹き飛ぶ、こんな緊急時に何を悠長な事をほざいているのか。華は嘆息した。

「課長、青イチさん、下らん事言ぅてないで何とかしてくださいよ」

「そう言われても、どうにもならんな」

「華ちゃん、こういう時は焦らない方がいい。駄目な時は何をしても無駄だからね」

「アカン、二人ともアホや」

「ドアは電子ロックで開かない、窓を破ってもここは10階。さて、どうしますか」

「取りあえず、あの時限爆弾を何とかしてみるか」

 松山の提案で、積み上げられたダイナマイトの木箱を探った。ダイナマイトの木箱は五つあり、全て鎖で繋がっている。その最上位の箱にある赤いデジタル数字055が時限を刻み、見る者を威嚇し続けている。残り55秒という意味だろう。三人の命は55・54・53秒と、見る間に短くなっていく。

「ヤツの言ぅてた事を信じて、そこにある二つのワームホールの内のどっちかに飛び込むしか方法はないのと違ぃます?」

「それも何だか悔しいし、そもそも俺は他人を信じない主義だ」

「そうですね、僕もちょっと嫌だな」

「ほな、どないすんねんや?」

「どうしましょうか?」「どうするかな?」

「時間がないんじゃ、ボケ。何か、考えや」

「ん?」「何?」「何や?」

 三人の危急存亡の茶飲み話が続く中、部屋の隅で何かが動いた。動く物など何もない伽藍とした部屋の時空間が揺れた。

 三人は同時に目を遣った。そして、そこに長方形の物体、白い扉が現れるのを見た。白い扉が何なのかは、想像すら出来ない。

「ドア?」

 どう見ても白い扉に見えるが、何ら確証はない。では何かと考えたが、やはり皆目検討がつかない。ドアノブが回り、中から誰かの姿が見えた。

「ケンちゃん」

 青島を呼ぶその声は、聞いた事のある声だった。

「お祖母ちゃん?」

「凄く久し振り、大きくなったわねぇ。取りあえず、中に入って」

 現れたその姿は、紛れもなく青島の祖母だった。その姿に懐かしさと嬉しさが込み上げて来るのは当然なのだが、理解が感情に追いつかない。青島の祖母は15年前に交通事故で亡くなっている。その祖母が、当時と変わらぬ容姿で目の前に立ち、当時と変わらぬ優しい声で誘っている。15年の空白の月日など微塵も感じない。だが、理解は置き去りだ。

「青イチ、華、兎に角、中に入ろう。時間がない」

 三人は、白いドアの中に入った。そこはマンションの玄関風に造られている。更に、奥にあるもう一つのガラス扉を開けると、一人の老人が優雅に紅茶を啜っている姿が見えた。

 老人を見た青イチが叫んだ。

「Grand-père(お祖父ちゃん)」

「Ça fait longtemps, Kenta(久し振りだね、健太)」

「J'étais vivant, grand-père(生きていたの、お祖父ちゃん)」

「Bien sûr, je suis immortel(当然だ、ワシは不死身だからな)」

 再会のシーンは感動なのだが、言葉の壁が立ちはだかり、当事者二人と祖母以外には十分には伝わらない。そして極端に時間がない。

「課長、会話がさっぱですね」「フランス語だからな」

 意思の通じない二人の為に、祖母が気を利かせた。

「Veuillez parler en japonais(二人とも日本語で話して)」

「これは失敬した。ワシは・」

「パリス博士ですよね?」

 老人は笑顔で頷いた。

「博士、実は時間がなくて・」

 老人が再び笑顔で言った。

「大丈夫です。この部屋は、時空間そのものを制御する装置なので、現実の時間は止まったままです」

「時間が止まったまま?」

「これが時空間制御装置なの?」

「そうだ。簡単に言うと、ワームホールで時空間を操作する機械だ。だから、時空を超えて目的の場所へ自由に行く事が出来るから、お祖母ちゃんがここにいるんだよ」

「なる程、そういう事なんだ。でもお祖父ちゃん、今のこの緊急事態をどうしたらいいのかわからない」

「Laisse le moi(ワシに任せなさい)」

「Grand-père Hirata un chercheur(お祖父ちゃん、研究所にいた枚田さんが・)」

「Je sais(わかっている)」

 老人は立ち上がり、壁際の機械を操作し始めた。

「皆さん、今から「時空の渦巻」を辿って、枚田が移動した先へ翔びます」

「青イチさん、時空の渦巻きて何ですの?」

「残像の事だよ。ワームホールが消えても暫くの間は「時空の渦巻き」っていう像が残り、時空の渦巻きから時空間を遡れるらしいんだ」

 ほんの一瞬だった。

「さぁ着いた。発生装置を取り返そう、あれは健太にもらった大切な時計だからね」

『Grand-père offre un cadeau Ceci est une nouvelle série de G-Shock(これ、プレゼント。お祖父ちゃんが大好きなカシオGショックの新シリーズだよ)』

『Oh Merci Kenta Je suis heureux(有り難う健太、凄く嬉しいよ)』

「MHKニュースの時間です。今日、新宿の雑居ビルで爆発がありました。今もビルは燃えています。爆発が何故起きたのか現在調査中です」

 男は、TVのニュースと口座への入金を確認しながら小躍りした。

 10億円を確保し、積年の恨みの対象だった青井健太を新宿の雑居ビルごと始末する事が出来たのだ。全てが想定通りで順調だ。

 男はほくそ笑みながら、時計型移動装置をテーブルの上に置き、シャワーを浴びてからリビングへと戻った。シャンパングラス片手に次の手を練るとしよう。何と言っても、これ程に金の成る木はないだろう、ワームホールを売ると持ち掛けて逃げるだけなのだから。

 その部屋は、湾岸エリアに立つタワーマンションの最上階、エントランスにダブルオートロックが設置され、コンシェルジュと警備員がいる。自室の玄関ドアには三つの電子ロックがあり、誰も男の許可なく立ち入る事は不可能だ。

 そんな完璧のセキュリティと順調過ぎる結果が災いしたのか、男の緊張は完全に切れていた。シャワー室に入った瞬間、男の完璧を誇る部屋の隅で、時空間が揺れた。

「ない……そんな筈はない」

 シャワーから出た男は叫んだ。テーブルの上に置いた時計がなくなっている。この部屋に何者かが侵入した形跡はない、そもそもこのセキュリティを突破できる者など存在しない。思い違いかと、必死で探したが見つける事が出来ない。思考が宙を舞う。

 暫くすると、管理室から連絡の電話が鳴った。

「枚田さん、管理室に時計の落とし物が届いているのですが、今からお届けに行っても良いですか?」

「時計?」

「これです」と言って、コンシェルジュがモニター越しに時計を見せた。

「そ、それは私の時計だ」

「直ぐにお届けに伺います」

 どう思い返しても話の辻褄は合っていない、男の時計が管理室にある道理はないのだ。冷静に考えれば、話の流れが奇妙だとわかる筈だ。何故その時計が男の物であるとコンシェルジュが知っているのか、何故その時計をコンシェルジュが部屋まで持って来るのか、そんな事は通常あり得ないのだが、物事を判断する男の理性は螺旋のように舞っていた。

 男は玄関先で電子ロックを解除した。ドアを開いた瞬間、松山達と複数の警察官が雪崩れ込んだ。そして無事に犯人を逮捕し、設計図も回収した。

「健太、そして皆さん、その時空間移動装置は前回と同様に、そちらに預けます。宜しくお願いします。健太、また来るよ」

「ケンちゃん、元気でね」

 パリス博士と祖母は安堵の表情を浮かべながら、白いドアから時空間の彼方へと消えていった。

「課長、ハゲがお呼びです」

「またか」

 松山は愚痴りながら、部長室に入った。

「おい松山、先日の件だが犯人は相変わらず「時計型ワームホール移動装置は本物だ、返せ」と騒いでいるらしい。応援をもらった刑事課の何人かも「現場で時計を見た」と言っているんだが、あの取引は本当にインチキだったのか?」

「報告書の通り、犯人は愉快犯です」

「時計はどうした?」

「鑑識で調べていますが、特に何も変わった部分のないGショックだとの事です」

 松山は、立て板に水で報告を済ませて部屋に戻ったが、青島の顔を見た途端に吹き出した。

「課長、上手くいきました?」

「お前が機転を利かせて、Gショックを用意してくれて助かったよ」

「あのGショックは、元々僕が買ったものですからね」

「でも、三年前のシリーズが良ぅ簡単に手に入りましたね」

「お祖父ちゃんとお揃いにしようと、二つ買って持っていたんだ。実家で探すのが大変だったけどね」

「なる程」

 事件は無事に解決し、回収された時空間移動装置と設計図は、警視庁、日本政府の許可を得る事もなく、再び松山と北条の手で闇に消された。今後ワームホールを使った事件が起こる事はないだろう。

「でも、パリス博士の白い部屋て、タイムマシンでもあるんですよね?」

「まぁそうだね」

「パリス博士が、あのタイムマシンとかワームホールを使って泥棒するて事はないと思いますけど、使い方によっては危ないですね?」

「確かにそうだが、パリス博士に限ってそんな心配はいらないだろう」

 松山は、同意を求めるように青島に話を振った。華の言うように、タイムマシンなどという代物は、考えようによってはワームホールよりも厄介なものと言えるかも知れない。

「その心配はないですね。元々資産家だし、僕よりも正義感が強いですから」

 松山と華がほっとして笑った。

「あっ、でも……」と青島が何かを思い出した。

「どないしはったんですか?」

「パリス博士は異常な歴史好きで、昔からの口癖は『Je vais certainement changer l'histoire.』だった……」

「どういう意味だ?」

 青島は言い難そうに、口籠った。

「それは……『絶対に歴史を変えてやる』です」

 青く晴れ渡る夏空に、真っ白な積乱雲が当然のように暴れ廻っている。果てしない大空に、思い出した祖父の声が反響した。

『Je vais certainement changer l'histoire Je le ferai toujours(絶対に歴史を変えてやる。必ずやってみせるぞ)』













  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時空超常奇譚其ノ九. SEACRET/白い扉の向こう側 銀河自衛隊《ヒロカワマモル》 @m195603100

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ