テオフリート友人一同の婚礼前夜 前編
「うーん。外からでもわかるほど、ぴりついた空気だなあ」
都のシュトラール公爵邸を見上げながら、フィルは愉快そうに笑う。そうした友人を横目で見つつ、俺は苦笑した。
「まあ、婚礼の前日だからな」
我らが友人テオこと、シュトラール公爵テオフリートは、めでたく明日結婚する。相手は、彼がずいぶん前から気にかけていた、フロイト侯爵の長女アリアドネ嬢だ。
フィルの向こうでは、アルが感慨深げに息を吐いた。
「やっとかぁ……」
「ああ、ずいぶんやきもきさせられたな」
婚約から今日までも長かったが、テオが彼女を口説きにいくまでも相当な時間がかかった。俺たち三人がどれだけ気を揉んだことか。
「皆さま、どうされました?」
執事のロルフが玄関から出てくる。
「やあ、ロルフ。君の主人のご機嫌はいかがかな?」
フィルが大げさなほど朗らかな声で尋ねる。
「ま、待ちに待った婚礼前日ですから……ご想像のとおりです」
答えるロルフの笑みは引きつっているうえに、顔色が少々悪い。既に徹夜しているのだろう。今夜もきっと眠れないはずだ。
「うんう、大事な前日だからね。友人として花婿を祝いに来たよ」
「……ありがとうございます。ただいまご案内いたします」
屋敷に入ると、あちこちから早口で指示を飛ばし合う声や物音が響いている。慣れていないと、喧嘩でも起きているのかと勘違いするだろう。
「この賑やかさこそ、シュトラールだね」
フィルは微笑ましそうに目を細めた。時々羨ましくなるほど図太い神経だが、これはアインホルンの血のせいなのだろうか。
すれ違う使用人たちは、どれだけ早足で歩こうと、俺たちの姿を視界に入れたとたんにすっと廊下の端に寄る。
彼らはよく教育されているが、全身で訴えてきている――客人の相手をしている時間などないのだと。
テオたちの婚礼は、一般の貴族と同じように考えてはいけない。シュトラールが総力をあげて約一年間派手に演出しつづけた、熱烈な恋物語の集大成なのだ。職人街も屋敷の中も、待望の一日の準備に余念がない。
忙しいところ申し訳ない。言い出したのはフィルで、俺とアルは付き添いだから許してほしい。
応接間に通されてしばらく経つと、テオが全身から威圧感を漂わせながらやってきた。
「テオ、惚れに惚れ抜いた女性との挙式前日とは思えないほど殺気立っているね」
こういうときも、一番に声をかけるのはフィルだ。
「今が最も忙しいのはわかるだろう?」
実に美しい笑みだが、彼の周囲の空気は冷えていく一方だ。アルはおろおろとしながら二人を交互に眺める。
「少しくらい気晴らしをしないと。今日はアリアドネ嬢と会っていないのか?」
「新郎新婦は前日顔を合わせないものだろう」
「君って結構、昔の教えにこだわるよね。ここまでお堅いのは、うちの親族でも本家くらいだよ」
「フロイト側も堅い家だからいいんだ」
「そうか。じゃあ、慣習のとおり、花婿を祝いにきた友人たちを追い返したりはしないだろう?」
テオは天井を仰ぐが、それ以上は何も言わなかった。
「まあ、君は明日の主役だ。あまり気を張りすぎると、式に差し支えるぞ。休息も必要だ」
俺は宥めるように、持参した酒を見せる。アルも援護するように頷く。
「ディーの言うとおりだ。僕のときも、君たちが顔を出してくれたおかげであまり緊張せずに済んだ。アリアドネ嬢にとって最良の日に、君が疲れた表情を見せては台無しだろう?」
唯一の既婚者の言葉には実感がこもっていた。テオは少し考えた末に、空いた席へ座ってくれた。
結婚前夜は家族とゆっくり過ごしてもいいのだが、あいにく彼にはもう誰もいない。
ただでさえ、愛するアリアドネ嬢に最高に幸せな一日を贈ろうと気合いを入れすぎているのだ。使用人や領民しかいない状況では、ひたすら完成度を追求しつづけるだけだろう。誰も止められない。
フィルが俺たちを誘って訪ねたのは、そうした配慮だろう。まさか、一報も入れていないとは思わなかったが。
「さあさあ、飲んでくれ。選んだのはディーだけれどね」
フィルは機嫌よく酒を注ぐ。その間にも、廊下から勢いのある声が次々と聞こえてくる。
「ロルフ、フェラー夫人を見なかった? アリアドネさまの部屋のことで相談があるのだけど」
「おい、フィリス。俺のほうが先に話しかけただろ。順番だ」
「ああ、ロルフ。ここにいたのですね。明日の衣装、どこに置いておけばいいですか?」
「待て、一度に話しかけないでくれ。というか、今はエックハルトさんだっているのに、どうして俺に……」
一応来客中とはいえ、もはや配慮する余裕もないのだろう。俺たちの前では取り繕っているが、あの執事はなかなかの苦労人だろう。
四人で顔を見合わせて苦笑する。
「テオ、彼女はシュトラールの面々とうまくやっていけそうか?」
「準備に一年あったからな。少しずつ馴染んできてくれてはいる」
二人の婚約が決まったのは昨年の夏。時期を考えれば、一年の婚約期間を設けるのは自然なことだろうが、彼はその時間を余すことなく活用した。
アリアドネ嬢の婚礼衣装や社交用のドレスはもちろん、日々の装いまですべて職人たちに新しく作らせたのだ。
そこには彼女を喜ばせたりシュトラールの品を宣伝したりする他に、職人たちや使用人たちと顔を合わせる機会を多く設ける狙いもあっただろう。
しかし、どうしてアリアドネ嬢なのか。正直に言えば、当初は俺も疑問だった。一応、あの事件の現場には俺もいたのだが――。
「フィル、どうした?」
その日、最初に令嬢たちの様子を観察していたのは彼だった。
「ん? いや、ただ……今年デビューしたご令嬢たちはずいぶんと元気だな、と」
少し離れているものの、耳を傾けてみると、彼女たちはシェーンボルン伯爵の長女の話で盛り上がっているようだった。
「ああ、今話題の。確かに音楽家との交流に熱心だと聞くが……」
噂とはこのように歪んでいくのだな、とため息が出る。彼女たちの話は、かなり憶測とその場の思いつきが混じっていそうだ。
「テオは音楽関係にも人脈があるだろう? 何か知っているか?」
「いや。それより、彼女たちを止めない周囲に呆れる」
テオは集団に目もくれず、酒を口にする。
「今をときめくデメルング卿――次期シュトラール公から直々に釘を差されたら、彼女たちも素直に従うのでは?」
フィルが喉を鳴らすが、テオは素気ない。
「遠慮しておく。最近、あの派閥は動きが怪しい」
「そういえば。しかも、反アインホルン派だ」
アインホルン一族は嫌われるのに慣れているせいか、フィルはからからと笑う。大きな勢力なので、友好的な家も反抗的な家も多いのだ。
「しかし、気の毒だな。フロイト侯爵家のご令嬢が巻き込まれているようだ」
成り行きを見守りながら、アルが心配そうに呟く。
「フロイト……ああ、とても背の高い子か」
「春の祝宴でもかなり目立っていたな」
よく見れば、周囲より頭ひとつ分背の高い少女が、おろおろとしながら盛り上がる会話を見守っている。
「はは、かなり猫背になっているな。あの身長差なら無理もないか」
男性の中でも特に上背のあるフィルは、「下でごちゃごちゃ喋られてもよく聞こえない」とよく身を屈めるから、彼女の気持ちがよくわかるのだろう。
「フロイト卿は、あの派閥と親しかっただろうか?」
フィルの疑問に、テオは首を横に振った。
「今年もつかず離れずでいらっしゃるようだ。おおかた、同じ時期にデビューした者同士でお喋りしようとして、気の合わない一団に当たってしまったのだろう」
毎年この時期は、何度かそういった光景を目にする。よくあることだ。
ふと、いつの間にかテオが彼女たちに視線を向けているのに気づく。
「テオ、どうした?」
「いや、あのフロイト卿のご長女は……一段とドレスが似合っていないな、と」
また始まった。俺はアルと視線を交わしながら、肩をすくめた。
公爵家の後継となってから、服飾の研究を重ね続けた彼は、素晴らしく趣味のいい人間になった。しかし、その弊害か、似合っていない格好をしている人間を見ると落ち着かないらしい。アルの婚礼衣装にもうるさいほど口を出したほどだ。
「もっと相応しいドレスがあるはずなのに」
意外と、この男は世話焼きなのだ。
ただ、彼の地を知らない人間が、いきなりシュトラールの後継者から服装の提案をされても萎縮するだけだろう。それで、彼は親しい友人以外には関心のないふりをしている。結果、「視線が合わない」と言われるようになってしまった。
「流行の型ではあるし、別に似合っていなくてもいいんじゃないか?」
「流行だけにこだわるのもどうかと思うのだが」
そのときだった。
「皆さま、根拠のない話はよろしくないですわ」
突然、凛とした声が聞こえた。
いつの間にか、フロイト侯爵令嬢は背筋を伸ばして、他の令嬢たちを見下ろしていた。先ほどのおどおどとした表情は消え去り、その眼差しの強さや堂々とした佇まいは気品に満ち溢れていた。
息をのむ気配が、隣から感じられた。テオが菫色の目を見開いている。
珍しいこともあるものだ。彼の人形めいた作り笑いを崩すとは、なかなかやるな。
そのとき、彼女ははっと我に返り、周囲に視線を巡らす。そして、その瞳がこちらに向いて――。
「ふっ」
ふいに、テオの唇から柔らかな吐息が漏れた。
同時に、彼女の顔が見る見るうちに赤くなり、俯いてしまった。そのまま、フロイト侯爵夫人に連れて行かれてしまう。
しかし、俺たちは皆、彼女の背――また丸まっている――を視線で追うテオに目を丸くする。
「テオ?」
「……思いついた」
「何が?」
「彼女に似合うドレスが」
そう口の両端を上げる彼に、懐かしさを覚える。学生時代は、よくこのような表情を浮かべていた。
「もしかして、また悪戯でも考えついたのか?」
今は次期公爵の仮面をかぶり、上品な笑顔で貴婦人たちの心を盛大に騒がせるが、彼はもともと茶目っ気のある性格なのだ。
「そうだな、盛大な悪戯を仕掛けたくなった」
その瞳が久しぶりに輝いているような気がした。
しかし、テオはすぐに行動を移さなかった。
シュトラールの後継者の婚約者選びは難しい。彼は明言しなかったが、父親から彼女との縁組に難色を示されたようだった。
肝心のアリアドネ嬢は、あの一件から内向的な性格に磨きがかかってしまったらしく、いつも壁の隅で目立たないように過ごしていた。
「テオ、そろそろ声をかけたらどうだ?」
俺たちに言われるたびに、彼は困ったように微笑むばかりだった。
「彼女はなかなか手強いからな」
テオの性格上、完璧な見通しが立っていない状態で、接触をはかることはないだろう。それに、彼の妻には人並み以上の機転や気遣いが求められる。今のアリアドネ嬢を見れば、うかつに声をかけられないのも当然だ。
それでも、夜会で同席すれば自然と彼の瞳は彼女の姿を追っているし、アリアドネ嬢がいない場ではどこかつまらなそうにしている。そうした姿が歯がゆくて、つい口出ししてしまいたくなるのだ。
「明らかに恋ではないですか……!」
彼の様子に、アルの妻であるタリアは目を爛々と輝かせていた。
「お手伝いしたいものの、このまま見守りたい気持ちもありますわ」
「本当に。どこまでテオの理性がもつのか、賭けたくなりますよね」
よくわからないところで、彼女とフィルは通じ合ってしまい、アルが珍しく嫉妬したのはここだけの話だ。そのときに限ってちょうどテオが中座していたのが残念だった。
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