フロイト侯爵家の若い使用人の証言

 私が勤めているフロイトのご領主さまの居城は今、男女も職種も関係なく、大騒ぎしている。理由は、この家のご長女アリアドネさまだ。

「公爵家の使用人の方々が滞在される部屋はどうしましょう?」

「そもそもアリアドネさまと公爵さまは? お嬢さまが元々使っていたお部屋?」

「ええ? 客間ではないの?」

 アリアドネさまはこの夏、めでたく嫁がれた。しかも、あのシュトラール公爵に。

 ご老人たちはピンときていないようだけど、商人の娘として育った私はこの縁談がどれほど大きいものかよく知っている。最初にご婚約の話を聞いたときは、へたりこんでしまった。

 お嬢さま――とはもうお呼びするわけにはいかないか。新婚のシュトラール公爵ご夫妻が、近いうちにフロイトへいらっしゃることになった。噂によると、アリアドネさまが新婚早々体調を崩されてしまい、公爵さまが故郷であるフロイトへの新婚旅行を提案されたのだとか。

「フロイトなら、アリアドネさまもゆっくり過ごせるものね。本当に、愛されていらっしゃいますね」

 その場にいた使用人一同で、しみじみと頷き合う。

 アリアドネさまは社交が得意ではなく、結婚相手探しがうまくいっていないようだった。けれども一年前、突然シュトラール公爵に求婚され、それからは幸せいっぱいに過ごされていた。

 シュトラールは貴婦人の服飾品を手がける職人を多数抱えている。ご婚約後に贈られた美しいドレスや宝飾品の数々に、皆で「触るのも怖い」と震えたのもいい思い出だ。

「ミア、ミアはいる?」

 先輩に呼ばれ、私は慌てて輪を抜け出す。

「クライン夫人が呼んでいるわ。厨房に向かってちょうだい」

「わかりました!」

 きっと、あの件だわ。

 私は早足で、家政婦のクライン夫人のもとへ向かった。


「クライン夫人、お呼びでしょうか?」

 厨房で料理人たちと話していた我らが家政婦さまは、服の下に板でも仕込んでいるかのような姿勢のまま振り向く。

「ええ。香辛料のことで」

 やっぱり。

 私は夫人の真似をして、ぴんと背筋を伸ばした。

「父の話では、シュトラール公爵家御用達の香辛料は無事入手できたそうです。正式なご報告は数日以内に」

 私の報告を聞いた料理人たちがほっとしかけたのを、クライン夫人が視線で制す。

「これで懸念点がひとつ解決ね。助かったわ」

 いつも少し冷たい雰囲気の家政婦さまにとって、これは最大級の賛辞だ。

 お父さん、お母さん、商会のみんな、やったよ! 私たち、ご領主さまの役に立てたよ!

 そうはしゃぎたくなる気持ちを必死に抑えて、私はお屋敷で学んだ笑みを浮かべた。

 私の父は、フロイトで唯一の港を拠点とする貿易商だ。フロイト侯爵領の大半は農地なので、港の住民は総じて地味な扱いを受けがちである。私も、この城では地味に過ごしてきた。

 けれども、アリアドネさまとシュトラール公爵さまがいらっしゃることになって、急にクライン夫人からお声がかかった。

 シュトラールは、金銀や絹などを外国から大量に輸入している。その関係で香辛料も入手しやすいため、かの地の人々はぜいたくな味つけをした食事が一般的だという。

 公爵さまやそのお付きの人々が慣れ親しんだ味を求めたときに備えたい――そんな奥さまやクライン夫人の願いに応えるため、私の父が奔走することになったのだ。

「しかし、お嬢さまはただでさえ食が細いのに、こんなに食べ物が違うところに嫁いで大丈夫なのか……」

 料理人がうっかり呟くと、クライン夫人の顔が険しくなる。

「まず、もうご結婚されたのですから『お嬢さま』とお呼びするのはお止しなさい。そして、あのお方は亡き大奥さまの薫陶を受けているのです。貴婦人として婚家に馴染む努力をするのは当然のことですから、心配には及びません」

 亡き大奥さまとは、旦那さまのお母さまのことだ。先輩たちから、その厳しさと恐ろしさはよく聞いている。

 旦那さまは大らかなのに、クライン夫人をはじめ上級使用人がきっちりかっちりしているのは、大奥さまの影響らしい。その時代にいなくてよかった、と心から思う。

「差し出がましいのは承知ですが、よろしいでしょうか」

 私は恐る恐る、クライン夫人に発言の許可を求めた。彼女は無言で頷いた。

「香辛料のなかには、薬として扱われるものもあると聞きます。最初はともかく、慣れたらむしろ健やかに過ごされるようになるのではないでしょうか」

 これは商家生まれの性なのか。その場の空気を丸く収めたいとか、楽観的な提案したいとか思ってしまう。

 実際、クライン夫人のまとう空気も少し柔らかくなり、私は退出を許された。皆の感謝の視線を受け止めながら、私は平静を装って厨房を出た。

 ごめんなさい、クライン夫人。あんなことを言ったものの、私はさっきの料理人に同意したくてたまらなかった。

 アリアドネさまは小食なうえに、他のご家族と味の好みが違う。他所の貴族の訪問を受けて豪勢な食事が出された日には、翌日必ず寝込む。厨房の面々は、長年苦労してきたという。

 けれども、港から上等な海産物が届くと、一番喜んでくださるのもアリアドネさまだった。その姿を見るたびに、私は港育ちとして誇らしく思っていた。

 だから、アリアドネさまのご結婚が決まったときは、ほんの少しだけ寂しい気持ちにもなった。

「まあ、お幸せでいてくださるのなら、それが一番よね」

 思い出すのは、ここで働きはじめた年のことだった。


 私が行儀見習いも兼ねて、ご領主さまのお城の使用人になったのは、次女のイーリスお嬢さまが社交界にデビューした年の夏だった。

 使用人の間で人気なのは、やっぱり華やかで明るいイーリスさま。アリアドネさまは、亡き大奥さまに厳しく育てられたから真面目だけど、社交が不得意で都に行くのも着飾るのも嫌がるとだけ教わった。

 ただ、アレクシスお坊ちゃまとイレーネお嬢さまがアリアドネさまを恋しがっている姿を見て、良いお姉さまなのだろうなとは想像してはいた。だから、社交を終えたアリアドネさまが馬車から降りてきたときは驚いた。

 生気のない顔。痩せた体に、やたらと飾り立てたドレス。丸まった背中は、とても若いころのクライン夫人すら泣かせた人の教育を受けているとは思えなかった。けれど――。

「アリアドネお姉さま、お帰りなさい!」

 弾むようにアレクシスさまとイレーネさまが駆け寄った瞬間、アリアドネさまの頬に赤みがさした。そして姿勢を正し、優しい笑顔でお二人を抱きしめたのだ。

 ……別人?

 呆気にとられる私に、先輩の使用人は「社交期のときだけ変わるの」と囁いた。

 アリアドネお嬢さまは、妹のイーリスさまに比べるといつも控えめだった。食に関しても服飾に関しても、難しい人だなと感じてしまうものの、使用人には優しい。弟妹どころかご親戚からも好かれている。

 馬車を下りたときの、死者のような女性は幻だったのではないか。そう思い始めていた冬の終わり、再び私は呆気にとられた。

 秋から冬にかけて、聞き分けのいいご長女として振る舞ってきたアリアドネさまが都行きを拒んだのだ。

「無理です……! これ以上社交の場に出ても、家名を汚すだけです」

 出発の日。部屋に閉じこもろうとするアリアドネさまを、奥さまとイーリスさまが強引に連れ出した。貴族女性、強い……。旦那さまは心配そうにそのへんをうろつくばかりだったから、余計にそう感じた。

「本当はね、アレクシスやイレーネと離れたくないのよ」

 涙を流して幼い二人にすがる姿は、今生の別れのようだった。容赦なく、イーリスお嬢さまに馬車へ引きずられていったけど。

「お姉さま、大丈夫です! 今年こそは楽しい社交期になりますから!」

 イーリスさまの声が響くなか、馬車は動き始めた。

「アリアドネお姉さま、お可哀想……」

「都が怖いってあんなに泣いているのに」

 アレクシスさまとイレーネさまが痛ましげに言うものだから、使用人一同で必死に慰めた。


 正直に言えば、領地に残った使用人たちの間では「アリアドネお嬢さまは今年も駄目だろうな」という諦観が漂っていた。

 それを見事に粉砕したのは、お嬢さまのご婚約の知らせだった。最初、イーリスさまが相手を見つけたのだと勘違いしたのは、ここだけの話だ。

 しかも、お相手はシュトラール公爵!

 喜びのあまりクライン夫人が目を潤ませたことも、大騒ぎになった。

 けれども、使用人たちの動揺はそこで終わることはなかった。

 社交期を終えて戻ってきたアリアドネお嬢さまの表情の明るさといったら! フロイトで過ごされているときですら見なかったほど、幸せに満ち足りたご様子だった。

 都に付いていった女性の使用人たちの髪や顔がつやつやしていたことも、公爵さまからの贈り物の山も、留守番組に大きな衝撃を与えた。

 公爵さまがどのようにアリアドネお嬢さまを変えて、どれほど大事にしていらっしゃるのか。そうした話は、イーリスお嬢さま付きの侍女たちから広がっていった。

 ご結婚の準備で社交期でもないのに都へ上がるときも、アリアドネさまはもう嫌がらず、むしろ逸る気持ちを抑えるような面持ちだった。そして、春を目前にとうとうフロイトを離れるときに至っては、嬉しさを隠しきれないようで……。

 恋とは、ここまで人を変えるのか。小さいころに淡すぎる初恋を経験したきりの私には、よくわからなかった。


 婚約段階であれほど温かな幸せに溢れてしまうのだから、結婚したお嬢さまはどうなってしまうのだろう。

 私はひそかに緊張しながら、新婚の公爵ご夫妻を待った。

 ……想像以上だった。

 もう都に行きたくないと泣いたご令嬢はどこにもいない。深く愛し合う伴侶を得た、立派な貴婦人だった。

 それでも、アリアドネさまは相変わらず、使用人たちに気さくに話しかけてくださる。そんな新妻を、恐ろしく顔の整った公爵さまは柔らかな眼差しを向けて笑んでいて、心がざわめくのを感じた。

 愛とは、このようなものを言うのだろうか……。

 ぼんやりと思いながら、用事で庭に出ると、アリアドネさまの私室だった部屋の窓が開いているのが見えた。ご夫妻が、二人並んで仲睦まじく何やら話している。フロイトでの思い出話でもしているのだろうか。

 見ているこちらまで心が温かくなる――と思っていると、公爵さまが急にアリアドネさまを背後から抱きしめた。

「……!」

 アリアドネさまのお顔が赤くなる。私の顔も熱い。

 ああ、しかも公爵さまがアリアドネさまの髪に顔を埋めて……!

 これ以上見てはいけないだろう。私はすぐにその場を離れたけれど、胸の鼓動は全然収まってくれなかった。

 よほど私の様子がおかしかったのだろう。城の中に入ると、先輩の女性が慌てて駆け寄ってきた。動揺のままに私は見てしまった光景を打ち明けた。

 すると、翌日には、使用人のほとんどにその話が広まっていた。誰かと顔を合わせるたびにからかわれる。もう、恥ずかしい……。

 そういえば、話を聞いてくれた先輩は、イーリスさま付きの侍女だった。

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