エグモントの胃痛
うう、胃が痛い……。
春の祝宴を前に、俺の緊張は頂点に達しかけていた。思わず弱音がこぼれそうになるが、本能的に鋭い声を思い出す。
「エグモント、それが紳士の振る舞いですか?」
母方の祖母、先代のフロイト侯爵夫人は、外孫にもたいそう厳しかった。
我が家の領地とフロイトは近所と言って差し支えない。今でも年に一度か二度は行き来がある。
祖母が存命時は、一ヶ月から二ヶ月ほどフロイト侯爵家に預けられることもあった。子どものころはそれが憂鬱でならなかった。
彼女は名門出身で、王宮で女官をしていた経験もある。そのせいか、とにかく厳しかった。俺の母も、その苛烈さから逃げたくて、父の求婚にすぐ頷いたのだと冗談まじりに語ったことがあった。
祖母のありがたい薫陶のおかげで、成長してからも紳士としての振る舞いはそこそこ形になっている。だが、どうにもならないこともこの世にはあるのだ。
「まさか、アリアドネがここまで成長するとはな……」
フロイト侯爵の長女にして我が従妹のアリアドネは、めでたく十六歳となった。ようやく今日、俺のエスコートで社交界にデビューする予定だが、ひとつ問題があった。
彼女の身長が、平均よりもかなり高いのだ。一般的なヒールの靴を履けば、俺とほとんど視線の高さが変わらない。そのおかげで、ずっとダンスに苦労している。
俺も彼女も、祖母のおかげで踊ること自体は上手いほうだ。しかし、俺がいつも相手にしている令嬢たちと同じ感覚でリードしようとすると、微妙に呼吸が合わない。お互い、しっくりこないところを微調整しようと試みて、余計にズレが大きくなってしまうこともあった。
アリアドネが都に到着して以来、俺は頻繁にフロイト侯爵家の屋敷に通って、練習に付き合った。なんとか形にはなっているものの、お互い余裕を持てないまま今に至る。
「こんなことなら、もっと早くからエグモントをそちらに寄越すべきでしたわね。前回会ったときより、さらに身長が伸びているなんて」
ため息をつく母に、フロイト侯爵夫人も無言で頷く。
「まあ、アリアドネは気を張ってしまうところがあるから、多少ダンスを失敗したほうが愛嬌を感じられていいのではないか?」
伯父のフロイト侯爵はのんびりとした口調で言うが、母たちに睨まれて口をつぐんだ。
当のアリアドネ本人はというと、気の毒なほど縮こまっている。
……昔から、すぐに気負ってしまうんだよな。
フロイト侯爵の嫡男となるアレクシスが生まれるまで、彼女は長子として多大な期待をかけられていた。祖母もアリアドネには一段と厳しく、俺の兄弟は「もう見ていられない」とフロイトに寄りつきたがらないほどだった。
素直な気性だからか、跡取り候補の座から解放されても、彼女は祖母の言いつけを誰よりも忠実に守ろうとしていた。だからこそ、立派な淑女としてデビューできないかもしれない事態に、自らを追いつめてしまうのだろう。
「アリアドネ。淑女はいつも優雅な微笑みを、とお祖母さまが言っていただろう?」
「ええ、そうね。けれど、ダンスを失敗してしまったら、そのお祖母さまの教育が台無しになってしまうわ」
「大丈夫、俺がきちんとリードしてみせるから」
こう見えても、俺は結構ダンスのパートナーとして人気者なのだ。
励ましの言葉をかけるが、彼女はなかなか笑顔にならない。フロイトにいるときの寛いだ姿を知っているばかりに、別人に思えてしまう。
「ごめんなさい、エグモント。負担をかけてしまって……」
「負担なんて。可愛い従妹のデビューでエスコート役に選んでもらって、光栄に思っているよ」
その言葉は、嘘ではない。アリアドネはしっかりしているようでどこか放っておけないところがあり、昔から何かと世話を焼きたくなってしまう。
「不安なのは最初のうちだけだって」
アリアドネは唇の端を上げてみせたが、その顔はまだ硬かった。
デビューのダンス本番は、練習のときよりもずっとうまくいった。ようやく安堵の表情になったアリアドネからもフロイト侯爵夫妻からも感謝されたし、おれの両親も「見直した」とは言ってくれた。
そのときはまだ誰も予想していなかった。アリアドネが後日、社交の場で失敗してしまい、この日とは比べものにならないほど沈み込むとは。
「どうしたらいいのかしら……」
一年後、とある夜会で俺の母とフロイト侯爵夫人が揃って眉間にしわを寄せていた。もちろん、彼女たちを悩ませているのは、アリアドネだった。
「正直、うちのお母さまの教育に耐え抜いたのに、あれくらいの失敗でここまで内向的になるのが理解できませんわ」
母は力なく首を横に振る。
「ごめんなさいね、お義姉さま。そもそも、うちのエグモントが事前にもっとダンスの練習に付き合えたら、あそこまで自信を削がれることはなかったはずです。そうしたら一度の失敗で、心折れるはずはなかったでしょうに」
え、俺……?
「いいえ、エグモントは悪くありません。娘が意固地になりすぎているのです」
フロイト侯爵夫人が救いの手を差し伸べてくれるが――。
「でも、縁談の話が全然来ないのでしょう?」
母の言葉に、フロイト侯爵夫妻は同時に視線を逸らした。
「イーリスのほうが先に決まるかもしれませんね」
アリアドネの妹であるイーリスは、当初よりも予定を早めて、この春デビューした。フロイト侯爵夫妻がまた俺にエスコートを依頼してくれたのは、素直に嬉しかった。
イーリスは小柄なほうだし、せっかくの名誉挽回の機会だからと張り切ってしまったのがいけないのだろうか。集団の中でもかなり目立っていたと思う。
踊り終わったとき、アリアドネは妹の成功を喜んでいたが、改めて俺に謝罪をしてきたのだ。
「エグモント、今日はイーリスのためにありがとう。とても素敵だったわ。去年は迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい……」
イーリスと俺のダンスを見て、ますます自分の身長の高さを気にしてしまったらしい。複雑すぎるだろう、乙女心ってやつ。
肝心のアリアドネはというと、連日の社交で体調を崩して、今夜は欠席となった。代わりに、イーリスが家のために尽力している。
ダンスに誘ってくる男性たちにそつなく対応している姿を見ると、いつもアリアドネにくっついていた子ども時代を思い出して、「成長したなあ」としみじみしてしまう。
さて、俺はもう何度か踊ったことだし、一度休憩に行くとするか。
広間を出て、シガールームに向かっていると、ちょうど入れ違いにこちらへ歩いてくる集団が見えた。全員、格が高い家の子息で、年も俺よりいくつか上だ。
さりげなく無言で一礼して道を譲ろうとすると、一人の足が止まった。
「君は確か、ゼーゲン伯爵のご子息だね?」
げっ、と声が出そうになる。話しかけてきたのは、あのアインホルン一族の男性だ。もちろん、これまでの交流は一切ない。
「はい、次男のエグモントと申します」
彼を見上げながら、俺はなんとか声を震わさずに返答する。
「ということは、あのフロイト侯爵の甥御かな」
胃に重りを抱えたような気分になりながら首肯した。「あの」とわざわざ付け加えるということは――。
「今夜、あちらのご長女は来ていないのかい?」
彼の後ろで、誰かが苦笑の吐息を漏らすのが聞こえて、顔が引きつりそうになる。
最近、若い貴族男性の間で密かに行われている賭けがあるらしい。それは、強固に閉ざされたフロイト侯爵の長女の心を、誰が最初にこじ開けるかというものだ。
具体的な勝利条件としては、ダンスに複数回応じてもらうとか、自分から声をかけてもらうようになるとか、名前で呼ばれるようになるとか、エスコート役を頼まれるとか。
確かにアリアドネは社交が下手といってもいい。けれども、よく知らない人々に遊びの道具のように使われるなんて腹立たしくてならない。
賭けに興じている面々は、恋仲になろうとしているわけでもない。少し親しくなれば、彼女をすげなく放り出すだろう。そうしたらきっと、アリアドネはもう立ち直れなくなるにちがいない。
同じく彼女を可愛がっている俺の兄も弟も憤っているが、とても親世代には言えたものではない。特にフロイトの伯父上は、ああ見えて怖いときは怖いのだ。絶対に漏らしてはならない、と兄弟で誓い合った。
イーリスは……知らないことを願う。
「少し体調を崩してしまったようです。昔から、身体が弱い子でしたから。ダンスの誘いになかなか応じられないのも、そうした事情があるのですよ」
身長はともかく、小食で痩せぎみだし、頑張りすぎるとすぐ熱を出すから、まったくの嘘ではない。
目の前の男性たちは視線を交わし合う。そのうちの一人がこちらへ一歩足を踏み出してきて、胃がひっくり返りそうになる。
デメルング伯爵。端麗な容姿と上品な物腰で、社交界でも特に目立つ人物だ。若いご令嬢に信奉者が多く、いつも華やかな集団に囲まれているような覚えがある。
「では、しばらく社交に出てこないのか?」
その声色は、どこか残念そうなものだった。
「どうでしょう……数日ほど安静にしていれば問題ないと思いますが」
うーん、調整が難しい。あまり不健康に思われると、ただでさえ縁談がないのにますます可能性がなくなってしまいそうだ。
「君は、今日こそ誘うつもりだったのだろう?」
一人が、からかうようにデメルング卿を肘でつつく。
あまりそうした遊びに縁がない印象だったが、この人も結局アリアドネを退屈しのぎの玩具として扱おうというのか。
自然と拳を強く握ってしまう。すると、最初に話しかけてきたアインホルン系の男性がにこやかに肩を叩いてきた。
「別に、君の従妹殿を弄ぶつもりはないよ。安心して」
安心できるか! そう言い返せないのが弱小貴族の悲しいところだ。伯爵家の中にも序列はあるし、デメルング卿に至っては――。
「いつまでも廊下で立ち話していても仕方ないだろう。行くぞ」
彼は仲間たちを促し、広間へと戻っていく。
ほっと安堵の息を漏らした瞬間、デメルング卿がくるりとこちらを向いた。
「アリアドネ嬢によろしく」
俺は慌てて、再度礼をとった。
もうシガールームに行く気にはなれず、少し時間をつぶしてから広間に戻ると、ちょうどイーリスがダンスを終えたところだった。
「いい相手は見つかりそうか、イーリス?」
声をかけると、彼女は母たちと同じような表情になった。
「全然だわ。お姉さまにふさわしい男性って、なかなかいないのね」
「お前、何しに来たんだよ」
昔から、彼女は姉にべったりだった。幼い間はそれも微笑ましく思えたが、ここまで来ると心配になってくるほどだ。
「ところで、エグモント。あなた……デメルング卿と仲良かったりしないかしら?」
「え?」
思わぬ問いに、目を丸くする。先ほどのやりとりを見られた可能性は低いが……。
「あんな大物と交流あるわけないだろ。年齢だって違うのに」
ちらりとデメルング卿を見やれば、整いすぎた微笑みで親友たちの話に相槌を打っていた。周囲にはダンスに誘ってもらいたがっている令嬢たちがうろうろとしているのに、そちらはあえて気にしないような素振りだ。
「まあ、そうよね」
この様子を見るに、廊下での出来事は特に関係なかったらしい。イーリスのことだから、自分の姉の扱いを知ったら、あの方々相手でも平気で啖呵を切りそうだ。
「どうして急に彼の話を?」
イーリスは俺を親たちから離れた場所へ引っ張ると、こっそり耳打ちしてきた。
「あのお方、お姉さまに気があるのではないかと睨んでいるの」
「はあ?」
祖母が生きていたら絶対に叱られるような声が出てしまった。イーリスは俺の腕をつねると、さらに声をひそめる。
「先ほど、お友達から聞いたの。わたくしたち家族が会場にやってきたとき、わざわざ振り向いたらしいのよ」
しかし、彼はアリアドネがいないとわかると、つまらなそうな顔をして歓談に戻ったのだとか。
正直、イーリスとその友人の話は、少し疑ったほうがいいと思っている。本人には言えないが。
アリアドネは、例の一喝事件で注意した相手の派閥を除けば、同年代の令嬢にはそれなりに好かれているようだ。社交的ですぐに多くの友人を得たイーリスが、姉のために奮闘しているのだろう。
それに比べて男性たちといったら……。俺はため息がこぼれそうになるのをぐっとこらえる。
「アリアドネを面白がっているだけではないのか?」
「何言ってるのよ、エグモント。あのお方はそのような人ではないわ」
確かに、先ほどの彼とその友人たちのやりとりからは、アリアドネを玩具扱いにしようという意思はあまり感じられなかった。
――アリアドネ嬢によろしく。
そう告げる声はむしろ、どこか優しかったような……。
「わたくし、これから情報収集に励むわ。あなたも協力してよね」
「いや、俺は……痛っ」
再度腕をつねられる。
素直で真面目な優等生だが、応用がきかないアリアドネ。社交的で要領がいいものの、やや気が強いイーリス。二人を足して割れば、ちょうどいい気がする。
「とにかく、お姉さまには幸せになってもらいたいのよ。だから、次回こそは……」
「はいはい、うまくいくといいな」
適当にあしらおうとすると、今後は足を踏まれそうになった。
「エグモント。ほら、見なさいよ。わたくしが言ったとおりでしょう?」
イーリスが勝ち誇った顔をしてきたのは、さらに翌年のこと。
フロイト侯爵邸の庭園では今、アリアドネの婚約披露の宴が催されている。相手はシュトラール公爵――お父上のご存命時は公爵家嫡男へ儀礼的に与えられる称号「デメルング伯爵」と名乗っていた人物だ。
「いや、その……」
「お姉さまの魅力を信じていなかったあなたの負けね」
別に、俺はアリアドネの魅力がないとは言っていない。従兄の贔屓目かもしれないが、彼女はとても可愛いし、弟妹に優しい性格も美点だと思っている。
「……公爵家の嫡男がアリアドネを気に入るなんて、普通は考えられないだろう? うちの兄弟全員、腰が抜けるかと思ったぞ」
しかも、例の一喝事件以来、ずっとアリアドネを想いつづけていたほどの一途さだったとか。
あの廊下で出会ったとき、彼も他の軽薄な男性たちと同じなのかと先入観を持ってしまった自分が恥ずかしい。時を戻したい。
確かに彼の友人――ツェーフィル氏だったか――の、弄ぶつもりはないという言葉は真実だった。彼らは、珍しく特定の女性を気にするご友人の姿を楽しんでいただけだった。
「しょせん、従兄弟は従兄弟でしかないわね。姉妹の絆の勝利よ」
「うん、そうだな」
また足を踏もうとしてくるが、きちんと回避する。お祖母さまに仕込まれたダンスの技術がこういう場面で活かされるとは思わなかった。
「お前もそろそろ相手を見つけなければならないだろう。さっさと行ってこい」
「わたくしはまだ、家族やお友達とお話していたほうが楽しいのよ」
そんな話をしていると、本日の主役である二人が歩み寄ってきた。
「エグモント、楽しんでくれているかしら?」
ついこの間まで、暗い顔で社交をしていたとは思えないほど、アリアドネは柔らかに微笑む。まるで、フロイトで会っているときのように。
「アリアドネのお祝いなんだから、楽しいし嬉しいさ。まさかシュトラール公となんて、デビューのときは想像もしていなかったけどさ」
「ふふっ、もうそれ何回目かしら? そういえば……テオフリートさまはエグモントをご存知でしょうか? わたくしとイーリスのデビューのとき、エスコート役をしてくれたのですよ」
少し視線を逸らすと、菫色の目がわずかに細められる。
「いつだったか、少しだけ話したことがあったかな?」
「ええ、その節はどうも……」
「まあ、そうだったのですね」
アリアドネがいっそう明るい声を出す。
「特に、エグモントは昔からわたくしを可愛がってくれたのですよ。デビュー後もよく気にかけてくれて……今後仲良くしてくださったら嬉しいです」
「確かに、とても大切にされていたようだね。エグモント殿、今日からは私が彼女を守るから、安心してくれ」
シュトラール公は、青いドレスに身を包んだ婚約者の肩を抱いて微笑む。
安心……か。彼はきっと、この宣言を違えることはしないだろう。けれども、なぜか心が落ち着かない。
アリアドネ、お前は気づかないのか? お前が俺との思い出話を語ろうとするほど、シュトラール公爵の視線が友好的とは言えないものになってきているぞ。かなり執着されていないか? 大丈夫か?
ああ、なんだか急に胃が痛むような……。
イーリスは隣でにこにことしながら二人を見つめているだけで、特に介入する気はないようだ。こいつは、本当に……!
アリアドネ、可愛い俺の従妹よ。シュトラール公爵夫人の身分は、社交下手なお前には少々重すぎるかもしれないが、どうか幸せになってくれ。
今はただ、そう願うばかりだった。
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