執事ロルフの懸念

 前々から思っていたが、俺が執事を務めるシュトラール公爵家はかなり特殊だ。

「ロルフ、旦那さまに相談があるので、さっさと取り次いでください」

「ロルフ、お前どこに行ってたんだよ。今すぐ旦那さまの予定を確認したいんだが」

「ロルフ――」

 皆、俺の扱いが雑すぎないか?

 家令のエックハルト氏も家政婦のフェラー夫人も、今は領地の屋敷を拠点としている。そこで、執事の俺が都の屋敷を統括する役目を担っている。

 相談が持ち込まれることは、別に構わない。旦那さまの仕事を助け、屋敷を快適に保つのが俺の仕事だ。

 出入りしている職人や商人も、一応管理の対象といっていいだろう。しかし、彼らは揃いも揃って癖が強い。おまけに、屋敷の使用人と違って、なかなか俺の制御下に収まろうとしてくれない。

 まあ、お仕えする主がテオフリートさましかいない分、これでも忙しくないほうか。

 俺はつい、壁にかかった先代や先代夫人の肖像画へ視線をやる。

 先代が亡くなって、約一年。病の兆候はあったものの、悪化してから天に召されるまでの時間はあまりにも短かった。

 いつでもテオフリートさまに任せられるよう準備してはいたものの、まだ二十三歳の青年に公爵位は重かったことだろう。

 テオフリートさまはもともと、嫡男ではなかった。兄上のイグナーツさまが亡くならなければ、もっと自由に生きられたかもしれない。

 先代の奥さまが亡くなり、イグナーツさまが亡くなり、昨年は先代までも失い……もともと親族の少ないシュトラール公爵家は今、まだお若い旦那さまが一人だけ。遠慮がなくて図々しいシュトラールの民たちの出入りがなければ、この屋敷はとても寂しい場所に思えただろう。

 公爵家としての体面を保つために、掃除や手入れは怠らない。職人が我が領地の資産であるため、調度品とて他家に劣らぬ品質だ。

 けれども長らく女主人が不在であるせいか、社交の場になることが少なく、この美しい屋敷を訪ねてくださる方々はさほど多くないのだ。

 先代は、奥さまを失ったあと、他に誰も迎えないまま世を去った。奥さまのお国への遠慮や残された二人のご子息など、それらしき理由は口にしていたものの、結局のところ亡くなった奥さまを深く愛していたのだろう。

 先代夫人の生前、俺はまだ一介の従僕にしか過ぎなかったものの、この屋敷では華やかなお茶会や晩餐会が頻繁に開催されていた。もう遠い記憶で、思い出そうとしてもおぼろげな風景しか浮かばず、ほろ苦い気持ちになる。

 長男のイグナーツさまは婚約すらしないまま亡くなり、テオフリートさまもいまだにお相手を決めていない。今は、たった一人でこの屋敷と領地を往復しながら暮らしている。

 女主人の不在も問題だが、跡継ぎも懸念点だ。比較的歴史が浅い公爵家で、主な縁者は国外。テオフリートさまに何かあったとき、頼れる存在が極端に少ないのだ。本来なら十代でお子さまを得てもよかったはずだが……。

 そういえば、先代が亡くなる直前、縁談について親子で話し合いが行われたようだった。ただ、お二人のご様子を見れば、意見の相違があったことは聞かずとも察せた。

 しかし、さすがにそろそろ――つい焦りが出てしまったそのとき。

「ロルフ、明日の舞踏会の件だが」

 テオフリートさまに声をかけられ、慌てて姿勢を正した。

「はい、旦那さま。装いは、先日仕立てた一式でご用意しております」

 旦那さまの服装を準備するのも、執事の仕事のうちだ。シュトラールは腕のいい仕立屋を複数抱えているのが自慢であるため、決して疎かにしてはならない部分である。俺自身、先代や先輩の使用人たちから、男性の装いに関する知識は叩き込まれている。

「それでいい。あとは――」

 珍しく、言いよどむ。その瞳は何か考えるように、あちらこちらを彷徨った。

 公爵位を継いでからのテオフリートさまは、いつも気を張りつめていて、俺たち使用人に隙を見せることがなくなった。

 イグナーツさまのご存命時は、悪戯好きのお坊ちゃまだった。新たな跡取りとなってからは常に己を律する努力をされていたが、我々使用人に軽口や笑みくらいは向けたものだった。

 今はただ硬い表情をするばかりで、近寄りがたい雰囲気をまとっていた。そのせいか、使用人たちも職人たちも商人たちも、近ごろは俺を介して用件を済ませようとする。

 だからこそ、会話の途中でぼんやりと思案に耽っている姿に驚いてしまう。

「何か懸念点がございますか?」

 先代亡きあと、テオフリートさまは古い慣習に従って、社交を最低限に留めていた。最近、ようやく華やかな場に出られるようになったので、使用人一同、張り切っている。

 今回も、特に手抜かりはないはずだが……。

「旦那さま?」

 無言に不安が募って呼びかけると、我が主はすぐに表情を引き締めた。

「ああ、明日の舞踏会で顔を合わせる人について考えていた」

 意外なことを仰るので、つい瞠目した。

 一部の親しいご友人や職人たちの上客なら、その名前を出しただろう。このように曖昧な言い方で、社交相手を気にすることはめったにない。

「どなたか、気にかかるお相手でも?」

「……そこまでではない。ただ、逃げ水を追うようなものだ」

 彫像のような薄い笑みを浮かべるが、その奥に微かな柔らかさを感じた。

 しかし、俺の視線を払うように、テオフリートさまは仕草で「もう話は終わった」と告げてくる。俺は一礼して、その場を去った。


 使用人たちは問題なく仕事をできているだろうか。

 屋敷中を見回っていると、代々の公爵夫人の持ち物を黙々と手入れする女性が目に留まった。俺は聞こえよがしに息を吐いてやる。

「フィリス、旦那さまやお客さまの目がないとはいえ、いかにも不貞腐れてますって表情はどうかと思うぞ」

 彼女とはそれなりに長い付き合いのせいか、少し口調が崩れてしまう。

「来る日も来る日も、使われる当てがないものの管理ばかりしていれば、うんざりするに決まっているじゃない」

 そう言いつつも、彼女が広げている品はどれも完璧な状態。決して怠けてはいないと主張するように、美しく輝いていた。

 彼女に関しては、先代もかなり気にかけていた。というのも、フィリスは亡くなったイグナーツさまの奥さまの侍女になるべく育てられた人材だ。わざわざ王宮勤めの経験まで積ませるほど、先代は彼女の素質を高く評価していた。

 俺としては、気の強い彼女が、シュトラールに好意的とは言えない王宮でうまくやっていけるか冷や冷やしたものだった。こちらの心配をよそに、定められた期間中に問題を起こすことなく、しっかり勤め上げたが。

 あとはイグナーツさまが無事に結婚すれば、彼女の人生はもっと彩りのあるものになっていただろう。しかし、あのお方は未婚のまま不慮の事故で亡くなった。シュトラール公爵家はその後も、女主人と呼ぶべき存在を持たずにいる。

 現在の彼女の主な仕事は、女性の客人の応対や、屋敷に残されたドレスや服飾品の管理だ。時間が空いたときは美容の研究をしているようだが、あいにくその腕前を発揮する機会はほとんどない。

「旦那さまは、結婚する気があるのかしら」

「……ある、と思うが」

 リーデルフェルトの男性貴族は、必ずしも若くして結婚するわけではない。しかし、現状を考えると、一日も早く夫人を迎えてほしいのが本音だ。

「気になる女性がいるのではないか、とは感じている」

 その瞬間、淀みなく動いていたフィリスの手が止まった。

「それ、詳しく教えて!」

「ちょっ、揺さぶるな!」

 俺は襟を正しながら、テオフリートさまのご様子を語る。すると、フィリスは伏し目がちになる。

「実は……去年、旦那さまが私の管理する品々をすべて検めたいと言い出したことがあったの」

 それは初耳だった。

「その中から、旦那さまが特に気にされていたのは――」

 記憶をたどるようにしながら、フィリスは宝飾品をいくつか選り分ける。銀やプラチナを使ったものばかりだ。

「もし……もしも、よ? 旦那さまにこれを身につけさせたいと思わせる婦人がいるなら、どんなお方だと思う?」

「うーん、女性の装いは管轄外なのだが」

「ちょっと、それでもシュトラール公爵家の執事?」

 侍女は執事の管理下ではない。とはいえ、都の屋敷の統括を任されているはずの俺にこの態度だ。

 他の使用人たちにも言えるが、ふさわしいときにふさわしい態度を取れたらいい、という考えがうっすらとこの家を支配している。いつかボロが出そうで危うい、と密かに思っている。

「ロルフ?」

 フィリスに促され、俺は首を傾げながら考える。

「涼しげな色ばかりだな。形もあまり華美ではない……。二十代か、十代であっても落ち着いた雰囲気の女性とか? 目鼻立ちは、かなりはっきりしていそうだな。顔は面長……だろうか」

「髪は濃い色だと思うの。でないと、この髪飾りは映えないわ。体型は、少なくとも小柄ではないはずよ」

「ああ、なるほど」

 話しているうちに、少しずつ脳裏に浮かぶ姿が鮮明になっていく。そうした女性が、近いうちに旦那さまと――。

 しかし、俺は我に返り、仕切り直すように姿勢を正す。

「まだ何も聞かされていないのに、推測に時間を費やしても仕方ないだろう。俺はもう行く。そもそも、旦那さまの社交が増えてきたから忙しいんだ」

「ああ、そう。私はこの作業がそろそろ終わるし、少しだけ休憩をもらってもいいかしら? ゲルデのところに行きたいわ」

 ゲルデは、シュトラールの仕立て屋のなかでも特に素晴らしい腕前を持つ。偏屈で怖いし、正直苦手だ。フィリスはそれなりに仲がいいようだが……。

「ゲルデに? 何か用事でもあったか?」

「今話した特徴を持つご令嬢に心当たりがないか、聞きに行ってくるわ」

「止めておけ。そういう詮索は嫌がるだろ、あれは」

「大丈夫、いざとなったら助手に吐かせればいいもの」

 ああ、どうしてうちの女性たちは揃いも揃って……。これでは、他家からご令嬢が嫁いできても、戸惑われてしまうだろう。

 先代の奥さまは外国出身ながらも、我々に歩み寄ろうとしてくださっていた。残念ながら、一度大きく体調を崩されてからは都で過ごされるようになったとはいえ、よい女主人だったと思う。またそのような女性が嫁いできてくだされば嬉しい。

 テオフリートさまは、急遽跡取りになった身とはいえ、先代の期待以上の成長を見せた。その裏にどれほどの努力があったかは、使用人一同、よく知っている。だからこそ、幸せな結婚をしていただきたいのだが――。

「……どうなりますかね」

 天井を仰ぎ、亡き先代ご夫妻やイグナーツさまに尋ねるように、独り言を漏らしてしまった。

 そして翌日の夜、テオフリートさまがあるご令嬢の衣装を見立てると言い出し、屋敷どころか隣の職人街まで大騒ぎになった。


「はあ、この屋敷もだいぶ変わったなあ……」

 それから一年弱。新しい春を迎えた都のシュトラール公爵邸は、かつての侘しさが嘘のように、連日華やいだ声があちこちから聞こえる。

 テオフリートさまは、フロイト侯爵令嬢のアリアドネさまと婚約なさってから、雰囲気が一変した。今は毎日楽しそうに、贈る衣装や宝飾品を選んだり、屋敷の手入れを指示したりしている。お小さいころから知っているが、これほど幸せそうなご様子は見たことがない。

 テオフリートさまだけではなく、使用人たちも職人たちも商人たちも皆、彼女の存在に高揚している。

 俺も、お目にかかったときは驚いた。我らの主が気にかけるのも即座に納得できるほどの存在感があった。

 今ではシュトラール中がアリアドネさまに夢中と言っても過言ではない。命じられたわけでもないのに、次はこれを彼女に身につけてほしいと屋敷に届けられるものの量がすさまじい。このままでは、空き部屋が無くなってしまう。

 しかも、去年までは「最近の坊ちゃんはピリピリしていて怖いからよ」などと言っていた連中までが、もう俺を介さずにテオフリートさまへ何かしらの提案を携えて押しかけようとする。その勢いを抑えつけるのが、俺の主な仕事になりつつある。

 アリアドネさまについて気にかかるとしたら、控えめすぎるところだろうか。シュトラールの人間は皆、押しが強い。婚約から一年弱経った今でも、時折呆気にとられたような仕草を見せる。これから女主人として、我々をうまく扱ってくださるだろうか。

 まあ、ゲルデとフィリスをそれぞれほぼ一日で陥落させたのだから、心配する必要はないかもしれないが。あの二人が味方につけば、少なくとも窮屈な思いはしないだろう。

 家令のエックハルト氏も家政婦のフェラー夫人も、都の屋敷の変化にたいそう驚いていた。アリアドネさまと顔を合わせてからは、彼らも張り切って領地の屋敷に手を入れているという。

 悲しい別れが続いたシュトラールにとっては久々の慶事。とはいえ、皆興奮しすぎではないか。真面目でおとなしいアリアドネさまが重圧に感じたらどうするのだ。

「ロルフ、アリアドネの部屋の件だが」

 テオフリートさまに呼びかけられ、俺はいつもの表情を作って振り向く。

「はい、何か変更でも?」

「できれば余暇に読書を楽しめるようにしてやりたい。家具の追加を頼めるか」

「今なら間に合うでしょう。……奥さまは勉強家でいらっしゃいますからね」

 その瞬間、テオフリートさまが静止する。

「旦那さま?」

「『奥さま』はまだ早いだろう」

 苦笑しつつも、その声は穏やかで温かみのあるものだった。

「失礼いたしました、つい」

 アリアドネさまは我が領の宣伝役として、毎日のようにシュトラールの職人たちが捧げるドレスや宝飾品を身につけてくださっている。婚礼以外にも、日々の装いの打ち合わせも行っているため、既に嫁いでこられているような感覚になる。

「あまりからかってくれるな」

 甘やかな声のせいで、まったく咎められた気分にならない。少年時代のやんちゃさもなく、近年の余所行きの態度とも違う、愛する女性を得た喜びを隠しきれない笑顔だ。

 簡単な言いつけとともに、そそくさとテオフリートさまは去っていく。すると、間髪入れずに足音が聞こえた。

「ロルフ、ここにいたのね。婚礼の祝宴の準備はどこまで進んでいるの?」

 フィリスが声を張り上げながら、走り寄ってくる。テオフリートさまのご婚約以来、彼女が最も変化した。

 ――とても磨きがいのあるご令嬢だったの! 絶対、旦那さまにはあのお方を射止めていただなくては!

 テオフリートさまが最初にドレスと宝飾品を贈った日。フロイト侯爵邸に派遣された彼女も、初めて見るほど頬を紅潮させていた。

 もう、つまらなそうにドレスや宝飾品の手入れをしていた面影はない。アリアドネさまの前では、穏やかでおっとりとした侍女の仮面を着けているようだが。

 彼女に限らず、使用人たちは男性も女性も、実に生き生きと仕事をしてくれている。

 俺の仕事は、旦那さまの補佐、そして屋敷と使用人たちの管理だ。彼らが気持ちよく働いてくれて、屋敷が活気づいているのなら、何も文句はない。この忙しささえ、なんだか愛しく感じる。

「何、ニヤニヤしているの。私の話、聞こえていないの?」

「祝宴の準備だろ? 今説明するから落ち着いてくれ」

「もう、のんびりしていられないのよ。婚礼の準備だけでなくて、アリアドネさまの日々の装いも既に私たちの仕事のうちなのだから。いくらあっても時間が足りないわ」

「それは俺も同じだ。だから、落ち着きなさい」

 頼むから、アリアドネさまの前ではもうしばらくおとなしくしていてくれよ。

 そわそわしている彼女を見つめながら、心の中でそう強く願った。

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