ツェーフィルの選択

 だいぶ日が長くなってきた、とまだほのかに明るい空を仰ぐ。

 アインホルン一族の春は忙しない。この時期は爵位持ちが集う議会が開催されるので、毎晩のようにどこかで集まりが催されている。

 貴族社会の中で、いかに自分たちの権威を示せるか。議会の流れを見ながら、爵位持ちたちはそんな話ばかりをしている。よく飽きないものだ。

 本来、受け継ぐ爵位がない次男の僕が顔を出さなくてもいいのだが、アインホルン公爵邸の夜会だけは別だ。しかも、今回は父を通じてわざわざ出席するように言われてしまった。

 嫌な予感は見事に当たり、来るのではなかったと心底後悔する。

 庭で一人、物思いに耽っていると――。

「浮かない顔ですわね」

 突然声をかけられ、肩が跳ねそうになる。

「……ヘルミーネ嬢、そう見えましたか?」

「ええ」

 我が一族の大事なお姫さまが、静かに微笑んで立っていた。

「板挟みはお辛いでしょう」

「別に。僕もアインホルンの者ですからね」

 話に加わっていないとはいえ、彼女は既に知っているのだろう――先ほど僕がシュトラールの内情を窺うよう命じられたことを。

 アインホルンの一族たちは今、シュトラールの勢いを削ぐために策を練っている。

 長老をはじめ、年寄りたちはいまだにシュトラールへの嫌悪感がある。しかも、なぜ嫌うのかは、もはや本人たちさえ理解できていない。若い世代が、シュトラールのものを身につけたりテオと親しくしたりするのも。

 テオと友人であることを今まで散々当てこすってきたくせに、こういうときに限って僕たちの親交を利用しようとするのだから、さすがに呆れた。

「本当に、間諜の真似ごとをなさるの?」

「行けと言われたら行きますよ。僕は出世したいのでね」

 長男が無事に成長してしまえば、次男は爵位を与えられず、自分で生きる道を模索するしかない。僕の目標は、軍人として大成して叙爵されることだ。そのために、一族を味方につけておきたくはある。

 だが、彼らの思いどおりに動いてやる気はさらさらない。

「ツェーフィルさまは、アリアドネさまのことをどう思っていらっしゃいますか? テオフリートさまの親友として」

 いきなりヘルミーネ嬢に尋ねられ、僕は眉間にしわを寄せた。

「正直に言えば、彼にはもっと中央で味方になってくれそうな家と縁づいてほしかった」

「フロイト卿は、王城の派閥争いとは距離を取っていらっしゃいますものね」

 都の政争に巻き込まれるよりも、自分の領地で好きにやるほうを好む。辺境の貴族にありがちな精神だ。

 ただ、シュトラール公爵家には絶対的な味方が不足している。これまで外国との縁組のほうが重要だったとはいえ、テオの代ならそろそろ国内の有力貴族と結びついてもいいだろう、とは思っていた。

「別に僕は、アリアドネ夫人を嫌ってはいませんよ。人間性は好ましく思っていますし、からかいがいのあるお方です」

 僕の発言に、ヘルミーネ嬢は苦笑する。

「わたくしも……アリアドネさまのお人柄は好きですわ。フロイト侯爵家は毒にならないのですから、反アインホルン派のご令嬢と一緒になられるよりはよかったと思いましょう」

 毒にならない――まさにフロイト侯爵を表すにふさわしい一言だ。

 領地が隣同士のライゼン伯爵と個人的に親しいくらいで、味方につけようとも敵に回したくないとも思われない。あの家は、そういう存在だった。

 家格は申し分ないが、中央への影響が弱すぎる。だから、今回のような事態になっているのだ。

「ヘルミーネ嬢、もっと率直に言えば、あなたが素直に今年嫁いでくだされば、僕は変な悩みを持たずに済んだのですよ」

「申し訳ございませんが、考えを撤回する気はございません。あのご夫妻には悪いですが、それでわたくしの自由が確保されるなら仕方ありませんもの」

 ヘルミーネ嬢の社交界での存在感は、昨年まで揺るぎないものだった。服飾の流行を発信し、同世代の中で確固たる地位を築いている。そこに水を差したのがシュトラールだ。

 ずっと壁の花でいたアリアドネ夫人を使って、見事に新たな流行の発信者として成功した。おかげで、長老たちがへそを曲げたのだが――。

「むしろ、フロイト侯爵家相手だから、この程度で済んでいるのでは? 一応、長老たちは最大限の親切心を見せているつもりですよ。反アインホルン派出身の奥さまでしたら、テオフリートさまは危うかったでしょう」

「まあ、そうでしょうね」

 アインホルンは、敵を蹴散らすのに躊躇がない。彼女の言うように、対抗勢力のご令嬢がヘルミーネ嬢の脅威になっていたら、失脚させるために汚職の捏造くらいは平気でするだろう。

 とはいえ、アインホルンはシュトラールのことを何もわかっていない。ほんのわずかな間でも領民の生活が脅かされたら、テオにとって痛手になることも。

 ふいに、ヘルミーネ嬢の瞳に好奇心が宿った。

「そういえば、なぜツェーフィルさまはテオフリートさまと親しくなられたのです?」

「まあ……同級生で、同じ道を進むはずでしたからね」


 テオと出会ったのは、貴族の子息が集う寄宿学校だった。同じ、爵位を告げない次男同士。ただ、彼と僕には大きな違いがあった。

「兄上はきっとシュトラールをさらに発展してくださる。だから僕は、兄上と領地の力になるために、軍の中で出世する」

 貴族の次男以下は、おおむね鬱屈した気持ちを抱えながら、軍人や聖職者として大成することを目指す。そもそも、領地に関心を持たずに都で暮らす貴族が増えている中、家や領地のためにと希望を燃やすテオは少し浮いていた。

 偏見を持っていたつもりはないが、やはりシュトラールは変わっているのだな、と最初は思っていた。

 けれども、普段澄ましているくせに悪戯が好きな彼は、その場を明るくしてくれる楽しい級友だった。きっかけは覚えていないが、気づいたら仲良くなってしまっていた。

「テオ、シュトラール公爵家の一員なら、もっと身なりに気を遣えよ」

「うるさい、ここにいるときくらいは気楽でいさせてくれよ」

 シュトラール公爵もテオの兄も、出で立ちに隙がないのが常だ。ところが、テオときたら、容姿こそ麗しいものの、制服は着崩すし、髪が多少跳ねようと構わない。だから、よく周囲に揶揄されては、笑いながら反論していた。

 同じ軍人を目指す者同士、よき仲間になれたらいい。そう思っていたのだが――。

「兄上が亡くなった……。事故だったらしい」

 ある日、暗い顔でそう打ち明けられた。

「そうか、残念だったな」

「僕よりも父上のほうがお気の毒だ。今さらこの不調法者の次男を跡取りにしなくてはならないのだから」

「……そ」

 正直、爵位を持てるのが羨ましいと思った。しかも、公爵位だ。周りの、次男以下の友人たちも同じ気持ちだっただろう。

 ただ、心から兄を慕っていた彼の落ち込みようはひどく、どのような励ましの言葉も届かないような気がした。

「弔いを終えたら戻ってくる。ただ、そのときはもう今の僕じゃなくなっているだろう。シュトラール公爵位を継ぐ者が、粗野であってはいけないから」

 そう語る彼は、既に変化の兆しを見せていた。今までのようにふざけあう日々はもう戻らないのだと予感があった。

「フィル、もしも僕が変わってしまっても、からかわないでくれよ。ああ、この際友人を止めてもいいが」

 その瞬間、とっさに僕はテオの整った顔面を思いきり殴りつけてしまった。

 立場上、変わらざるをえないのは仕方ない。けれども、勝手に今までの関係をすべて捨てても構わないような物言いに我慢ができなかった。

「次期シュトラール公爵になってしまえば、もう殴り合いもできないだろ? 今のうちに思い切り喧嘩しておこう」

 そう言ってやると、彼は腫れた頬を押さえながらも笑った。

「いい案だな」


「テオフリートさまが……? 今のお姿からは想像できませんわね」

 僕の話に、ヘルミーネ嬢は目を丸くした。

「あれは、シュトラール公爵として仮面をかぶっているだけです。実際は、やんちゃな性格ですよ」

 宣言どおり、テオが兄の弔いを終えて、シュトラール公爵家の嫡男として戻ると、身にまとう空気が変化していた。もう軍人を目指す者同士で、身体を鍛え合うこともなかった。

 つまらないやつになった、と内心思う者もいただろう。けれども皆、貴族の子息だ。その変化は当然のこととして受け入れられた。

 とはいえ彼は、僕など特に親しかった相手に、時折悪戯をしかけることがあった。不意打ちに困らされた反面、どこか安心したものだった。

 卒業して、僕は軍人の道を本格的に進んだ。テオはしばらく遊学したあと、次期公爵として社交界に顔を出し、婦人たちの人気者になった。

 見た目がいいだけに、シュトラール公爵家らしい品格をまとうと、完璧な紳士に見えるから質が悪い。女性たちが騒ぐたびに言ってやりたくなった――本性は違うぞ、と。

「彼がアリアドネ夫人と出会ってよかったことと言えば、昔のように悪戯者の顔を見せることですね。明らかに彼女や周囲の反応を楽しんでいるでしょう?」

「ああ、やはりそうなのですね……」

 ヘルミーネ嬢はしみじみと頷く。

「テオフリートさまは、ご自分の言動がどれだけ他人の心を揺るがすか、試しているような気がしましたから」

「そのとおり。彼は今、盛大な悪戯が成功続きで、楽しくて楽しくて仕方ないのですよ」

「それでも、アリアドネさまへのお気持ちに嘘はないでしょう?」

「もちろん」

 ずっと張りついた笑みで、上品に振る舞って……公爵位を継いでからはいっそう隙がなくなった。けれども、アリアドネ夫人と婚約してからは、ずっと浮わついた様子だ。ついからかってしまいたくなるほどに。

 だから僕は、少しだけあの夫人に感謝している。

「ツェーフィルさま、お話があります」

「なんですか?」

「あなたはご友情を取るのでしょう? もしもそれで長老たちにお叱りを受けたなら、わたくしの指示だと主張してください」

 思わず目を見張る僕に、彼女は唇の両端を上げる。

「長老たちの援護はありがたいのですが、このようなやり口は正直迷惑なのです。シュトラールを抑えつけて社交界の頂点に押し上げられるなんて、みっともないでしょう?」

「ヘルミーネ嬢……」

「わたくしにもあなたにも、あの方々を止めることはできないでしょう。けれども、あまりにシュトラールに対して理不尽なのは、わたくしの美学に反しますので」

「そのお気持ちはありがたいのですが、どうせならお年寄りたちの説得くらいはしていただきたいです。万全でない状態のシュトラールと競って勝っても嬉しくないのなら」

「あら、アインホルンの女性が議会のことに口出しなどできないのはご存知でしょう? それに、別に競うつもりはございませんが、わたくし自身少し気になるのです」

「何が?」

「大きな枷を与えられたテオフリートさまが、どのように対応するのか」

 彼女もアインホルン本家の娘だけあって、シュトラールの領民よりもそちらのほうが気になるのか。

「言っておきますけれど、シュトラールを軽んじられたときのテオは怖いですよ。学生時代、何人も殴り倒していますから」

 さすがに彼も、アインホルン相手に実力行使はしないと思うが……。

「まあ、よいご領主さまで結構ですこと」

 風に揺れる葉音のような笑い声に、複雑な思いが渦巻く。

「ツェーフィルさま、イーリスさまのためにもよろしくお願いいたしますよ」

「……なぜそこで、イーリス嬢の名前を?」

「ご存知でしょう? わたくし、アリアドネさまよりもイーリスさまのほうが仲良しですの。お姉さまが大好きな彼女のことだから、きっとアインホルンの仕打ちを知れば悲しみます」

「嫌われてしまうかもしれませんね。僕もあなたも」

 最近親しくなったとはいえ、今のところ共通の話題はあの夫妻のことしかない。アインホルンがシュトラールの敵になるのなら、彼女は姉を選ぶに決まっている。惜しむ気持ちは否定しないが、僕の立場上仕方がない。

「それは……今後の展開次第ですわね。さあ、どうぞ行ってらして」

「え、今ですか?」

「はい、早いほうがテオフリートさまたちもありがたいでしょう? 大丈夫ですよ、皆にはわたくしからきちんと言っておきますから」

 本家のお姫さまは、人形のように整った笑みを浮かべる。

「ヘルミーネ嬢……頼みますよ、本当に。長老の機嫌を損ねて、出世が絶たれるのはごめんですから」

 僕は彼女に背を向けて、急く心を抑えながら歩き出す。

 正直に言えば、シュトラール公爵となったテオのことはさほど好きではない。彼の振る舞いはすべて作りものだから。

 けれども、大仰な台詞を吐いてアリアドネ夫人や周囲を翻弄する彼を見ていると、愉快に思う自分がいる。たとえ昔のように砕けた態度は見せなくても、やはり彼の本質は変わらないのだと思えるから。

「大きな貸しにしてやるからな、テオ」

 あの二人にとって悪い知らせを胸にしまいながら、僕はシュトラール公爵邸に向かう。

 春の夜風が、ふわりと庭園の若葉を揺らした。

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