イーリスの内緒話 後編
自分が甘かったのを認めざるをえない……。十六になって都へ出たわたくしは、何度も頭を抱えた。
お姉さまの社交嫌いは、想像以上に重症だった。
「今年からはイーリスがいてくれるのだから、わたくしは別に……」
事あるごとにそんなことを言い出す彼女を、どうにか外へ連れ出すのがわたくしの任務となった。
「お姉さま、さすがにデビューしたばかりで一人なのは心細いわ。ついてきてくださらない?」
若い世代ばかりが集まる場では、両親の助けを得にくい。そういうときは、お姉さまの長女としての責任感を利用して、夜会やお茶会に誘った。
「イーリスには、わたくしのような失敗をしてほしくないもの」
姉としては、本当に頼もしい人なのだ。それなのに、社交の場に出ると、わたくしのおまけのように振る舞ってしまう。
結果、後からデビューしたわたくしのほうが、多くの友人を得てしまった。
肝心のお姉さまはというと、頻繁にテラスや休憩室に移動して、他人から声をかけられない努力に励んでばかり。
舞踏会では、女性が壁の花にならないよう、なるべくダンスに誘うのが男性側の礼儀だ。お誘いを断るのも失礼だし、かといってダンスをすれば相手に恥をかかせてしまう――そう思い込んでいるようだった。
社交の場に出ると、お姉さまの背の高さはよく目立つ。私と並んでいると、男女の身長差だと揶揄する声もあった。
しかも、アインホルン公爵令嬢のヘルミーネさまの影響で、どこの会場でも可愛らしい雰囲気のドレスに溢れている。貴族の娘として流行は無視できないけれど、わたくしから見ても彼女にはあまり似合っていなかった。
結果、お姉さまは大勢の前に出るのをさらに嫌がりだした。広間の中央でダンスするなどもってのほか、と言わんばかりに逃げ回っている。
十歳くらいのころから、お姉さまがすくすくと育ちすぎる自分の体型に悩むようになったのは知っていた。けれどもまさか、ここまで自信を失ってしまうとは……。
思えば、お祖母さまの教育を受けていたとき、お姉さまは自分の悪かったところを徹底的に見つめ直すようにしていた。その名残だろうか。
ただ、お姉さまはわかっていない。背が高いのも流行のドレスが似合わないのも事実だけど、社交界の全員が笑っているわけではない。
身内や昔からの知り合いに出会うと、つい気が緩むのだろう。そのときは、いつものように背筋を伸ばして、柔和な笑みを見せる。その姿に見とれる人は少なくない。
お姉さまの挫折のきっかけになった件も、密かに「よくぞ言ってくれた」と思っている令嬢が何人もいた。噂された本人が規格外の行動を取ってしまったばかりに、表立って話題にしづらいだけだ。
ああ、もう。悔しいし、もどかしい。
その年の晩春の舞踏会。わたくしはいつものようにお姉さまの説得に苦戦していた。友人たちに協力してもらってなんとか歓談していると、周囲から華やいだ声があがる。
「テオフリートさまだわ」
まだ公爵位を継ぐ前だったけれど、テオフリートさまは既に若い令嬢たちの憧れの的となっていた。わたくしも、社交界に入ってすぐにその名を覚えるほどだった。
会場中の女性が、輝く眼差しで彼を見つめていた。たった一人、お姉さまだけは例外で、彼に背を向けて会場の隅へ向かおうとする。
「待って、どちらへ行くの?」
慌てて引き留めると、彼女は苦しげに俯いた。
「あのお方の視界に入りたくないの」
テオフリートさまは美しいものばかりに囲まれて育ったため、ご自分の美意識にそぐわない者が視界に入るのを嫌う。そうした噂が流れているものの、別にそれを信じての行動ではない。
「どうしても、あのときのことを思い出してしまうのよ」
例の噂話を咎めて周囲の注目を集めたとき、テオフリートさまにも苦笑されてしまったのだという。その恥ずかしさが忘れられず、彼がいる場では必死に存在感を消そうと努力しているのだとか。
「もう、今思い出しても恥ずかしくて」
お姉さまは俯きながら頭を振る。わたくしはその背中を撫でながら、テオフリートさまのほうに視線を向けた。すると、彼はわずかに身じろぎした。
やはり……またこちらを見ていた。
テオフリートさまは、「特別親しい人としか視線を合わせない」と言われているけれど、わたくしとは何度か目が合っている。それは必ずお姉さまと一緒にいるときだった。
その前の舞踏会で、わざと別行動をとって、テオフリートさまを観察したことがある。
テオフリートさまは基本的に、女性を相手にするよりも男性同士の交流のほうがお好きなようだった。その彼が、ご友人との談笑の合間に、お姉さまにだけしばしば視線を投げるのだ。
その横顔は、やたら目立つ壁の花を面白がっているように見えなかった。むしろ――。
ご友人たちも気づいているのか、ダンスに誘えと頻繁にけしかけていた。けれども、テオフリートさまは「声をかけたくても避けられている」と苦笑して話を打ち切ってしまう。
一方、お姉さまはといえば、彼と同じ場にいるときはいつも以上に眉を下げている。いつだったか、こう漏らしてきたこともあった。
「なるべくあのお方の目に映らないようにしているのだけど、油断しているとこちらを向いていることがあるから冷や冷やするの」
当然だ。テオフリートさまの目はお姉さまを追っているのだから。
「お姉さま、もしもあのお方がダンスを申し込んできても断るのですか?」
試しに尋ねたところ、彼女は狼狽して首を横に振った。
「冗談はやめてちょうだい。そんなことありえないもの」
多くの貴族令嬢がテオフリートさまとのダンスを夢みているのに……。彼が声をかけようとしているお姉さまは、自らその可能性を潰してしまっている。そう気づいた瞬間、わたくしは激しい頭痛に襲われた。
その後、シュトラール公爵が亡くなり、テオフリートさまは喪に服すために華やかな場には出なくなってしまった。
せめて自分がうまく立ち回っていれば、と後悔が募った。
それまで、あのお方に特定のお相手がいると聞いたことはなかった。けれども、公爵となったからには、そのうち妻を迎えるだろう。
お姉さまよりも公爵夫人にふさわしい令嬢は、数えきれないほどいる。せめて、まだ爵位を継ぐ前の彼が関心を持ってくれている間に、二人の距離を縮める機会を作っていれば……。
初夏の舞踏会で、いつものように壁の花を貫こうとするお姉さまを見つめながら、つい盛大なため息をついてしまった。気づけばわたくしまで、デビューしたばかりとは思えないほど気持ちが沈みかけている。
いけない。特にお姉さまのいる場では、いつも笑顔を心掛けているのに。わたくしは気持ちを改めるため、軽く頭を振った。
すると、こらえきれないような笑い声が降ってきた。
息をのんで振り向くと、大柄な男性が立っていた。首が痛くなるほど見上げて、ようやく声の主と目が合う。
確か、テオフリートさまのご友人だ。近衛隊の所属だっただろうか。
「君はフロイト侯爵のご令嬢だったね? 社交的なほうの」
これは「社交的じゃないほう」のお姉さまを揶揄する類の人だろうか。
「……フロイト侯爵家次女のイーリスと申します」
警戒心で、自然と声が尖ってしまう。すると、彼は肩を揺らした。
「失礼。僕はヴェストブルク伯爵の次男、ツェーフィルだ。よろしく」
「ツェーフィルさま、何かご用でしょうか?」
「用と言うほどでは。お姉さまを見つめる君が面白かったから、つい……」
どうも何か引っかかる言い方をなさる人だ。
「ところで聞きたいのだけど……アリアドネ嬢に今、縁談の話は来ているかな」
意外な質問に、思わず目を見張る。
「どのような意図でお尋ねになっていらっしゃいますの?」
「ああ、別に僕が求婚しようと思っているわけではないよ」
「……そうですか」
これほど体格が立派なお方なら、お姉さまも気後れせずにいられると思ったから、少し残念な気分になった。
「彼女に興味を持っている人がいるから、一応現状を探っておきたくて」
「姉に興味を……?」
もしかして――。
そのとき、ツェーフィルさまは立てた指をそっと自分の唇に当てた。わたくしは、すんでのところで言葉を飲み込んで、呼吸を整える。
「姉の現状はご覧のとおりですし、特に具体的な話は持ち上がっておりません。ですが――」
精いっぱい顔を上げて、彼を睨みつけて差し上げる。
「姉を大事にして、守ってくださるお方でなければ、わたくしはどのように素晴らしい条件の男性でも反対いたします」
わたくしの宣言に、ツェーフィルさまは目を丸くする。そしてまたくすくすと笑い出した。
「麗しき姉妹愛だ。とりあえず、君が反対するような人物ではないから安心してほしい」
そう言いつつ、彼は少し困ったような顔つきで、お姉さまを見やる。
「僕としては、むしろアリアドネ嬢のほうを懸念している。なにせ、実の妹にすらため息をつかれてしまうのだから」
「そ、それは……! 姉にはもっと積極的に交友関係を広げてほしいと思っているだけです! 萎縮しなければ、わたくしよりもずっと素敵な貴婦人として振る舞えるのですよ!」
慌てて弁明するけれど、ツェーフィルさまの瞳は、せっかく受けたダンスのお誘いを断るお姉さまに注がれたままだ。
ああ、お姉さま……せめて今だけは応じていただきたかった……!
今度はわたくしが俯いてしまいそうになる。すると、ツェーフィルさまは優しく肩を叩いてきた。
「イーリス嬢、意地の悪いことを言ってすまない。彼女が君に慕われるほど良い姉だというのはわかるし、僕も時折君たち姉妹が羨ましくなる」
「は、はあ……」
「大丈夫、君が心配するようなことは何もない」
このお方の言葉は、素直に受け取っていいのかしら……?
そのとき、軽やかな足音が聞こえてきた。
「あら、イーリスさまにツェーフィルさま。珍しい組み合わせですわね」
「ヘルミーネさま!」
そのお姿を見た瞬間、一気に心が楽になるのを感じる。同じく春にデビューしたばかりだったからか、わたくしは多少親しくしていただいていた。
「やあ、ヘルミーネ嬢。今日も素敵な装いだ。シュトラールのものかな?」
「ふふっ、さすがツェーフィルさまですね。そのとおりです」
淡い桃色のドレスをまとったヘルミーネさまはたおやかに笑んだ。
テオフリートさまの領地、シュトラールは腕のいい職人を多数抱えている。特に、仕立屋や宝飾品は国内でも随一の品質を誇っていた。テオフリートさまのご友人なら、見ただけですぐにわかるのかもしれない。
「ところで、何を話されていたの? ツェーフィルさまがとても楽しそうにしていらっしゃったけれど」
「他愛もない雑談ですよ。邪魔者はここで退散いたしますので、あとは仲の良いお二人でご歓談ください」
声をかける間もなく、彼は颯爽と去っていく。
「……ツェーフィルさまから何か言われましたか?」
ヘルミーネさまに問われて、わたくしは一瞬口ごもる。
「いえ、あのお方の仰るように、とりとめのない話をしていただけですわ」
本当はもっとお姉さまの魅力を語ってやりたかった、とは言わないでおく。
「悪いお方ではありませんわよ。少し他人をからかう癖をお持ちですが」
「そうなのですね」
相槌を打ちながら、わたくしの視線は自然とお姉さまに向かう。相変わらず居心地悪そうに身を縮めていて、苦い気持ちになる。
ヘルミーネさまもこちらの胸中を察したようで、柔らかに笑んだ。
「わたくし、今宵はまだアリアドネさまにご挨拶しておりませんの。イーリスさまが一緒に来てくださるとありがたいのですが」
「……ぜひお供させてくださいませ」
お姉さまは勉強家なのだし、ヘルミーネさまの社交術を少しは見習ってくださればいいのに。
わたくしは苦笑いしながら、彼女と共にお姉さまのもとへ進んだ。
「あのころはまさかと思っていたけれど……本当にお姉さまとテオフリートさまの縁談が決まるなんてね」
リーゼロッテさまたちとのお茶会の帰り、わたくしは馬車に揺られながら笑みをこぼす。
屋敷に戻るのは、お姉さまたちのほうが少し早かったようだ。週に何度も会っているとは思えないほど、切なげに別れを惜しむテオフリートさまの姿が見られなかったのは残念だった。
代わりに、わたくしはお姉さまの部屋を訪ねることにする。
「お姉さま、ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
既に着替えていたお姉さまは、柔らかな笑みで迎えてくれた。テオフリートさまから贈られたドレスは、侍女たちの手によって大事にしまわれるところだった。
「これで何着目でしょうね? 本当に、溺愛されていらっしゃいますこと」
「溺愛だなんて。シュトラール公爵の婚約者としてふさわしい格好をしなければならないから……」
そう答えながら、お姉さまは目を泳がせる。
「お姉さまの装いはいつも令嬢たちの話題になっているのですよ。今日会ったお友達も、先日のお姉さまのドレスを見て、シュトラールの職人に注文したと言っていました」
わたくしの言葉に、お姉さまは表情を崩した。
「そうなのね。あちらのお役に立てているなら嬉しいわ」
若い令嬢の羨望を集める立場になっても、決して傲慢にならない。そういうところが妹として誇らしかった。
「ところで、今日は二人でどのようなお話をなさいましたの?」
尋ねた瞬間、お姉さまの頬と耳が一気に赤くなった。
「いつもどおり、他愛もない話よ」
「他愛もないとは、具体的に言うと?」
わたくしはよく知っている。しばらく質問攻めを続ければ観念して、ぽつりぽつりとどのようなやりとりをしたのか打ち明けてくれるのだ。
「テオフリートさまは、頻繁にわたくしの耳を触れてきたの。ご自分のカフリンクスとわたくしの耳飾りがお揃いなのが嬉しい、と……」
以前は決して見られなかった、とろけるような彼の笑顔が鮮明に浮かぶ。そして、照れつつも唇を綻ばせるお姉さまの様子も。
今も、彼女は満たされたような表情を浮かべている。昨年まで都に出ることすら嫌がっていたとは思えないほどに。
これほど大事にしてくださるお方とのご縁ができてよかった、と心から思っている。少し……いえ、かなり「大事」の度が過ぎている気もするけれど。
わたくしも、これほど愛してくださる相手と巡り合えるかしら?
お母さまはわたくしの縁談を吟味しているようだけれど、今は自分の未来を考えるより、お姉さまとテオフリートさまを見守っているほうが楽しい。
二人の婚礼を心待ちにしながら、わたくしはお姉さまの話に耳を傾けるのだった。
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