番外編
イーリスの内緒話 前編
「ごきげんよう、イーリスさま。どうぞこちらへ」
春らしい陽気の午後。お茶会の会場に着くと、いつもの友人たちが出迎えてくれた。
「本日はお招きくださりありがとうございます、リーゼロッテさま」
「こちらこそ、いらしていただけて嬉しいですわ」
本日の主催者、伯爵令嬢のリーゼロッテさまは淑やかな笑みを浮かべる。けれどもその瞳には、溢れんばかりの期待が宿っていた。
「皆さま、来週はどちらのお茶会に参加しますの?」
「わたくしはキルシュネライト伯爵夫人の会に」
「まあ、わたくしもです。今年のお庭が楽しみですわね」
今回のお茶会は、親しい友人ばかりの集いだ。皆、男性や年上の方々がいるような場では見せない、気楽な表情を浮かべる。
こうした年齢の近い友人同士での情報交換は大事にしている。不安や楽しみを共有できて、結束が強まるから。
お姉さまも、お友達を早くから作っておけば、あれほど社交に苦手意識を持たずに済んだのではないか。
「そういえば、イーリスさま。本日、アリアドネさまは? やはり、婚礼の支度でお忙しいのでしょうか」
リーゼロッテさまの言葉をきっかけに、好奇心に満ちた視線がこちらに集まる。
お姉さまはこの夏に、シュトラール公爵のテオフリートさまへ嫁ぐ予定だ。貴族令嬢の憧れである彼との熱愛は、今の社交界で一番盛り上がる話題となっている。
そのため、二人の恋を誰よりも近くで見ているわたくしは、いろいろな令嬢からご招待を受けている。もちろん、お姉さまたちの話を目当てに。
わたくしは、笑みを崩しすぎないようにしながら口を開いた。
「姉はテオフリートさまと郊外へ出かけました。姉の今日の装い一式も、あちらから贈られたものだったのですが……」
そこで一度言葉を切ると、友人たちは今にも身を乗り出しそうな様子になりながら、無言で続きをせがんでくる。
「姉の耳飾りと、テオフリートさまのカフリンクスがお揃いでしたの。姉はあのお方が迎えにいらっしゃるまで知らなかったようで、とても驚いていましたわ」
そう語ると、感嘆のため息が一斉にこぼれた。
「さすがテオフリートさまですわね。当日にそうした趣向を明かされたら、アリアドネさまも感激なさったことでしょう」
彼女たちは皆、彼に憧れを抱いている。私的な場だからと、「シュトラール公爵」ではなくお名前で呼んでしまうほどに。もちろん恋慕とは別なので、わたくしも安心して二人の話を語れる。
「ええ、言葉にならぬほど胸がいっぱいな様子でした」
顔を赤くしてはにかむお姉さまを目にして、テオフリートさまは満足げに微笑んでいた。本当に彼はお姉さまを愛してくださっているのだと、その表情を陰から窺って再確認した。
「いつ聞いても、胸が高鳴りますわね。これほど大事にされて、アリアドネさまはどれほど幸せなことでしょう」
「昨年までと雰囲気がまったく変わられましたものね。こちらまで嬉しくなってしまうようなご様子ですわ」
お姉さま自身も周囲も、昨年の今ごろはまさかこのような展開になるとは想像もしていなかった。
いつも居心地悪そうな雰囲気で、壁の花でいたお姉さま。それが、テオフリートさまにドレスや宝飾品を贈られて、エスコートを受けた日から一変したのだ。
「めったに相手を見つめないと評判だったテオフリートさまの、アリアドネさまへ送る視線の熱さといったら……」
リーゼロッテさまはうっとりと目を閉じる。他の方々も同意するように頷いている。
実を言えば、彼はエスコートを申し出るよりずっと前から、お姉さまをよく見つめていた。けれども、いつも俯いていた彼女はまったく気づいていなかっただろう。
「姉といるときだけ、あのお方はとても情熱的になってしまうようですわね」
「と言いますと?」
「昨年、社交期が終わって互いの領地に戻ることになったとき、テオフリートさまはよほど姉と離れがたかったのか……。名残惜しそうに抱きしめて、何度も口づけを交わしていたのですよ」
全員の頬が赤く染まる。
「イーリスさまは、その様子をご覧になったのですか?」
「偶然ですが。お邪魔になってしまうから、すぐに退散いたしました」
本当はほんの少しその場に留まっていたのだけれど、それは内緒にしておこう。
話しているうちに、リーゼロッテさまの顔に高揚感がにじんでくる。
「わたくし、テオフリートさまは冷静沈着なお方だと思っておりましたの。最初はそうしたところに憧れていたのですが……アリアドネさまといるときのお姿のほうがもっとときめいてしまうのです」
「わかりますわ」
同意の声が次々にあがる。皆、恋物語が好きなのだ。もちろん、わたくしも。
「イーリスさまが羨ましいです。お二人の恋を間近で見られるのですから」
「アリアドネさまは恥ずかしがりやでいらっしゃるから、わたくしたちが直接お聞きできる機会は少ないですもの」
確かに、妹のわたくしですら、すぐに照れてしまうお姉さまから聞き出すのは苦労している。
けれども、あのテオフリートさまの溺愛ぶりを、わたくしの心に留めておくのはあまりにもったいない。だから、二人に好意的な令嬢たちと共有することにしたのだ。
一応内緒話という体裁は取っているものの、噂として広まってしまうのは仕方ない。語らずにいられない気持ちは、わたくしが最もわかっている。
「テオフリートさまが衣装を見立てるようになってから、アリアドネさまの輝きは増していく一方ですわね」
「先日のドレスも、とてもお似合いでしたもの」
「ここだけのお話ですが、アリアドネさまは男装もお似合いではないかと思うのです」
「確かに……! テオフリートさまとお揃いで――」
友人たちのおしゃべりに相づちを打ちながら、わたくしの唇は自然とほころんでしまう。お姉さまを褒めていただけるのが嬉しくてならない。
もともと、我が家にとって、お姉さまは真面目で頼もしい長女だった。特に歳が近いわたくしは、常に寄り添いながら生活していた。
弟のアレクシスが生まれる前、フロイト侯爵家を支配していたのはお祖母さまだった。
王宮の女官だったせいか、彼女は礼儀作法にうるさかった。特に、お姉さまは跡継ぎになることを視野に入れて、厳しく育てられた。
「イーリス、及第点を取っただけで満足してはなりませんよ」
お祖母さまのことを思い出そうとすると、いつもこの言葉がよみがえる。
わたくしは比較的要領がよかったらしい。同じことを教わっても、お姉さまより早く習得できた。とはいえ完璧ではないから、お祖母さまはさらに研鑽をつむよう繰り返し言いつづけたものだった。
対照的に、お姉さまはいつも手放しで褒めてくれた。
「イーリスはすごいわね。わたくしも、あなたくらいすぐに覚えられたらいいのに」
ただ、わたくしからしたら、お姉さまのほうがずっとすごい。
彼女はいつも満点を目指していた。及第点を取るのはわたくしのほうが早くても、お姉さまは何度も何度も練習を重ね、最終的に完璧な貴婦人の所作を自分のものにするのだ。
お祖母さまも両親も、そうしたお姉さまを一番大事にしていたように思える。けれども、わたくしは妬ましいと思わなかった。
お姉さまは、わたくしがお祖母さまに叱られたら必ずかばってくれた。両親が社交で都に行ってしまってさびしいときは、散歩に誘ってきたり一緒に寝てくれたりした。
それに、お祖母さまの生前、わたくしが誤って家具を傷つけてしまったことがあった。使用人と一緒に慌てていると、お姉さまがやってきた。
お姉さまは、口止めしようとしたわたくしの手を柔らかく握り、首を横に振った。
「ここで隠してしまったら、別の誰かが誤解で叱られるかもしれないわ。今、正直に謝りましょう?」
案の定、お祖母さまからは激しい叱責を受けた。けれども、お姉さまはわたくしを背にかばってくれた。
「わたくしがイーリスをきちんと見ていなかったせいです。申し訳ございません」
お姉さまはその場にいなかったから悪くないのに、気づけばわたくしよりも強く叱られてしまっていて、胸が痛んだ。
その晩、改めて謝りにいくと、お姉さまはまったく気を悪くすることなく微笑んでくれた。
「姉妹だもの。苦しいことも半分ずつにすれば、そんなに辛くないでしょう?」
当時、わたくしは五歳くらいで、お姉さまは七歳。たった二歳違いなのに、わたくしの目には立派な大人のように思えた。
お祖母さまの死後、立て続けにアレクシスとイレーネが生まれたけれど、わたくしはお姉さまほど親身に接することはできなかった。結局、二人ともお姉さまに一番懐き、わたくしたちは彼女を中心にまとまっていたのだ。
お姉さまが十六歳になって社交界へデビューするときは、きっと都で評判の貴婦人となるのだと信じて見送った。そのときは、社交期を終えた両親とお姉さまが暗い表情で帰ってくるとは想像もしていなかった。
「大失敗してしまったの。お祖母さまにも申し訳ないわ」
沈んだ姿に、かける言葉が見つからなかった。
もともと、背が伸びてドレスの丈が合わなくなるたびに表情が陰ることはあっても、これほど塞ぎこむ姿は目にしなかったから。
両親に呼び出されて仔細を聞いたところ、とある伯爵令嬢に関する下品な噂話を咎めたことがきっかけだったという。
背の高いお姉さまが凛とした佇まいで諭す――その姿は容易に想像できた。そうしたときの彼女は、妹のわたくしでもはっとするほど迫力が出るのだ。
それで悪目立ちしてしまったせいか、すっかり自信を失ったのだという。
お祖母さまの厳しい教育には平然と応えていたから、打たれ強いのだと思いきや、一度盛大につまずくとなかなか復活できない性格だったらしい。
その一件で、お姉さまはすっかり社交の場に苦手意識を持ったようだ。それ以降、お母さまや親戚が説得しても、なかなか他家との交流を持とうとしなかったらしい。他人の視界に入るのは気が引けると、ダンスも避けるようになったのだとか。
「別に、そこまで引きずるほどではないと思うのだが。年ごろの娘は繊細で難しいなあ」
首を傾げるお父さまの横で、お母さまは額に手を当てた。
「もともと、背が高かったりドレスが似合わなかったりするのを気にしていましたから。こうなるのなら、もっと早い段階でいろいろな方々と交流を持たせるべきでしたわ」
そうした両親の反省会を黙って聞いていると、突然二人の視線がこちらに向く。
「イーリス。あなたを呼んだのは、フロイト侯爵家の今後について相談するためです」
お母さまの硬い声に、思わず身体がこわばる。いつもこうしたことを言われるのはお姉さまばかりだったので、なんだか落ち着かない。
「あなたのデビューを一年早めます。来年、社交界に出なさい。十五歳なら早すぎるということはないでしょう」
明確に決められているわけではないけれど、リーデルフェルトの貴族令嬢の社交界デビューは十代半ば。お母さまの言うとおり、十五歳でデビューする人もいるものの、たいていは十六歳になってから。お姉さまもそうだったし、わたくしも再来年に都へ行く予定だった。
「まあまあ、そう焦らなくても。イーリスも十六でいいのでは?」
お父さまが口を挟むと、お母さまは目を尖らせる。
「あと一年、同じことを繰り返すおつもりですか? フロイト侯爵家の今後に障りますよ」
お母さまも、我が家に嫁いできてから、お祖母さまに貴婦人の心構えを厳しく指導されたらしい。そのせいか、実の息子であるお父さまよりも親子らしい関係を築いていた。
「イーリスのほうが外向的な性格ですし、アリアドネも妹がいれば少しは長女としてしっかり振る舞うのでは?」
お母さまの言うとおり、わたくしは昔から物怖じしない気質だ。加えて、おしゃべり好きだと自覚している。
わたくしは胸に手を当てて、唇の両端を上げる。
「承知いたしました。来年、社交界へ出ます」
それで少しでもお姉さまの役に立てるなら……。
来年は二人で、都の舞踏会に浮かれながら、ドレスや恋のお話をしてみたい。お姉さまも、わたくしがいれば笑顔で社交に臨めるかもしれない。
夢が膨らんでいくのを感じながら、わたくしは微笑んだ。
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