真冬の客人

 冬のシュトラールは雪で埋まる。多くの職人は建物の中にこもって、室内でできる手仕事や次の都の社交期に向けた準備を行う。

 わたくしは公爵夫人としての教育を受けながら、合間に読書を楽しんだ。屋敷には胸が躍るほどの蔵書がある。テオフリートさまの語彙力の秘密も少しわかった気がした。

 到着した当初、テオフリートさまは、家令や領内の人々との話し合いに追われていた。それも冬の半ばには落ち着き、二人で穏やかな時間を過ごせるようになった。

「アリアドネ、編み物か?」

 私室を訪ねてきたテオフリートさまは、長椅子に座ったわたくしの手元を面白そうに覗き込む。

「はい。ですが、難しくて……」

 フロイトは南部なので、そこまで冬は厳しくない。貴婦人のたしなみとして手芸は教わったものの、ちょっとした刺繍くらいだった。

 羊毛が手に入りやすいシュトラールでは、編み物が昔から身近な手芸だという。そのため、公爵夫人教育の一環で簡単な編み方だけ教わった。

「こうして作り方を知ると、自分が身につけていたものがいかに手間のかかったものかを実感いたします」

 職人たちをもっと労わろう。そう呟くと、テオフリートさまがくすくす笑う。

「貴族がそうしたことを気にかける必要はないのだが……そう思ってくれるのはありがたい」

 そのとき、突然編みかけのものを取り上げられた。

「あの、まだ下手なので見ないでください」

「編み目がだいぶ詰まっている。君らしい」

 ひと目ひと目しっかりと規則正しく――そう心掛けた結果、小さな板みたいな有様になってしまった。じっくり確認されると、居たたまれなくなる。

「気楽にやればいい。上手に編めなくてもいいのだから」

「そうですね……」

 上達したら、何かテオフリートさまが身につけられるものを。そう密かに思っていたものの、先は長そうだ。

 テオフリートさまはわたくしの編み物道具一式をテーブルの上に置くと、手を握ってきた。

「指先が冷えているな」

「先ほどまで集中していたせいかもしれませんね」

 暖炉に火を絶やさないようにしても、室内の空気はなかなか温まらない。毛布や防寒具を山のように用意してもらったものの、ひと目でも編み進めたくて手を温めるのを忘れてしまった。

 この地に来てから、フロイトがいかに温暖な気候かを思い知った。

「シュトラールは寒いし、日差しも少ない。気が滅入るようだったら、都にいてもいい」

「……離ればなれは嫌です」

 正直に告げたところで、テオフリートさまの抱擁を受ける。

「実を言えば、私も嫌だ」

 二人でくすくすと笑う。

 こうして二人の体温を分け合っていると、この上ない幸せを感じる。雪の中で送る、静謐で穏やかな日々が愛おしかった。

「ところで、シェーンボルン伯爵家とはあの件以来、付き合いがあるだろうか?」

 ふと、テオフリートさまが尋ねてくる。

「あの件というと……」

 自分の表情が次第にこわばっていくのを感じた。決して寒さのせいではない。

「君の一喝事件の発端となったご令嬢の家だ」

「……やはり」

 思い出してしまう。無責任な噂話、軽率な正義感を出してしまった自分、周囲の冷えた空気。

 詳しい話は両親から伏せられたけれど、あの後、シェーンボルン伯爵家ではご令嬢にまつわる揉めごとが起こったとだけは聞いている。

「君にかばわれた令嬢が、音楽家を目指して他国の音楽学校に入ったのは知らないか? 一時期話題になったはずだが」

 あれ以来、社交の場であの伯爵家の話になると、心を無にして避けていたから……。

 テオフリートさまに苦笑されて、恥ずかしい。

「その妹が今度社交界デビューするそうだ」

 テオフリートさまは懐から手紙を取り出す。都に残った執事のロルフからだった。

 そこには、シェーンボルン伯爵家のご令嬢がわたくしに相談に乗ってほしがっている旨が書かれていた。できれば冬のうちに。

「そろそろゲルデたちと直接話し合いたかったことだし、少し早いが一緒に都へ行かないか?」

 一緒に――その響きが今はなおのこと愛しく思えた。


 一年前の今ごろは、フロイトでテオフリートさまに再会できる日を待ちわびていた。二年前は、都に行くことが憂鬱で、ずっと冬であればいいのにと願っていた。

 都の邸宅の窓から街並みを眺め、思いを巡らせる。

「フィリス、シェーンボルンの方々がお見えになるのはそろそろかしら?」

 都に入り、先方とやりとりを重ねた結果、まずは私的な訪問という形をとって母娘で我が家を訪ねていただくことにした。

「はい。ゲルデは既に待機しております」

 相談とは、どうやら装いのことらしい。

 相手は社交界デビュー前。本来なら女性同士で気楽な場を作りたかったけれど、まだわたくし一人では対応が難しいため、テオフリートさまも同席する。

「テオフリートさま……お忙しいのにごめんなさい」

「気にすることはない。むしろ今まではご令嬢方から相談を寄せられても、私が直接対応するわけにはいかなかった。君がいてくれて助かっている」

 微笑みを交わしたところで、執事のロルフがシェーンボルンのお二人の到着を告げにやってきた。

 応接間に向かうと、落ち着いた雰囲気のご令嬢がいた。彼女は、自分のお母さまにならって挨拶をする。

「公爵ご夫妻にご挨拶申し上げることを心より光栄に存じます。シェーンボルン伯爵家の次女、クロエでございます」

 目を見張るほど完璧な所作だった。お祖母さまでも満点をつけただろう。

 今年デビューするとは思えないくらいの、立派な佇まいだ。わたくしより背は低いし、まだ十五歳なのに、なんとなく迫力を感じる。

「公爵夫人、その節は姉の名誉を守ってくださってありがとうございました」

「名誉を守るだなんて、そんな……」

「姉もわたくしも、公爵夫人に感謝しております」

 その横で、伯爵夫人が複雑そうな表情を浮かべる。

 リーデルフェルトの貴族令嬢が音楽家になるなんて前例がない。教養の範囲で習わせていたはずが、来ていた縁談をすべて断って留学してしまったご長女を、伯爵夫人は内心苦々しく思っていると事前に聞いた。

 そもそも、音楽に打ち込みすぎたことが原因で、ご長女はあのような噂を立てられてしまった。彼女の留学後は、皆、伯爵夫妻に気を遣って話題に出さないようにしているらしい。

 なんだか気まずいけれど、クロエさまが感謝を告げてくれたのが救いだ。

 ひとまずお二人には腰掛けていただき、本題を伺うことにする。

「従姉が昨年の公爵夫人のお茶会にお招きいただいて、とても励まされたと喜んでおりました」

 そういえば、減量に悩んでいた子爵家令嬢のお母さまは、シェーンボルン伯爵家のご出身だ。

「シュトラールは、自分に似合う装いを提案してくださると聞きました。せっかくなら公爵夫人のご意見を伺えたらと思い、厚かましくも押しかけたのです」

 だいたいの問題は、ゲルデをはじめとした仕立屋が解決してくれる。わざわざわたくしに、と念を押されたのが気にかかった。

「デビュー前ではありますが、わたくしも着飾るのが好きで……ヘルミーネさま風のドレスも公爵夫人風のドレスも仕立ててみたのです。けれども、どちらも似合わなくて」

 彼女が今着ているのは、わたくしがよく身にまとう、体型に沿うように作られたドレスだ。

縫製は丁寧で、生地も上質。ただ、痩身であるにもかかわらず、どこか窮屈そうに見えた。

 あちらの使用人が、さりげなく別のドレスを持ってくる。こちらはヘルミーネさま好みの、袖や裾がふわりとしたデザインだ。

 クロエさまはすっと立ち上がって、そのドレスを身体に合わせた。こちらも同じく、しっくり来ない。どこかちぐはぐな印象を受けた。

「可愛らしいドレスばかりだったときは、肩身が狭い思いでした。そこに、公爵夫人が新たな装いを発信されたので歓喜したものです。けれども……」

 クロエさまがだんだん俯いていく。まるで、自信がなかったころのわたくしのようだった。

 デビュー前なら、期待を膨らませながら当日を待ち遠しく思ってもいいのに。彼女の様子に胸が軋む。

 ドレスや宝飾品が、貴婦人のすべてではない。それでも、一度見つけてしまった違和感は表情や佇まいに影を落とすのだ。

 せっかく仕立てたドレスが自分に似合わなくてがっかりした経験なら、自分も数えきれないほどある。だからこそ、その心に寄り添いたくなった。

「せっかくのデビューを控えているのですから、なおのこと不安になりますわよね。わたくし自身、似合わないと自覚しているドレスを着ていたときは、人前に出る勇気が湧きませんでした」

 クロエさまが顔を上げる。瞬きが何度か繰り返された。

「ぜひお力になりたいです。素敵なデビューにしましょう」

 ようやく彼女の表情が緩んできて、わたくしもほっとする。

「わたくしが最も信頼している仕立屋を控えさせております。彼女をまじえて、方針を決めましょうか」

「ええ、ぜひ……」

 少し歯切れが悪い返事だ。クロエさまも伯爵夫人も、テオフリートさまを気にしている様子だった。

 それを察したのか、彼は颯爽と立ち上がる。

「あとはご婦人同士のお話になりますし、私はこれにて失礼。ごゆっくり」

 ああ、行かないでほしい。

 早くも心に不安が立ち込める。共感ならできるものの、わたくしはまだ的確な助言ができない。

 かといって、男性の介入を避けたいお二人の気持ちもよくわかる。その強い線引きがあるからこそ、テオフリートさまとて今まで貴族女性の装いに口を出せなかったのだから。

 この展開は想定していても、やはり心細く感じてしまう。けれども、ここで弱気になれば、お二人は怪訝に思うだろう。

「アリアドネ」

 去り際に、テオフリートさまは愛を囁くように、わたくしの耳元に唇を寄せた。

「ゲルデの目は私の目だ。覚えているな?」

 最初のドレスを仕立てたときのことを思い出す。そうだ、彼女がどれだけ心強い味方なのか、自分がよくわかっている。

 わたくしは笑みを深めながら、テオフリートさまを見送った。

「評判どおり仲睦まじいですわね」

 伯爵夫人がため息を吐いた。小さな声だったからか、何を言ったかまでは聞こえなかったようだ。

「この娘にも、いい相手が見つかると良いのですが」

 その声色に以前のお母さまを思い出して、とても懐かしい気分になった。

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