シュトラール入り

 狩猟解禁日になると、昨年よりもさらに大勢の貴族がフロイトにやってきた。彼らの目当ては、言うまでもなくテオフリートさまだ。

 お父さまとライゼン伯爵はご機嫌で彼を連れ回し、わたくしは女性同士の社交に駆り出される。やや忙しなかったけれど、二人でお祖母さまの墓前に結婚を報告できたし、実りのある新婚旅行になった。

 雪が降る前にシュトラール入りを果たすため、わたくしたちは狩猟期の初めにフロイトを発った。街道ができればもっと行き来しやすくなると思うと、胸に希望が満ち溢れる。

 一度都を経由して、ひと月ほどの旅。シュトラールは、地図の上ではフロイトより都に近いのに、想像以上の日数を要した。

「あれが、我々の拠点だ」

 秋が深まって紅葉に彩られた道。テオフリートさまは窓の外を指した。

「まあ……」

 谷底が美しい屋根で埋め尽くされている。故郷と比べるとずっと栄えた土地に思えた。

「開拓が難しいうえに狭い土地だから、密集して見えるだろう」

 テオフリートさまは微笑むが、そこに自嘲の色はない。

「初代は、老いた王がなんの後ろ盾もない女性との間にもうけた厄介者。それが私の曾祖父のエミール」

 エミールさまが幼いころに父王の崩御があってから、立場はますます苦しくなったという。複数の爵位を与えられる王子もいる中、彼に授けられたのは新設のシュトラール公爵位だけだった。

「シュトラールは本来、王子に与えられるような土地ではなかった。ここでは、公爵としての品位を保つほどの収入は得られない」

 多くの貴族の収入源は、領地の貸与や徴税。ところが、当時のシュトラールの地価は低く、領民は貧しい。子どもの死亡率も高かった。

 しかも、狩猟地や保養地にも向かず、わざわざ通行する人もいない。けれど――。

「エミールさまは聡明なお方だったのですね。王宮にいたころから他国とのつながりを重視し、才のある職人を確保して」

 シュトラールに下ってからは、外国との取引に主軸を置いた。自分の見込んだ職人に質の高い加工品を作らせ、個人的に親しかった外国の王侯貴族に納めた。

 貴族は労働するものではない。この国では今もそのような考えを持つ人々がいる。当時、風あたりは余計に強かっただろう。「シュトラール公は貿易商になられた」と国中の貴族から揶揄されたそうだ。

 しかし、シュトラール製の品々は、諸国から高い評価を得た。王家が無視できないほどに。代を重ねた今では、国内貴族の多くがシュトラール製品を愛用している。

「シュトラールの民は、不毛の土地と呼ばれる故郷を領主と共に発展させた誇りがある。元の人口が少なかったせいか、他の領地より領主と民の距離が近い」

 次第にシュトラールの人々が気安くなっていったのを思い出し、わたくしは笑みをこぼす。

「最初は驚きましたが、皆のことは好きですし頼もしく思っております」

 町に近づくと、歓声が響いてくる。沿道には、明るい表情の領民たちで溢れていた。

「テオフリートさまは、とても慕われているのですね」

「私よりも君を待っていたのではないか? シュトラールにとって久々の慶事だったからな。手を振ってやってくれ」

 馬車の窓から手を振ると、人々喜びの声がさらに大きくなった。

 シュトラールで暮らす人々にも受け入れてもらえている――それを肌で感じ、胸に喜びが湧く。


 屋敷に着くと、女主人の部屋に案内された。室内は、手のかかった調度品が趣味よく配置されていた。

「旦那さまは、奥さまのために昨年からずっと準備なさっていたのですよ」

 フィリスがわたくしの肌の手入れをしながら微笑む。

「見ているこちらも幸せになるくらいでした」

「奥さまと出会ってから、旦那さまはとても変わられたのですよ」

 初対面の使用人たちも、気さくに話しかけてくれる。早速受け入れてもらえているようでうれしくなる。

「昔のテオフリートさまは、どのようなお方だったの?」

 その瞬間、全員が視線を交わし合う。

「……それはもう、やんちゃなお坊ちゃまでございました」

 年かさの使用人が懐かしむように口を開いた。

「お兄さまがご存命のときは、自分は軍人になるし着飾ることに興味なんてないとよく仰っていましたねえ」

「え?」

 意外な言葉に、わたくしはつい身を乗り出してしまう。

「今のテオフリートさまからは想像できないわ」

「跡取りに決まってから、懸命に勉強されましたから。それまでは、職人へ気さくに話しかけることはあっても、込み入った話はしませんでしたね」

 お兄さまを亡くされていたのは知っていたものの、なんとなく初めからシュトラール公にふさわしい知識と目を持っていたと思い込んでいた。

 いつも気品と優雅さに溢れている彼が、ときどき悪戯好きな少年のような顔を見せるのは、その名残だろうか。

 自らあれほど的確な装いを見立てられるようになるまで、どれほどの努力を重ねたのだろう。小さな切なさが心に宿る。

 つい無言で思いを馳せていると、使用人たちが早口で言葉を重ねてきた。

「お兄さまが亡くなられて以来、旦那さまは努力されていました。お父さまはもちろん、職人や商人にも積極的に教えを乞うたのです」

「先代も最期は、安心して領地を委ねられると仰っていました」

 その口調から、彼女たちがどれだけ彼を領主として慕っているのが伝わってくる。

「ごめんなさい、気分を害したわけではないの。どうしたらもっとあのお方のお役に立てるか考えてしまって……」

 到着前に交わした会話を思い出す。

 本来はとても厳しい環境のシュトラール。今でこそ世間の評価を得ているものの、この土地を維持していくのは簡単ではないとよくわかる。

 思っていたよりもずっと、あのお方の背負うものは重い。けれども、わたくしは与えていただいてばかりだ。

「奥さまは、旦那さまの傍にいてくださるだけで大きな支えになっていらっしゃいますよ」

 フィリスは美容のクリームを塗りながら、そっと目を伏せた。

「先代亡きあとはずっと気を張っていらっしゃって、お声をかけづらいときもございました。それが昨年、奥さまの衣装を見立てることになって、久々に心から笑っているのを拝見できたのです」

 周囲の使用人たちは、何度も頷く。

「貴族のご注文を受けた職人に助言することはあっても、これほど熱を入れて自ら品を吟味するのは初めてでした」

「近ごろのシュトラールが一段と活気づいたのは、奥さまの存在もありますが、旦那さまが本当に楽しそうにしていらっしゃるからですよ」

 勢いを増していく皆の言葉に、とても励まされた。


 晩餐を終えたあと、テオフリートさまがわたくしの私室を訪ねてくれた。

「食事は口に合っただろうか」

「ええ、とても」

 都の屋敷の料理人から申し送りがあったのだろう。少食なわたくしのために、配慮が行き届いた料理が出された。

「今日は……皆から昔のテオフリートさまのお話を聞きました」

 テオフリートさまは、珍しく居心地悪そうな仕草を見せる。

「粗雑な次男坊だった、とか?」

「いえ、お兄さまが亡くなって以来とても努力されていた、と」

 その瞬間、菫色の目が懐かしそうに細められた。

「兄は、この地の未来を背負うのにふさわしい人だった。ゆえに、父の嘆きは大きくて」

 か細い吐息が、静かな室内にこぼれた。

「母も既に亡く、父にはもう私しかいなかったからな。どうにか兄以上の存在になろうと必死だった」

 わたくしはそっと彼の手を取った。

「そして、成し遂げたのですね」

「だといいが」

 言いながら、テオフリートさまは力のない笑みを浮かべる。

「我が家は歴史の浅い公爵家で、初代の事情もある。侮られないように――それが代々の教えだった。弱みを見せたら、付け入られるから」

 今日はいつもよりも雰囲気が柔らかく、彼自身のことをよく語ってくれる。それを自覚したのか、テオフリートさまは緩く頭を振った。

「久々に帰ってきたせいか、どうも気が抜けてしまっているようだ」

「故郷ですもの。力を抜いてよいのではないでしょうか」

 わたくしがフロイトにいるとほっとするように、彼にとってはこのシュトラールの地が安らげる場所なのだろう。

「わたくしの前では……弱いところもどうか見せてください」

 もう公爵夫人となったからには、わたくしも侮られないようにしなくてはならないだろう。けれど、二人きりのときは気を張らないでもよいと思ってほしい。

 そう告げると、テオフリートさまの表情に明るさが戻ってきた。

「ありがとう。だが、君の前では格好をつけていたい。これは夫としての矜持だから、そうさせてほしい」

「ですが、いつもわたくしは与えていただいてばかりで……」

「なら、ひとついいか?」

「ええ」

 わたくしは勢いよく頷いた。

「愛しの公爵夫人、あなたからの口づけを賜りたい」

 思ってもみなかった願いに、わたくしは目を丸くする。

「たまにはいいだろう?」

 テオフリートさまは長椅子に座ると、期待を込めた眼差しで見上げてくる。

 わたくしはためらいがちに、彼の隣に腰を下ろした。そして、恐る恐る顔を近づける。

 ただ夫に口づけるだけなのに、どうしてこうも緊張するのだろう。

「あ……」

 唇が触れ合うよりもずっと早くに目を閉じてしまったせいか、わずかにずれてしまった。苦笑するテオフリートさまの吐息に頬を撫でられる。

 恥ずかしい。こんな失敗するなんて。

 それでも彼の望みに応えたくて、もう一度挑む。今度はしっかりと重ねることができた。

 ……よかった。

 安堵した瞬間、後頭部に彼の手が添えられ、力強く引き寄せられた。

「……!」

 彼は感触を堪能するように、繰り返し唇を合わせる。だんだんと意識も身体の境界も曖昧になっていくような心地になって――。

 ようやく顔が離れたと思ったら、気づけばそのまま長椅子に押し倒されてしまう。テオフリートさまの肩越しに天井が見えた。

「君からの可愛らしい口づけは何よりの褒美だったが、どうも私は与えるほうが性に合うらしい」

 彼は唇の片端を上げた。

 結局、わたくしは主導権を握れないまま、ひたすら愛情を注がれつづけた。

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