第三章

新婚旅行

 あのお茶会がきっかけになったのか、社交界の景色にまた少し変化が訪れた。

 わたくしとまったく同じデザインのドレスは減ったものの、自分なりに個性をつけた装いを楽しむ女性は増えた気がする。

 それでもテオフリートはわたくしの体調を心配してくださって、今年は早めに都を出ることにした。

「この冬は基本的にシュトラールにいてもらうことになる。その前に、新婚旅行が必要だろう?」

 婚礼前に出た、フロイトの視察の話。二人で話し合って、それを新婚旅行にしようと決めた。

 近ごろは保養地に行くのが主流であるものの、フロイトのような地方では、遠くへ嫁いだ娘が夫を伴って近しい人々への挨拶に赴く風習が残っている。

 わたくしたちを迎える準備があるからと、お父さまたちはさらに早く都を出ていた。彼らから少し遅れた日程で、フロイトへ到着した。

 慣れ親しんだフロイトの屋敷の使用人たちが出向いてくれて、思いのほか早まった再会を喜び合う。初日だけはそのまま屋敷の客間に泊まることにした。

 テオフリートさまは、フロイトの屋敷から見える景色に新鮮に見つめてくれる。麦の借り入れは終わってしまったけれど、今の時期のさっぱりした眺めもいいものだと思う。

 わたくしの私室だった部屋に案内しながら、二人並んで窓からの眺望を楽しむ。

「そうか……君が暮らしていたのはこういう土地だったのか」

 菫色の瞳が、フロイトの田園風景を愛しげに見つめてくれる。嬉しくて、つい彼の横顔に見入っていると、ふいに指先で額を軽く突かれた。

「アリアドネ。私は夫婦で景色を堪能するつもりだったのだが、君は他のものに気を取られているようだな」

「それは……」

 テオフリートさまはわたくしの背後に回ると、そのまま腕の中に閉じ込めてくる。背中越しに、彼の体温が伝わった。

「これで、外に集中できるか?」

 全然、集中できません……。

「あの、テオフリートさまのお顔も見たいのですが……」

「駄目だ。私の顔こそ、いつでも見られるだろう? 新婚旅行は思い出を共有する機会なのだから、今はこの眺めを二人の目に焼きつけておかねば」

 彼は笑いながら、わたくしの髪に頬を埋める。

 都に行ったことのない使用人たちは、テオフリートさまの言動に免疫がない。うっかり居合わせてしまった若い女性使用人は、密かに動揺したようだ。都へ随行経験のある面々から宥められていた、となぜかイーリスから教えられた。


 翌日からは、お父さまとわたくしで、テオフリートさまにフロイトの屋敷周辺を案内することにした。

「香料に使えそうな薬草はこの地区でよく育ちます。試しに作らせた畑が、こちらにございます」

 お父さまとテオフリートさまは、育てられた薬草を丁寧に検分する。シュトラールから連れてきた香料の製造者も加わり、なにやら意見を交わしている。

 その間に、顔なじみの役人がにこやかに近づいてきた。

「お嬢さま、おめでとうございます。わざわざフロイトまで来てくださるなんて、優しいお方に嫁がれましたね」

「ええ、本当に」

 わたくしは苦笑を漏らす。今回はこのとおり、視察を兼ねた旅。テオフリートさまの想いを勘違いしていたままの自分だったら、完全に務めと割り切っていただろう。

 薬草は基準を満たすものがいくつかあったようで、あとは役人や商人に任せることになった。

「嬉しそうだな、アリアドネ」

 話を終えたテオフリートさまが、頬を撫でてくる。

「先の話とはいえ、フロイトとシュトラールが手を携える未来を思うと、心が浮き立ってしまって」

「今まではなかなか関わりが持てなかったからな」

「一応、狩猟地も保養地もありますが、近くの領地のほうが人気ですから」

 テオフリートさまは感じ入ったようにため息をついた。

「君たちは謙虚に言うが、私はフロイトが羨ましい。田園はもちろん、港も狩猟場も保養地もあって、気候にも恵まれている」

 それぞれの規模はささやかでも、ひととおり揃っているのは確かだった。

「閣下に褒めていただけるのは嬉しゅうございます。そのせいで、我が家の者は野心が育ちにくいと、母は嘆いておりましたが」

 お父さまは笑いながら、保養地へ案内してくれる。ここに、わたくしたちが視察の拠点として滞在できる小さな邸宅を用意してくれた。

 心地よい波音が聞こえる。庭からは海が一望でき、船の影がいくつも確認できた。

 お父さまは、遠くに見えるフロイト唯一の港を指す。

「これから狩猟地や保養地に手を加えるにしても、まずはあの港をどうにかしないといけません。整備すれば、物流関係が楽になるので」

「物流に関しては、うちも初代からの課題だ。資源に乏しいから輸入に頼るしかないうえに、今は金銀などの値上げが進んでいるからな」

 テオフリートさまは地図を取り出して、わたくしたちに見せる。

「うちは南東方面の国との交易が多い。いつもは南部の大きな港を経由するが、欲を言えば……」

 形のよい指先が、フロイトの港からシュトラールの領地までをすっと撫でる。

「こういう経路を作れると、シュトラールとフロイト、双方の発展につながると思う。名づけるならば……アリアドネ街道だろうか」

 今、とんでもないことを言い出されたような……?

 彼の示した道を拓こうとすると、他の領地を最低でも二つは挟む。領内の道は領主の権限でどうにかなるけれど、この場合は他のご領主も巻き込むうえに、国王陛下の認可が必要になる。

 ドレスや宝飾品をはるかに超える規模の話に、わたくしは固まってしまう。その横で、お父さまは笑みを深めた。

「去年の狩猟で、隣の領主ともそういう話が出ておりました。ご紹介いたしましょう」


 お父さまはよほど嬉しかったのか、その日のうちにお隣のご領主であるライゼン伯爵へ手紙を出したらしい。すると、伯爵は狩猟解禁日を待たずに来てくださった。

「おじさま、婚礼のときはご列席いただきましてありがとうございます。おかげさまで、幸せにしております」

「それは何より。まさかシュトラール公を射止めるとは、たいした娘だ!」

 いつも豪快なライゼン伯爵の笑い声が、雷のように響く。

 ライゼンはリーデルフェルト南東部における交通の要所であり、土木に長けた土地柄。フロイトからシュトラールまでの道を敷設するには、避けて通れない存在だ。

 ライゼン伯爵は昔からお父さまと仲がよく、若いときは狩猟関係なく二人で野山を駆け巡っていたらしい。そのため、わたくしのことを親戚のように可愛がってくださる。

「閣下、このたびのお話、大変胸が躍りました! もう領地内はやりつくしたので、あとは他領も巻き込んだ工事しか楽しみがないのですよ」

 ライゼン伯爵は、声もお話の規模もとにかく大きい。

 人が移動するにしても物資を運ぶにしても、この国では通行税が発生する。シュトラールは地理上、都を経由することが多いので、初代さまは苦労されていたと聞く。フロイトの経路が開通すれば、もっと交易がしやすくなるだろう。

「他の領主にも協力を仰ぐことになるだろうが……」

「ご心配には及びません、シュトラール公。こう見えて根回しは得意ですとも」

 領地内の整備が何よりも好きなライゼン伯爵閣下。交通で領地が潤っているからこそ、他の貴族との親交を大事にしている。シュトラールとフロイトの間に領地を持つ貴族とは、たいてい良好な関係だ。

 男性同士の会話を見守っていたお母さまが、そっとわたくしに「社交を疎かにしては行けない理由がわかったでしょう」と囁いた。

 香料と同様、街道も具体的な話に発展したことで、テオフリートさまの表情は非常に明るい。

「アリアドネがまた私に幸運をもたらしてくれたな」

 弾んだ声で抱きしめられたけれども、実際はお父さまやライゼン伯爵の力が大きい。わたくし自身は何もできていない気がして、苦笑いしてしまった。


 海の遠鳴りが、耳をくすぐる。

 お父さまたちは屋敷に帰り、わたくしたちは滞在している保養地の邸宅へ。

 こぢんまりとした造りで、使用人は最低限。夫婦となったばかりの二人が、穏やかな非日常を過ごすにはちょうどいい環境だった。

「やはり、フロイトにいると君は生き生きとするな」

 寝室からのんびり海辺を眺めていると、テオフリートさまに抱きしめられる。わたくしはその腕にそっと触れながら、彼の体温を慈しんだ。

「生まれ育った土地ですから」

「この地が故郷であれば、都が肌に合わないのもよくわかる」

 わたくしは一度彼の腕から出ると、振り返って正面から抱き合う。

「あなたのおかげで、都も好きになりました。シュトラールの地に赴くのも、楽しみにしております」

 きっと、このお方と一緒ならどんな土地にいようと幸せになれる。

 そう思いながら彼の胸に顔を埋めると、髪のひと房を掬われた。

「フロイトとは違い……シュトラールこそ本当に何もない土地なのだ。きっと驚くと思う」

「テオフリートさまが生まれ育った土地ですもの。なにに出会えるか、今から楽しみです」

「君がシュトラールで最も魅力的な存在になる可能性だってある」

 テオフリートさまに顔を上げさせられ、そっと唇を塞がれた。二度、三度とついばむような口づけを繰り返す。

「ん、テオフリートさま……」

「日中はあまり新婚旅行らしいことができていないな。すまない」

「二人でいられたら、それだけでいいのです」

 そのまま抱き上げられ、寝台に運ばれる。そして、わたくしを優しく下ろした彼は、さらに口づけを繰り返した。

「アリアドネ、愛している……」

 甘く囁いてくる声は、なによりも安らぎを与えてくれる。

 潮騒を聞きながら、わたくしは目を閉じて彼に身を委ねた。

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