思わぬ変化

「ごきげんよう、公爵夫人」

 婚儀から十日ほど。まだそう呼ばれることに慣れず、くすぐったさを感じる。

「本日も素敵な装いですわね。こんなに鮮やかな黄色が映えるなんて」

「ご結婚されてから、さらに輝きが増して見えます」 

 わたくしたちの一大事であった婚礼後も、社交はまだまだ続く。

 今まではテオフリートさまに迎えにきていただいて、晩餐会や舞踏会が終わると送り届けられた。けれども今は、同じ屋敷を出て、同じ屋敷へ帰る。

 夜の眠りも朝の目覚めも、食事も余暇も、些細な日常を共にできる生活が嬉しくてならない。

「夫の私が言うのもなんだが、婚儀を経てから彼女がいっそう美しく思えるのだ。それは気のせいではなかったようだな」

 心から満り足りた彼の眼差しが注がれる。周囲の女性たちが小さな悲鳴をあげた。

「視線を合わせない公爵閣下と言われていた時期が懐かしいな、テオ」

 ふと、ツェーフィルさまが満面の笑みで近づいてくる。その隣にはイーリスがいた。

「フィル? イーリス嬢となんて、珍しい組み合わせだな」

「珍しいって、君たちの婚儀のときにそれぞれの付添人代表を務めたのは僕らだが」

「今夜はせっかくなので、エスコートをお願いしたのです」

 テオフリートさまは気遣わしげな表情を浮かべる。

「イーリス嬢……悪いことは言わない。行動を共にする男性は慎重に選んだほうがいい」

「テオには言われたくないね」

 テオフリートさまとツェーフィルさまのじゃれ合いに、わたくしは頬を緩める。

「ツェーフィルさま、先日はありがとうございました」

「いえ、とんでもない。国で一番の婚礼をお手伝いできて光栄でした」

「ふふっ。婚礼の準備の間、お義兄さまのお話をいろいろと聞かせていただきました」

 ちゃっかり自分も「お義兄さま」と呼ぶ権利を確保したイーリスは、深い笑みを浮かべる。

「テオフリートさまのお話……わたくしも聞きたいわ」

「アリアドネ、彼の話など聞かなくていい」

「ひどいなあ。僕はイーリス嬢から、夫人の話をいっぱい伺いましたよ」

「え……!」

 つい顔が熱くなる。その様子を見て、イーリスとツェーフィルさまはにやりと顔を見合わせた。この二人、おそらくとても気が合うのだろう。


 四人で婚儀や祝宴を振り返っていると、テオフリートさまとツェーフィルさまは、共通の知人に声をかけられる。

 ゆっくり話してほしいので、わたくしとイーリスは一度離れることにした。

「ところで、公爵夫人。新婚生活はいかがですの?」

 待っていたと言わんばかりに、イーリスが気取った口調で尋ねてくる。

「いかが、と言われても……」

「傍から見ていると、テオフリートさまの溺愛がさらに加速していく一方に見えますが」

 婚礼を済ませた夜、ようやくすれ違いを解消できた。今は頻繁に互いの愛情を確かめ合ってはいるけれど……。

「ねえ、イーリス。わたくし、変わったように見えるかしら?」

「ええ。幸せでたまらないと全身で訴えてくるようになりました」

 訴えているつもりはない……。テオフリートさまとは違った方向性で、この妹は語彙力が豊富だ。

 イーリスの質問攻めをなんとかはぐらかしていると、優雅な足音が耳に入った。

「ごきげんよう、シュトラール公爵夫人、イーリスさま」

「ヘルミーネさま!」

 姉妹揃って、声を弾ませてしまう。

 相変わらず可憐で柔らかなお召し物がよくお似合いだ。

 先日の祝宴で着ていた橙色のドレスも素敵だったけれど、今夜の薄緑のドレスは爽やかな印象を受ける。髪も耳も無色透明の水晶で飾っているから、余計にそう感じられるのかもしれない。

「先日はご列席いただき、ありがとうございました」

「こちらこそ、お招きくださって嬉しかったですわ。あれほど幸せな花嫁を見たことはないと、皆で言っておりましたの」

 彼女にもそう言われると、照れてしまう。イーリスは笑みを深める。

「あの日は、シュトラールの技術を堪能できて終日胸が弾みました。特にあの小麦のティアラは、もっと間近で拝見したかったですわ」

「あれは、夫の案なのです。婚約したばかりのころ、わたくしがフロイトの小麦畑の話をしたのを覚えていてくれて……」

「まあ、それはそれは」

「妹のわたくしから見ても、最近はますます――」

 イーリスとヘルミーネさまの会話を聞くだけでなく、自分も楽しく会話に混ざれるなんて、夢でも見ている気分だ。

「アリアドネさまが嫁いで、シュトラールの服飾はますます注目を集めるでしょうね。これからはぜひご相談に乗ってくださると嬉しいですわ」

 そう告げて去っていくヘルミーネさまを、弾んだ気分で見送っていると――。

「おめでとうございます、シュトラール公爵夫人」

 周囲の若い貴婦人が何人も歩み寄ってくる。

「あのヘルミーネさまが相談に乗ってほしいだなんて、これで公爵夫人が社交界の頂点となりましたね」

「え?」

 あれは、社交辞令の域を出ないのでは。本気になったヘルミーネさまは、もっと熱の入った声になる。

「皆さま、わたくしは――」

「今では誰もが公爵夫人に憧れておりますわ」

「夫人のようになりたくて、若いご令嬢は皆努力していますの」

「わたくしも、同じような形のドレスを作ってしまいましたもの」

 言われて周囲を見やると、縦の線を強調するドレスが春の初めよりもずいぶんと増えている。シュトラール製ではなく、独自に仕立てたと思しき人もいる。

「これからは公爵夫人が、社交界の装いを牽引していくのですね」

「ヘルミーネさまも、そろそろ子どもっぽく見えてきましたもの」

 あまりの言いように、一瞬頭が真っ白になる。

 横にいるイーリスはさらに強い怒りを抱いたようだ。瞬時に表情が険しくなり、新緑の瞳に炎が宿った。

 ここはわたくしが――。

 一呼吸置いてからぴんと背筋を伸ばし、過去の反省を生かして平らかな声を出した。

「皆さま、どうかそのようなことを仰らないでくださいませ。わたくしは、そう思いませんもの」

 その場が一瞬静まりかえった。気まずい。

「イーリス、ツェーフィルさまにお話があったわよね?」

 早口で話を切り上げて、妹の手を取る。そして、慌ててテオフリートさまたちのもとへ逃げた。

 社交界が、別の意味で居心地悪くなってきている気がした。


「ああ、もう! 腹立たしい!」

 結局イーリスの怒りは治まらず、結局わたくしたち四人は早めに会場を辞して、我が家へ移動した。付き合わせてしまったツェーフィルさまには申し訳ない。

「イーリス、落ち着いてちょうだい。今、何か用意させるから」

「落ち着いていられません! お姉さま、まだお気楽なフロイトの娘を気取っていらっしゃいますわよね。あんなに下手に出る公爵夫人がどこにいらっしゃいますの?」

 妹の言葉に、春のお茶会でヘルミーネさまから言われたことがよぎった。

 ――いつまでも昨年と同じ気分でいてはなりませんわ。

 確かに、公爵夫人としてふさわしい態度ではなかった。

「……もっと言い方があったわよね」

 自分には似合わないだけで、わたくしはヘルミーネさまの装いが大好きなのだ。せめて真っ先にそれを表明すればよかったと後悔が募る。

「ほら、俯かないでください! あなたは公爵夫人なのですよ!」

 荒ぶるイーリスに、男性たちは揃って肩をすくめる。

 イーリスの怒りは当然だ。もともとヘルミーネさまと親しいから、余計にあの侮辱は許せないだろう。

「これは、テオがいけない」

 突然、ツェーフィルさまが口を開く。

「アリアドネ夫人に夢中になりすぎて、流行の急激な変化をうまく制御できなかった。シュトラールには注文が殺到していたのだろう? そのときに対策をもっと練るべきだった」

「職人たちの統制を取るだけでは不充分だったことは認めよう」

 テオフリートさまの渋い表情に、胸が痛んだ。

「あの、ツェーフィルさま。夫は、ヘルミーネさまにも引き続き流行の発信者となってほしいと願っていたのです」

 ――私は君を社交界の花にすると宣言したが、別にヘルミーネ嬢に取って代わってほしいわけではない。

 ティーハウスで言われたことは、この心に深く刻まれている。

「今夜の件は、わたくしの対応の問題です」

「それも含めて、テオが悪いと思いますよ。恋に浮かれてあれこれ飾り立てるより先に、公爵夫人としての立ち回りを教え込むべきでした。彼には会話が得意ではないあなたをわざわざ選んだ責任がある。シュトラール公に先代夫人がいないのなら、なおのことだ」

 彼の指摘は、ヘルミーネさまと同じくらい鋭い。自分の勉強不足をひたすら実感し、きつく目を閉じる。

「アリアドネ……彼の言うとおり、私の責任だ」

 テオフリートさまに慰められても、まだ気分が晴れない。

 ツェーフィルさまは苦々しさを顔に残しながら、視線を逸らす。

「失礼、少し言い過ぎました。もうひとつ言えば、あれはアインホルンつぶしでもあるのです」

「アインホルンを、つぶす?」

 物騒な言葉に、息が止まりそうになる。

「アインホルンは大領地。分家も王城勤めをしている者も多くて、幅をきかせている。そこにヘルミーネ嬢の登場だ。密かに反発を抱いている者は、あなたが思うよりもいるのですよ」

「ツェーフィルさまはお詳しいのですね」

「実は、僕もアインホルンの縁者でもあるので。その他大勢くらいの立場ですが」

 彼は苦笑を漏らす。

「要は、あなたをだしにして、当てこすりたかったのでしょう。新しい流行の発信者が生まれて嬉しいのは、ヘルミーネ嬢好みのドレスが似合わずに悩む女性ばかりではありません」

 今までその場の会話をこなすのに精いっぱいで、社交界の勢力図にまで気が回らなかった。一段と自分の未熟さを思い知る。

 唇を噛みしめていると、ツェーフィルさまの声が明るくなる。

「僕はヘルミーネ嬢を昔から知っていますが、あれしきの陰口で折れる神経の人ではありません。そこはご安心ください」

 ああ、そうだ。ヘルミーネさまは可憐な容姿の中に、強い心を宿している。

「挽回できる機会はあるでしょうか……」

「今度、お茶会を開催するのでしょう? それを生かしたらいい」

 ツェーフィルさまが仰るように、近々、公爵夫人として初めてのお茶会の主催に臨む。幸い、ヘルミーネさまも来てくださる予定だ。

 テオフリートさまやシュトラールの皆、実家のお母さまやイーリスを頼りに、頑張るつもりだったけれど、課題が増えてしまった。

「テオ、しっかり支えてやれよ」

「もちろん」

 ツェーフィルさまは単身帰っていく。イーリスはまだまだ落ち着かない様子なので、こちらに泊まらせることにした。

「イーリス、客室を用意させるわ。今夜はゆっくり……」

「お義兄さま、今夜は姉をお借りいたしますわね」

 わたくしもテオフリートさまも、一瞬固まった。

「お姉さま、心が熱いうちに作戦会議をいたしましょう」

 本気になったイーリスには勝てない。この夜でまたひとつ学んだのだった。

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